梁恵王章句最後の章である。前も言ったように、この章が最後に置かれているのはおそらく意図的であって、実際に孟子が引退前に最後に会見しようとしたのがこの章の魯の平公であったかどうかは、わからないと思う(告子章句で魯の将軍と話をしているし、この章で出てくる弟子の楽正子は魯公に仕えたようであるから、おそらくこの後魯公との縁が全く持てなかったというわけではあるまい)。
この章ではっきり「天命」が孟子じしんの運命を左右する言葉として出される。王公との問答で仁の心による地上の政治のことを語り続けてきた孟子は、ここではじめて自分のことについて語るのである。その時孟子は「天」の不可知の力を感じざるをえない。そして「天」の力が人間全体を動かすことに慨嘆せざるをえない。人間の「他人に配慮する」心がよい社会を作れることを力説する孟子だが、ここではじめて人間の力ではどうにもならないものがあることに行き当たった。天の時間の流れが悪いと、人間社会も本来の姿を発揮できないのであろうか。
「怪力乱神を語らず」(『論語』述而篇)「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」(同、先進篇)「知るを知るとなし、知らずを知らずとなす、これ知るなり」(同、為政篇)と言った孔子ですらも、『論語』をしめくくる最後の語は、
不知命、無以爲君子也、不知礼、無以立也、不知言、無以知人也。(尭曰篇)
天命を知らなければ、君子となることはできない。礼を知らなければ、人の世に立つことはできない。言葉が理解できなければ、人を知ることはできない。
である。「天命」という人間のわざを超えた力への予感なくしては、君子となることはできないという。いったいにして、この「天命への畏敬」というテーマと、もう一つ「道が行われなければ君子は隠れるしかないのかもしれない」というテーマは、『論語』後半に進むにしたがって次第に濃厚となってくる。そして、孟子(おそらくその直系の師の子思も)の思想にはこの二つのテーマの影が強くまとわりついていると思う。
想像するに、孔子死後の儒教学派には『論語』冒頭の学而篇・爲政篇などに見られるオプティミスティック(楽観的)な人間賛歌の流れと、『論語』後半の憲問篇・微子篇などに見られる天命を予感して絶望的な世界の中でひとり正しく生きるというパセティック(悲壮)な流れがあったのではないか。そして後の世代によって儒教の正統とされた子思→孟子の学統は、孔子死後の儒教学派のうちパセティックな思想の流れを汲んだ学派だったのではないか。子貢(しこう)・子張(しちょう)のようなオプティミスティックな現世処世術として孔子の教えを受け止める傾向が強い人々の流れは、やがて戦国時代が到来していよいよ実力優位の社会がやってきた中で君主に仕えて家臣となる道を自然に選択し、一方学派の代表に任じられた曾子(そうし)から始まる流れは孔子の教えの現世処世術的側面を薄れさせて思想の純粋性に傾斜していき、孟子のような「純粋思想で諸侯に説教する」スタイルを作っていったのではないだろうか。『論語』はその両方の流れの門人たちの「仏典結集」ともいえる共作なのではないか。これはただの憶測である。
いずれ出てくるだろうが、後の公孫丑章句も、最後の盡心章句も、孟子の「余がこの世に道を説いているのは天命のはずなのだ」という痛憤をしめくくりに置いている。孟子は「やがて天上の絶対神の審きがあるから悔い改めよ」という一神教の論法で人々に警告する術がないために、ひとり天命を確信して自分を孤独者に置くより他はなかった。彼が朋友関係を理論的な把握以上に進めることをせず、『孟子』全編中にも心を通わせた友人や弟子のような人がほとんど出てこないのは彼のスタンスのなさしめるところである。唯一この章で出てきた楽正子は孟子の愛弟子であったようだが。孔子には顔淵、子路、子貢などの個性的な弟子が多くいたし、孤独な世捨て人の荘子(そうじ)ですら恵施(けいし)という当時有名な論客と親しかった。思想に殉じ、思想の敵はただただ叩きのめし、そして思想が要請する上下関係のシステムで我が身まで厳しく律した孟子の姿はあまりにも孤高孤独である。
