この章は、本章句上、四で展開された儒家の正当性を更に補強するために置かれた異端反駁文である。前後に区切って読むことにしよう。
上に訳した章の前半は、いにしえの時代から孔子までの道統を示したものである。この叙述で表されているいにしえの聖王の業績は、水を制御して野獣を殺戮した開拓者のそれである。わがままな紂王が政治を怠ると、たちまち野獣が跋扈し始める。中華の地はオランダやカリフォルニアの農地と同じく、人の力なしには維持できない土地として観念される。人間中心主義が儒教の世界観には強く流れている。
龍はどうか知らないが、サイや象がかつて本当に中国にいたことは、殷時代の青銅器にリアルに彫られていることからすぐにわかる。これらは人間によって絶滅されたのである。豹も虎も現代ほぼ絶滅しようとしている。この章で開示されるように、伝統的な中国の歴史観の根底には自然と戦い野獣を滅ぼす文明観があることは、少し心に止めておいたほうがよいのかもしれない。日本人の自然観と全く違うからである。日本の国土もまた気の遠くなるような量の人間の労働が土地改良のために投入されているのは同じなのだが、日本人はそれを「忘れて」、自然にできたものと観念する傾向がある。だが中国の自然観は、自然を制御しなければ暴れだす敵と見なす点でむしろユダヤ人やアメリカ人のそれに近い。環境問題へのスタンスの差で微妙に影響があるかもしれない。
さて、聖王は地の開拓者であると同時に、人類に文化を打ち立てた存在でもある。そしてそういった中華文化の正統な倫理観は乱れた世において孔子によって保守された、という歴史観である。そこから孔子の後継者たるべき孟子が中華文化の正統であるという主張もまた導き出されるのだ。
ところが、である。
近年の研究によると、本章で孔子が作ったと明言されている歴史書『春秋』は、実は戦国時代の、まさしく孟子の同時代に「捏造」された ― いや、もう少しやわらかい言葉を使えば「再構成」された ― ものだというのである。同時代の孟子がそれを知らないはずがない。もしそれが正しければ、この章での孟子の主張は確信犯的に嘘をついていることになる。つまり、自分たちの意見を盛り込んて構成した歴史書を、孔子の権威を持ち出して過去からの伝承書だと宣伝したということになるのではないか?
『世界の歴史2 中華文明の誕生』(中央公論社)の中で、平セ隆郎氏は『春秋』は戦国時代中期に作られた作為的な予言書であると立証している。その根拠は私なりにまとめると(専門家でないので錯誤があるならば御免)、
『春秋』は「踰年称元」法(後述)という年代法を用いている。この年代法は、紀元前338年に斉王が初めて採用したものである。それ以前は、即位月にすぐ元年と数える「立年称元法」であった。
『春秋』は各年の正月を「春」と記述している。正月が立春を含む月と定めるのは、戦国時代に中原諸国で採用された「夏正」暦である。ところが、周時代に採用されていた(と仮想された)暦は、冬至を含む月を正月とする「周正」暦である。『春秋』は、いまだ「周正」暦が行なわれていた時代に生きた孔子があえて「夏正」による季節配分を用いて歴史を書いたことにより、来るべき時代に暦を改変する新しい聖王(つまり斉王)が出現することを予言したという体裁に仕組んである。
『春秋』の天象記録は、戦国時代斉で採用されていた暦と適合するように仕組まれている(紀元前366年立春を正月の朔(ついたち)とする暦)。これは、戦国時代に斉の暦から逆算して過去の叙述が構成されたことを示している。
「踰年称元」法とは、君主死去の月からその年の年末までを前君主の年として数えるやり方である。例えば現代日本であえて「踰年称元」法を用いれば、下の図のようになるはずだ。
《大正天皇崩御》
大正十五年 平成元年 平成十六年
192612.25 1927.01.01 1989.01.08 1990.01.01 2005
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昭和元年 昭和六十三年
《昭和天皇崩御》
なぜこのような年代法を採用したのかというと、斉などの中原諸国が用いていた暦が立春を含む月を正月とする「夏正」暦(要は現代の旧暦とほぼ同じ)であったことに理由がある。前君主死去の日から立春を含む正月までの期間は、新王の徳が試される試用期間である。ちょうど季節もまた立春に向って、冬の衰退を通り越して再び春がめぐってくるように調整されている。斉王が成り上がりの君主であったことが重要である。「斉国の各王は即位時には王でないが、試用期間を経て徳を積みついに王に即位する」という体裁を代々続けようとした意図が隠されているのである。
現代日本の年代法は、いうまでもなく「立年称元」法である。つまり、
大正十五年 平成元年 平成二年 平成十七年
192612.25 1927.01.01 1989.01.08 1990.01.01 2005
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昭和元年 昭和二年 昭和六十四年
このように、ふつう王の即位年数は「踰年称元」法より一年ずつ多くなる。この事実が漢時代にはわからなくなってしまい、司馬遷は『春秋』などの戦国期の予言的歴史書をそのまま春秋時代の歴史書とみなしてしまった。そのため、過去の全ての時代に「踰年称元」法をあてはめるという錯誤をしてしまったのである。加えて戦国時代の各国で採用されていた暦が異なっていたことも知識として失われていたため、『史記』の年代叙述は実際と大幅にずれることとなったというのである。これらの矛盾は平セ氏の整理によって全て解決されるという。
このように、『春秋』が紀元前338年以降の編集でしかありえないとするならば、その時代はまさしく孟子が斉に遊説していた時代とほとんど重なるではないか!とすると『春秋』の編集に孟子学派が関与していた可能性があるのではないか?
