仁の道のはじまりとしての情けの心から始めて君主が政治をする際にあるべき心がけに進んだ後、最後に孟子の具体的な政策提言を示してこの章は終わる。こうして孟子の統治イデオロギーは一貫するのである。
最後でまた前と同じ土地改革法が出てくる。繰り返すが王に対して思想を売り込んでいる以上は、政治思想でないといけない。だから、仁義の道を行うためにはこのような具体的な政策も併せて提言する必要があったのである。だからマルクシズムを具体化するためにコルホーズや人民公社を作ったようなものである。そのシステムにはまちがいなく思想の影が落ちているものの、システムそのものの有効性うんぬんはここで検討する気にはならない。ただ、このシステムは孝悌の義、つまり「目上の人はえらい」の心を全人民が育成せんがためのものであり、君主が国「家」の長として人民に情愛の配慮を示し、その中の小単位である各世帯もまたそれぞれの家族に情愛の配慮を示すという入れ子構造を想定していること、これだけを掴んでおけばよい。だから君主は頂点にあるが儒教道徳組織の一ユニットとして、システムに絡め取られた部品である。
孟子は宣王に「武力では天下統一はできない。だから仁の道で統一せよ。」と説く。こうして覇業にはやる王を説得しようとした。だが、別に武力そのものを全否定しているわけではない。他の章句で、同じ宣王が隣国の燕を不義として討つ名目で燕を征服したとき、孟子は王に「燕の民が喜ぶようならば、併合するべきです」と進言している(梁恵王章句下、十)。このように、軍事行動に倫理的理由、つまり大義名分をつけようとする。孟子の主張から言えば、そうせざるをえない。
悪いのは敵国の君主や一部の悪臣であり、民衆は犠牲者であるから解放するという名目は現代になっても繰り返し用いられていることは、誰もがこの数年間目の当たりにしていることだ。そういった「倫理的戦争」においては人民の犠牲者はできる限りあってはならないとされる。孟子は、それどころか敵兵すら正義の前には武器を捨てて降伏すると言うだろう。恐ろしく楽観的な主張である。つまり、
― 仁者無敵(仁者は敵なし)。
という信念に忠実であった。正義は一つであって、完全に仁義の道を心得た聖人は地上の正義そのものなのだ。ゆえに聖人に対立しうる者などありえるはずがなく、聖人が進んでいっただけで敵軍も人民もおのずからひれ伏すのだ、と考えていた。そしてそのような聖人は昔も現れたし、今も現れる可能性があると本気で考えていた。
そんなアホな、とつっこみを入れたいが、古代ユダヤ教のメシア願望も似たようなものだ。だが、ユダヤ教のメシアと孟子の聖人が違うのは、メシアは天の父が突然地上にお遣わしになる超人だが、聖人は人間の理想を完成させていったその究極にあるすぐれて地上的な存在である点だ。聖人は人間存在の美点を究極にまで高めた者であるがただの人間で、親もいれば子孫も後世に続いていく。そして聖人に至るためには神の恩寵などが素質として必要でなく、ひたすら親孝行に励み人民を慈しみ、自己修練をするのみなのである。そういえば舜も文王もたいへん長生きで、人の下で長々と苦労してやっと頂点に立った(文王は子の武王の代だ)。イエスのように三十代でもう「私は神だ」などと宣言したりするのとずいぶん違う。孟子や先輩の孔子が各国の君主にノコノコ会いに行ったのは、聖人になれる素質は本来誰にでも埋め込まれているはずのものなのだから、きっとそろそろこの乱世を治める王が登場するはずで、自分がその補佐役になろうと意気込んでのことだ。結局孔子・孟子ともども失望してこの世を去ったのであるが。
このように、孟子は人間存在を本来的には完全なものと考えていた。聖人は人間の可能性を全開させた完全な人間なので、善良な人間とは誰とでもわかりあえることができるし、誰とでも共に楽しめる。邪な心を持った人間は聖人を直視できずに目はくらみ、言葉も出せずに舌はひきつり、たちまちに成敗されて人民は喜ぶ。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの一神教から見れば傲慢極まる人間理解である。だが笑うことはできない。われわれもひそかにこんな人物がいてほしいと思ってはいないか。そして歴史上の人物とか時々のスターにこのような特性を求め続けてはいないだろうか。そしてそれが一神教徒のいう、神ならざるものに神の特性を求める「偶像崇拝」ではないのか。
別の見方をすれば、人間存在が不完全であり、人間の中の人間である聖人すら不完全であるならば、誰が理想の社会をこの世に作ってくれるのか。天は何も語らず、ただただ人の行いを通じて正義があるだけなのだ。その人が完全になる可能性がなくて、どこに完全なものがあるのか?「人間存在には限界があるのかもしれない」というのが神を見出そうとする第一歩だろうが、孟子の儒教はそういった安易な道を峻拒して、「過去だって聖人が出て何度も天下の危機を克服したではないか。だからこれからも聖人が出るのであって、人間に克服できないことなど何もないはずだ」と考える。孟子は人間に対して厳しく(人間は誰でも仁義礼智の根本善を持っているはずだから、それを完全なものにするよう努力しなければならない)、かつ甘い(人間は完全になりうるので、完全な人間は絶対正義である)。一神教はその逆コースで人間に甘く(人間は等しく神の被造物だから、どんな人間だって無価値なわけがない)かつ厳しい(どんなに偉くても成功していてもしょせんは神の被造物であり、決して奢ってはならない)。