前も言ったように、伯夷(はくい)のように正しいことをしたのに報われず死ぬ人がいる。その人が神を信じていて、天国で神が救ってくださることを信じているならば、それはいたしかたもなかろう。だが、中国の伝統的発想には一神教のようにはっきりとした天国はない。魂魄(こんぱく)と肉体という考えはあっただろうが、地上の不遇を帳消しにできるほどの積極性をもった天上の世界ではないのである。そんな思想環境の中で、天命を確信して逆境の時代にあえて地上で正しく生きようとするならば、
天の大きな流れの正しさ、人の心の結局の正しさを信じて、やがて後世自分のなしたことが評価されることを強く信じて生き、あるいは(かつ)
道の行われない、つまらない時代には無駄死にをしないように心がけて慎重に生き、せまい世界であるいはたった一人でも正しく生きる覚悟を持つ
の二つの心がけをのどちらか(あるいは両方)を持つことになるだろう。そして孟子の思想にはこの二つが併存している。孟子の直系の師である子思が著したとされ、孟子自身も強い影響を受けていると思われる書の『中庸』には、
世を遯(のが)れて知られずして悔いざるは、唯だ聖者のみ之を能(よ)くす。(第十一章)
とある。おかしなことだ。儒教は「他人に配慮する」心を至上の善として倫理を組み立てる体系であって、世間の中にいて他人と共にあっての人間存在を説いているのではないのか。それを「世を遯(のが)れて知られずして悔いざる」とは!これは逆境の中にいて、しかも天国での救いによる償いもないからやむをえず君子が取る保身の法だ。決して本意ではない。そうやって孤立して、なんで仁義の心が満足できようか。鳥や獣に向けて礼を行うとでもいうのか。そのねじくれた意図を真に受けて、後の宋代儒者たちは「ひとりで坐っていても道(「理」という専門用語が使われる)を理解でき、自分の仁義の心を知るのは『明鏡止水』となって心を波静かに保つことだ」と考えてしまった。他人の関係の中から思索された儒教が何と一人で合点できる思想になってしまうのである。伊藤仁斎が異議を唱えたのも当然である。
だから後世の学問(宋代以降の儒教のこと:引用者)では、本来のものがなくならないように、仁と義を保存し養育することは必要でなくなり、別に一つの教条をたて、これを『無欲主静(欲をなくして、心を平静にすること)』といい、『明鏡止水』といって、いちずに、本来そなわる性としての仁・義におおいかぶさっているいるものをとり除いて、本来のものにもどすことをのぞんだ。このようにするときには、仁・義という徳は実体のない空虚なものとなるだけで、あっさり欲をなくすといったほうがましだ。
(『童子問』上五五章より。貝塚茂樹訳、中央公論社『日本の名著13』から引用)
宋代以降の儒教が禅まがいの個人による得心に傾いて、社会とのつながりの中の自分を軽視することへの反発である。だが、このような批判を提出できる徳川期の儒者は、人が信じられるよき時代に生きていたようだ。つまり、吉田松蔭のように上の1.の道に依りかかることができたのである。しかし子思・孟子の時代は必ずしもそうでなかったのであろう。というよりも当時の儒教は有力ではあっても一教団にすぎなかった。孔子は『荘子』人間世篇にも出てくるぐらい、儒教教団に限らず知の巨人として認められていた当時の人々の共有財産であった。何も子思や孟子たちの独占物ではない。自分たちは孔子の正統であって正しいことをしているはずなのだが、それがいつ実を結ぶかわからないし、「儒教の徒たる者、教団の大義に殉じて死ね」などとはとても言うことができない。もともと儒教は人間が社会の中で正しく楽しく生きることを肯定する思想で、天国を用意しないからだ。だから、老荘思想でもないのに「逃げる」思想が忍び込んでいるのを今後見ることになるだろう。もっとも孟子自身が薦めるのは世の中から逃げるような道ではなく、ダメだと見切った君主の下から上手に逃げる道であるが。
本章で、梁恵王章句は終わる。次からは、君子の心のあり方を主要テーマとした公孫丑章句に移る。キーワードは「不動心」と「心の安宅」である。加えて、そのテーマとは関係がないが、文章の裏から儒教教団保持の都合として孔子を絶対無謬の教祖に祭り上げる「不純な」動機が透けて見える。
(2005.10.04)