盡心章句下
二十五
浩生不害問曰、樂正子何人也、孟子曰、善人也、何謂善、曰、可欲之謂善、有諸己之謂信、充實之謂美、充實而有光輝之謂大、大而化之之謂聖、聖而不可知之謂神、樂正子二之中、四之下也。
浩生不害(こうせいふがい。斉の人という)が質問した。
浩生不害「あなたのお弟子の楽正子(がくせいし)とは、どのような人物ですか?」
孟子「善人です。」
浩生不害「その『善』と言う言葉を、どのように捉えるべきか?」
孟子「人から見て申し分のない人物であること、これが『善人』です。その善が自分にしっかり板に付いていること、これが『信人』です。自分の善が充実していること、これが『美人』です。充実してもはや光り輝いていること、これが『大人(たいじん)』です。大人であってしかも他人を教化できること、これが『聖人』です。聖人であってもはや普通人が理解することもできなければ、それが『神人』です。楽正子は、善人であってしかも信人の段階まで差し掛かっていると言えましょうか。しかしそれ以上の四つの段階ではありません。」
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孟子お気に入りの弟子の楽正子についての、孟子の評価である。告子章句下、十三では、孟子は彼について剛毅でも思慮深い智慧者でも、はたまた博識多聞でもないと言っていた。ただ善を好むだけの人物であり、しかもそれさえあれば天下を治めるにも十分であると評価するのだ。その楽正子は、本章の段階的評価においては、「二の中」すなわち善人であって信人にまでも差し掛かっていると言う。しかしさすがにそれ以上ではない。
本章で孟子は、善、信、美、大、聖、神という六段階でよき人間を定義している。「神聖」という言葉は "holy" の訳語となって現代では超人間的な存在を表す意味となっているが、本章での用法では、人間が到達できる最終段階である。現実に到達できるかどうかは別として、可能性としては誰にでも開かれている。超越神の恩寵は別段必要ないが、その代わりに(おそらく)相当に長い年月の精励努力の結果見えてくる段階であろう。ローマン・カトリシズムにおける「聖人」 saint は、確かに聖アントニウスなどのように有徳の高僧も認定されているが、一方で聖ジャンヌ・ダルクのようにただの田舎娘であってもその信仰が認められればいきなり認定されている。そこにおいて大事なのは神への信仰である。地上における努力の多寡は、必ずしも必要条件でない。儒教の「聖人」とはかなり違った存在である。
(2006.04.12)