萬章章句の最後に、唐突に斉の宣王との対話が出てくる。思うに、弟子の萬章の手元にあった記録の一部だったのかもしれない。章句を通じてのテーマであった君主のあり方と仕える士のあり方の論議をしめくくるのにふさわしいと考えて、最後に置いたと考えてみたい。
目の届く範囲の領地しか持たなかった都市国家の時代は過ぎ去り、戦国時代には君主が突出して権力を掌握して百官がその権力にぶら下がる格好となった。広大な領地、数えられないほどの領民の上に立つ君主は、いにしえの時代の素朴な目下の者どもとの紐帯を失ってしまった。そのような国家においては、君主の権力のあり方は従来とは違ったものが求められなければならないであろう。孟子が薦めるのは、仁義の道である。君主は自分の中にある仁義の心を大きく広げて、目下の者に仁政を及ぼさなければならないと言うのだ。そうしない君主は、残賊の者として取り替えられても致し方がない。親族の配下ならば一族の長のすげ替えを考えるだろうし、親族でない配下の者は去ってしまうのみである。本章はこれまでにも何度となく語られた、孟子の統治論のリプライズである。
専制君主制において君主の道徳心を期待するのは、政治哲学としてやはり甘いのであろうか。孟子以降の思想界は、彼の仁政論への批判に傾いていった。その極致が、荀子の制度論に学んだ韓非の法家思想であった。韓非に言わせれば君主が道徳心などを持つことなどに期待してはならないし、また君主は道徳心など持つ必要すらないと言う。孟子の描く理想の君主像は、韓非によって百八十度覆されたのであった。
西洋のローマにおいても、もともと日本の県程度の範囲しかなかった都市国家が巨大帝国にふくれ上がったとき、統治の原理は変わっていかざるを得なかった。アウグスツス以降の帝政となっても、一応は元老院を残しローマ市民に特権を与えることによって、都市国家の形式だけは残された。しかし皇帝は軍隊の長であって広大な辺境でローマの敵と戦う力を保持した。それは具体的な暴力であって、皇帝の権力が都市国家の建前を侵害しない保障がどこにあったのであろうか?
孟子の仁政を心がけたローマ皇帝たちといえば、それはマルクス・アウレリウスらの五賢帝であろうか。彼らは軍隊の長でありながら、おおむね権力を濫用しなかった。マルクス・アウレリウスがストア哲学に傾倒していたことは、周知のとおりである。西方のローマでは、確かに孟子の理想とするような君主の哲学的自覚による善政が行なわれた実績があったともいえる。
しかし五賢帝以降のローマは、軍隊が皇帝をあっちこっちで擁立する時代となった。歴史を読むと、皇帝希望者が配下の軍隊を優遇して味方につけ即位したのはよいが、しばらくして配下の者どもが増長して殺されてしまった例が非常に多い。もはやこの「軍人皇帝時代」(「三世紀の危機」と呼ばれる)になると、皇帝などは完全に軍隊になめられてしまっているのである。韓非ならば、「権力を下に委譲するからそうなるのだ」と論評するだろう。仁政の時代は、ローマに二度と来なかった。
軍人皇帝時代が終わった後のローマは、官僚制国家となった。この時期キリスト教が公認され、皇帝の権威はこの新しい宗教によって神聖な装飾が加えられるようになる。中国で漢代に儒教が王朝の装飾として採用されたのと同一である。権威は宗教によって神聖化されることによって、ついに安定を得るようになったのである。儒教もまた後世に力を振るったのは、君主の道徳としてではなくて、権威を神聖化する装置としてであった。道徳は敗退したが、宗教は勝利したのである。
以上で、萬章章句は終わる。孟子の説く倫理学説は、本章句まででほぼ言い尽くされたようだ。後は人間の本性についての論争集である告子章句と、雑多な内容の盡心章句を残すだけとなった。以降については、全章を検討しない。次の告子章句だが、冒頭から始まる人間の本性についての論議は、その冒頭の一章だけ見て後は全て飛ばすことにしたい。
(2006.02.16)