盡心章句上
十三
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孟子曰、覇者之民驩虞如也、王者之民皥皥如也、殺之而不怨、利之而不庸、民日遷善而不知爲之者、夫君子所過者化、所存者神、上下與天地同流、豈曰小補之哉。
孟子は言う。
「覇者の下に住まう人民は、いかにも嬉しそうである。しかし王者の下に住まう人民は、つかみどころがないほど悠然としている。君主が人民を殺しても、怨むことはない。君主が人民を利しても、わざわざ称えることはない。人民は日に日に善に移り、誰がそれを誘導しているのかすら気付かない。君子(ここでは、王者のこと)が通り過ぎる所の者は教化され、だが君子の腹の内は神妙にして誰にもわからない(*)。上下の秩序は、天地の秩序と同じように悠然と運営されるのである。『私は政治の欠点を少しずつ改革します!』などと言うこともないのである。」
(*)小林勝人氏は「神」の字を「治」に通じるとして、「君子が滞在する所の者は、よく治まる」と解釈しておられる。
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前章から続く理想の統治論。まるで道家の主張のようだ。儒家も道家も、理想の君主像には共通したイメージがあることがわかる。西洋的なリーダー像のような、派手なパフォーマンスをして人民から賞賛をもって迎えられるようなイメージを持っていない。毛沢東などは、その意味で中国的リーダー像から相当に遠い稀有な例であったと言えるだろうか。いやむしろ、わが国の信長などと同様で、社会が激動する例外的状況において、混乱を収める指導者として社会的総意で選択された一時的リーダーだったのかもしれない。だから社会が常態に戻れば、また北東アジア的聖人君子型のリーダー像が求められるだけなのかもしれない?、、、少し憶測でものを言い過ぎたようだ。
(2006.03.14)