盡心章句下
二十七
孟子曰、有布縷之征、粟米之征、力役之征、君子用其一、緩其二、用其二而民有殍、用其三而父子離。
孟子は言う、
「税には、布や糸の貢納と、穀物の貢納と、賦役の三種類がある。君子はそのうち一つに課税して、後の二つは緩和する。もし二つを同時に課税すれば、人民から餓死者が出るであろう。またもし三つを同時に課税すれば、家族が崩壊して父子は離散するであろう。」
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布や糸の貢納とは、後世の律令制度の調(ちょう)に当たる。同様に穀物の貢納は租(そ)に当たり、賦役は庸(よう)に当たる。朱子の注釈によれば、以上の課税はそれぞれ夏・秋・冬の季節に行なわれるべきものであるという。本章は、それを一辺に行なえば人民は生活の維持ができずに疲弊するのだと主張しているとされている。
しかしそのようなことは、富国強兵を目指す君主ならば当たり前に了解するべきことである。わが国の戦国大名ですら農繁期には戦争を行なわなかったし、しかも戦争では動員した農民兵に戦場での略奪を一定範囲で許して、利益で釣るような面もあった。梁の恵王や斉の宣王などは、そのような内治のイロハも理解できないような暗君だったのであろうか?おそらくそこまでひどくはなかったであろう。梁恵王章句上、三で、孟子は「五十歩百歩」と切り捨てるものの、梁の恵王もまた内治に心を砕いて人民を引き寄せようとしていたことを表明している。飽きもせずに連年連戦を行なったのは確かにどうしようもない浪費であり、結果として民治にしわ寄せが行なわれる源泉であったのだが。だから孟子は、その浪費の源である戦争による覇業を改めて王道を目指せと唱えたのである。結局統一は孟子の理想とは違って、秦始皇帝の軍事的覇業によってこそ行なわれたのであるが。だがむしろ、戦国時代のような大競争時代ではなくて、統一中華帝国時代になってからの方が民治を顧みない君主が多かったと言うべきではないだろうか。後漢の霊帝、西晋の武帝、宋の徽宗、明の萬暦帝、清の乾隆帝など。彼らの奢侈から見れば、わが国の上皇たちや足利義満、豊臣秀吉、徳川家斉の浪費など小さく見えてしまう。
(2006.04.12)