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盡心章句上






孟子曰、盡其心者、知其性也、知其性、則知天也、存其心、養其性、所以事天也、殀寿不貮、脩身以俟之、所以立命也。

孟子は言う。
「自らの心を伸ばし尽くす者は、自らの本性を知る者だ。自らの本性を知る者は、天から降された意味を知る者だ。よき心を保ち、本性を養うことこそ、天に仕える道である。寿命の長い短いなど気にするな。ひたすら自分自身を修めて命尽きるのを待て。それが、天命を損なわずにまっとうするということなのだ。」

★故事成句★
「立命」(りつめい)(天命を損なわずにまっとうする。立命館大学の名の由来。)

『孟子』七篇の最後に当たる盡心章句は、ときに長文の問答があるが、大部分が短い断章から成っている。テーマも特にはっきりせず、多くはこれまでの章句の内容の繰り返しである。本章句は組織的な読み方をせず、一日に数章進む形式で読んでいきたいと思う。

冒頭の本章は、前の告子章句下、十五で説かれたことと通じている。上では『性』を「本性」と訳しておいた。本章は、告子章句全体の要約とも言えるだろう。「立命」すなわち天命を全うするとは、すなわり自らの「命(いのち)を立てる」ことなのである。漢字の「命」が「いのち」と「みこと(御言。命令)」の両方の読み方があるのは、伊達ではない。儒教においては、人間の命は誰か地上の他人に従属するものではなくて、天から与えられた完結したものなのである。だから誰にも従属する必要はないし、無駄に消費しては損なだけなのだ。ただ与えられた命の中で最も貴い箇所である心は「天爵」であって、本来的に他者に対して仁・義・礼・智の善を成しうる力を備えられている。だから、人間たるもの修養して「天爵」を大きく伸ばすのが最高の命の用い方であると言うのである。それが天命に従った生き方だと主張するのが、儒教なのだ。

天を想定して天命に従ってよき生を選び取るという点では、キリスト教に似ている。しかしキリスト教では天の父なる神は地上の人間に対して具体的な命令を発する存在である。地上での善行悪行を全てお見通しで、天の帳簿に一切記載する厳格な会計士である。「律法を一字一句違えずに履行せよ」と迫るイエスの命令を到底実行することなどできない地上の人間は、パウロのように自分の無力さを痛恨して罪の意識を持つより他はない。そこから肉の存在としては一度死んで、新たに神の僕の自覚を持って第二の生を生きるキリスト者の決意が出てくるだろう。このようにキリスト教における天命は、自らに罪の意識を起こさせる深刻なものである。しかし一方、儒教において「天は何も言わない。人の行動とその結果によって天命を示唆するだけだ」(萬章章句上、五)。それだけ深刻さが足りず、人が無軌道に陷る道を止める力が小さいと言うこともできるが、他方自分の存在に対してポジティヴな視点を持っているとも言える。


(2006.03.09)



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菜単
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