滕文公章句下
八
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戴盈之曰、什一、去關市之征、今茲未能、請輕之以待來年然後已、如何、孟子曰、今有人日攘其鄰之雞者、或告之曰、是非君子之道、曰、請損之、月攘一雞以待來年然後已、如知其非義、斯速已矣、何待來年。
宋の大夫(上級家老)、戴盈之(たいえいし)が言った、
戴盈之「例の十分の一税(本章句上、三参照)と関所税・市場税の廃止は、今年はできそうにありません。なので、今年は少しく税を軽減した程度に止めて、来年になってから完全実施するのはどうでしょうか?」
孟子「何をおっしゃるか。たとえば今ここに隣の家から毎日鶏を盗む奴がいたとします。ある人がこいつに『それは立派な人がやる行いではないぞ!』と忠告しました。するとこの者が、『だったら盗む回数を減らして月に一羽盗むようにしたい。来年になってから完全にやめるようにしよう』と返した。これとあなたの物言いは同じです。正しくないと思われるのならば、すぐに廃止するのみです。何で来年まで待つのですか?」
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「やるべき政策はさっさとやれ」という、それだけの章である。この問答がどういう背景で行なわれたのかよくわからないので、評価のしようがない。だが過去に成功の経験を積み重ねてきた社会は、なかなか改革できないものだ。
二十世紀前半のイギリスは、過去に大成功を収めた自由主義の伝統が強すぎた。そのため企業合同が進まずに大資本への再編成に失敗し、結果としてランカシャーの繊維産業は崩壊してしまった。また夜警国家観が強固に支配していたので、教育は各家庭の都合に任せるべきであるという固定観念から抜け出せなかった。その結果、高等教育の強化に決定的に立ち遅れ、専門教育を受けた技術者・経営者が大量に必要とされる新時代の経済の課題に適合できなかった。
日本は列強の力の外交を学び取って日露戦争に勝利し、その後実力を認められてヨーロッパ外交システムの網の目に入り込むことに成功した。第一次大戦はアメリカと並んで最大の受益国となったのであった。この時期に、過去の戦争と外交によって確保した中国市場へ莫大な投資が行なわれた。まさに日本にとっての中国は、イギリスにとってのインドとなったのだ。だが、第一次大戦によって世界はヨーロッパ中心の従来の外交から、少しずつ変わり始めた。ドイツが敗れたことにより。イギリスは日本と同盟する意義がなくなった。ロシア革命の影響は各民族に急速に浸透していった。世界最強国となったアメリカは、日本の中国での特殊権益など尊重する気はなかった。そういった中で、日本は1919年の五・四運動の意味などよくわからなかったし、国民党のもとで統一に向おうとする中国の情勢を見通しを持って把握できずに、軍閥に肩入れして地域的な権益を守るという誤りを犯した。外相幣原喜重郎の対中外交は後世から見ればまことに正鵠を射たものであったが、かれの統一中国をビジネス相手と見るべしという外交観は、当時の日本人の一般的な世論から大きく外れていた。中国通の碩学内藤湖南ですら中国政府の将来に絶望的見通しを立てていた頃に、「支那が立ち直れるはずがない」というのが中国を知る者たちの常識であった。その常識がその後の外交を作り、勢いが止まらず日本ばかりが中国で存在感を増す一方となって、泥沼の衝突へと引きずり込まれていった。あまりにも日本は「列強間では力が均衡をもたらし、周辺世界では力が市場を確保する」というヨーロッパの常識を、急速に学びすぎた。そして、それを学び取った矢先に世界の状況が変わってしまったのだ。後から歴史を回顧して断罪するのは簡単だが、日本が明治維新以降の五十年間で成功しすぎたことが、進路を冷静に見る道を閉ざしたのかもしれない。日本人が第一次大戦終了直後にはあった「世界と共に生きる」という昂揚した気分から一転して、世界の動向への関心をだんだんと失っていったのは不幸な流れであった。
二十一世紀初頭のわが国も、戦後という日本史上(おそらく)最も幸福な時代の成功経験が、どうやら足かせとなっているようだ。わが国の高度成長の秘密であった細かな応用が効く勤勉で低賃金な労働力を持つという強みは、時代の進展と共についに比較優位を失った。ITを用いて精密な生産経営管理を行なえば、海を隔てた中国や東南アジアの労働力をずっと低賃金で活用できる時代がやってきたのである。さらに均質な嗜好を持つ消費者がひしめく大きな国内市場という絶好のマーケティング条件を持っていたわが国の強みは、英語によるコミュニケーションを前提とする世界市場での競争時代が到来したとき、英語がさっぱり使えず通じもしないという桎梏に転じてしまっている。今やわが国は多民族に開かれた文明に移行することもできず、国民の賃金を切り下げてアジア諸国の水準に近づけることで対抗しようとしている。だがこれは、二十一世紀どころか十九世紀ナショナルエコノミーへの逆戻りでしかない。その上、十九世紀の幕藩体制時代に比べて、日本社会はほとんど多様性を失って画一的文明に固まってしまい、ゆえに多様な可能性もまたきっと失ってしまっている。国民の持っている知力や応用力を育成するという先進国ならば目指すべき比較優位の方向に、わが国は転換することができていない。このままでは日本民族の知力も、あと一世代もすればきっと尽きてしまうであろう。
将来を見通して改革することは、歴史を見る限り難しい事業である。為政者に信念がなくてはできないことだろう。孟子が滕の文公に示した改革方針は、私は必ずしも正しいとは思わない。だが「信念なしには改革はできないし、信念があれば改革に躊躇はしない」という点は、おそらく正しいだろう。
(2005.12.12、2008.02.18にちょこっと加筆)