Author Archives: 河南殷人

王制篇第九(4)

王者を補佐する者(注1)について。動作を礼儀によって戒め、訴えを聞くときには法判断(注2)を用い、明察はわずかなことでも見分け、動作を臨機応変にして尽きることがない。これが、原理を持つ者というのである。これが王者を補佐する者のあり方である。
王者の制度。夏・殷・周の三代の正道の先は、考えない。現代の君主(注3)の法律から、外れることをしない。三代の正道の先を考えるのは、資料不備ではっきりしない。現代の君主の法律から外れることは、正しくない。衣服には規制があり、宮室には規定があり、役務の員数には定数がある。葬礼・祭祀の器具には、身分秩序に応じた格差がある。音楽は、雅正な音楽でないものは全て廃止する。宮廷の色は、古式どおりの色調でないものは全て撤廃する。器具は、すべて古式の器具でないものは全て廃棄する。これが復古であり、王者の制度である。
王者の等位について。徳ある者は必ず尊重し、能力ある者は必ず任官させ、功績ある者は必ず褒賞し、罪ある者は必ず罰する。こうして「朝廷には幸運で出世した者はおらず、民には幸運で豊かな者はいない」という古語を実現させるである。賢明な者を尊び能力ある者を使用して、これらを遺すことなく等位で区別して、誠実な者を選抜して凶悪な者を禁圧し、刑罰の命令には間違いなくする。こうすれば、人民は覚るのである、「家の中で善行を行っても、朝廷から褒賞される。こっそりと不善を行っても、公然と刑罰を受ける。」ということを。これが万古不変の等位であり、王者の等位である。
王者の法。地租に等級を付けて民事を正し、万物を差配するのは、万民を養うためである。田野の税は十分の一とし、関所と市場は検査は行うが課税はせず、山林での伐採および沢地での梁(やな)による魚採りについては、入山禁止・禁漁の時期を定めるにとどめて課税はせず、田地の検地を行って肥沃度に応じて地租に等級を定め、道の遠近を計算して貢納させ、財物と食料を流通させ、滞留させることなく、物資を必要な地域に運搬させるならば、四海のうちは一家のように治まるであろう。ゆえに、近い者は能力が隠れることはなく、遠い者は労役を忌避することもなく、遠方の僻地といえども王者のために奔走してこれに安らがない者はいない。これが人の師であり、王者の法である。

中華の向こうの北辺地方は、馬と犬を産する。中国は、これを入手して飼育する。南辺地方は、大鳥の羽、象牙に皮革類、上質の青銅、丹砂(たんしゃ。赤い顔料)に琅玕(ろうかん。宝石)を産する。中国は、これを入手して宝とする。東辺地方は、紫の衣に白絹、塩に魚を産する。中国は、これを入手して衣食する。西辺地方は、獣の皮革、旄牛(からうし)の尾を産する。中国は、これを入手して使用する。こうして漁師でも木を入手できて、山人でも魚を入手できて、農夫でも木を切らず器を作らずして道具を入手できて、職人と商人は田畑を耕すことなくして豆と穀物を入手できるのである。虎や豹は、猛獣である。しかし君子はこれらの皮を剥いで使用する。こうして天の覆うところ、地の載せるところ、すべてその美を尽くして人間の利用するところとならないものはない。これら世界中の物資を流通利用することによって、上は賢良の装備を装飾し、下は人民を養って安楽とするのである。これが、治世の極み(注4)である。『詩経』に、この言葉がある。:

天は、岐山を作り出し
大王、ここにて治めたまい
民草、ここに集いしは
文王これを、安んじたまうゆえ
(周頌、天作より)

この言葉は、今言った原理によって実現される。


(注1)原文「王者之人」。楊注は「王者の佐」、王者の補佐と言う。
(注2)原文「類」。王制篇(1)と同じだが、より簡単に「法判断」としておく。
(注3)原文「後王」。楊注「言うは、当世の王を以て法と爲す。離れて貮(たが)い、之を遠くに取らず。」下のコメント参照。
(注4)原文「大神」。集解の郝懿行は「大神」を「大治」のことと言う。荀子は「神」の字に超越的な存在の意味を与えることはしないようである。勧学篇(1)のコメント参照。
《原文・読み下し》
王者の人。動を飾(いまし)むる(注5)に禮義を以てし、聽斷するに類を以てし、明は毫末(ごうまつ)を振い、舉措(きょそ)は應變(おうへん)して窮まらず。夫れ是を之れ原(もと)有りと謂う。是れ王者の人なり。
王者の制。道は三代に過ぎず、法は後王に貮(たが)わず。道三代に過ぐるは、之を蕩(とう)と謂い、法後王に貮うは、之を不雅と謂う。衣服制有り、宮室度有り、人徒數有り、喪祭・械用、皆等宜(とうぎ)有り。聲は則ち雅聲に非ざる者は舉(みな)廢し、色は則ち凡そ舊文に非ざる者は舉息め、械用は則ち凡そ舊器に非ざる者は舉毀(こぼ)つ。夫れ是を之れ復古と謂う。是れ王者の制なり。
王者の論(りん)(注6)。德として貴ばざること無く、能として官せざること無く、功として賞せざること無く、罪として罰せざること無く、朝に幸位無く、民に幸生無し。賢を尚(とうと)び能を使いて、等位遺さず、愿(げん)を析(わか)ち悍(かん)を禁じて、刑罰過(あやま)たず、百姓曉然(ぎょうぜん)として皆夫の善を家に爲して、賞を朝に取り、不善を幽に爲して、刑を顯(けん)に蒙(こうむ)るを知る。夫れ是を之れ定論と謂う。是れ王者の論(りん)なり。
王者の法。(注7)賦を等し、事を政(ただ)し(注8)、萬物を財(さい)する(注9)は、萬民を養う所以なり。田野は什(じゅう)が一、關市(かんし)は幾(き)して征せず、山林・澤梁(たくりょう)は、時を以て禁發して稅せず、地を相して政を衰(さ)し(注10)、道の遠近を理して貢(こう)を致さしめ、財物粟米(ぞくべい)を通流し、滯留有ること無く、相歸移(きい)せしめ、四海の內一家の若し。故に近き者は其の能を隱さず、遠き者は其の勞を疾(にく)まず、幽閒隱僻(ゆうかんいんぺき)の國と無(いえど)も(注11)、趨使(すうし)して之に安樂せざるは莫し。夫れ是を之れ人師と謂う。是れ王者の法なり。
北海は則ち走馬・吠犬(はいけん)有り、然り而(しこう)して中國得て之を畜使(ちくし)す。南海は則ち羽翮(うかく)・齒革(しかく)・曾青(そうせい)・丹干(たんかん)有り、然り而して中國得て之を財とす。東海は則ち紫紶(しかん)・魚鹽(ぎょえん)有り、然り而して中國得て之を衣食とす。西海は則ち皮革・文旄(ぶんぽう)有り、然り而して中國得て之を用う。故に澤人は木に足り、山人は魚に足り、農夫は斲削(たくさく)せず陶冶せずして械用(かいよう)に足り、工賈(こうこ)は耕田せずして菽粟(しゅくぞく)に足る。故に虎豹は猛爲るも、然も君子剝ぎて之を用う。故に天の覆う所、地の載(の)する所、其の美を盡(つ)くし、其の用を致さざること莫く、上は以て賢良を飾り、下は以て百姓を養いて、之を安樂す。夫れ是を之れ大神と謂う。詩に曰く、天高山を作り、大王之を荒(おお)いにす、彼作り、文王之を康(やす)んず、とは、此を之れ謂うなり。


(注5)楊注は「かざる」。集解の王念孫は「飭」字に通じると言う。「飭(いまし)める」。
(注6)「論」を楊注は賞罰の論説と言い、集解の王先謙は「倫」と読み、等級の意味とする。王先謙に従う。
(注7)原文には「法」の字はない。集解の王念孫は「法」字が入るべきと言う。
(注8)「政」を集解の王念孫は「正」と読み、民事を正すことと言う。
(注9)「財」は「裁」の意味。
(注10)「衰」は「差」の意味。「政を衰す」とは「征(せい)を差す」の意味であり、土地ごとに地租の軽重の等級を付けること。
(注11)猪飼補遺は「無」字を「雖」と読む。

王制篇のここから後はとみに興味が薄れるので、ほとんど訳を置くだけに留めたい。全中国での流通を活発化し、交通を促進させよ、という荀子の流通重視の主張は、孟子に欠けているところである。この辺は、さすがに荀子は視野が広くてかつ経済を理解している。だが自然を全く人間の奴隷とみなしていて、どうも自然への畏敬の心が見えないが、これは荀子に限ったことではなくて孟子もそうで、儒家思想は人間中心の思想であり、いきおい自然に対して人間を越えた力を持った存在としての畏敬心が少ない。これは、悪い面でもある(しかし孔子は、必ずしもそうではなかったと私は考える)。
交通網の発達は、僻地と大都市を連結して、人材を中央に吸い上げる効果がある。ゆえに中央集権国家は、交通網の整備に熱心である。このことは僻地の人心にも沿ったことであり、やむをえない面がある。だが私は、結果として各地の多様性が破壊されて均一な人間を作ってしまう、つまり熱力学第二法則に類比すれば社会のエントロピーを増加させて利用可能な社会のエネルギーを削いで行くという、負の面もまたあると思う。

