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滕文公章句下





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匡章曰、陳仲子豈不誠廉士哉、居於陵、三日不食、耳無聞、目無見也、井上有李、螬食實者過半矣、匍匐往、將食之、三咽、然後耳有聞、目有見、孟子曰、於齊國之士、吾必以仲子爲巨擘焉、雖然仲子惡能廉、充仲子之操、則蚓而後可者也、夫蚓上食槁壤、下飲黄泉、仲子所居之室、伯夷之所築與、抑亦盗跖之所築與、所食之粟、伯夷之所樹與、抑亦盗跖之所樹與、是未可知也、曰、是何傷哉、彼身織屨、妻辟纑以易之也、曰、仲子齊之世家也、兄戴蓋祿萬鍾、以兄之祿、爲不義之祿而不食也、以兄之室爲不義之室而不居也、避兄離母處於於陵、他日歸、則有饋其兄生鵝者、己頻顣曰、惡用是鶃鶃者爲哉、他日其母殺鵝也與之、食之、其兄自外至、曰、是鶃鶃之肉也、出而哇之、以母則不食、以妻則食之、以兄之室則弗居、以於陵則居之、是尚爲能充其類也乎、若仲子者、蚓而後充其操者也。

斉の匡章(きょうしょう)が孟子に言った、
匡章「陳仲子(ちんちゅうし)こそは、まことの清廉の士ではないでしょうか。彼は(富家である実家の世話になるのを嫌い)、於陵(おりょう。山東省)に逃げ住んで三日何も食べなかったほど困窮しました。道端にスモモの樹を見つけましたが、毛虫が実を半分以上食ってしまっていました。それでも這って行って拾い取り、三口食べてやっと耳が聞えて目が見えるようになったとか。大した筋の通し方です。」
孟子「まあ、斉国の中では私も陳仲子を突出した人物だとみなしてはおりますが、どうして彼が清廉なものか?陳仲子が本気で彼の節操を通そうとするならば、ミミズにでもならなければできませんな。ミミズならば、地上の土を食って地下の水を飲めば生きられますからね。陳仲子が住んでいる家は、さぞかし伯夷のような清廉な人が建てたんでしょうなあ。まさか盗跖(とうせき。伝説の大盗賊)のような悪人が建てたのではありますまいな。彼が普段食している穀物は、きっと伯夷が植えたんでしょうなあ。まさか盗跖が植えたのではないでしょうな。そのようなことは、全然わからないではありませんか。」
匡章「そんなことは支障がないでしょう。彼は自分でわらぐつを作り、妻は麻糸を紡いで、それを交換して生計を立てているのですから。」
孟子「陳仲子の家は、斉国の譜代です。兄の陳戴(ちんたい)は、万鍾(一万鍾=明治時代の基準で、約2780石)単位の家禄を受ける大身です。それを、陳仲子は兄の禄は不義の禄であるとして受け取らず、兄の家は不義の家として住もうとせず、兄と母を避けて於陵に逃げ住んでいます。ある日たまたま実家に帰ってみると、兄のために生きたガチョウが付け届けされていました。彼は顔をしかめてこう言った、『なんでこんなガアガア鳥を贈り物にする奴がいるのか!(そしてなんでそれを受け取る奴がいるのか!)』と。後日、母がそのガチョウを殺して陳仲子に出した。陳仲子はそれを食べてしまった。そこに兄が入ってきて、『それはガアガア鳥の肉だぞ!』と言ってやった。すると陳仲子は外に飛び出て、吐き出したのだ。母親の料理ならばこんなふうにいちいち食べようとしない。そのくせ妻の料理ならば何も考えず食べる。兄の家ならば何のかんのと言って居ようとしない。そのくせ於陵の家ならば何も考えずに住んでいる。これでまだ清廉の節操を通していると言えましょうか?陳仲子のような輩は、ミミズにでもならなければ節操を通すことができないでしょうよ。」

