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離婁章句下



二十九




孟子曰、君子所以異於人者、以其存心也、君子以仁存心、以禮存心、仁者愛人、有禮者敬人、愛人者人恆愛之、敬人者人恆敬之、有人於此、其待我以横逆、則君子必自反也、我必不仁也、必無禮也、此物奚宜至哉、其自反而仁矣、自反而有禮矣、其横逆由是也、君子必自反也、我必不忠、自反而忠矣、君子曰、此亦妄人也已矣、如此則與禽獸奚擇哉、於禽獸又何難焉、是故君子有終身之憂、無一朝之患也、乃若所憂則有之、舜人也、我亦人也、舜爲法於天下、可傳於後世、我由未免爲郷人也、是則可憂也、憂之如何、如舜而已矣、若夫君子、所患則亡矣、非仁無爲也、非禮無行也、如有一朝之患、則君子不患矣。

孟子は言う。
「君子が普通の人と異なるところは何かといえば、徳ある心をしっかり保っていることだ。君子は仁を心の中に保ち、礼を心の中に保つ。仁の人は、他人を愛することができる。礼を身に付けた人は、他人を敬うことができる。そして他人を愛する人は、他人からも愛されるものだ。また他人を敬う人は、他人からも敬われるものだ。だが、ここに人がいるとする。その者が自分を無茶苦茶にあしらうとする。ここで君子ならば必ず自らに反省する、『こんな扱いを先方が行なうのは、きっと私が不仁で無礼だからだろう。そうでなければ、ここまでひどい扱いを受けるはずがない』と。だが自ら反省して仁も礼も申し分なく行ったのに、まだ相手は自分を無茶苦茶にあしらい続けたとする。そこで君子ならば必ずもう一度自らに反省する、『これは私に先方への誠意が足りないからだろう』と。だが自ら反省して申し分なく誠意ある行動を行なったのに、それでもまだ相手が自分を無茶苦茶にあしらい続けたとする。ここに至って君子は思い切る、『こいつはただのばか者だ。この場に及んでこのような対応をする奴は、ケダモノ同然にすぎない。ケダモノに説教しても無駄なことよ』と。君子の他人に対する対応はこのようであるから、君子は生涯の憂いとすることはあっても、日々の社会生活でいちいち憂いとすることはない。では君子が憂いとすることはあるのか?― ある。『舜も人間。私も人間。舜は法を天下に広め、業績を後世に残した。なのに私はいまだに田舎の一庶民から抜け出せない。これが私の生涯の憂いなのだ。』:この憂い、いかに晴らすべきか?舜を目指すより他はない。だから、君子たるものこの生涯の憂い以外には、憂いなどない。仁でなければ何も行なわず、礼でなければ何も行なわないから、たとえ日々の社会生活で鬱陶しい問題があっても、君子は気にしないのだ。」

本章、次章、そして第三十二章は離婁章句の一つの要石をなす。それは、「他人を見切って顧みるべきでない状況をわきまえるのが君子である」という儒教の現実主義的な社交道徳の根拠を提供する。それは、現代の学校などで教えられる「みんな仲良く、みんなで助け合おう」流の博愛的な社交道徳とかなり違う。

本章は、まず一般論としてケダモノ同然のばか者を見切って捨てるガイドラインを述べている。確かに本章句上、十二では「至誠にして動かされない者はいまだかっていない」として、相手を動かすには己の心を天の道に従わせることだと主張された。ならば仁の心を尽くし、礼の心を尽くし、他人に誠意ある行動を取ればきっと他人は動かされるのではないのか?― しかしながら、現実は現実である。己が反省して正しい道を通っていると確信し、「他人に配慮する」心を精いっぱい発揮しても相手に通じない場合だってある。実践倫理としては、どこかで見切りを付けなければ日常生活ができない。本章は、そのための一般論である。

公孫丑章句で検討したことを繰り返してみよう。すなわち君子は偶然による幸不幸から心を遠ざけて、「人の安宅」たる仁に心を落ち着けなければならない。仁とは「他人に配慮する」心であって、人間が確信を持って留まることができる人間不変の徳である。仁および義・礼・智の徳に心を従えたならば、もはや君子は正しい道がはっきりと見える。そうすれば何物にも動じない「不動心」を得ることができるだろう。「不動心」を得た者は、己で十分に反省して間違いがないと確信したならば、必ず「千萬人といえども我吾往かん」の境地に至る。自分の中の自分以外のものに完全な根拠を見出しているからだ。

そのような君子にとっては、常に向上心を持って自分の「天爵」を伸ばし、聖人の舜のように天下に業績を残したいということだけが憂いとなるだろう。「他人が自分に怒ったり、自分を攻撃したりするのは、ひょっとして自分がまちがっているのではないだろうか?」などと自己嫌悪の泥沼に陥ることから救われるのである。もちろん自分の心は外界と接して検証されなければならない。そのプロセスは本章句上、十二でもすでに述べられたことである。本章の叙述に従えば、まずは相手に対して不仁ではないか、無礼ではないか、あるいは誠意が足りないのではないかと反省してみる必要がある。だが、礼にも則って誠実さにも欠陥がないのに、まだ相手が自分を攻撃するならば、もはや答えを出してもよいとされる。つまり、相手が不仁なのである。「不仁の者とは共に語ることはできない」(本章句上、八)。「自分自身を出鱈目にしてしまう人間(自暴者)とは、共に語ることができない。自分自身を投げ出してしまう人間(自棄者)とは、共に何かをなすことができない」(同、十)。そのような奴はただのばか者で、ケダモノ同然なのだ。関わり合うだけ時間の無駄である。君子はそのようなばか者のちょっかいに憂う必要は、一切ない。

