本章後半は、まさに保守主義のマニフェストである。ただし前半で検討したように、どうも孟子は保守主義といっても、過去の伝統をそのまま継承しようとする伝統主義 traditionalism ではなくて、観念的に「保守的な信条」を構成して主張する反進歩主義 anti-progressivism のようであるが。前にも指摘したように、孟子には過去の伝承に対する素朴な敬虔さが乏しい。むしろ過去の聖人の記録から倫理的正義を読み取って、それを現代の正義として復古させようと言う意志が強いように思われる。
墨家の説はこれまでもかなり検討してきたので、ここでは楊朱学派の説について再び考えてみたい。孟子は後の章でこう非難する、
楊朱は自分のためだけに行動する。毛一本を抜くだけで天下の利益となることですら、行なわない。墨子は兼愛する。頭の毛から脛毛まですり減らすほどの難事業でも、天下の利益となることならばやってしまう、、、
(盡心章句上、二十六)
楊朱学派の説は、「毛一本を抜くだけで天下の利益となることですら、行なわない」という極端な個人至上主義として孟子に槍玉に挙げられている。だが『列子』楊朱篇では、それは以下のような文脈で説かれている。
むかし伯成子高(はくせいしこう。『荘子』にも出てくる隠者:引用者注)は、体の毛一本を抜くほどの僅かな犠牲でも、それによって他人の利益を図ろうとはせず、大名の地位を棄てて隠者となり農耕に従事した。また偉大な帝王であった禹は、一身のために自己の利益を計ろうとはせず、そのために体じゅうが半身不随になったという。このように古人は、一本の毛を抜けば天下の利益になる場合でも他人のために犠牲は払わず、世界全体がわが身の養いにささげられても、それを自分のものとはしなかった。(福永光司訳)
何と墨家が賞賛する禹と同時に説かれているのである!これは「自分の利益のためならば何をやってもよい」というエゴイズムとは違うのではないか?
同じ『列子』楊朱篇には、
鄭の名宰相、子産(しさん)が快楽に溺れて世間体を気にしない兄弟に説教しようとして逆に「お前は外界を治められるとでも思っているのか!」とやりこめられた説話や(本章句下、三のコメント参照)、
先祖の財産を自分の快楽のために蕩尽して死んだ端子叔(たんししゅく。孔子の高弟、子貢の子孫という)に対して投げられた「先祖の名声に泥を塗った」という非難に対して、「彼はよく道を理解していた」と返したという話や、
舜・禹・周公・孔子の四人の聖人が名声を求めたため生前に不幸だったのを嘲笑して、思うがままの快楽を成し遂げて死んだ桀王・紂王を道に適っていると賞賛する話、
などのエピソードが載せられている(ここで孔子を聖人と表現しているところから、孟子以前の時代の人であるという楊朱本人の叙述であることは疑わしい)。これらはまぎれもなく、他人から得られる名声に対する疑いの表明ではないか?そして、伯成子高と禹を同列に論じた先のエピソードは、外界と自分自身とが相互に影響しあうことへの懐疑を主張しているのではないだろうか?毛を一本抜くという実践も廃人になるまで働くという実践も、自分自身には何の価値もなければ何の影響もない。それらは人間の生にとってどうでもよいことなのである。― これは、孟子やセネカが主張した「不動心」と一見極めてよく似た心のあり方である。ただ楊朱学派と孟子・セネカとが違うのは、孟子・セネカは偶然的な幸不幸から心を遠ざけて、不変の善だけを行動の基準にせよと説く。一方楊朱学派は、人間が努力して外界に善をもたらすことなど幻想なのだから、なるたけ不快な苦労は避けろと説く。楊朱学派は、古代ギリシャのエピクロス派哲学に近いのかもしれない。楊朱学派のほうがもっと皮肉的な響きがあるが。
楊朱篇では、永遠の生への否定が濃厚に説かれている。もとより天上の絶対神という発想がほとんどない中華世界のことだ。自分以外のものに根拠を求める考えに疑問を持つ意見が容易に発生する素地があったというべきであろう。儒教や墨家のように地上の他人への責任感を倫理の根拠となす道を拒否するならば、このような発想にならざるをえないだろう、「どうせ死んだら人間はおしまいだ。かといって地上の他人の善意は全く信じられない。善をなしてがんばってもどうせ他人には通じないし、それにたとえ何かをなしたとしても、どうせ自分の死後に功績はあっという間に忘れ去られる。何もかも空しい。ならば、自分の命を大切にして他人にも干渉せず、自分も干渉されずに生きるほうがましではないか?」という。楊朱学派は、他人と共感することの不可能性を絶望的に認識した人間がたどる意見表明というべきではないだろうか。他人とは地上の他人であると同時に、人間を超えた天上の何ものかでもある。
以前も言ったように、私は孟子の儒教・墨家・楊朱学派の三説は「個」が目覚めた状況で心がたどる(おそらくそれしかありえない)三つの旅程にすぎず、それゆえ三者は同じ穴のムジナで優劣はないと考える。つまり、自分の中の自分以外のものに根拠を求めるのか、自分以外のものに根拠を求めるのか、それとも他人と共感することの不可能性を表明するのか。近代西洋思想も、この三つの心の道のどれかに結局行き着くはずだ。
孟子は、後の章で三つの心の道に対して以下のような展望を表明する。すなわち、
墨子の説から離れれば、そいつは必ず楊朱の説に向う。しかし楊朱の説を離れれば、必ず我が儒家に帰ってくるのだ。帰ってくるものは、受け入れようではないか。だが現代、楊朱・墨子の説を奉ずる輩と論争する者は、まるで柵から逃げたブタを追うようなことをしている。(折伏されて)もう柵の中に帰ってきたのに、それをわざわざ繋ぎとめようとするのだ。(儒家の教えは全ての異端が必然的に帰ってくる道だから、心配することはない。)
(盡心章句下、二十六)
墨家は合理的な兼愛説を掲げて社会革命を志そうとする運動であり、合理主義ゆえに説得力がある。だが墨家思想の利他主義に誰でもがついていけるとは限らない。夢破れて脱落した者が、外界の他人を信じることができずに個人至上主義に走ることはきわめて自然なことだ。せっかく他人のために身も心も尽したのに、世の中は車輪一つ動かなかった。その他人への不信感といまだに残る倫理観との葛藤のとりあえずの均衡点が、自分の中に閉じこもって外界を無視する姿勢となるだろう。そういった者には、楊朱学派の説が魅力あるものとして映るに違いない。だがその境地で生き続けるためには、外界と内面の二重生活の孤独に耐えなければならない。そこに留まれる「かたくな」な人間などは、おそらく少ないだろう。無為自然であるべき道家的倫理観が外界に「かたくな」になってしまっては、もはや折れるのは時間の問題だ。やがては社会公認のコースで他人を求めようと願い、伝統的体制に寄り添う保守主義に回帰してしまう。この心のコースは、過去の革命運動からの転向者たちがいくつもの例を示している。
上の引用での孟子の言は、帝政ロシアや日本の特高のお偉方の高言そのままだ。孟子の同時代の思想に対する鋭い眼力が見て取れる。そして同時に、戦国時代当時の上流階層において帝政ロシアや現代日本と同様の思想状況が芽生えていたこともまた、読み取れるのではないか。ただし、孟子の生きていた時代には、儒教の保守主義は決して体制が全面的に支持する思想ではなかったことを付け加えておこう。
(2005.12.14)