本章は萬章でなく、別の弟子の咸丘蒙が質問する。内容はやはり舜にまつわる言い伝えに対する疑問だ。「堯帝が舜に帝位を譲ったならば、即位後舜は先帝を臣下としたのか?また最高権力者となったからには、父親までも臣下としたのだろうか?」という疑義についての、孟子のお答えである。前章でも書いたが、古代中国では私人としての政治家と公職としての政治家との使い分けをするという発想がないから、咸丘蒙のような疑問が出るのは当然である。
公孫丑章句下、二において孟子はこのように主張した。すなわち、
「天下には、最も尊いものが三つあります。すなわち、爵位の身分、年齢の功、そして人徳の道です。朝廷においては、爵位が最も尊重されます。地域社会においては、年功が最も尊重されます。そして世を治め民を率いる事業においては、人徳の道が最も尊重されるのです。この三つのうち一つを持っているからといって、他の二つを軽んじることはできない。」
本章冒頭で引用されている「徳の巨大な人は、君主といえども臣として扱えないし、父といえども子として扱えない」という言葉は、孟子のこの主張と論理的に合致している。したがって孟子はここで「斉東野人」の放言だと批判するものの、儒教の教義的に十分ありえる考え方であったと見るしかない。儒教の教義の中にある徳を基準にして既存の秩序を相対化する要素が前面に出れば、先の君主も父親さえも大徳の人に頭を下げなければならないという結論に至ることもできるはずだ。本章の孟子の回答は、だから論理的に言えばおかしい。しかし多くの宗教においては、純粋な教義から導かれる結論と現実的な倫理とを分ける操作が行なわれている。例えば浄土真宗の教義から言えば、どんな悪事をしても阿弥陀如来は救ってくれるはずだ。しかし現実の説教においてそのようなことは決して言われない。またキリスト教の教義から言えば、金持ちは天国に行けないはずだ。しかし現実にはそこまで厳しい断罪を下していない。本章の孟子の回答も、現実問題として元上司や父親に頭を下げさせるのが感覚的におかしいという直感から導かれた、常識的な結論であるとみなすことができるだろう。
まず堯帝と舜との関係については、堯帝が死去するまであくまでも舜は摂政でしかなかったということを『書経』から論証した。次の章ではその後にさらに回りくどい道が取られたことが説明されている。すなわち舜は喪が明けた後にいったん堯帝の息子の丹朱(たんしゅ)を即位させて、自らは南方に引っ込んだ。しかし百官人民は丹朱を嫌って彼の朝廷に行かず、舜を慕って彼の下にどんどん集まった。ことここに至って、舜も天命を感じてようやく即位を決意したというのである。
孟子は「人民がいちばん貴い。その次に社稷(国の神さま)が貴い。君主はそれに比べて軽い。したがって、天子とは人民に推されたがゆえに就くものである」(盡心章句下、十四)と言う。孟子のこの考えは、舜のまわりくどい即位のプロセスから読み取られたものだといえよう。すなわち人民の支持があるということが、君主の地位の正当性のサインとみなされるのである。しかしだからといって、民衆の支持があればすぐに君主の地位に取って変わるべきだとまでは行き着かない。確かに孟子は殷の紂王について「残賊の君主は、ただの一人の男である」と言い切った(梁恵王章句下、八)。つまり一面で下克上を肯定している。なのに堯帝の生前に舜が取って代わったという伝説については、「斉東野人」の放言だと相手にしない。これは明らかに矛盾ではないか?