ここで「後王」の用語が出てくる。訳では、「現代の君主」としておいた。なので、荀子固有の思想として言われる「後王思想」について、一応は述べたいと思う。
上のくだりの「道三代に過ぐるは、之を蕩(とう)と謂い、法後王に貮うは、之を不雅と謂う。」は、いま後回しにしている儒效篇にも出てくる。後王について集解の劉台拱は周の諸王のことを指していると考え、つまり先王に分類される開祖の文王・武王・周公の後を守った王たちの掟を指す、というわけである。いっぽう楊注は当世の王という。このように荀子の「後王」は、それが単に古い周代の制度を指しているにすぎないのか、それとも荀子に近い時代の諸王が立てた新しい制度のことを指しているのか、二説が対立しているのである。荀子は服装などの形式的な制度については古来の制を復古すべしという立場なので、集解の劉台拱の意見にも一理がある。しかし重澤俊郎氏など荀子思想の孟子思想に比べた開明性を強調する論者は、後王は当世の王を指すという説を取る。しかしながら荀子は「後王思想」を一篇を割いて体系的に説いたわけではなくて、非相篇、栄辱篇、儒效篇などに断片的に現れる叙述から論者たちが類推したものである。

私としては、二つの点からやはり楊注・増注あるいは重澤氏の視点を取りたい。

一つは、荀子は君子官僚が法の届かない分野において「類」すなわち類推適用あるいは類する判例を参照することを薦めているところにある。これは、法の運用者が理性を進めて法判断を行うことを認めるものである。この視点は、単に古くから伝わってきた掟をそのまま古い伝統だから無批判に尊重する、というM.ウェーバーの「伝統的支配」からは出てこない。むしろ荀子が君子官僚に期待することは、先王の掟ではなくてその中に貫かれている原理をよく理解して、それを理性に基づいて適用判断させよ、ということである。掟そのものではなくて、掟から抽象化された原理による理性判断を尊重する視点は、むしろウェーバーの言う「合理的支配」に近づいている。なので、荀子が現代の諸国が発布する法にも先王たちが依拠した合理的な原理が大なり小なり貫かれている、という認識を持っていたとしても、彼の思想から大きく外れることはないであろうと私は考える。荀子がそう考えていたのであろうと匂わせるくだりは、『荀子』の中に確かに散見される。しかし論証によって明言した、というところまで長大な証拠を残しているわけではない。

二つ目としては、荀子の同時代の諸国の法律は、すでに法治官僚国家の運営マニュアルとして高度な発達を遂げていたことが、近年の発掘文書から見て取れることができるからである。荀子が同時代の諸国の官僚制度をおおかた肯定し、この制度のままに統一帝国が成立すれば平和な中華世界が訪れる、と考えていたことは、私には十分想像できる。私としては、荀子は服装などの形式的な制度については儒家として古来の制が美しいと考えていたが、法律の内容についてはより新しい時代に発布されたものに優位性を認めていた、と考えておきたい。

1975年、中国の湖北省で秦国の官吏の記録が大量に出土した。出土地の名を付けて、雲夢秦簡(うんぼうしんかん)あるいは睡虎池秦簡(すいこちしんかん)と呼ばれている。その中には法律関係の文書が含まれていて、戦国末期の秦国の地方行政を担った官吏の実際の仕事内容が読み取れて興味深い。尾形勇氏の紹介するその文書の内容を見ると、法は詳細に住民の義務について規定し、官吏が法の判断に迷ったときの判例集もまた詳細に例示されていた(尾形勇・平セ隆郎『世界の歴史2 中華文明の誕生』第6章、中央公論社)。私は元地方公務員であったので、秦代官吏たちのそんなマニュアルを一覧したとき、市役所が守るべき法規則の体系、あるいはそれらについて中央の霞ヶ関から降りてくる法規判断集にそっくりだという印象を持った。

雲夢秦簡は戦国時代末期の文書であり、荀子の同時代である。その時代の官吏は、これほど詳細な法をもって住民を支配していた。古代人の水準が高かった、というよりも、法治官僚国家がいったん成立すると、時代に関わりなく法の運用技術は発達するものなのだ、と捉えたほうがよいと私は考える。

法治官僚国家を動かすテクノロジーである中国法は、このように古代の段階ですでに完成されていた。これを周辺国の日本や新羅もまた導入して、中国にならった専制王朝を運営するテクノロジーとしたのである。これが日本のいわゆる律令国家である。

しかしながら、日本ではその後、土着の法が中国法を駆逐する経過を辿った。つまり律令国家は、12世紀末に鎌倉幕府が成立したときに崩壊した。鎌倉幕府は、律令国家と別種の統治システムを採用し、承久の乱に勝利して以降はそれが全国で中国法のシステムを食い破ってしまうこととなったのである。

まず第一に、官位。中国法に従えば、官位任命権は最高権力者である天皇が持つ。しかし鎌倉幕府以降は、事実上それが武家のコントロール下に置かれるようになった。事実上の最高権力者は天皇ではなく、天皇が任命する形式で征夷大将軍が掌握することとなった。官位によらない権力が、日本では通用するようになったのである。第二に、中国法では地方の行政官を天皇が任命するシステムであった。しかし鎌倉幕府はこれを有名無実化し、地方の支配は幕府が任命する守護と、地方に土着して幕府に存在を認可された国人領主たちが担うようになった。○○守、○○介といった地方の行政官の官位は、武家政権においては名目上の栄誉しか意味をなさないことになった。第三に、中国法の法典に追加条項という形で御成敗式目(貞永式目)が制定された。武家政権においてはこちらが日本の法として実効力を持つようになり、裁判権は中央集権政府である朝廷から、地方領主の盟主である幕府に移ることとなった。

このように鎌倉幕府は、中国法を殺したのである。それは中央集権的な法治官僚国家のシステムを解体し、地方領主の自治権を優先する封建社会の成立に即した法体系の革命であった。鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇が建武の新政で中国式の法治官僚国家の再導入を目指した。しかし、何ら実施されることなく終わった。それは、日本ではすでに土着の法が普及していたために、中国式の法治官僚国家を受け付けることができなかったからであった。

したがって荀子の「王者」の法は中国では通用したが、周辺諸国でも常に通用したわけではない。日本はしかし明治維新以降、法治官僚国家の法体系を再導入した。いわば再び荀子の「王者」の法に戻ったのであった。これは日本が列強と対抗するために、中央集権的な法治官僚国家を再導入することを余儀なくされたからであった。

王制篇第九(5)

雑多な案件を対処するためには、法判断によってまとめあげる。一人の判断力で、万人を処断する。この調子で始まれば終わり、終われば始まると事物を決裁していき、ぐるぐると環を回るように天下を運営するのである。これを中断させたならば、天下は衰亡するのである。天地なるものは生命の始まりであるが、礼義なるものは統治の始まりであり、そして君子なるものは礼義の始まりなのである。礼義を実践し、礼義を習い、礼義を重ねて学び、礼義を好むことは、君子の始まりである。ゆえに天地は君子を生じ、その君子が天地を統治するのである。君子なるものは、天地の補佐人(注1)なのである。万物の指揮官なのである。人民の父母なのである。君子がいなければ、天地は統治されず、礼義には統制がなくなり、上には君主の師なく、下には父子の秩序もない。これを、乱の極みと言う。君臣父子、兄弟夫婦は、始まれば終わり終われば始まる、連綿と続く人間関係である。天地と理を共有していて、何代経ってもその理は不変である。これを、大本と言う。ゆえに喪礼と祭礼、朝覲(ちょうきん。諸侯の君主への拝謁式)と聘問(へいもん。諸侯の他国への訪問式)、師・旅の軍隊編成は、すべて理によって一つなのである。また貴賎の差、生殺の刑、与奪の処分もまた、すべて理によって一つなのである。また君は君、臣は臣、父は父、子は子、兄は兄、弟は弟の人倫秩序もまた、すべて理によって一つなのである。

