覇道・王道論のはじまりである。梁恵王章句で王公に向けて説かれた政道論が覇道・王道によって図式化される。やがて後の章で、「五覇は三王の罪人なり。今の諸侯は五覇の罪人なり」(告子章句下、七)「春秋に義戦なし」(盡心章句下、二)といった歴史の断罪が行われる。春秋時代以降の歴史が堕落の歴史であることを強く意識したユートピア思想である。確かに国際連合と同じで、現代の絶え間ない戦争の彼方にある永久平和の実現を訴えるのは思想家ならば誰しもが考えることであっただろう。その意味で孟子の姿勢は正しい。だが、イデオロギーから導き出される歴史観は、本章句冒頭で見られた現実の複雑な問題をまるで簡単なものとみなす主観万能主義と表裏一体のものだ。もう少し現実的な政策思想が出てくるには、孟子の生きていた紀元前4世紀ではまだ早かった。さらに時代が下って、秦の勝利がほぼ見え始めて天下統一の展望が具体的になってきた紀元前3世紀半ばあたりにならなければならなかった。その時期になると同じ儒家の苟子が「現実に適用可能な制度」の考察を開始し、それが韓非子につながっていく。孟子は古代中国における、純粋思想の黄金時代の人である。彼がその方向に向ったのも、先が見えない時代だったからこそ原理的考察を行ったと評価することもできるだろう。
それにしても、孟子にそこまで言わせるほど、当時の王は戦争しか能がなかったのであろうか。人民の勤労を食い物にする寄食者でしかなかったのであろうか。孟子はイデオロギーの眼鏡をかけているからそう映っただけだ、と言ってしまえば話は早いのだが。
人民のばらばらな勤労だけではいかんともし難い事業がある。孟子は後の滕文公章句で、いにしえの王が行った事業として、猛獣の駆除、治水事業、耕作法の指導、そして倫理の制定を挙げている。他に暦の制定、度量衡の制定もいにしえの王が行った重要な事業として挙げるべきであろう。もちろん、それらの事業を行うために設けられた、百官の制度もまた。
だが残念ながらその中に森林の保全が入っていない。これは政府が強権で規制するか、神聖不可侵の森といったぐあいに宗教的な押さえがない限り、利己心のままにどんどん伐採していってやがて文明そのものを滅ぼすであろう。孟子も梁の恵王との問答で森林伐採の規制をなすべき政策として一応挙げている(梁恵王章句上、三)。だが実際には何ほどのこともなされなかったであろう事情は、後の章で「斉の都のそばの牛山(ぎゅうざん)の木はかって美しかったが、伐採が過ぎてもはや美山ではない」(告子章句上、八)と言及されている辺りから大方うかがえる。戦国時代は武器と農具作りのための鉄・青銅の冶金が大々的に行われ、漢代になっても勢いは止まらなかった。金属づくりには大量の薪がいる。大陸の人たちは、金属づくりや宮殿建築、それに巨大な墓づくりのために木をむやみに切り倒して保全しようとしなかった。そのためかつては鬱蒼とした森林が広がっていた華北は、今に見られるようにむざんなはげ山だけの地帯になってしまった。後漢時代以降長い間中国社会が衰えたのは、森林の消滅と関係があるに違いない。もう金属器を豊富に造ることができず、農具も貨幣も不足するだろう。木材がないので建築も城作りも十分にできない。鉄の農具で深く耕せなければ、雨量の少ない華北では収穫が見込めない。生産に余剰がないから国は常備軍を整えることができず、軍閥と外部からの侵入者の跋扈する事態となる。大陸を再統一した隋唐時代は国際的で一見はなやかであったが、それは首都などの限られた拠点だけのことで圧倒的多数の人は貧しくて戦争と軍役に苦しんでいたようだ。再び中国社会が力を取り戻すのは、揚子江沿岸の開発が進んだと共に薪の代わりに石炭使用の普及が始まった宋代になってからだ。そうやって中国はマルコ・ポーロも驚いたように、石炭使用の先進国となった。だが石炭はCO2とメタン放出の最大原因の一つであって、地球温暖化のための大きな憂いである。