本章で他人との関係において自分で反省すべきポイントとして、「仁」とともに「礼」が併置されていることに気を付けるべきだ。礼は仁の心や義の心を他人に通じさせるための社会的ルールである。日常生活で具体的に他人と関係するとき、礼の形式を通じて自分の善意は伝えられる。いわば、雲をつかむような自分の「善意」に対して社会的に通じる形を提供してくれるのが、礼なのである。少なくとも礼が社会で認められている限り、礼の形に則っていることは他人に受け入れられる必要条件を満たすはずだ。具体的には手紙の様式や敬語の使い方などを想定すれば、わかるだろう。

だから、孟子の主張を日常生活の実践として解釈するならば、正しい礼に従ってかつ十分に誠意を込めることが他人と関わるための必要十分な道徳だと見なされるのではないだろうか。つまり、孟子の主張から導かれる具体的な行動規範としては、

― 内面的に誠意があり、外面的に礼に従っていれば、自分には間違いがない。それで相手が動かなければ、相手に落ち度があるのだ。

と判断するのが、適切であろう。そこでもし相手が親などの親族であるならば、身近な存在である以上関係を切ることはできないから、さらに誠意を示し続けるべきだ。また仕官しているならば、上にも下にも責任がある以上役職に踏みとどまる限りはもう少し腰を据えて説得に取り掛かるべきだ。ただし見切って辞職する勇気も必要だが。だが、自分が役職にも就いておらず、しかも相手がただの他人であるならば、もはや関わるべきではない。彼は「縁なき衆生」なのだ。ケダモノと関わって危害を加えられるなど、命の無駄である。

次の章でも検討したいと思うが、儒教では無条件で他人に善意や正義を示すべきだと考えていない。たとえば電車の中で迷惑行為をしている奴を見かけたとしても、自分が彼に懲罰権を持っている役人でない限り関わるべきでないという倫理が導かれる。疎遠な他人どうしでは、こちらが権力を持って上位にいない限り相手に仁義を教える道がないのである。「相手はただのケダモノだから関われば危害を加えられるだけ、せっかく天から与えられた命の損となる」と判断されるはずだ。「義を見てせざるは、勇なきなり」(『論語』爲政篇)というのは孔子の言葉だが、一方でひとりで気張っているだけの勇気は無意味な「匹夫の勇」である(公孫丑章句上、三)。君子ならば、智慧ある勇気とは相手をできれば教化できるか、やむなくば成敗できる見込みがあって行なうべきとされるだろう。ゆえに電車の中などならば、それこそ殺人暴行行為でもしていない限り肩をすぼめて通り過ぎるのが身のためということになってしまうに違いない。― いや、孟子ならばたとえ横で殺人暴行が行なわれていても、勝算がなければ逃げるのもやむなしと主張するのではないだろうか。「これはいかん!かわいそうだ!」と思うのが惻隠の心であり、これは仁の端(たん。はじまり)である(公孫丑章句上、六)。しかしながら、心の中からの衝動にすぎない惻隠の心や、あるいは義の端とされる羞悪の心に突き動かされるだけの行動は、智慧の足りない行為にすぎない。それは君子として評価される行為ではないとされるだろう。儒教の倫理はこのようによく言えば現実的、悪く言えば卑怯なものだ。こういった倫理観は少し前の時代ならば卑怯者として躍起になって否定されただろうが、現在しだいにやむないものとしてひそかに受け入れられ始めているような気がする。良いこととは言えそうにないが、仕方ないのかもしれない。昔と違って、現代は年長者が社会的に格上であるという「悌」(てい)の礼が崩れていることを考慮に入れるべきだ。

こういったロマンチズムのかけらもない儒教の社交道徳は、「命ある間が全てである」という中国の世界観に深く立脚しているはずだ。中国を始めとした伝統的な北東アジア社会では、生前の不遇な善行を埋め合わせてくれる死後の世界など想定されないのだ。ケダモノと関わって命を落としても、何の見返りもないのである。

一方、死後に全ての人が行く天上の父なる神の世界を想定する前提に立てば、このような命令が人の心に重く響かざるをえないだろう。すなわち、

わたしは、天においても地においても、いっさいの権威をさずけられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊の名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである。

(『マタイによる福音書』末尾の、復活したイエスが弟子たちに授けた言葉。赤字は引用者)

真のキリスト者ならば、彼の憂いは世界中の人がまだ改宗せずに滅びの道を通っていることであろう。それは神の望みに背くことであって、地上のキリスト者がいまだに義務を履行できていない引け目となるだろう。だから真のキリスト者は、嘲られても危害を加えられても福音を一人でも多くの人に伝えたいと願うだろう。それが大航海時代の宣教師たちの一種鬼気迫る真面目さとなったのである。それは、他人を不仁者だと決め付けて見捨て顧みない倫理などとは全く違ったものであった。

一方、孟子の言う君子の生涯の憂いは、「舜も人間。私も人間。舜は法を天下に広め、業績を後世に残した。なのに私はいまだに田舎の一庶民から抜け出せない」というものだという。キリスト者とはずいぶん違う。君子は地上に業績を残すことを望み、かつ地上で効果のないことは行なわないのである。だから、礼のルールに従わない善行もまた、評価されない。疎遠な他人を教化するには自分がしかるべき地位に立たなければだめで、バックグラウンドなしで相手を説得できるなどとは決して想定しない。儒教は、北東アジア社会の世界観から発生した醒めた現実的な社交道徳を教えている。


《次回は離婁章句下、三十

(2006.01.12)




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