水や火には気(注2)があるが生命はない。草や木には生命はあるが知能はない。禽獣(ケダモノ)には知能はあるが義はない(注3)。しかし人には気も生命も知もあり、かつ義もある。ゆえに最も天下で尊い存在なのである。人間の力は牛にかなわず、走れば馬にはかなわない。なのに、どうして牛馬は人間に使役されるのであろうか?それは、人は社会生活ができるが、牛馬はできないからである。人は何によって、社会生活ができるのであろうか?それは、区分によってである。区分は、何によってよく実施されるのであろうか?それは、義によってである。ゆえに義によって区分すれば社会は調和し、調和すれば一つに固まり、一つに固まれば大きな力となり、大きな力となれば強力となり、強力となれば、万物に勝利するのである。人間が家屋の中に住まうことができて、四季に応じて秩序立って生活ができて、万物を統御することができて、天下をすべて利用することができるのは、他でもない、人間が社会を義に応じて区分するからなのである。
ゆえに、人間は社会生活をしないわけにはいかない。社会生活をしながら区分がなければ、争いになる。争いになれば、カオスとなる。カオスとなれば、人間はまた離散してしまう。離散してしまえば、弱くなってしまう。弱くなれば、人間は諸物に勝つことができなくなるであろう。家屋の中に住まうことも、できなくなるだろう。これが、礼義を一時も捨ててはならない理由なのである。よく親に仕えることを、孝と言う。よく兄に仕えることを、弟(悌)と言う。よく上に仕えることを、順と言う。よく下を使うことを、君(くん)と言う。君主(くんしゅ)とは、よく群主(ぐんしゅ)となれる者なのである。(注4)群主の道がよろしければ、万物はみなその宜しきを得て、家畜はみなよく生長し、その他もろもろの生物もまたみなよく育つであろう。ゆえに、家畜は生長させる時期を間違えなければ、よく育つ。草木は育成と伐採の時期を間違えなければ、よく繁茂する。政令は発布する時期を間違えなければ、人民は斉一して賢良の者は心服する。これが、聖王の制度である。草木が開花期・生長期のときには、伐採者を山林に入らせない。それは、若い時期に刈り取って長生することを絶たせないためである。黿(でかいすっぽん)、鼉(わに)(注5)、魚、鼈(すっぽん)、鰌(どじょう)、鱣(かわへび)の産卵期・発生期には、投網や魚毒を沢地に入らせない。それは、卵や稚魚の時期に採って長生することを絶たせないためである。春は耕し、夏は草を刈り、秋は収穫して、冬は貯蔵する。この農期のリズムを、狂わせない。ゆえに五穀は絶えることなく、人民には食の余裕ができるのである。池・淵沼・川沢では、禁漁期を厳しく守らせる。ゆえに魚も鼈(すっぽん)もたくさん採れて、人民には食の余裕ができるのである。山林では、伐採期と養育期を狂わせない。ゆえにはげ山とならず、人民には用材の余裕ができるのである。これが、聖王の資源活用術である。上は天の時節を明察し、下は地の力を活用し、天地の間で眼を光らせて(注6)、万物に対して策を打つのである。よく見えない動きながらも明らかな結果を出し、簡潔な指令ながらも長期的な政策効果を出し、狭い側近への指令ながらも広大な国土への政策効果を出し、効果神明にして絶大ながら、行う政策はいたって簡潔である(注7)。ゆえに言うのである、「一人の指令によって万民を斉一させる政策を取る。これが聖人である。」(注8)

次に、王者の官職について述べる。
(以下は、原文を整理して表にしたものです。直訳ではありません。)

名称 主な担当職務
宰爵(さいしゃく) 宮廷行事(賓客、祭祀、饗宴、および祭祀における犠牲の家畜の管理)
司徒(しと) 民事政策(戸籍、城郭、度量衡の管理)
司馬(しば) 軍事政策(軍隊、武器、車、軍旗の管理)
大師(たいし) 教育政策(教育法令、詩・音楽の管理、下品な音楽の禁止、詩楽の修練、非中華風俗の追放)
司空(しくう) 水防・灌漑政策(堤防・橋の修復、運河・用水溝の修繕、不要な水の放水、貯水池の管理)
治田(ちでん) 農業政策(土地の肥沃度の観察、播種の指導、農工民の監視・教化、蓄蔵の摘発、農民の他業種への転業の抑止)
虞師(ぐし) 林漁業政策(山焼きの法令施行、山林・藪沢の草木・魚類・資源の育成、漁業・伐採の禁止と解禁)
郷師(きょうし) 村落安定化政策(村民の恭順化、孝悌倫理の促進、村民の居住・畜産・農業の世話)
工師(こうし) 工民管理政策(職人および製品の品質検査、各時点で必要な仕事の考査、便利な道具の推奨・配備、華美な私宅建造の抑制)
傴巫(うふ)・跛擊(はげき) 占卜(陰陽、瑞兆凶兆占い、亀卜、祈祷)(注9)
治市(ちし) 商人・市場・交通政策(汚物清掃、道路整備、盗賊取締り、宿場の整備、商人の教化)
司寇(しこう) 司法・警察政策(犯罪者の禁圧、五刑(注10)の執行)
冢宰(ちょうさい) 宰相(政教の基本政策、法の改正、政策判断、功労の審査、褒賞の審議、官吏・人民の督励)
辟公(へきこう) 諸侯(礼楽を実施し、身行を正し、人民に君臨して風俗を教化する)
天王(てんおう) 君主(道徳礼儀文理を極め、天下を統括して服従させる)

以上である。ゆえに、政治が乱れるのは百官の総帥である冢宰(ちょうさい)の罪であり、国家が良風美俗を失うのは各地の封建君主である辟公(へきこう)の過失であり、そして天下が斉一されずに諸侯が離反するのは、諸侯の長である天王がその位に就くべき器ではないからである。


