二十世紀において陳独秀(1879 - 1942)ら開明的なインテリたちが中国社会に停滞と悲惨をもたらした最大の原因として槍玉に挙げたのが、孔子の始めた儒教であった。陳は、彼の創設した雑誌『新青年』に発表した『文学革命論』において、儒教を根絶しなければならない理由を挙げる。儒教は、
・こまごまとした儀式を推奨しておとなしい柔順の道徳を説教し、中国人民を惰弱で消極的にして現代世界の戦いと競争の場に適合できなくさせている。
・家族の価値を認めるも、社会の基礎としての個人を認めようとしない。
・各人の地位の不平等を肯定する。
・女性の婦徳を強調することによって、彼女らが男性に屈従して依存させるように仕向けている。
・思想と表現の自由を全く顧みず、正統な思想だけを説教する。
(英語版Wikipediaの「陳独秀」 Chen Duxiu の項目から、引用した)
このように陳らは、儒教を捨て去らなければ中国に進歩はありえないと声高に叫んだ。彼らにとって儒教とは君臣・親子・夫妻の間に一方的な支配と屈従の道徳を教え込んで、ひたすら体制の安定に貢献させるイデオロギーとして写ったのであった。実際、現実の儒教はそう言われても仕方がなかったであろう。
私がこれまで疑問に思っていたのは、そのような体制護持のための抑圧的道徳であると評価される儒教の側面と、学校の漢文の授業などで抜粋して読まされた『論語』『孟子』の、人間の主体性を重視するかのような主張とがどうして両立しているのか、という点であった。その辺を自分なりに明らかにしてみたいと思ったのが、『孟子』全訳を試みてみた一つの動機であった。(もう一つの動機は、日本のサイト上に目ぼしいオンライン版『孟子』が見当たらなかったので、これはやってみる価値があるだろうと考えたためだ。)
その試みは、拙いながらも本文において行なってみたつもりである。簡単に結論すれば、孔子もその後継者の孟子も「士大夫」と総称されるエリート階級の文化的自覚を持ったプライド感を裏づけしようとした倫理感であろう。だから、一面で現代人にも通じる市民社会の道徳とも言えるような主体性が主張されている。ところが別の一面ではあくまでもエリート階級であるので、一般人民から区別された支配者の文化の担い手として、厳しく「礼」に従うことが強調されている。全くのナマの一個人ではなくて、本来社会を指導するべきエリートとしての立場を強く自覚するから、西洋のストア哲学のように自分一人が正しく生きるということで倫理が完結せず、「己の身を正しくすることによって天下を治める」という発想となる。四書の一つの『大学』で言う「修身、斉家、治国、平天下」の発想であり、孟子の言う「天下の本は国、国の本は家、家の本は自分自身」(離婁章句上、五)という発想である。孟子は、己を正してさえいれば具体的な仕事をしていなくても素餐(そさん。ただ飯食い)してはいないと言う(盡心章句上、三十二)。また、外界がデタラメで道が行なわれていない時代に生きているときには、「身を以って道に殉(したが)える」すなわちひとり正しい道を己の身にしっかり備え付けて生きるべきであると主張する(盡心章句上、四十二)。
これらの主張は、人間らしい文化を身に付けていて存在自体が有益なエリートに向けた言葉であると捉えてはじめて理解できる。逆にその前提で読まなければならないということは、彼ら儒家の倫理を生きたものとして捉えることができる人間の範囲には一定の限界があるのだ。エリートとして倫理的自覚を持って親には孝行を尽くし、主君には仕えている限り義を守る。それはいわば気概によって裏打ちされたルール遵守の根性であり、あるべき人間世界の秩序を守る「天吏」としての強烈な自覚があってこそなさしめる自己規律である。しかしその基準をエリートの気概もない一般人民や婦人子供にまで一方的に押し付けたならば、それは必ず抑圧的な倫理となるであろう。体制に公認されて、特に明朝以降に大衆化された儒教はそのようなものであった。
本文でも見たように、孟子の儒教は君主への無条件の忠誠を肯定しない。また身分・年功の序列と同じく天下が尊ぶべきものとして徳の大小を挙げることによって、外面的な上下の秩序を相対化する考え方すら持っている。むしろ後世の荀子の「礼」やその弟子の韓非の「法」が、人間に外からたがをはめて秩序を権力によって構成しなければ社会は成立しない、とする考えを開いた。後世の中華帝国における儒教が、孟子の道というよりは荀子の道であったと清朝末期の思想家によって批評されたのは、そういうことである。
だが、そのように「気概」ある者に向けた言葉として孟子や孔子の主張を捉えるならば、この現代の自由主義隆盛の時代においてもその意義は別の文脈で蘇ってくるのではないだろうか。儒教が育まれた古代中華世界は、古代ギリシャやローマの都市国家などとは違って、狭い範囲の共同体を前提とした社会ではない。もし共同体を前提とした社会ならば、各個人の特性はまちまちであったとしても、最終的に共同体のために働き愛国心を持っていれば万事オーケーという倫理観が得られるだろう。たとえばЛ.トルストイの『戦争と平和』で、理想を求めて彷徨するピエールと国の内外で無軌道な暴走生活を行なうドーロホフは、一度決闘まで行なったほどに生きる道が違った。