孟子の思想としては、ここまでしか行けなかったのだろう。心情的に言っても舜を一庶民から抜擢して摂政にまで上げた堯帝を蹴落として帝位に就くなど、まっとうな人間の所業ではない。すでに舜にとって堯帝は義父であって、肉親の次に親しい関係の上司である。たとえ人民の支持があったとしても、そこまで近い関係の人間を裏切るのは儒教倫理から言っておかしいと言えるだろう。しかし舜は堯帝の死後、大恩ある人の息子を蹴落として帝位に就いてしまった。恩人の息子ならば、人民よりも重要でない他人なのだろうか?この辺はどうもあいまいにごまかしているような気がしてならない。そのために、次の章で言及されるように堯帝が天に舜を後継者として推薦していたという伝説が存在しているのであろう。加えて丹朱が訴訟好きで仁愛に乏しく統治者としての度量に欠けていたという話が、舜の即位の正当性を補強している。先帝の生前の意向と人民の支持が相伴って、ようやく下克上が認められているのである。堯帝としては仁の人として息子が可愛いだろうが、人民をそのために苦しめることはできないと考えての措置だったと理解されたのだろう。舜が象を封建したが実務を担当させなかったことと同じである。『史記』五帝本紀末尾の記述によると、丹朱は一諸侯となって祖先の祭祀を行ない、天子の服装と礼楽を保って時の天子と対等に扱われたという。
このように堯舜の禅譲伝説はまことに結構な物語であるが、しかしこのような理想的ケースはまれにしか起りえないだろう。いやむしろ、理想的ケースに合わせるために欺瞞工作が行なわれることが多いのではないだろうか。先帝の意向など、脅迫すればいくらでも捏造できる。人民の支持など、紙の上の美辞麗句で何とでも言えるのである。後世の魏晋南北朝時代には堯舜の美談に倣って禅譲劇が頻繁に行なわれたが、それはことごとく脅迫によって行なわれた茶番であった。魏の曹丕(そうひ)に禅譲した漢の献帝は、帝位を失っても余生をまっとうできたからまだましなほうだ。後の時代に帝位を禅譲した君主はたいていが殺されている。こんな偽善の時代を通り過ぎたためであろう、宋代以降には禅譲などということは行なわれなくなった。その代わり、次第に皇帝は専制権力を絶対的にして孤独な独裁者となっていった。明代以降の皇帝と家臣との関係は、堯舜のような人間的な交流などからは遠い君主と下僕の関係となってしまったのである。もはやこうなれば、王朝交代は武力蜂起で革命を起こす放伐の道しかなくなるだろう。
次に、帝位に就いた舜と父の瞽ソウとの関係についての疑義である。面白いことに、文中の孔子の語「天に二つの太陽はない。人民の上に二人の王はない」(天ニ二日無シ。民ニ二王無シ)は、『史記』高祖本紀では別の文脈で使われている。すなわち、漢の皇帝に即位した劉邦は、はじめ父の太公(たいこう)の所に訪問する際には百姓時代のままに庶民の父子の礼で行なっていた。しかしそれを見た太公の家令(執事)が、あるとき太公にこう諌めたのであった、「天に二つの太陽はなく、人民の上に二人の王はありません。帝は子であっても人主です。しかるに太公は父であっても人臣です。人主が人臣に拝礼してよいのでしょうか。それでは帝の権威が天下に行なわれません。」だいたいが農夫にすぎなかった太公は、それを聞いて驚き畏れた。次回に劉邦が訪問してきた際、何と太公は自らほうきを持って息子を迎え、恭しく後ずさる礼を示したのであった。劉邦は驚いて、車を降りて太公を助け起こした。しかし太公は言った、「帝は人主であらせられます。私のために、天下の法を乱してはなりませぬ。」劉邦はその後、太公を尊んで太上皇としたという。
君主の父をどう扱うべきかについては、この劉邦のエピソードが実例をよく示しているだろう。儒教倫理に従えば、君主といえども親には従わなければならない。私人としての政治家と公職としての政治家との使い分けをしない以上は、必ずこの結論となるのである。「劉邦は大徳の人だから、父親といえども頭を下げるべきだ」という主張には、確かに一理ある。それほどの偉業を劉邦は成し遂げたのだ。しかし父親がはいつくばる姿を見た劉邦は、常識的感覚から異様さを感じて父の位を上げることにした。常識から遠く離れた倫理は、結局斥けられてしまったのである。
(2006.01.26)