(注1)原文「参」猪飼補注は「なお参佐のごとし」と言う。
(注2)「気」は元気、空気など現代日本語では熟語化してしまって、それ自体では意味のない字となっている。古代には明確に万物にひそむ何らかのエネルギー活動の素を指す用語としてあった。朱子学は「気」を抽象化して「理」と対比する宇宙の構成・生成原理とみなし、「理」と「気」の関係は進んで人間内部にもあって倫理学のテーマとなる。理気の存在学・倫理学は朱子学の最重要概念の一つなのであるが、現代科学の認識とは異なっている。
(注3)禽獣に「知」があるというのであるが、集解の郝懿行は匹(つが)う能力があると言う。楊注の言う「性識」つまり同種の異性を見分ける能力は禽獣にもあるが、「義」はない。その例として郝懿行は『曲礼』の「麀(ゆう)を聚(とも)にす」を引き、鹿は父子で雌鹿を共有するので義がない、という例を引く。当然ながら、このような儒家の認識はただのアントロポセントリズム(人類中心主義)でエスノセントリズム(自民族中心主義)な独断である。この認識から、儒家はレビラト婚(兄の死後に実弟が兄の寡婦を娶る婚姻制度)を習俗として持つ遊牧民たちを禽獣視するのである。
(注4)原文読み下し「君なる者は、善く羣するなり。」猪飼補注が言うように、ここは「君」と「羣(群)」の音で意味をひっかけた言い方である。意訳した。
(注5)富国篇(3)の注2参照。
(注6)原文読み下し「天地の閒に塞備(そくび)し」。集解の王引之は「備」は「満」にすべしと言う。ここは前の句を受けて、天地の利用できる機会をすべて見逃さない、という意味に訳した。
(注7)このあたりは、意図的に法家思想的に訳した。
(注8)原文「一與一是爲人、謂之聖人。」難解。猪飼補注は「是」は「奪」の誤りかと言い「一与(與)一奪して人を爲(おさ)める」と読む。言うは、聖人の政策は人民に禁令を布くが後で豊富を得させるためだ、という解釈であろう。集解の王先謙は「與」を「擧(挙)」と読み替えて「一にして一を挙ぐる」と読む。言うは、聖人は一人の指令で人民を統一する、という意味であろう。『新釈漢文大系』および金谷治氏は猪飼補注を取るが、私は王先謙の説のほうがここでいう聖人の政策に近いと考える。
(注9)天論篇で、荀子は天文占いの的中性や雨乞いの儀式の効果を完全に否定している。それでも王者の官職に占い担当官を置くのは、ひとえに迷信を信じる人民を信頼させる効果があるにすぎない。
(注10)五種類の体刑。軽い順から、墨(ぼく、入れ墨)、劓(ぎ、鼻削ぎ)、刖(げつ)または剕(ひ、足切断)、宮(きゅう、去勢)、大辟(たいへき、死刑)のこと。荀子は体刑を統治のために必要とみなす。
《原文・読み下し》
類を以て雜に行き、一を以て萬に行き(注11)、始まれば則ち終り、終れば則ち始まり、環の端無きが若し。是を舍(お)いて而(しこう)して天下以て衰う。天地なる者は生の始(はじめ)なり、禮義なる者は治の始なり、君子なる者は禮義の始なり。之を爲し、之を貫(かん)し、之を積重し、之を致好する者は、君子の始なり。故に天地君子を生じ、君子天地を理(り)す。君子なる者は天地の參(さん)なり、萬物の摠(そう)なり、民の父母なり。君子無ければ、則ち天地理せず、禮義統無く、上君師無く、下父子無し。夫れ是(注12)を之れ至亂と謂う。君臣父子、兄弟夫婦は、始まれば則ち終り、終れば則ち始まり、天地と理を同じうし、萬世と久を同じうす。夫れ是を之れ大本と謂う。故に喪祭・朝聘(ちょうへい)・師旅は一なり。貴賤・殺生・與奪(よだつ)は一なり。君は君、臣は臣、父は父、子は子、兄は兄、弟は弟たるは一なり。農は農、士は士、工は工、商は商たるは一なり。
水火は氣有りて生無く、草木は生有りて知無く、禽獸は知有りて義無く、人は氣有り、生有り、知有り。亦(また)且つ義有り。故に最も天下の貴と爲すなり。力は牛に若かず、走ることは馬に若かず、而(しか)も牛馬用を爲すは何ぞ。曰く、人は能く羣(ぐん)し、彼は羣すること能わざればなり。人何を以て能く羣す。曰く、分あればなり。分何を以て能く行わる。曰く、義(注13)あればなり。故に義以て分(わか)てば則ち和す。和すれば則ち一なり、一なれば則ち多力なり、多力なれば則ち强なり、强なれば則ち物に勝つ、故に宮室得て居る可きなり。故に四時を序し、萬物を裁し、天下を兼利するは、它の故無し、之が分義を得ればなり。故に人生羣無きこと能わず、群して分無ければ則ち爭う、爭えば則ち亂れ、亂るれば則ち離れ、離るれば則ち弱し、弱ければ則ち物に勝つこと能わず、故に宮室得て居る可からず。少頃(しばらく)も禮義を舍(す)つ可からざるの謂いなり。能く以て親に事(つか)うる、之を孝と謂い、能く以て兄に事うる、之を弟と謂い、能く以て上に事うる、之を順と謂い、能く以て下を使う、之を君と謂う。君なる者は、善く羣するなり。羣道(ぐんどう)當れば、則ち萬物皆其の宜しきを得、六畜(りくきく)皆其の長を得、羣生皆其の命を得(う)。故に養長時(とき)なれば、則ち六畜育す。殺生時なれば、則ち草木殖す。政令時なれば、則ち百姓一に、賢良服す。聖王の制なり。草木、榮華・滋碩(じせき)の時なれば、則ち斧斤(ふきん)山林に入らざるは、其の生を夭せず、其の長を絕たざるなり。黿鼉(げんだ)・魚鼈(ぎょべつ)・鰌鱣(しゅうせん)、孕別(ようべつ)の時は、罔罟(もうこ)・毒藥(どくやく)、澤に入らざるは、其の生を夭せず、其の長を絕たざるなり。春耕・夏耘(かうん)・秋收・冬藏、四者時を失わず。故に五穀絕えずして、百姓餘食(よしょく)有るなり。汙池(おち)・淵沼(えんしょう)・川澤、其の時禁を謹む、故に魚鼈優多(ゆうた)にして、百姓餘用(よよう)有るなり。斬伐・養長、其の時を失わず、故に山林童(どう)ならずして、百姓餘材有るなり。聖王の用なり。上は天に察に、下は地に錯(そ)し、天地の間に塞備(そくび)し、萬物の上に加施(かし)す。微にして明、短にして長、狹にして廣、神明・博大にして以て至約なり。故に曰く、一にして一を與(あ)ぐる(注14)、是をもて人を爲(おさ)むる者、之を聖人と謂う、と。
序官。宰爵は、賓客・祭祀・饗食・犧牲の牢數を知(つかさど)る。司徒は、百宗・城郭・立器の數を知る。司馬は、師旅・甲兵・乘白(じょうはく)の數を知る。憲命を脩め、詩商を審(つまびらか)にし、淫聲を禁じ、時を以て順脩(じゅんしゅう)し、夷俗・邪音をして敢えて雅を亂らざらしむるは、大師の事なり。隄梁(ていりょう)を脩め、溝澮(こうかい)を通じ、水潦(すいりょう)を行(や)り、水臧を安んじ、時を以て決塞(けっそく)し、歲凶敗・水旱すと雖も、民をして耘艾(うんがい)する所有らしむるは、司空の事なり。高下を相し、肥墝(ひこう)を視、五種を序し、農功を省し、蓄藏を謹み、時を以て順脩し、農夫をして樸力(ぼくりょく)にして寡能ならしむるは、治田の事なり。火憲(かけん)を脩め、山林・藪澤(そうたく)・草木・魚鼈、百索(ひゃくさく)(注15)を養い、時を以て禁發し、國家をして用に足りて財物屈せざらしむるは、虞師(ぐし)の事なり。州里を順にし、廛宅(てんたく)を定め、六畜を養い、樹藝を閒(ならわ)し、敎化を勸め、孝弟を趨(うなが)し、時を以て順脩し、百姓をして命に順い、安樂して鄉に處らしむるは、鄉師の事なり。百工を論じ、時事を審にし、功苦を辨じ、完利を尚(とうと)び、備用を便にし、雕琢(ちょうたく)・文采をして敢えて家に專造せざらしむるは、工師の事なり。陰陽を相し、祲兆(しんちょう)を占し、龜を鑽(さん)し卦(か)を陳し、攘擇(じょうたく)・五卜(ごぼく)を主(つかさど)りて、其の吉凶・妖祥を知るは、傴巫(うふ)・跛擊(ひげき)の事なり。採清(さいせい)を脩め、道路を易(おさ)め、盜賊を謹み、室律(しつし)(注16)を平らかにし、時を以て順脩し、賓旅をして安んじて貨財をして通ぜしむるは、治市の事なり。急(げん)を抃(わか)ち(注17)悍を禁じ、淫を防ぎ邪を除き、之を戮(りく)するに五刑を以てし、暴悍以て變じ、姦邪作(おこ)らざらしむるは、司寇の事なり。政敎に本づき、法則を正し、兼聽して時に之を稽(かんが)え、其の功勞を度(はか)り(注18)、其の慶賞を論じ、時を以て順脩し、百吏をして免盡(べんじん)して衆庶をして偷(とう)せざらしむるは、冢宰(ちょうさい)の事なり。禮樂を論じ、身行を正し、敎化を廣め、風俗を美にし、兼覆して之を調一するは、辟公(へきこう)の事なり。道德を全くし、隆高を致し、文理を綦(きわ)め、天下を一にし、毫末(ごうまつ)を振い、天下をして順比・從服せざること莫からしむるは、天王の事なり。故に政事亂るるは、則ち冢宰の罪なり。國家俗を失うは、則ち辟公の過なり。天下一ならず、諸侯俗反するは、則ち天王其の人に非ざるなり。


(注11)「類」を楊注は「統類」と言い、『新釈漢文大系』もこの語で訳しているが、意味がよくわからない。「一」を楊注は一人と言う。ここは君子官僚の統治術について述べていると考えて上に訳した。
(注12)宋本は「下父子夫婦是」となっているが元本は「婦」字がない。『漢文大系』『新釈漢文大系』ともに「婦」字を取り除いて「夫」を「それ」の意味に読み、続く文と語調を合わせている。
(注13)宋本には義の前に「以」字があり、元本にはない。
(注14)「與」を「擧」と読み替える。注8参照。
(注15)「百索」を楊注は百物と言い、集解の王引之は「索」は「素」の誤りで蔬菜(野菜)の意と言い、猪飼補注は「百求」の意と言う。猪飼補注を取る。
(注16)「室律」を集解の郝懿行は「律」は「肆(し)」の誤りとして「室肆」で旅客・商人のための施設であろうと言う。増注は「室」は「質」の誤りとして王覇篇(6)にある「質律」であると言う。すなわち売買の際の割符であり、売買の約定を破らせないことによって物価を平均化すると言う。ここは郝懿行に従う。
(注17)楊注「抃はまさに析と為すべく、急はまさに愿と為すべし。」王制篇(4)の語句。
(注18)王制篇は、ここの「其の功勞を度り、、」から以降、楊注が全くない。藤井専英氏は、ここから以降相当の脱誤があるのではないか、と疑っている。

身分秩序・官僚制度の理論と細目である。この篇で、荀子は結局このくだりが言いたかった。来るべき中華帝国のシステムである。だが現代となっては、もはや歴史的意義しかない。荀子の時代においては、これこそが人間に生命と繁栄を与える、夢の国作りであった。ゆえに、マルクシズムが共産主義の到来を歴史的必然として描いたように、荀子もまた王者の革命を必然の未来として確信していたことであろう。それは、私もまた理解することにやぶさかではない。しかしながら、現代に生きる私にとっては、これが理想だと言われても困ってしまう。これは理想ではなくて、目の前の社会が完備している現実の法治官僚国家の姿なのである。我々は荀子よりも前に進みたいという、ぜいたくな希望を持たずにはいられないのだ。

荀子は人間を社会的動物であると考えるが、人間は社会を作るときに必然的に上下の差別を作る、とも考える。この考えは、経済人類学の知見から言えば、人間のほんの一面しか見ていない。荀子が人間の必然的性質とみなす身分秩序は、国家の成立によって国家内部で生じた略取―再分配の交換様式を指している。それは、力による支配が既定事実化したときに、支配者が被支配者から税を略取し、その対価として支配者が被支配者を保護育成する福祉政策を行う交換様式である。これが支配関係の中に縛られている人間にとってギブ・アンド・テイクに表象されて、被支配者が支配者を恵み深い君主として崇め、かつ支配者の政策を実行する官僚の身分的経済的優位が正当化されるのである。しかしこれは、人間の交換様式の全てではない。

