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古代中国にデモクラシーを!?(その1)



まずは、秦朝末期時代のとある男のエピソードから。

秦の始皇帝死後、秦滅亡への口火を切った反乱を起こした首謀者が、陳勝(ちんしょう。あざなの渉を使って陳渉とも言われる)。彼は、もともと楚国のただの一貧民であった。始皇帝が死に、陰謀によって嫡男の扶蘇(ふそ)が抹殺され末子の胡亥(こがい)が二世皇帝として即位してからしばらく経った頃のことだ。二世皇帝は始皇帝の着手した土木工事や征服事業をそのまま踏襲していた。若年で帝王教育など受けたことがなかった箱庭育ちの公子だ。そのぐらいしかできることはない。くだんの陳勝は郷里から徴発されて、北辺の守りに就かされる貧民の一団の世話役に指名されたのであった。

守りに就く北辺には、秦帝国の総力を結集して作りあげた万里の長城がある。北の匈奴から防衛するために作ったと、ひょっとして思っているのか?、、、実は違ったんだよ、始皇帝の真意は。これまで漠然と「天下」に住んでいるなどと能天気に思っていた中華の人民どもに、怖ーい外国があることをあえて思い知らせて、「国民」を創生しようとしたのだ。人民どもよ、ちっとは愛国心を持って王朝に無条件の忠誠を誓い命を差し出す快感を知れ!っていう、深謀遠慮だったのだ。このときから二〇〇〇年後、東の日本でも三百諸侯に分かれて天下泰平を貪っていた人民どもを造り替えて「国民」にするために、心あるサムライたちは外国の脅威をこれでもかというぐらいに煽ったものだ。日本ではそれは成功したが、中華の人民たちはまだまだ全然だまされる途中のとっかかりまでもいっていなかった。

北方に行く途中で大雨にたたられて行軍が足止めされ、到着すべき期限に間に合わなくなった。こうなれば引率者は斬罪だ。(もう死んでしまったが)始皇帝の真意から言えば、これも「国民」を創生するためのショック療法だ。要は規律ですよ、規律。体が反射的に規律に順応してしまうまでに「国民」を馴らすまでの経過措置だ。もっともその過程でちょいとばかし犠牲が出るが、、、、しかし、この陳勝は貧民だが阿呆ではなかった。「国民」となって死ぬなど真っ平であった。ことここに至って、陳勝は目先の効いた仲間の呉広(ごこう)と相談して、「どうせ殺されるなら、ハッタリを使ってでも反乱の兵を挙げようじゃないか」と決心したのであった。

頭のいい奴らだから、引率してきた貧民どもに催眠術をかけて、まずはこいつらを配下にしようと考えた。なけなしでも、創業資本は必要だ。そこで詐術を使って貧民どもに「やがて陳勝が王になるだろう」という天のお告げがあったと印象付けさせた。単純な策を使ったが、郷里から無理やり引き離されて見知らぬ土地を行軍させられていた連中は、まっとうな判断力を失っていたのだ。どうやら催眠術は成功した、と頃合を見計らった陳勝たちは、そこでわざと監督業務に当たっていた秦の役人を挑発した。役人が法度に従って陳勝を切り殺そうとして剣を抜いた瞬間、その剣をすかさず奪って役人を殺した。「王侯将相いずくんぞ種あらんや!」これが、貧民どもに叫んだ蜂起の合図の決めゼリフだ。この言葉は陳勝の蜂起が成功していくに連れて、たちまち人々の間に有名になっていった。やがて勝ち進んで楚の旧領を広く征服した陳勝は王を名乗り、国号を「大楚」(のち、「張楚」と変える)とした。大楚国には各地から反秦の士や豪傑が集まり、秦の各城を落として役人たちを次々に屠っていった。

しかし陳勝の没落は早かった。始めは勢い良かったが、事態の急変に驚いた秦が名将章邯(しょうかん)に大軍を率いさせて、統一前の秦の東境であった函谷関(かんこくかん。河南省)にまで攻め入っていた楚軍を破った。楚軍を率いていた将の周文は死んだ。その後、各地に派遣した将軍たちが勝手に自立して王を名乗り始め、大楚国は支離滅裂となった。仮王となって各将を監督していた呉広は、配下の将に殺されてしまった。章邯の軍が楚に向けて反攻する中で、陳勝もまた敗色濃い戦線の中で御者の荘賈(そうか)ごときに寝首をかかれてしまった。陳勝が王となっていた時期は、たった六ヶ月。

