梁すなわち魏を去った孟子は、今度はこの頃躍進いちじるしい斉にやってきた(前章で言ったとおり、『史記』が述べる順序は逆だが、今は司馬遷の叙述に従わない)。この斉の宣王との問答は、孟子の統治思想の真髄が展開されている重要な章句である。長いので、三つに切って検討してみたい。
斉桓公・晋文公はこの問答の時代(BC319年ごろか)から去ること3世紀前の覇者である。ところが、『論語』には晋文公は別として斉桓公についてはかなり言及されていて、しかもその功績について肯定的である(「斉の桓公は正しくて譎(いつわ)らず」論語・憲問編)。加えて孟子自身が別のところではしばしば斉桓公とその名宰相管仲について言及している(例えば、公孫丑章句下、二)。この章で孟子が言っていることと、ずいぶん温度差があるようだが?
この章以降孟子の対話相手となる斉の宣王は、実は桓公の子孫ではない。家臣の田氏が桓公の家を引きずり下ろして君主となった成り上がりの家である。同様に文公の晋も家臣の魏・趙・韓三家に分割して奪われ、この時代にはない(先の梁の恵王は、晋の後継三国のうちの魏の君主である)。孟子がまず宣王との(本の上でだが)初めての会見の切り出しとして桓公・文公の業績を言わずに、代わりに王たるべき道を説き始めたのは、桓公・文公の時代を古いものと切って捨て、新しい血筋の君主が治める新しい時代が採用すべき新しいイデオロギーを王に提示しようとした、戦略的な論理が見て取れるように思われる。そのイデオロギーとは、いかなるものなのか。
ところがまず最初に、宣王がいけにえの牛を見てかわいそうになった、という政治と関係ないエピソードから始める。しかも、牛を見てかわいそうになったからいけにえを羊に代えさせた、などという噴飯ものの偽善行為である。こんなものは、「パンがないならお菓子を食べればいい」と言い放った王妃様と同じで、目の前のことしか理解できない想像力の欠如した君主の暗愚を示したエピソードにすぎないではないか、、、
ところが孟子は、王のこの行為を激賞する。どうしてなのだろうか。なぜならば、これこそが仁義による統治イデオロギーの原初だからであり、だから孟子は戦略的に賞賛した。
王が牛を見て「かわいそうだ!」と思う心は、外の存在に対する「あわれみ」の心の表れではないか。「あわれみ」の心が王にあるということは、王は他者への共感・同情の心を持っているということだ。これをどんどん伸ばしていけば、やがて家族を愛する心となり、家臣を愛する心となり、ついには天下の人民を愛する心まで至るはずだ。孟子は、後の章でこの「かわいそうだ」と思う感情を「惻隠」(そくいん)と名付けて、仁の心のはじまり(端、たん)であると定義する(公孫丑章句上、六)。だから牛を見た瞬間に起こった「あわれみ」の心は、いずれ仁の心へと伸びていく始源なのであり、孟子はそれゆえ王が牛を見て「かわいそうだ!」と思った心をまずは誉め、「その後ろで羊が殺されることを何とも思わないのか?」などと、ツッコんだりはしない。
この宣王のエピソードに嫌悪感を抱く者があるかもしれないが、実はわれわれもまた宣王と変わらない「目の前で起こることだけをあわれに思う」感情を持っているのではないか?
− どこかの隣国の独裁政治に始終憤激しているのならば、どうして旧ソ連で同様に独裁体制を取っている諸国に激怒しないのか?
− 自分の子には勉強させて高学歴を与えるのに必死なのに、どうして一般論になると「ゆとりある教育を」などといまだにのたまうのか?
− どうしてペットのマイドッグは愛好するのに、平気でホットドッグをパクつくのか?
どうせこれらのことについては、適当にごまかすしか答えようがないだろう。
だが孟子ならば、おそらく「それはしようがない。近しいものにより多く共感するのは、自然な感情なのだから」と肯定してみせるだろう。孟子は人間の本性的な他者への感覚を基礎にして人間論から社会論まで語り尽くすので、人間の自然な他者への愛情のあり方は尊重しなければならないのだ。後で繰り返し出てくるが、孟子は「あわれみ」の情をいついかなるときでも誰にでも等しく施すべきだなどとは主張しない。人間の正しい道として、情けをほどこし気を使う対象に段階を持たせる。これはいずれ詳しく述べられる章で検討しよう。実はこの「誰にどのぐらい情けをほどこすべきか」という倫理観で、本でしか儒教を知らない我々日本人と儒教をシステマチックに導入した中国人や韓国人との感覚差が出ているとも思われるのだ。できればこれも明らかにしていければよいと思っている。