本章の議論で、孟子は何にこだわっているのであろうか?
思うに、本章で孟子が言いたがっていることは、士が君主に職務もなしに食客として養われることによって「一宿一飯の恩」を押し付けられることを、礼に外れた行為だとして厭うべきだという点なのではないだろうか。だから、職務もなしに扶持米を受けることは君子としてよくないことだとされる。また子思が魯公からの付け届けにつむじを曲げた態度は、君主の恩を着せようとした意図に対して警告したのだと解釈すれば理解できるのではないだろうか。そのように読めば、本章の議論は非常にわかりやすくなる。君子は、君主から恩をもらったりして行動を拘束されてはいけないという信念が孟子ら儒家には強固にあるのだ(公孫丑章句下、三を参照)。儒教の想定する君子は独立した政治プロであって、主家への忠誠心でつながる家臣ではない。その辺が吉田松蔭などに違和感を持たれるところなのであろう。
本章で孟子は魯公が子思に贈り物だけ届けて誠意がちっとも見られないことに憤慨したことを挙げて、「士は君主に飼いならされはしない」という抵抗の精神を読み取ったのであろう。子思の時代は春秋時代最末期で、まだ士は君主の下僕であるという観念がまだまだ強かったはずだ。だから、魯公の態度は当時の通念どおりだったに違いない。だがもっと時代が下ると敵もさるもの、君主は士に礼にかなった下にも置かせぬ待遇をして、その上で命を賭した仕事を命じるようになるのである。戦国時代後期は、君主から恩を売られて、その恩に応えて命を投げ出して尽す「侠」の精神が盛んとなった時代であった。
孟子から後の時代に、戦国四君と呼ばれた実力者が各国に現れた。すなわち、斉の孟嘗君、趙の平原君、楚の春申君、魏の信陵君である。うち斉の孟嘗君は例の宣王の甥にあたり、孟子の次の世代である。後の三人は彼より一回り若い。戦国四君はいずれも王の近い親族であって、豊かな封地をバックに各地から有能無能の食客を集めて自分の子飼いとして徒食させた。孟嘗君に仕えた馮驩(ふうかん)や、信陵君に仕えた侯生(こうせい)のエピソードは、知己を得た主君の恩義を全力で返そうとする彼らの気概と美学をよく示している。侯生などは、最後に信陵君の決死の趙救援作戦に従軍できない自分を詫びて、自ら首をはねて死ぬのである。孟子の活躍した紀元前四世紀は、まだ遊説家の張儀(ちょうぎ)などに象徴されるように、異能によって君主の間を渡り歩いて賢く生き延びる士のスタイルが追求されていたようだ。孟子もまたその一つの典型である。しかし、次の紀元前三世紀に入ると、士の生き方は、君主の恩義を受けて一命までを捧げて惜しまない「侠」のスタイルが全面に出るようになってくる。
『史記』刺客列伝に活写されている荊軻(けいか)にまつわる物語は、壮絶である。秦の始皇帝を倒すという燕の太子丹の願いを聞かされて、処士(在野の名士)の田光(でんこう)はこれまで恩顧を与えていた遊侠の徒、荊軻を太子に推薦する。田光は国の大事を聞かされた以上は生き続けるわけにはいかないと、自ら首をはねて死ぬ。太子の依頼を受けた荊軻は上卿(総理大臣)に任じられて下にもおかされない優遇を受け、欲しいものは何でも与えられた。荊軻は、始皇帝に近づくためのしるしとして、もと秦の将軍で始皇帝の怒りに触れて燕の太子の下に逃げ込んできた樊於期(はんおき)の首が必要だと考えた。荊軻は、自ら樊於期と談判して、彼に太子の恩を返すために死んでくれと依頼した。樊於期は天を仰いで嘆息し、涙を流して承知したのであった。以降、荊軻が樊於期の首を持って秦の都に入り、宮殿で始皇帝を暗殺しようとした活劇は、有名だから省略する。わずかの時期に受けた恩と義理のために田光、樊於期、荊軻の三人の士が次々に命を投げ出した。田光が命を投げ出した時点で、荊軻はこの事業から引くわけにはいかなくなってしまったのだ。命を蕩尽することによって相手の行動を拘束しようとする、死の順送りの倫理である。
