前章で強調された「いにしえの先王の道」が本章で具体的に述べられる ― 君臣道徳は堯・舜の関係に学べということである。「堯舜の道」とは孟子が常々諸侯らに薦める道だが、この二名が取った行跡に学べという。
舜は現在の山東省の出身で、もともと東夷（とうい。東方の蛮族）の人だという。それが徳行を積んで評判が高まり、やがて堯帝の朝廷に聞えて摂政として抜擢された。堯帝が舜を迎えるに天下の富を傾けて下にも置かせなかったという経緯は、萬章章句下、三で詳説されている。舜は摂政として益（えき）・禹（う）・后稷（こうしょく）・契（せつ）らを登用して、人民の生活改善のための統治を行なった。その内容は滕文公章句上、四に書かれている。堯帝が崩御し、舜は尭帝の子丹朱に遠慮して自らは朝廷から退いた。しかし天下の諸侯、百官、人民は皆舜を慕って舜の下に集い、丹朱の朝廷に行こうとしなかった。ここに至って舜は天意を感じて即位することを決断したという。その経過は、萬章章句上、五に詳しい。
以上が堯・舜の君臣関係のあらましだが、これでわかることは、一つは両者の関係は完全なギブアンドテイクである点だ。臣下の一方的な忠誠ではない。孟子は斉の宣王との問答で、「臣下をいじめる君主は、臣下にとって仇か敵です」と言い切っている（本章句下、三）。統治者の側から見ればまことに都合の悪い、不服従の宣言である。国家統治を乱す主張だとして、韓非子の法家が儒家を非難する点の一つがここにある。
もう一つは、舜はもともと異文化圏の人間でありながら、徳行によって中華に招かれた点だ。孟子は「舜は東夷の人で、周の文王は西夷の人だった」と強調する（本章句下、一）。両者の出身地は千里（約４００ｋｍ）以上離れ、時代を千年以上隔てていながらも、志を持って中国で行なった行跡はぴたりと一致すると説かれる。自らの文化的なバックグラウンドを置いといて参入すべき大きな文化が中華であり、そこで貫かれるべき原理は個々の地方文化を超えて且つ時代の変化にも揺るぎない普遍的なものであるはずだ。
この二点こそが、孟子に中華文化を卓越したものとして固く主張させるゆえんなのだろう。本来の中華とは、様々な文化のバックグラウンドを持つ者たちが集まって作りあげた世界である。そしてそこで貫かれる原理は人間として「当たり前」とみなされるべき人間関係であり、一方的な支配隷属の関係ではない。このように想定したとき、はじめて中華世界はその卓越性を主張する資格が出てくる。少なくとも戦国時代の中華文化は、それに値するものであった。
だが、堯舜が則った原理は、アテナイのデモクラシーなどとは全く違って支配階層の間だけに通じる人間関係である。天下の中から現れた有為の人材が中央に引き立てられて、人民を統治する。儒教はエリート主義であって、デモクラシーとは無縁である。その理由は、以前も言ったように、中華世界とはアテナイのようなポリス社会を前提としていないからだ。第一義に忠誠を誓うべき国家が各人の心の中にしかと存在して、初めてデモクラシーのフィクションは成り立つ。そのような前提がない広大な天下の統治だから、選ばれた統治階級が身に付けるべき原理が抽出されるのである。逆に人民は仁義の徳を伸ばそうともしないケダモノ同然の小人として、統治される対象でしかない。惻隠の情は動物にすら及ぶものなのだから、君子たるものたとえケダモノ同然であっても人民に仁の心を及ぼすのは当然である。だがそれ以上のものではない。そして人民はただただ上の美風を模倣して、敬慕するだけの受身の存在である。そのままでは社会に参加する積極性は一切求められない。舜のように庶民から一念発起する志だけが、中華の文化に参加するチャンスとして開かれる。
二十一世紀の現代で、様々なイデオロギーが興亡した後に残った原理として、リベラル・デモクラシーがある。人間が自由でありたいと望むのは全体的な傾向として間違いがなさそうだし、かつ自分の勝手知らぬ連中に一方的に統治されたくないという人情もまた合理的なものであろう。だから形式的にはリベラル・デモクラシーは人間の最小限の原理としては正しいはずだ。
だが、これまでの歴史を見ると、デモクラシーの台頭はナショナリズムの台頭と歩調を同じくしている。当然だ。自分が統治されているという実感がない限り、デモクラシーへの渇望は起るはずがない。すなわち国家が各人の心の中にはっきりイメージとして意識されるプロセスと、デモクラシーが望まれるプロセスとは並行して進むはずなのだ。ファシズムもまた変態的なデモクラシーといえるだろう。各人を国家に参加した気にさせるのが、成功したファシズムであるはずだからだ。ナショナリズムとデモクラシーは盾の両面であって、ナショナリズムを抑えたところにデモクラシーは育たないのではないか？
今、アメリカやフランスといった先進国で、社会の中が深く分断されている実情があらわになっている。自由が人々にとってますます求められるべき価値となり、その裏返しでデモクラシーがひそかに前提としていた閉じたナショナリズムが希薄になっていく中で、デモクラシーへの気概が次第に人々の心の中から後退しているのではないか。そしてそれは世界的現象であるのかもしれない。デモクラシーは必然的に腐敗する運命にある絶対権力を掣肘するという重大な社会的功能がある。しかしそれも人々が実感として国民国家に参加しているという気概の裏打ちがなくては、制度は形骸化してしまうだろう。
ギリシャ社会もローマ社会も広域帝国化するとデモクラシーは消えてなくなった。多様な文化の社会を包含する統治においては、デモクラシーは不適切だったからだ。自由は支配者階級の自由となり、被支配者階級には法と生活インフラが与えられるが、統治への参加はもはや不可能事となった。二十一世紀は、人と情報が容易に移動するインフラが完成して上層部で世界市民社会が形成される必要条件が成立している。いったい今後の世界は、実質上ローマ帝国や中華帝国の統治原理に移行していくのだろうか？
《次回は離婁章句上、四》
（2005.12.19）
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