ただの素人の憶測でしかないが、この章の成立は、孟子の死後から相当後の時代なのではないだろうか。孟子は稷下の学の一人として斉の宣王(平セ氏の主張では「ビン宣王」)に仕えた。つまり儒教の主流の庇護者は一時斉王だった時代があったのである。孟子は過去の時代の斉桓公・晋文公の歴史を斉王の前で否定して、斉王に新しい時代の理念を開陳しようとした(梁恵王章句上、七)。この時期ごろにひょっとしたら儒家は斉王に献上するために、魯などで伝承されていた年代記を斉王に都合のよい予言書の体裁に編集したのではないだろうか。そして斉はこれを儒家の公認のもとに、「大学者孔子の作った予言書が発見された」と宣伝したのかもしれない。つまり『春秋』は儒家が作ったものであってなおかつ斉王のための書なのである。
一方、孔子と同時代の賢者である左丘明による『春秋』の注釈であると後世伝えられる『春秋左氏伝』がある。実はこれは、斉の『春秋』に対抗してぶつけるために韓王国が自らの正統性を示す予言書として制作したものであるという。ならばそれほど斉の『春秋』は宣伝効果絶大、理論武装も高度であって、各国は何とかこれを乗り越える必要に迫られたということか。当初は『春秋』を著せるぐらいに歴史編纂技術は儒家が卓越していたのであろう。だがそれもすぐに模倣されて優越性を失っていく。
だが後の時代に斉は燕に敗れて覇業は潰え、天下の王となる道は遠のいた。そして儒家もまた斉王家から距離を置くようになったが、『春秋』だけは残った。そうして次第に「『春秋』は孔子の作」という(斉の)公式見解だけを儒家に都合のよい主張として伝承するようになっていった。滕文公章句の原型はこの時代に作られたのかもしれない。時代は下り、始皇帝の焚書や項羽の焼き討ちによって戦国時代の資料の多くが散逸した。その後に続く漢時代初期には、もはや戦国時代当時の事情がよくわからなくなってしまったのである。この章は、漢時代初期に儒家の正当観に基づいて原資料からまとめられたのかもしれない。つまり、前半部は孟子がいにしえの聖王の事跡を述べた資料であった。そして後半部は、もともと「孔子が春秋を作って後世に正統を示し、孟子はそのまた正統な叙述者であって彼だけが孔子の説を敷衍して他の邪説を排斥する資格がある」という儒家の宣伝文であったのかもしれない。
意地悪な推測をしてしまうが、この章の本来の趣旨は、斉王と儒家の共犯によって作られた宣伝だったのではないだろうか。つまり「聖王の徳が衰えたのを嘆いて孔子は予言書『春秋』を作った。そしてますます混乱した今の時代に孔子の予言した聖王がやがて出現するだろう(それこそが斉王であり、それを補佐すべき者は我ら儒家である)、、、、」という。それを後に斉王関係の部分を削除して儒教自体の正当観に換骨脱退した可能性も考えられないだろうか?
すると、孟子が斉で卿の地位を与えられて極めて重視された理由が見えてくる。まさに彼はゲッベルスと同じ「宣伝啓発大臣」だったということになる。プロパガンダ担当なので実務には携わらないが、斉王国で重い位置を与えられた。これも儒家の勢力を拡大するための策である。本当は自分たちが作った『春秋』を孔子の作と主張して、斉王を顕彰すると同時に儒家の正当性も主張するネタとした。何せ儒家を攻撃する墨子ですら、孔子についてだけは功績を認めているぐらいである(『墨子』公孟篇)。孔子は学派を越えた天下の権威なのだ。儒家が利用しないはずがない。
もっと後の時代の儒家である荀子は、子思(しし。孔子の孫で孟子の直系の師)や孟子の学派をでたらめが多いとののしっている。その上で孔子の真の道を叙述するというスタンスで自分の学説を展開する。どうも、この荀子の非難のあたりに歴史の暗部が隠されているのかもしれない。苟子は孟子が仕えた宣王の次代の王の時期に斉に赴き、学者たちの重鎮となった。すでに前代の王の覇業は潰え、夢破れた時代の国で思索をした人である。荀子は孟子の学派に対して、学問への真摯さを欠いた何か生臭い政治臭を感じていたのではないだろうか。(現行の)『孟子』は王への正しい道の説教からスタートするが、『荀子』は『論語』と同じく再び学問の重要性から説き始められている。孟子が声高に儒家の正当性を叫んだ時代から、また時代は変わっていったのである。
(2005.12.13)