『史記』陳渉世家には、陳勝が没落するきっかけとなった面白いエピソードが述べられている。王となった陳勝のもとへ、貧民時代に共に農業労働者だった古い友人が訪れてきた。陳勝は雇われて農作業などしていた時代、彼らに「富貴になっても、お互いに忘れないようにしよう」と約束し合ったものだ。それを横で聞いていた雇い主が鼻で笑って、「雇われ貧民のくせに、富貴だとぉ?妄想にもほどがあるぞ!」とまぜ返した。そこで陳勝が嘆息して言った言葉が、「燕雀いずくんぞ、鴻鵠の志を知らんや!」であった。昔の仲間は、陳勝の言葉を覚えていたのだ。だからやって来た。だが今や何せ王だから、まずは宮門で呼び止められて、怪しい奴として縛り上げられた。だが男は王の旧友だと主張し続ける。やむなくそのまま放置されていたが、陳勝が外出したところを見計らって、「渉!オレオレ、俺や!」と道に立ちふさがった。陳勝もまた彼を覚えていた。そこでその場は感激して、車に乗せて連れて帰ったのだ。

だがこの男、ただの貧民でしかも王の知り合いということで、図々しいことこの上ない。宮中では豪華な調度品の数々を見て「すごいやんけ、渉!おんどれも王とは出世したもんやのー!!さぞかしええ暮らししとんやろ?女とか侍らして、ウヒヒヒヒヒ!」などと、田舎言葉丸出しで騒ぐ。そのうち王の親友だと触れ回って、宮中には我が物顔で出入りするようになる。周囲には、貧民時代の陳勝の昔話をいろいろしゃべり始める。多分悪意はないのだろうが、何せ君子の礼儀などヘッタクレも知らない一貧民だから、話を面白くしようとして王の青年時代のマヌケなエピソードなどを話十倍にして吹聴する。こうやって笑いを取ることが友情だとどこかで思っているから、何も悪びれはしない。これを見かねた陳勝の側近が耳打ちして、「あの男は、王の威厳を著しく損ねます。王たる者、あのような下賎の者と関係があってはなりません。」と進言した。陳勝は、側近の言葉を聞いて、それが政治だと思った。男は即日斬り殺された。だがそのために、かつての陳勝の友人たちは皆彼から距離を置くようになって、誰も親しまなくなったという、、、、



長々と陳勝について書いてしまったが(始皇帝の真意については、フィクションですよ)、陳勝没落のきっかけとなったエピソードからは、陳勝の興した国が人間的な紐帯で成り立っていたことがよく窺がえる。つまり王が配下の者に冷酷になれば、もはや国を結束させる力は消えうせてしまったというのである。司馬遷は『史記』陳渉世家で、秦が滅亡した原因を仁義をほどこさなかったことに求めている。司馬遷によればいにしえの王たちは仁義をもって根本とし、軍備や法刑は枝葉のこととみなした。秦が滅亡したのも、陳勝が没落したのも、配下に仁義をほどこさなかったからである。これが当時の知識人階層が普通に想定していた、国家を結集するための原理であったのであろう。

韓非子を代表とする法家は、法システムが最大限の能率と公正をもたらすことによって、国民が持てる能力を国家のために最大限に発揮するだろうと期待していた。つまり十分公正に報われる条件を整えることによって、国民の力を国家に結集できるだろうと理想を描いていた。ところが、司馬遷などはそのように想定していない。司馬遷にとっては人を結集させるのは為政者の仁義であって、システムさえ整えれば自ずから人が結集するとは考えない。陳勝だけではない。項羽も劉邦も、結局個人を核として集まったギャング集団にすぎない。楚国復興というナショナリズムは確かに運動の背景としてあったが、劉邦はそれすらも途中で捨ててしまう。劉邦が項羽に勝ったのは、韓信や彭越といったくせ者どもを項羽が顧みなかったのに対して劉邦が拾い上げてやったからだ。国家のために命をも差し出す兵卒が劉邦の基盤の地にいたからではない。