しかしながら、ついにナポレオン軍によるロシア侵攻が始まって、彼ら貴族たちが祖国を死守するための戦場にいざ立ったならば、両者は個人的な資質の差や過去のいきさつなどを乗り越えて、共に国を守る誓いの元に和合するのであった。彼らは自分以外のものに心の正しさの根拠を見出したのである。それが愛国心であった。愛国心を煽るナショナリズムは、エリートならぬ大衆をいちばん引きつけやすい手っ取り早い正義の根拠として、二十世紀には自由主義諸国・共産主義諸国に関係なく当局も人民も共に愛好し、それに距離を置く者を抑圧する根拠となった。二十一世紀の現代においても、相変わらずのことである。今や、かの儒教の生国では若者たちの間でナショナリズムの波が止まらないようだ。また儒教国家として数百年を過した隣の半島においても、近年ますます過剰なまでにナショナリズムが叫ばれている。これは、どうしたことであろうか。ナショナリズムはわかりやすい正義の根拠であり、しかも都市化が進んでバラバラになった大衆にアピールする力が強い倫理であるだけに、広まりやすいというわけであろうか。だが、自由と人間愛の精神を置いて行って、「あいつらは敵、我らは同胞」の倫理に飛びつくのは、あまりに人間精神として貧困すぎないだろうか。私は、儒教を捨て去った北東アジアの諸民族が、むしろ普遍的な善を忘れて偏狭な精神に陥っているのではないだろうかと、怪しみ嘆く。
儒教とは、共同体の団結を人を束ねる力として重視する倫理とは、違ったものである。むしろ自分の中の自分以外のものに根拠を持って、天下という大海の中でよき人間として自覚した君子の生き方を示そうとしたのが、孟子や孔子であった。そしてよく生きるための根拠として彼らが見出したのを概念化したものが、仁・義・礼・智の徳であった。これらは「天爵」として人間の心の中に埋め込まれている、独善的でない自分以外の他人に向けられた心であった。
孟子は、人間が本来的に持っている他者に向けられた心を「惻隠の心・羞悪の心」と表現する。惻隠の心とは、他者を見て「これはいかん!かわいそうだ!」と思う心のことであり、羞悪の心とは、読んで字のごとく悪を羞(は)じて不公正を憎む心のことである。孟子はこれらを人間が心に誰でも持っている「端」(たん。はじまり)であると捉える。これは鋭い洞察だ。人間が本質的に他者を求めて他者に働きかけようとする傾向を持っていることを、孟子は適確に指摘するのである。そしてそれらの「端」を孟子は本質的に善であるとプラスに評価して、それをどんどん伸ばしていけば人間の徳は高まっていくのだと言う。人間の他者に向けられた心を積極的に評価して、しかもそれが善にとって必要十分であると言うのである。自分がよき人間になるためには、天上の神も必要とされないし、ましてや地上の偉い権威も必要ないのだ。「万物は、ことごとく我に備わっているのだ!」(盡心章句上、四)と主張されるのである。
しかし孟子は、そのような惻隠・羞悪の心が徳として表れたものである仁・義に加えて、さらに社会的なルールを自覚的に学んであえて従うという礼の徳を並置した。惻隠・羞悪の心は人間ならば誰にでも備わっているものであって、いわばそれは他者を求めようとする心の衝動である。人は往々にしてその赴くままに憐れみや憤激の情を爆発させることが、あまりにも多い。しかし、その心の赴くままの行動が果たして他者にとって本当に有意義な結果をもたらし、加えて自分にとって有益な結果をもたらすであろうか?多くは相手を傷つかせて、自らも傷つくことになるのではないだろうか?儒教は「礼」を学んで「礼」に従うことを常に重視する。孟子は「(君子は)仁でなければ何も行なわず」と言った後に、「礼でなければ何も行なわない」と言うのである(離婁章句下、二十九)。人は礼に従うことによって自らの他者への行動が徒労となることから免れることができるだろう。礼を学んで礼に則って惻隠・羞悪の心を働かせたならば、それはただの衝動的行動から陶冶されて、他者に通じる徳としての仁・義へと高められることであろう。そのとき他者に対して何かを働きかけたいという心は独り善がりに空回りすることから免れて、他人を動かすこともできる行為となりうる。この主張は、本文でも言ったことだが大変現代的な可能性のある部分であると思う。
二十一世紀の現代、放っておいたら相手が分かってくれるような透明なコミュニティーで生活が完結できる時代は、次第に終わりつつある。社会がグローバル化することによって、職場や果ては地域レベルでまで異文化と対することを余儀なくされるケースがこれからますます増えていくに違いない。だが何も異文化との接触だけが外界の不透明さを増しているわけではない。生活には、急速にネット上のコミュニケーション領域が拡大し始めている。それは、相手の顔が見えない関係である。ネットでは、惻隠・羞悪の心が衝動的に暴発する風景が非常によく見られる。相手の顔が見えないから、礼を持った他者との関係を取るよすががない。「祭り」を行なっている本人たちは正義と思っているかもしれないが、果たしてそれは社会的な善であろうか?それを止めることなどできはしないし、規制など決してするべきではないと私は思うものの、その意義への評価については熟考の余地があると思われる。そういった、生きていく上で外界との間に何らかの距離を感じ始めたたとき、孟子や孔子の言葉に帰ってみることは結構意義あることなのかもしれない。
(2006.04.30 2006.5.13加筆)