覇道・王道論に話を戻す。孟子の時代、儒家に対抗する大勢力であった教団に、墨家があった。墨家の遺した教典である『墨子』には、孟子の覇道・王道に似た「力政・義政」の概念がある。
天意に従う者は、義政である。一方天意に逆らう者は、力政である。ならば義政とはどのようなものであろうか。墨子は言った、「大国の者で小国を攻めず、強大な家の者で弱小の家を奪わず、強者は弱者をおどしたりせず、貴人は卑賤の者に傲慢でなく、目端の利く詐術のうまい者でも愚直な者をだまさない。この道は必ず上は天帝を利し、中は鬼神を利し、下は人を利すものである。三方共に利あって、どこにも不利益がない。ゆえにこのような道を行う者に対して天下はこぞって美名を与え、名付けて聖王とする。力政はこれとは異なる。言うことも為すことも聖王の道に反し、反対方向に走っていくようなものだ。すなわち大国の者は小国を攻め、強大な家の者は弱小の家を奪い、強者は弱者をおどし、貴人は卑賤の者に傲慢で、目端の利く詐術のうまい者は愚直な者をだます。この道は必ず天帝、鬼神、人の三者の利とならない。三方共に不利益をもたらすがゆえに、このような道を行う者に対して天下はこぞって悪名を与え、名付けて暴王とする、、、、
(天志篇より)
ここだけ抜き出すと、何と孟子の仁政論と似ているのであろうか。孟子は利己心を抑えて仁義の道を広く行うことによって、天下を平らかにせよと説き、墨子もまた個人の利己心を抑えて各人が社会全体の利益を考慮して行動することによって天下を平らかにせよと説いた。両者共に個人の利己的な傾向を倫理的決意によって克服せよと説く点では同じである。ならば孟子と墨家の対立はどこに由来するのであろうか?
一般的には、孟子が自然な情愛による社会的結合を倫理の基礎に置いた「差別愛」を説いたのに対して、墨家は社会全体への無差別な愛他精神を基礎に置いた「兼愛」を説いたことに由来すると言われる。加えて、孟子の儒教は礼楽を社会の情操安定のための不可欠の制度とみなして儀式重視、葬儀重視を貫いたのに対して、墨家はプロレタリアートの立場から儀式軽視、葬儀簡便化の主張を行った点も挙げられるだろう。
だが、今後論ずべき点を先取りすることになるが、もっと重要な対立点として以下のことがあると思われる。すなわち、孟子の儒教は天命を信じるものの「何をなすべきか」「いかに生きるべきか」の倫理的決断は、賢者ならば彼の確信にゆだねるべきだと考える。いわば「ブルジョワ思想」である。賢者は自分がよき人であり、他人に開かれた心を持っていることを確信しているから、自在に進退しても心にやましさを感じない。世に受け入れられなければ、孔子の弟子顔回のように清く正しく貧しく生きてもよいのだ。一方墨家は、「何をなすべきか」「いかに生きるべきか」の決断は天帝・鬼神・地上の人への「引け目」ともいうべき義務感に突き動かされて他律的に行うべきだと考える。これは、キリスト教徒やコミュニストと同型の行動原理を主張しているのである。つまりキリスト教徒の場合は、天の父なる神と犠牲となったイエスキリストへの「引け目」から出発して、そこから反射して神からの掟としての隣人への義務感となる。またコミュニストの場合は、自分の存在が社会的関係によって規定されていることを自覚的に受け止めて、革命すべき構造にある社会への「引け目」を感じることが倫理的態度を作り出すのである。
私はこの点が、両者にとって最も相容れなかった点だったのでないかと今のところ考えている。孟子と墨家の対立点については、今後とももっと突っ込んで検討していきたい。この二つは善の根拠を誠実に考えた際、おそらくありえるただ二つの道 ― 自分以外のものに正当な根拠を求めるか、自分の中の自分以外のものに正統な根拠を求めるか ― であるはずだ。
(2005.10.17)