国家以前の交換関係として、人間には互酬の交換様式がある。これは人間同士が対等の関係で向き合ったとき、一方が財貨やサーヴィスを他方に無償で贈与することによって、贈与された側に負債感を感じさせる交換様式である。このとき贈与した側は一時的に二人の間で強者となり、贈与された側は負債感を償うためのアクションを強いられることとなるだろう。それは倍返しの贈与となるか、第三者に贈与して互酬の輪を広げるか、あるいは贈与した者への負けを認めて服従するか、である。この互酬関係は略取―再分配の関係とは違って贈与する側と贈与される側の上下関係は固定されておらず、贈与された側は具体的に贈与された分だけ負債感を感じるにすぎない。お世話を受けた人への恩返しの感覚、と言えばわかりやすいであろう。これは国家秩序を伴わない自発的な人間の上下関係であって、国家が作る支配―被支配関係とは違うものである。対等の市民が集まっているという建前を重視する都市国家や、受けた御恩の限り奉公する主従関係を軸とした封建国家では、国家の中に互酬関係が強く残留している。つまりこのような国家では、王といえども、家臣に絶対的な支配権を持つようには表象されない。(あともう一つ、人間の交換様式には商品交換があるが、これは疎遠な人間同士を貨幣という一般的交換手段でつなぐ関係であり、疎遠な人間同士が戦争せずにギブ・アンド・テイクする関係として重要であるが、ここではとりあえずおいておく。)

疎遠でない人間同士をつなぐ関係は、荀子の言うような身分秩序ある国家だけではない。そう見えるのは、国家を支持する側の人間である。荀子の視点からは、人間は国家以前に互酬関係によってつながる欲求がある、ということが見えなくなってしまう。春秋時代の感覚を残していた孟子はまだ国家以前の互酬関係を認識していたと私は考えるが(孟子のときおり見せる君主への不遜な態度は、君主と賢人は対等のギブ・アンド・テイク関係でなければならない、という考えがあったからである)、荀子はもう全く国家内部での支配者―被支配者間の略取―再分配の関係だけに注目してしまっている。

(経済人類学については、私は栗本慎一郎氏およびK.ポランニーの著作から主に知見を得てきました。しかし経済人類学の互酬、略取―再分配、商品交換の三つの交換様式の組み合わさり方を人類史の各段階として一挙に叙述した仕事として、私はやはり柄谷行人氏の『世界史の構造』を挙げたいと思います。以上の叙述も、柄谷氏の概念に負っています。)

王制篇第九(6)

王者となるためには諸条件があり、それが備わったときに王者となる道が開ける。覇者となるためには諸条件があり、それが備わったときに覇者となる道が開ける。国家が辛うじて存続するためにも諸条件があり、それが備わっているときにようやく国家は存続できる。国家が滅亡するためにも諸条件があり、それが備わっているときに国家は必然的に滅亡してしまうものである。
大国(注1)の君主は、大国の力を使えることが、威強の立つ原因であり、名声の立つ原因であり、かつ敵の屈服する原因である。(注2)だがそもそも国が安全か危険か、上向くか没落するかは、すべて君主の意志次第であって、(究極的には)状況に依存するものではない。そして王者たるか覇者たるか、安全に存続するか危機に落ちて滅亡するかもまた、すべて君主の意志次第であって、(究極的には)状況に依存するものではないのである。
大国のような威強がまだ足らず、隣り合う敵を脅威とさせるにまだ足らず、名声はまだ天下を轟かせるほどに広がらない時期にいるとしよう。ならばこの国は、残念ながらまだ独立することができない。天下の慰み者となって苦しめられることを、免れない。だが暴虐な国に脅迫されて、その配下に組み敷かれて本心では望まない悪事を行うならば、この君主は日々桀(伝説の悪王)とともに悪事を行うことになる。この君主は実は堯(伝説の聖王)の善事を行っても、差し支えはない。しかし実際にこのような悪の配下にいては、功名は立てられず、存亡・安危の法則に従うこともできはしないのである。功名を立てて、存亡・安危の法則に従うためには、(注3)(訳A)必ず心が安らかで、とらわれることなくのびのびとしていなければならない。(注4)(訳B)必ず国が安泰で、心がとらわれることなくのびのびとできる段階にいなければならない。(小国の仁なる君主は、たとえ困難でも独立を維持し、暴虐国の配下となってはならない。)まことに、自らの国を王者のいる国として励むならば、いずれ王者となるのである。しかし自らの国を危険・滅亡が待っている道に追い込むならば、いずれそうなるであろう。国力が増した時期において、中立した独立を保ち、片方の勢力に偏ることなく、巧妙な外交で国を保ち(注5)、どっしりと構えて兵を保持しながら動かず、暴虐な国どうしが食い合って相打ちとなるのを傍観するのである。そして国内では政教を平らかにし、礼をよく実行し、人民を督励する。この努力をしたあかつきには、その兵力は抜きん出て天下の強国となっているであろう。そこでさらに仁義を修め、礼を尊び、法規を正し、賢良を選抜して、人民を養う。この努力をしたあかつきには、その名声は抜きん出て天下最大の賞賛を受けるであろう。もはや権勢は重く、兵は強く、名声は高い。堯と舜は天下を統一した君主であったが、彼らですらここまできたら、もはや助言修正することもなくなるであろう。

権謀して国を傾ける姦物が去れば、賢良で智恵ある士がおのずから集まるであろう。刑政を公平にし、人民を調和させ、国俗に礼があれば、兵は強く城は固くなるであろう。敵国は、おのずから屈するのである。農事に励み、財物を積み、気がゆるんで浪費することなく、群臣・人民にみな礼制法制どおり行動させたならば、財物は積み上がり、国家はおのずから富むであろう。以上のことを国君が体にしみて実施するならば、天下とて服すであろう。暴虐な国の君主は、自国の兵を使うことがもはやできなくなる。なぜならば、彼は共に国を守る者がいなくなるからである。本来彼のところには、自国の人民が集まってくるはずだ。だが彼の人民は、もはやこちらの国の君主に親しみ喜ぶことが父母のようであり、こちらの国の君主を好むことが芝蘭(しらん)の香りのようである。いっぽう自国の君主をかえりみれば、焼きごて・入れ墨の刑罰を受けるかのように、仇讎(かたき)であるかのように忌み嫌い、もはやこの国の人民の人情としては、たとえ桀・盗跖(とうせき)クラスの極悪人であったとしても、憎い自国の君主のために大好きなあちらの国の君主と戦うことなど、もうありえない。つまり、暴虐の君主は、もはや戦力を奪われてしまったのである。

ゆえにいにしえの人には一国から始めて天下を取った者はいたが、それはこちらから他国を攻め取りに行ったのではなくて、人々がその君主の下に入ることを願わずにはいられない政治を行ったまでのことであった。こうすることによって暴虐者を誅し、凶悪者を禁圧したのであった。ゆえに、周公は南に征伐したときには北国が怨み、「どうしてこちらに攻めてくれないのですか!」と言った。また東に征伐したときには西国が怨み、「どうしてこちらを後回しにするのですか!」と言った(注6)。このような仁義の軍と、だれがよく戦うことができようか?ゆえに、自国をここまでに高めることを為す者は、王者なのである。(王者

次に、国力が増しているときに、兵を使わずに休ませ、民を休息させ、人民を慈愛し、田野を開き、国庫を満たし、武器を改良し、兵員の徴募を慎重に行い、それから褒賞を与えて督励し、刑罰を厳にして粛正し、事務に通じた士を抜擢して統率させる。こうして国庫には財貨が積み上がり、きちんと整理されて、物品の供給は十分となる。このとき敵国は兵士と防具と機械を日々戦場にさらして破壊し、わが国はこれらを国庫にて整理し手入れして格納するのである。敵国は財貨と糧秣を日々戦場にて無駄に浪費し、わが国はこれらを集めて蓄積するのである。敵国は才覚ある者と忠誠ある者と健康な者と精鋭の者を日々仇敵のために負傷させ消耗させ、わが国はこれらの者を朝廷に招聘して分属して訓練するのである。このようにして敵国は日々疲弊し、わが国は日々充実する。敵国は日々貧窮し、わが国は日々富強となる。敵国は日々労苦を重ね、わが国は日々楽になっていく。君臣・上下の関係は、敵国は疑心暗鬼となって日々に相離反し、わが国は従順で日々に相親愛するのである。こうして、敵国の疲弊を待つ作戦を取る。自国をこのように誘導できる者は、覇者なのである。(覇者

次に、立ち居振る舞いは凡庸な風俗に従い、事業は凡庸な過去の慣例に従い、昇進させる者は凡庸な士であり、下の人民と接するときにはまずまず寛大な恩恵を振舞う。自国をこのように誘導する者は、国をなんとか安泰に存続させる。(安存