思うに、戦国も末期となって秦の優位はもはやゆるがないようになり、函谷関以東の六国の上流階級たちの将来には希望がなくなってしまった。そういった絶望的気分の中で生きる王侯士人たちの中に、結果は度外視しても美しくて格好よく命を蕩尽したいという願望が流行しても、おかしくはなかっただろう。戦国四君や荊軻のエピソードなどに見られる「侠」の心意気は、そのような希望のない状況の中でしだいに醸成されていった行動倫理だったのではないだろうか。彼らの「侠」は、デカダンに陥った精神が見せた現実から目を背けるロマンチズムの現れではなかったろうか。
司馬遷は『遊侠列伝』において、このように述べている。すなわち、
遊侠の徒は、その行為は正義に合わないことはあるが、しかし、その言はかならず信があり、その行為はかならず果敢で、ひとたび応諾すればかならず誠意をつくし、その身を愛さずに人の苦難におもむき、つねに一身の存亡死生を無視する。しかも、その才能にほこらず、またそのの徳にほこることを恥としている。思うに、彼らにもまた、多とするに足るものがある。
(野口定男訳)
こう言って、しかしながら儒家や墨家は侠客の徒を排斥して、かれらの書物に記載しなかったとも書いている。非戦兼愛を唱える墨家が主君のためにテロリズムも辞さない侠客の徒を排斥するのは当然だが、儒家にとってもまた侠客の徒は厭うべき存在であった。
記録として孟子の時代にはまだ侠客が出現していないが、現実にはすでにその兆候が随所で見られていたのではないだろうか。孟子の時代には、新手の思想として墨家が隆盛を極めていた。墨家は、「天下に利益のあることならば礼など気にせず、躊躇もせずにどんどんやれ」という薦めを行なった。思うにこの墨家の倫理が世界改革への展望を失い、大衆運動から脱落して個人プレーによる正義の追求に走れば、それは「侠」の精神につながっていくのではないだろうか?
「目上の人間に恩を受けたから、恩返しで死んで見せる」「不義を目の前にして、いてもたってもいられずに命を投げ出す」というような「侠」の倫理について、司馬遷は上のようにかなりの共感をもって理解を示している。それは、前漢時代にいまだ強く官吏や市井の中に残っていた、筋を通すためには身命をも賭す気概の精神への親近感が彼にはあった。だが、儒家の孟子は、このような「侠」の精神を君子としてあるまじき軽率な行為とみなすであろう。儒教が理想とする君子は、「礼でなければ何も行なわない」(離婁章句下、二十九)。侠客の徒のようにすすんで命を投げ出すような行為は、「天爵」として命の無駄遣いにすぎず、それで天命を全うしたとは言えない(盡心章句上、二他)。そう考えるのが、儒教なのである。
本章での孟子の問答は、当時次第に見え始めていた「侠」の時代精神を彼が敏感に察知し、それへの危機感を表明しようとしたのではないだろうか。やがて後世、儒教が士大夫の必須学問となると、儒教の知的に抑制された倫理が彼らの行動原理とされるようになるだろう。一方、野放しの人民は知的なフィルターを通さない気概の表れである「侠」の精神を相変わらず重視し続けることになるだろう。そのようにして両者は間が断絶しながら共存していったのではないか。だがひるがえってわが国の吉田松蔭などは、儒教を深く学んだにもかかわらずかなり「侠」の精神が入っているようで、いわば野蛮である。同時にその野蛮は、清新な気概の表れでもあったはずだが。
(2006.02.13)