許行の農家、夷之の墨家、張儀・公孫衍の縦横家、楊朱学派と切り捨てていって、最後に孟子が攻撃するのが陳仲子である。この章で孟子と問答する匡章は斉の人だから、これは孟子斉時代の問答である。だが異端を排斥するのが目的の滕文公章句の末尾にあえて持ってきたのであろう。観念で清廉さを求めて日常感覚を忘れた陳仲子に対する孟子の攻撃は、ドストエフスキーのように意地悪である。あまり気持ちの良い議論ではない。

この章は次の離婁章句への橋渡しとなる。つまり、「いくら心が清廉潔白で行いが清潔であっても、中華伝統の社会倫理を踏み外した行為であるならばそれは何の価値もない」という主張である。君臣父子の秩序を不潔だと忌み嫌って独り清潔に生きようとする者に、孟子は「ミミズにでもなれ」と酷評する。もしこの主張が上から宣伝されるならば、それは全体主義にほかならない。儒教は漢代以降に体制公認の思想となって、体制に都合のよい人間観を下に押し付ける役目を果たすこととなった。

『孟子』を読むためには、儒教が戦国時代には体制公認でなく、諸子百家の中の一学派に過ぎなかったという点を踏まえるべきであろう。だから孟子の言葉には不仁の君主に対して極めて厳しい断罪を下すものがある。「残賊の者は、ただの一人の男」(梁恵王章句下、八)、「君主が家臣を土くれやゴミのようにひどい扱いをすれば、家臣は君主を仇か敵のようにみなす」(離婁章句下、三)、「主君に重大な過ちがあれば諌めるが、繰り返し諌めても聴かなければ、同族の別の王に代える」(萬章章句下、九)、、、あるべき社会秩序の中では、君主は仁義のシステムの一ユニットにすぎず、君主は最高の仁徳を持って仁政を行なわなければ残賊として討ち滅ぼされても仕方ないだろう。「人民がいちばん貴い。その次に社稷(国の神さま)が貴い。君主はそれに比べて軽い」(盡心章句下、十四)と断言されるのだ。

儒教とは、過去からの歴史によって作りあげられた人間の社会関係に則りながら、人間の「他人に配慮する」心を自分の努力で伸ばしていけという教えである。どうして歴史によって作りあげられた社会関係に則るべきかといえば、それが「礼」であるからだ。「礼」は人間個人の力で作りあげることができない社会全体の産物である。礼を基準にして、人間は他人と善意を伝え合うことができるだろう。もういちど『論語』の章を引用すれば、

恭而無礼則労、慎而無礼則葸(くさかんむり+思)、勇而無礼則乱、直而無礼則絞。(泰伯篇)

うやうやしくても、礼に従わなければ苦労ばかりで効果が出ない。つつましやかでも、礼に従わなければあちこち無駄な気苦労を重ねるだけだ。勇気があっても、礼に従わなければ勝手に無茶苦茶暴れるだけにしかならない。正直でも、礼に従わなければ相手を追い詰めて無用の遺恨を残す。

というような効果を持つのが「礼」である。孟子は古代中国の人間だから中華の「礼」だけを唯一の文化として顕彰するが、何も「礼」は中華の礼だけではないはずだ。およそ歴史ある社会にはそれぞれ固有の「礼」を持っているに違いない。だがそれがだんだんぼやけてくるのが「個」が目覚めてくる近代であり、その時代に「礼」の伝統を保守せよと主張する者は、保守主義と言われる。孟子の生きた時代も古代社会の一沸騰点として、同様の事情があったのだろう。

以上で滕文公章句は終わる。次の離婁章句は儒家の信徒が従うべき倫理的基準を中心に述べられているが、内容は大部分が格言集のようなもので、これまでコメントで述べた内容を越えない。そこでコメントは一部の章だけにして、直ちに次の萬章章句に移りたい(端折った章は、時を見計らって原文と訳だけをしておきたい)。


(2005.12.15)



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