次に、立ち居振る舞いは軽率劣悪で、事業は嫌ってやらず、昇進させる者は口先上手で子ずるい小人であり、下の人民と接するときには好んで収奪する。自国をこのように誘導する者は、国を危うくする。(危殆

最後に、立ち居振る舞いはおごって強暴で、事業は国を危うくさせることを行い、昇進させる者は陰険で詐欺を行う悪人であり、下の人民と接するときには死ぬまで働けと言いながらその褒賞を怠慢し、臨時の税まで搾り取りながら農事への配慮を忘れる。自国をこのように誘導する者は、滅亡する。(滅亡

以上の五つの者は、よく選ばなければならない。王者・覇者・安存・危殆・滅亡の条件は、これをよく選ぶ者は人を制し、よく選ばない者は他人に制せられる。これをよく選ぶ者は王者となり、よく選ばない者は滅亡する。王者と滅亡者、人を制する者と人に制せられる者、これら両者の隔たりは大きい。


(注1)原文「萬乘之國」。原意は戦車一万台を動員できる国、という意味。戦国時代の慣用句で、戦国七雄クラスの大国を言う。
(注2)金谷治氏も藤井専英氏も、ここから後の文につなげて訳している。しかしながら、私はここで文を切って訳す。荀子は王者となる前提条件(=仁義)と実現させる力(=実力、威)をここで分けて考えていると私は考えるからである。大国は王者となれる力を持っているが、王者となる条件を持つかどうかは君主の心がけ次第である。逆に潜在的に王者となりうる仁の人であっても、いまだ小国で条件が整っていない時期においては忍従する期間を経なければならない。私は荀子の王者の段階論を、そのように考える。
(注3)原文「愉殷赤心之所」を荻生徂徠は「功名の成る所、存亡安危の随い来る所の者は、中心愉安する所の善不善に在る」と言う。これに従うと、このような訳となるか。徂徠にしては珍しく、精神論的な解釈である。
(注4)同じところを集解の王先謙は「孟子のいわゆる国家閒暇(国家にゆとりがあるとき)」と言う。こちらに沿うと、このような訳となるか。
(注5)原文「縦横之事」。増注、猪飼補注、金谷治氏、藤井専英氏、いずれも自国を縦横に経営すること、と読んでいる。私は諸氏に組せず、巧妙な外交作戦を行うこととみなす。小国が独立するためには一国の努力では不可能で、周辺国からの攻撃をそらす外交策も必要である。孔子の弟子の子貢が魯を救うために諸国を操った外交を、見るがよい。子貢もまた儒家であり、現実的な荀子ならば子貢の策もやむをえなかったと考えたと思う。
(注6)孟子滕文公章句下に、ほとんど同じフレーズが殷の湯王の征伐話として現れる。このフレーズは歴史ではなく、王者の理想を語っただけのことである。実際の聖王たちの戦争は血なまぐさいものであった可能性が高いが、孟子は武王の戦争の記録を信じることを拒絶して、「ことごとく書を信ずれば、則ち書なきに如かず」などと言った。
《原文・読み下し》
具具(そな)わりて王たり、具具わりて霸たり、具具わりて存し、具具わりて亡ぶ。萬乘(ばんじょう)の國を用うる者は、威强の立つ所以なり、名聲の美なる所以なり、敵人の屈する所以なり。國の安危・臧否(ぞうひ)する所以は、制與(みな)此に在りて、人に亡し。王霸・安存・危殆・滅亡は、制與(みな)我に在りて、人に亡し。夫(か)の威强、未だ以て鄰敵(りんてき)を殆くするに足らず。名聲、未だ以て天下に縣(けん)するに足らざればなり。則ち是の國未だ獨立すること能わず、豈渠(あに)夫(か)の天下に累せらるるを免るることを得るんや。暴國に脅かされて、黨(とう)(注7)して吾が欲せざる所を是に爲す者は、日に桀と事を同じくし行を同じくするも、堯爲(た)るに害無きも、是れ功名の就(な)る所に非ざるなり、存亡・安危の墮(したが)(注8)う所に非ざるなり。功名の就る所、存亡・安危の墮(したが)(注8)う所は、必ず將(まさ)に愉殷(ゆいん)・赤心の所に於てせんとす。誠に其の國を以て王者の所と爲せば亦王たり、其の國を以て危殆滅亡の所と爲せば亦危殆滅亡す。殷(さかん)なる日、案(すなわ)ち以て中立し、偏する所有ること無くして、縱橫の事を爲し、偃然(えんぜん)として兵を案じて動くこと無く、以て夫の暴國の相卒(う)つを觀るなり。案ち政教を平(たいらか)にし、節奏を審(つまびらか)にし、百姓を砥礪(しれい)す。是を爲すの日にして、兵天下の勁(けい)を剸(もっぱら)にす。案ち仁義を脩め、隆高を伉(あ)げ、法則を正し、賢良を選び、百姓を養う。是を爲すの日にして、名聲天下の美を剸にす。權者は是を重くし、兵者は之を勁(つよ)くし、名聲は之を美にす。夫の堯舜なる者は天下を一にするものなるも、毫末(ごうまつ)を是に加うること能わず。
權謀・傾覆の人退けば、則ち賢良・知聖の士、案(すなわ)ち自ら進む。刑政平に、百姓和し、國俗節すれば、則ち兵勁く城固く、敵國案ち自ら詘(くつ)す。本事を務め、財物を積みて、棲遲(せいち)・薛越(せつえつ)を忘るること勿く、是に羣臣(ぐんしん)・百姓をして皆制度を以て行わしむれば、則ち財物積み、國家案ち自ら富む。三者を此(ここ)に體(たい)して、天下服す。暴國の君は案ち自ら其の兵を用うること能わず、何となれば則ち彼與(とも)に至るもの無ければなり。彼其の與に至る所の者は、必ず其の民ならん。其の民の我を親しむや、歡父母の若(ごと)く、我を好むや芳芝蘭(しらん)の如くなるべきに、其の上を反顧すれば則ち灼黥(しゃくげい)せらるるが若く、仇讎(きゅうし)の若くんば、彼の人の情性や、桀・跖と雖も、豈に其の惡む所の爲めに、其の好む所の者を賊するを肯(がえ)んずる有らんや。彼以(すで)(注9)に奪わる。
故に古の人、一國を以て天下を取る者有り、往(ゆ)いて之を行うに非ざるなり、政を其の願わざること莫き所に脩むるのみ。是(かく)の如くにして、以て暴を誅し悍を禁す可し。故に周公南征して北國怨みて曰く、何ぞ獨り來らざるや、と。東征して西國怨みて曰く、何ぞ獨り我を後にするや、と。孰(た)れか能く是と鬭(たたか)う者有らんや。安(すなわ)ち其の國を以て是を爲す者は王たり。殷(さかん)なる日、安ち以て兵を靜め民を息(やす)め、百姓を慈愛し、田野を辟(ひら)き、倉廩を實(みた)し、備用を便にし、安ち募選を謹み材伎の士を閱(えら)び、然る後に賞慶に漸(ひた)して以て之を先にし、刑罰を嚴にして以て之を防ぎ、士の事を知る者を擇びて、相率貫(そつかん)せしむるなり。是を以て厭然(えんぜん)として畜積・修飾して、物用之れ足るなり。兵革・器械をば、彼將(は)た日日之を中原(ちゅうげん)に暴露・毀折し、我は今將た府庫に之を脩飾し之を拊循(ふじゅん)し之を掩蓋(えんがい)す。貨財・粟米をば、彼將た日日之を中野(ちゅうや)に棲遲(せいち)・薛越(せつえつ)し、我今將た之を倉廩に畜積(ちくし)・并聚(へいしゅう)す。材伎・股肱・健勇・爪牙の士をば、彼將た日日仇敵に之を挫頓(ざとん)・竭(けつ)し、我今將た朝廷に之を來致し之を并閱(へいえつ)し之を砥礪(しれい)す。是の如くなれば、則ち彼日に敝(へい)を積み、我日に完を積む。彼日に貧を積み、我日に富を積む。彼日に勞を積み、我日に佚(いつ)を積む。君臣上下の間は、彼將た厲厲焉(れいれいえん)として日日相離疾(りしつ)し、我は今將た頓頓焉(とんとんえん)として日日相親愛するなり。是を以て其の弊を待つ。安ち其の國を以て是を爲す者は霸たり。立身は則ち傭俗に從い、事行は則ち傭故に遵(したが)い、貴賤を進退するは則ち傭士を舉げ、之(そ)の下の人百姓に接する所以の者は則ち寬惠(かんけい)を庸(もち)う、是の如き者は則ち安存す。立身は則ち輕楛(けいこ)、事行は則ち蠲疑(けんぎ)(注10)、貴賤を進退するは則ち佞侻(ねいえい)を舉げ、之(そ)の下の人百姓に接する所以の者は則ち好取侵奪す、是の如き者は危殆なり。立身は則ち憍暴(きょうぼう)、事行は則ち傾覆、貴賤を進退するは則ち幽險(ゆうけん)・詐故(さこ)を舉げ、(注11)之(そ)の下の人百姓に接する所以の者は、則ち好んで其の死力を用いて、其の功勞を慢(あなど)り、好んで其の籍斂(せきれん)(注12)を用いて、其の本務を忘る、是の如き者は滅亡す。此の五等の者は、善(よ)く擇(えら)ばざる可からざるなり。王・霸・安存・危殆・滅亡の具なり。善く擇ぶ者は人を制し、善く擇ばざる者は人之を制す。善く之を擇ぶ者は王たり、善く之を擇ばざる者は亡ぶ。夫の王者と亡者と、人を制すると人之を制すると、是れ其の相縣(けん)するを爲すや亦遠し。