戦国時代末期の人々の知的水準は、平均量はさておき上位数パーセントについては相当高かったのではないだろうか。例えば、ただの遊び人にすぎない劉邦ですら無名時代に役人に任命されている以上は読み書きができたはずだ。彼の同郷人の蕭何(しょうか)は一地方都市の主吏の属官でしかなかったが、その法知識は後に大帝国全体の法システムをとどこおりなく運営できる程に高かった。天才武将の韓信はもともと素寒貧の浮浪人でしかなかったのに、どういうわけか兵法を知っていてその裏をかくことまで考えを巡らせている。何よりもくだんの陳勝が、ただの貧民なのに魯からやってきた孔子の八世の孫孔甲(こうこう)を博士として雇っていた(『史記』儒林列伝より)。上流階級の知識体系である儒教について一定の理解がなければ、このようなことはできないのではないだろうか。そして『史記』李斯列伝によれば、李斯は焚書政策の理由として「私的に学ぶ者どもは何かにつけて法律文教の制度を批判し、政令が下れば私的に学んだ知識をもって論議する。家にあっては心で不満に思い、外に出ては巷で論議し、お上をそしって名誉と思い、異を唱えて高尚と思い、傘下の連中を率いて誹謗を行なう」と上奏した。それほどに戦国時代の余韻を伴って、各地で私的に学ぶものが多かったということではないか。

ジョン・スチュアート・ミルは『代議制統治論』(原題"Considerations on representative government",1861)において、中国(シナ)の専制政治についてこう言っている。すなわち、

シナの家父長制的専制は、それらの国民を文明化して、かれらがじっさいに達成した点にまで高めるための、きわめて適切な手段であった。しかし、その点に到達したときに、かれらは、精神的自由と個性の欠如のために、永遠の停止状態にもちこまれてしまった。かれらをそこまですすめてきた諸制度は、改良の必要条件を、かれらにとってまったく獲得不可能にしたのであり、しかもそれらの制度は崩壊することもなく、他の諸制度に席を譲ることもなかったので、それ以上の改良がとまったのである。
(水田洋訳。以下同様)

ミルにとって、中国の統治形態は人間を野蛮時代の自分の生活しか考えない気まぐれさから抜け出させて、彼らに服従の徳を教えたところまでは良かったということである。しかし専制政治によって、社会はそれ以上の発達を止めてしまった。なんとなれば、

不活発、向上心のないこと、欲求の欠如は、活力のどんな誤用よりも、改良にとって致命的な障害であり、それらが大衆のなかに存在しているときには、それだけで、活力ある少数者によるなにかのきわめて恐るべき誤用が可能になるのである。人類の圧倒的大部分を、野蛮または半野蛮の状態にとどめているのは、主としてこのことである。、、、受動的な型の性格が、一人あるいは少数による統治に好まれ、活動的自助的な型が、多数による統治に好まれることについては、どんな種類の疑問もありえない。

それゆえ東方民族はギリシャやローマのような自由の精神を発揮することができなかったという。しかしながら、実際には上に見たように戦国時代末期の社会は知的に沸騰していて、為政者に取って手におえない程であった。ミルは、国家構造の外側に放置されていると個人も一階級も意気がくじかれるだろうと言う。ゆえに、アテナイの例を出して市民が少しでも公共的体制に関与していることが、専制政治に比べてずっと高い知的水準を作り出すだろうと言うのである。しかし戦国時代の諸侯は、秦以前からとうの昔に専制体制だったではないか。どうして古代中国社会は高い知的水準の人々が絶対数として相当いたにも関わらず、専制政治、しかも人的な結合を軸にした専制政治しか選択できなかったのであろうか?また戦国時代の思想の流れの最下流にいた韓非は、専制政治の威厳と勢力を最大限に発揮させた法による非情の統治を結論として提出した。それはどうしてであろうか?


(つづく)


(2006.01.19)




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