王の人民への政策を「五十歩百歩」だと孟子は切り捨てる。孟子は、「王は戦争による覇権がまず第一の目的で、人民への政策はそれに付随するものではないか。本当に人民のためを第一に思う政治でなければ人民は王を慕い集まってこない」と主張するのである。何だかマルクシズムの社会政策論(独:Sozialpolitik)のようだ。社会政策論では、「労働者への福祉政策や労働運動の容認は労働力を維持して消費市場を充実させることによって、資本を維持するのが目的だ(つまり資本にとって必要だからやるのであって、労働者のことを思ってのことではない)」と論じる。孟子の儒教とマルクシズムは全く相容れない思想だが、人民重視の政策を主張する点では共通している。両者とも個人は本来的に社会に開かれた存在で、社会関係が人間の本性だと考えるからである。だが、マルクシズム ― いや、これでは語弊がありそうなので、その実践としての「コミュニズム」としておく ― により類似している古代中国思想は、むしろ墨子の思想であろう。後の公孫丑章句で検討する。
それはさておき、孟子は王の前で思想を語っている以上は、政策も提案する必要がある。後半で述べている土地改革法は後の章で「井田法」(せいでんほう)としてもっと具体的に論じられる。その眼目はここでは「家族を養いきちんとした葬式を行えるようにする」ための生計の確保であって、孟子の論述に表れているように親への孝行(孝)、年長者への尊敬(悌)を養い育てるのが目的だ(後で、これに加えて公用田を設定して複数の家族でそれを耕す制度として想定される)。かくして仁義の道はミクロの家族単位から基礎づけられ、やがては国家全体もまた仁義の道を根本イデオロギーとして秩序づけられることになる。こうして孟子の仁義を人間存在の本性だとした人間論は、国家論に結びついて王の前で提出される政策となりうる。後の方で孟子は仁義の道を王が採用すれば諸侯も人民も慕い集まり、単なる武力による覇権よりもはるかに容易に天下の王となることができる、といにしえの聖王たちの例を引き合いに出して主張する。孟子は徹底的な思想家であって、仁義の原理主義者としてここまで首尾一貫させるのである。この徹底的な思想の首尾一貫性は、先輩孔子にもなかったものだ。
ところが現実の歴史は孟子が最も嫌う富国強兵、武力一本槍の秦始皇帝が戦国時代を統一した。孟子の主張は現実によって裏切られたのである。後世の儒家は、「だから秦の天下はわずかの期間しか続かなかった。人民を酷使し、法と刑罰に頼ったからだ」と合理化する。この主張は言い訳がましいが、もっと別の面から始皇帝の限界を見ることもできよう。始皇帝は天下を取った後、不老長寿をひたすらに追い求めて迷走した。自分を「皇帝」と名付け「朕」という一人称を用いるなど権威付けには熱心だったが、天下の主として「何をなすべきか」についてはっきりした倫理的方針を持たなかったし、人民を従わせる倫理的基礎もなかった。始皇帝の迷走と人民からの不人気は、表裏一体のものなのだ。儒教はそこを埋め合わせるイデオロギーとして、秦のあとを継いだ漢以降国家に採用されたのである。上に立つ皇帝・官僚の倫理と、下に組み敷かれる人民への倫理とを併せ提供する思想として。アジアの専制王朝はたいていイスラム教を採用したが、中国は採用しなかった。思うにそれは儒教がすでに倫理的基礎を用意していたからだ。
儒教はミクロの家族倫理からマクロの国家秩序まで一つの原理 ― 人間は社会の他人に対して配慮する存在であり、家族君臣のよいつきあいが至上の倫理である ― で語ることのできる強固なイデオロギーである。中国・韓国で長い間採用されつづけ、日本でも徳川時代以降表立ってあるいは暗黙のうちに使われつづけたのには、十分な理由があるのだろう。