公孫丑章句下
六
孟子爲卿於齊、出弔於滕、王使蓋大夫王驩爲輔行、王驩朝暮見、反齊滕之路、未嘗與之言行事也、公孫丑曰、齊卿之位、不爲小矣、齊滕之路、不爲近矣、反之而未嘗與言行事、何也、曰、夫既或治之、餘何言哉。
孟子が斉の卿(大臣)だったとき、滕(とう)に弔問使に行った。斉王は、蓋(こう)の大夫(上級家老)である王驩(おうかん)を副使とした。道中、王驩は孟子に朝晩会見したが、斉と滕とを行って帰ってくる間に一度も行事のことについて話をしなかった。それを怪しんで、弟子の公孫丑が言った。
公孫丑「先生は斉の卿ですから、低くない地位にいらっしゃいます。そして斉と滕との道中は短いとはいえず、王驩氏とは何度も会見なさいました。それなのに行って帰ってくる間に一度も行事のことについて話をされなかったのには、何か格別の理由があるのでしょうか?」
孟子「王驩氏が行事については万事とりはからっている。余が言うことなど何もない。(外交というのは人のつきあいだ。余はそれを担当したのだ。実務だけではないのだぞ。)」
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外交官の姿について語った章である。孟子は有名人だから弔問の席にいるだけで斉の顔となるというわけだ。現代日本では外国人が外交官になるケースはまず聞いたことがないが、中国の戦国時代では普通であった。たとえ外国人であっても、主君から外交の任を拝命している以上は主君の栄誉を高めるために働く。それが君子である。「己を行なうに恥あり、四方に使いして君命を辱めざる、士と謂うべきかな」(『論語』子路篇、「行己有恥、使於四方不辱君命、可謂士矣」)ということだ。君子とは出身国などに関わらず一つの原理で行動するから、外国でも信用されるという考えがここにあるはずだ。
ところでこの章で孟子が弔問に行った滕の君主がよくわからない。滕の文公の父だとも推測されるが、後の滕文公章句の記述とどうも合わない。前の記事から見るに、薛が斉に滅ぼされたのは孟子が斉を去った後のようだ。孟子と文公は薛が亡んだ後に会見しているから、この章での弔問の対象が文公本人というわけでもないと思われる。ならばその先代だろうか。はっきりとはわからない。
(2005.11.09)