(注7)集解の王先謙は「黨(党)」字を楚の方言と考え「知」の意味であると言う。
(注8)集解の兪樾、増注の荻生徂徠、いずれも「墮」を「随」と読むべきと言う。
(注9)猪飼補注は「以」は「已」であると言う。已(すで)に。
(注10)「蠲」を集解の郝懿行は「明」の意と言い、「蠲疑」を明察を喜んで狐疑を好むと言う。増注は蠲を嫌と読むべしと言う。増注に従う。
(注11)原本「之所以接下之人百姓者、、、」。増注は、宋本では「之」字の前に「人」字があるが元本ほかにはなく、後者に拠って除いたと言う。底本の漢文大系もまた、「人」字を省略している。なお、王覇篇(1)注9も参照。
(注12)「籍」を猪飼補注は正税にあらずして民より取ること、と言う。これに従う。

王制篇のこの末尾部分は、楊倞の注がない。そして、難解なところがある。私は、ここで荀子が王者の段階論を述べているのだ、と解釈したい。「仁・義・威の三つを備えた者は、王者になろうと思えばなれるし、覇者になろうと思えばなれるし、強者になろうと思えばなれるのである。」(王制篇(3))と荀子が言っていることの説明が、この末尾であると思う。すなわち、

仁義 王者の前提条件。王者は状況に関わりなく、保持している。
(歴史上の)覇者は不十分に持ち、(偽の)強者は持たない。
前提条件を実現させる力。王者は段階的に獲得していく。
覇者・(偽の)強者は保持し、小国は保持できない。

よって、小国に生まれた王者はまず(真の)強者から始まって独立を保ち、国力と名声が上がればおもむろに覇者に移り、ついには王者となって天下を統一するであろう。これは王者の「威」が拡大していく過程である。王者といえども、小国からではすぐに天下を統一はできない。時間をかけて名声を広め、それが王者の「威」を増して天下統一に近づいていく、というストーリーではないか、と私は考える。なので、王者といえども必ず覇者の段階を経て、そこから王者となって天下を統一するはずである。現実に現れた斉の桓公などの覇者は、仁義を身につければ覇者の段階を越えて天下を統一する王者となることができた。しかしながら桓公はそれをしなかったので、覇者の段階を越えられなかった。現実の歴史は置いておいて、荀子はそのように覇者を位置づけていたのではないか、と私は考える。

よって大国の王であったほうが、王者となるには近い。孟子は大国である斉国の王が心がけ次第で天下の王者となるのは、小国より始った周の文王よりもたやすいはずだ、と言った(公孫丑章句上、一)。しかしそれでも孟子は「文王を手本とすれば、大国は五年で必ず天下に政治を行えるようになり、小国でも七年で必ずそうなるであろう。」と空想的な展望を述べる。荀子もまたこんな短期間での天下取りが可能であったと考えていたとは思いたくないが、荀子もまた仁義の人ならば小国から始めても必ず覇者となり、そこから進んで王者となって天下を取ることが必然であると考えていたはずである。(後記:儒效篇において「大儒を用うれば、則ち百里の地も久しく、而(しか)も後三年にして、天下一と爲り、諸侯臣と爲る。」とある。儒效篇で言う「大儒」とは周公や孔子のような聖人のことであるが、そのような聖人が国政を行えば百里四方の小国でも三年で天下を統一できる、と言う。荀子もまた孟子と同様の空想的な構想を述べているのであって、三年とか五年とかで天下が統一できる、という言葉は、儒家に共通の大言壮語的な決まり文句であると言うよりほかはない。)

王者が戦わずして勝つくだりは、いつもながらどうしようもなく甘い。荀子の時代には、すでに中華世界の文化がおおかた平均化されて、天下統一の意識が見えていた。だから、このようなストーリーも描くことができたのである。現実的に王者に最も近い同時代の国として、荀子は秦国に期待していたことは、私は疑いないと考える。すでに「威」では天下を支配するまで強大となった秦国が「仁義」まで備えたとき、荀子の王者が実現するだろう。荀子はそう考えて、秦国を訪問したに違いない。

現実の歴史では、秦を倒した漢、それ以降に続いた中華帝国が、荀子のプランの実現者であった。こうして、荀子の理想は実現された。現代の者は、荀子の理想であった「王者の国」すなわち法治官僚が支配する専制帝国が現代にとって理想ではありえない、ならば世界全体を納得させる王者の道とはありえるのか、ありえるとしたらどんなものであるべきなのか、それよりもそんなものはあるべきなのか?というところを問わなければならない。それはもう自らのプランを出し終わった荀子の作業ではなくて、現代の我々の作業である。

これで、王制篇は終わった。荀子の王者・覇者・強者論は、王覇篇第十一で再説される。内容は王制論と同工異曲なので、後回しとしたい。続く君道篇第十二、臣道篇第十三、致士篇第十四は論語や孟子の君臣の倫理を長大な論文としたような内容であり、いささか退屈である。よって、戦国時代史、および荀子学派の議論として歴史的な興味が持てる議兵篇第十五、彊国篇第十六、それから荀子の合理論として名高い天論篇第十七、荀子の禅譲放伐に関する見解を示した正論篇第十八に進みたいと思う。

【次は、「議兵篇第十五」を読みます。】

富国篇第十(1)

万物は同じ宇宙に住んでいるがそれぞれ形が異なり、いずれも理性を持たないので人間に使役されるのは、法則というものである。いっぽう人間は共に生活し、同じものを求めながらさまざまな手段を用い、同じものを望みながら獲得する知力が異なっているのは、人間の性質というものである。欲しい・やりたい、と思うところまでは智者も愚者も同一であるが、何を欲しい・何をやりたい、と望む対象は智者と愚者は異なる。地位が等しいのに知力に差があり、私利を実行しても危険がなく、私欲のままに行動しても追い詰められないならば、人民の心はやりたい放題に争って、権力に喜んで服することはない。こんな状態であれば、智者でも統治は不可能である。智者が統治不可能であれば、智者に功名を挙げさせることは不可能である。智者が功名を挙げることが不可能であれば、群集は区分して秩序づけられることはない。群衆が区分して秩序づけられることがなければ、君臣の区別もない。よって君主が家臣を統制することもなく、身分上位者が身分下位者を統制することもない。天下の害は、欲をほしいままに放つところにあるのである。欲しいもの・嫌なものが複数の人間で同じであれば、欲に対して対象が足りないことになる。足りなければ、必ず争いになる。そもそも一人が生活するためには多数の職人が働いて製品を提供しているのであるが、どんなに才能があっても何でもできる技能を持てるわけではなく、同じく人は全ての官職を兼務する能力はない。人間は離れ離れで生活していて互いに協力し合わなければ、たちまち窮乏するだろう。かといって人間は集団生活していて秩序づけられなければ、たちまち私闘するであろう。窮乏は、わざわいである。私闘もまた、わざわいである。わざわいを除くためには、区分して秩序づけた上で集団生活させるのが一番なのである。強者が弱者を脅迫し、智者が愚者を威圧し、身分下位者が身分上位者に逆らい、年少者が年長者より威張る。このように徳の原理をもって政治を行わないならば、老弱者は扶養されないで苦しみ、健康者は争いのわざわいがあるであろう。きつい仕事をするのは嫌いで利得を得るのは好きであるが、それで職業の合理的な秩序区別がないならば、人は勝手に仕事を行う害が起こり、功利を争うわざわいが起きる。男女の正しいお付き合いのしかた、夫婦間の掟、結婚の娉(へい)・内(ない)・送(そう)・逆(げき)の礼(注1)、これらが欠けたならば、人はまともにパートナーが見つけられない苦しみが起きて、異性を争うわざわいが起きる。ゆえに、智者はこれらについて、区分して秩序を作るのである。

