孟子が鄒(すう。孟子の故郷)に居たとき、任(じん。国の名)国では季任(きじん)が主君の留守役を勤めていた。彼が孟子に贈物を贈って交際を求めたことがあった。孟子は贈物を受け取ったが、返礼をしないでいた。また斉の平陸(へいりく。山東省)に居たとき、儲子(ちょし。離婁章句下、三十三も参照)が宰相であった。彼が孟子に贈物を贈って交際を求めたことがあったが、これも孟子は贈物を受け取って返礼をしなかった。
それぞれについて、他日鄒から任に行ったときには季任に返礼の会見をしたのに、平陸から斉都に行ったときには儲子の元に挨拶もしなかった。これを知って弟子の屋廬子(おくろし)は「それがし、先生の隙を見つけたり!」と喜んで、孟子に質問した。
屋廬子「先生は任に行ったときに季任と会見なさったのに、斉都に行ったときには儲子に挨拶もしませんでした。それは、儲子が宰相だからですか?(つまり、先生は相手の身分で返礼をするかしないか決めるのですか、ということ。この問いより、季任は宰相より格上の君主の一族であることがわかる。注では、任の君主の「季弟」すなわち末弟だという。)」
孟子「そうではない。書経にこうある、
享(きょう。贈答の礼)は、礼儀が篤くなければならない。礼儀の篤さが贈り物につりあわないならば、それは「享にあらず」と言う。そう言われる理由は、物だけで礼儀がないならば、交際の心を享のために尽していないからなのだ。
と。享を成さないとは、このようなことなのだ。」
こう聞いて、屋廬子は感心して喜んだ。
ある人が、この問答について質問した。屋廬子は言った、「季任は、主君の留守役として本国に居なければならなかったから、鄒に行くことができませんでした。しかし儲子は、自国の領域だから平陸に行くこともできたのです。」