萬章章句下
四(その二)
孔子之仕於魯也、魯人獵較孔子亦獵較、獵較猶可、而況受其賜乎、曰、然則孔子之仕也非事道與、曰、事道也、事道奚獵較也、曰、孔子先簿正祭器、不以四方之食供簿正、曰、奚不去也、曰、爲之兆也、兆足以行矣而不行、而後去、是以未嘗有所終三年淹也、孔子有見行可之仕、有際可之仕、有公養之仕、於季桓子、見行可之仕也、於衛靈公、際可之仕也、於衛孝公、公養之仕也。
孟子(つづき)「孔子が魯で仕官していたときのことだ。魯の者(ここでは大貴族の季桓子のこと)が猟較(りょうかく。狩猟をして獲物の獲り比べをする儀式。本来諸侯がやる行事であって、家臣がやることは越権行為であったという)を行なったときに、孔子もまた猟較に参加したというではないか。贈り物を受けることぐらい、何ほどでもないではないか?」
萬章「では孔子がそのようなことをしていたということは、孔子が仕官していたのは、魯国で正しい道を行なうためではなかったのですか?」
孟子「そのようなことがあるか。正しい道を行なうためだったのだ。」
萬章「ではどうして猟較に参加したのですか?」
孟子「孔子は参加しておいて、まずは『祭器の簿正をして、四方の食が簿正に供えられなくした』(*)のだ。」
萬章「孔子はどうしてすぐに魯を去らなかったのですか?」
孟子「道を是正する、きっかけを試みたからさ。きっかけまでは、やって成功したのだ。しかし道は行なわれなかった。ゆえに魯を去ったのだ。だから孔子は、結局三年以上同じ国に留まらなかったのだ。孔子には、三種類の仕え方があった。一つ、『見て行なうべし』の仕え、すなわち道が行なえる見込みがありそうだと考えれば、仕える。二つ、『際(交際。礼儀)あり』の仕え、すなわち君主が礼儀をもって迎えたならば、こちらも礼儀返しで仕える。三つ、『公に養う』の仕え、すなわち君主が扶持を出して救助してくれたならば、生活のために仕えることもある。魯の季桓子に仕えたのが、『見て行なうべし』の仕えの例だ。衛の霊公に仕えたのが、『際あり』の仕えだ。そして衛の孝公に仕えたのが、『公に養う』の仕えだ。」
(*)どういうことをしようとしたのか、朱子もはっきり解釈できていないようである。とにかく、何か間接的な手段を使って猟獲をやめさせようとしたことだけは確かなようだ。
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孟子は萬章に孔子の例を出す。猟獲の儀式を家臣の季桓子が行なうことは、礼の秩序を正そうとした孔子から見れば決して認め難いことであった。しかし孔子は、まず体制の中に入ってからでないと改革はできないと考えて、あえて猟獲の儀式に参加したのだ。余が諸侯から贈り物を受けることなど、孔子に比べてまだまだ大したことではないではないか?おそらく孟子は、「顔をつないでおかなければ、いざというときに出馬するチャンスも消えてしまう。それでは改革もできないだろう?」とでも言いたかったに違いない。そのような孟子の態度を思想家にあるまじき生臭い態度と見るか、それとも現世を忘れぬ真の思想家と見るかは、意見の分かれるところであろうが。
萬章が孔子の真意について疑問を発したところに対する孟子の回答で、本章はまとめられる。そこで孟子は孔子が取ったし仕え方を三種類に分類している。ところが魯の季桓子と衛の霊公は孔子の伝記にも出てくるのだが、衛の孝公という君主は記録に存在しない。孔子は衛に足掛け十年以上出たり入ったりし続けたが、その時期の君主は霊公とその孫の輒(ちょう)、すなわち出公(しゅっこう)の二名である。だから、本章でいう孝公とは出公のことであるというのが定説のようだ。
まず、季桓子に仕えていた際の『見て行なうべし』の仕えについては、本章で詳述されているからはっきりしている(*)。次に、衛の霊公に仕えていた際の『際あり』の仕えであるが、『史記』孔子世家の叙述ではこのようになっている。すなわち、孔子はついに魯を見限って子路の妻のつてがある衛に向ったのであるが、迎えた霊公は孔子に魯で貰っていた禄高と同額を支給した。その後讒言に会って短期間で孔子は衛を去るのだが、それから後も繰り返し衛の霊公のところに戻っている。伝記を見ると孔子は霊公をあまり高く評価していないようだが、霊公は孔子が戻ってきたら温かく歓迎したようだ。このような霊公について、「君主として改善の見込みはないが、君子を篤く迎える態度だけは感謝しなくてはならない」という意味合いで孟子は『際あり』の仕えと言ったのかもしれない。
(*)だが君主である魯の定公に仕えていたと言うべきなのに、本章では季桓子に仕えたと表現されている。はっきりと記録されていないが、孔子は魯の最大実力者である季桓子の庇護下で頭角を表していったのかもしれない。げんに孔子が大司寇となって定公の下で政治改革を試みた時期に、弟子の子路が季桓子の家宰(執事長)となっている。
最後の『公に養う』の仕えであるが、その対象を定説どおり衛の出公のことだとしておこう。『史記』衛康叔世家などの叙述に従えば、衛の霊公の死後、国に内紛があった。もともと霊公には太子の蒯聵(かいかい。「萌+りっとう」と「みみへん+貴」)がいたのだが、国政を牛耳る霊公夫人の南子(なんし)を除こうとして失敗して出奔し、晋にかくまわれていた。霊公の死後、国人衆は太子の子の輒を立てようとしたが、それに対して太子を擁立しようとする晋が介入する事態となった。この時期に孔子は両派のどちらにも与せず、衛を去ったという(『論語』述而篇、第十四章の子貢との問答が、孔子の態度表明であったと解釈されている)。その後孔子は陳、蔡、葉(しょう)、ふたたび蔡、楚と周遊した。だが窮地に陥っていた孔子を助けて家臣として迎えようとした楚の昭王も、結局讒言に心変わりして孔子招聘を断念した。孔子が再び衛に向ったのは、その後である。衛の内乱は斉の介入などもあって輒の側が勝利し、輒は即位して出公となっていた。したがって孔子が衛の出公に仕えたのは、この時から季桓子の後を継いだ季康子(きこうし)に招かれて魯に帰るまでの時期である。
衛の出公に仕えたときの孔子の境遇がどうであったかは、記録されていない。しかし、長期間の周遊の結果楚王にも断られて、一旦見切りを付けて去った衛国に再び向った事情は、窮迫のためにやむをえず旧知の国の招きを受けたのかもしれない。本章の次の章には、「仕えるのは貧しさのためではないが、時として貧しさのために仕えることもある」というフレーズが出てくる。また、告子章句下、十四では「いにしえの君子の仕え方」として孟子が本章と同じく三種類を列挙している。その最後のケースとして「君子が困窮して衰弱していているとき、君主がこれを聞いて救済の職を提供したならば仕えた」と言っている。この告子章句での三つのケースは、本章での孔子の三通りの仕え方を踏まえて言っているのではないだろうか。そう考えて、『公に養う』仕えについて上の訳のように語句を補ってみた。孟子は萬章にこうして孔子の例を解説して、「道を行なう理想を忘れずに、しかも臨機応変に状況に対応してへこたれずに生き延びていく孔子の生き方を、私は学んでいるのだ」と言いたかったと私は解釈したい。
(2006.02.09)