国を富ませる道を言おう。
節約して民に余裕を与え、余剰をよく保蔵せよ。節約のしかたは、礼の原理に従え。民に余裕を与えさせるのには、政策を用いよ。君子(下のコメントを参照してください)が民に余裕を与えることが、余剰を産む結果をもたらす。なぜか?民に余裕ができれば、田畑はよく耕されて肥沃となるだろう。田畑がよく耕されて肥沃となれば、産出高は百倍にもなるであろう。税法によってこれを取り、礼の原理に従ってこれを節約して出費すれば、剰余は山に積むほどとなって、ときどき焼却処分しなければ保管場所がなくなるほどとなるだろう。なので、為政者たるものいま余剰がなくたって、心配は無用である。節約して民に余裕を与えるという道を知れば、やがては必ず仁義の人、聖良の人という名声が挙がり、かつ富裕なること山のような剰余となるであろう。これはほかでもない、節約して民に余裕を与えるという道から生じるのである。節約して民に余裕を与える道を知らなければ、民は貧しく、田畑はやせて荒れるに任され、産出高は半分にも満たないであろう。しかも礼の原理に従って節約することがなければ、必ず強欲政治家、搾取政治家という悪名が広まり、かつ蔵は空っぽで窮乏する結果となるであろう。これはほかでもない、節約して民に余裕を与えるという道を知らないからである。『書経』の康誥(こうこう)篇に、この言葉がある。:

民を覆うこと天のごとく、徳に従えばなんじの身を豊かにするであろう。

この古語は、いま言った原理によりそうなるのだ。
礼というものは、貴賎に等級を与え、長幼に差を与え、経済的貧富・社会的軽重に全て称号を与えるものである。ゆえに天子は袾裷(しゅこん)の衣を着て冕(べん。かんむり)を戴き、諸侯は玄裷(げんこん)の衣にて冕、大夫は裨(ひ)の衣にて冕、そして士は皮弁(ひべん)を戴いて服を着るのが礼である。おのおのの徳は必ず位と一致し、位は必ず禄と一致し、禄は必ず働きと一致させるのである。士より以上は必ず礼楽によって節度を守らせ、庶民は必ず法律諸条項を適用して統制する(注2)。土地を測量して国を立て封建し、生産の利を考量して民が生活できるようにはからい、民の尽力を考量して仕事を授け、民が必ず仕事ができて、仕事から必ず利潤が出て、利潤により民が十分生活できるようにして、皆が衣食と必需品への出費が収入と均衡するようにして、しかももし剰余あるときは必ず保蔵しておく。これを、「数(規則)に称(かな)う」というのである。ゆえに天子より庶民に至るまで、事の大小・多少となく、このような礼の原理から類推応用してくのである。古語に、「朝廷には幸運で出世した者はおらず、民には幸運で豊かな者はいない」という。これは、このような政策の結果なのである。田野の税を軽くし、関所税・市場税を公平にし、民に労役を課すことをなるたけ少なくし、農作業のリズムを乱さない。こうであれば、国は富むであろう。これが、政治によって民を豊かにするというのである。


(注1)娉(へい)・内(ない)・送(そう)・逆(げき)は、古代の婚姻の礼。仲人による新郎新婦のとりなし、結納のやり取り、結婚当日の新婦の新郎家への嫁入りである。日本の婚礼にも取り入れられている。
(注2)現代人には分かりづらいが、古代中国では宮廷人の法と庶民の法は分かれていた。すなわち最低ランクの宮廷人である士(し)より以上は、庶民の刑法は適用されずに上流階級専用のルールである「礼」が適用される。「礼」は、上流階級の文化的ルールを含む。この礼と法との区別を堅持するのが儒家であり、荀子もまたここで礼と法との区別を言うのである。他方これを撤廃して国民に一律の法を適用することを主張したのが、法家思想である。ちなみに日本では、江戸時代までは武士と庶民との法は分かれていた。それが明治維新以降は皇室と皇室以外の臣民の法に分けられた。現代日本では、どうであろうか。
《原文・読み下し》
萬物宇を同じくして體を異にし、宜無くして人に用有るは、數なり。人倫並び處(お)り、求を同じくして道を異にし、欲を同じくして知を異にするは、生なり。皆可とすること有るは、知愚同じ。可とする所異にして、知愚分る。埶(せい)同じくして知異なり、私を行いて禍無く、欲を縱(ほしいまま)にして窮せざれば、則ち民心奮いて說ばす可からざるなり。是(かく)の如くなれば則ち知者も未だ治むることを得ず、知者も未だ治むることを得ざれば、則ち功名未だ成らざるなり、功名未だ成らざれば、則ち羣衆(ぐんしゅう)未だ縣(けん)せざるなり、羣衆未だ縣せざれば、則ち君臣未だ立たざるなり、君以て臣を制すること無く、上以て下を制する無ければ、天下の害は縱欲(しょうよく)に生ず。欲惡(よくお)を物を同じくすれば、欲多くして物寡(すくな)し。寡ければ則ち必ず爭う。故に百技の成す所は、一人を養う所以なり、能も技を兼ぬること能わず、人も官を兼ぬること能わず、離居して相待たざれば則ち窮し、羣(ぐん)して分(ぶん)無ければ則ち爭う。窮なる者は患なり、爭なる者は禍なり。患を救い禍を除くは、則ち分を明らかにし羣せしむるに若くは莫(な)し。强は弱を脅し、知は愚を懼(おど)し、[民]下(注3)は上に違い、少は長を陵(しの)ぎ、德を以て政を爲さず、是の如くなれば則ち老弱は失養の憂有りて、壯者は分爭の禍有り。事業は惡(にく)む所なり、功利は好む所なり、職業は分無し、是の如くなれば則ち人は樹事の患有りて、爭功の禍有り。男女の合、夫婦の分、婚姻の娉(へい)・內(のう)・送(そう)・逆(げき)は禮無し、是の如くなれば則ち人失合の憂有りて、爭色の禍有り。故に知者は之が分爲すなり。
國を足すの道。用を節し民を裕(ゆたか)にして、善く其の餘(よ)を臧(ぞう)す。用を節するに禮を以てし、民を裕にするに政を以てす。彼の民を裕にす、故に餘多し。民を裕にすれば則ち民富み、民富めば則ち田肥えて以て易(おさ)まり、田肥えて以て易まれば則ち出實(しゅつじつ)百倍す。上は法を以て取りて、下は禮を以て之を節用すれば、餘は丘山の若く、時に焚燒(ふんしょう)せざれば、之を臧する所無し。夫の君子奚(なん)ぞ餘なきを患えん。故に用を節し民を裕にすることを知れば、則ち必ず仁聖・賢良の名有りて、且つ富厚・丘山の積(し)有り、此れ它(た)の故(ゆえ)無し、用を節し民を裕にするに生ずるなり。用を節し民を裕にするを知らざれば則ち民貧し、民貧しければ則ち田瘠せて以て穢(あい)なり、田瘠せて以て穢なれば則ち出實半ばならず、上は好取(こうしゅ)・侵奪すと雖も、猶將に獲ること寡からんとす。而(しか)も或(あるい)は禮を以て之を節用すること無ければ(注4)、則ち必ず貪利(たんり)・糾譑(きゅうきょう)の名有りて、而も且つ空虛・窮乏の實有り。此れ它の故無し、用を節し民を裕にするを知らざればなり。康誥(こうこう)に曰く、弘覆(こうふ)天のごとく、德に若(したが)えば乃(なんじ)が身を裕にす(注5)、とは此を之れ謂うなり。禮なる者は、貴賤等(とう)有り、長幼差有り、貧富・輕重(けいじゅう)皆稱(しょう)有る者なり。故に天子は袾裷衣(しゅこんい)して冕(べん)し、諸侯は玄裷衣(げんこんい)して冕し、大夫は裨(ひ)して冕し、士は皮弁(ひべん)して服す。德は必ず位に稱(かな)い、位は必ず祿(ろく)に稱い、祿は必ず用(注6)に稱う。士より以上は、則ち必ず禮樂を以て之を節し、衆庶(しゅうしょ)・百姓(ひゃくせい)は則ち必ず法數(ほうすう)を以て之を制す。地を量りて國を立て、利を計りて民を畜い、人力を度りて事を授け、民をして必ず事に勝(た)え、事必ず利を出し、利以民を生ずるに足らしめ、皆衣食・百用をして出入相揜(おな)じからしめ、必ず時に餘(よ)を臧す、之を稱數(しょうすう)と謂う。故に天子より庶人に通ずるまで、事大小・多少と無く、是に由りて之を推す。故に曰く、朝(ちょう)に幸位無く、民に幸生無し、とは、此れ之を謂うなり。田野の税を輕くし、關市(かんし)の征(ぜい)を平らかにし、商賈(しょうこ)の數を省き、力役を興すことを罕(まれ)にし、農時を奪うこと無し。是の如くなれば則ち國富む。夫れ是を之れ政を以て民を裕にすと謂うなり。


(注3)増注は「民」字は衍字(えんじ。よけいな字)という。
(注4)原文は「以無禮節用之」であるが、集解・増注は前の文と対応させて「無以禮節用之」が正しいと言う。
(注5)宋本には『書経』康誥からの引用としてこの後に「不廢在王庭(廢せずして王庭に在り)」の句が続いている。元本にはない。集解・増注ともに、楊注にこの句の説明がないことを挙げて取り除くべきことを言う。
(注6)増注は「用読んで庸となす。勲なり」と言う。功績、働きのこと。
【この篇は、「勧学篇第一」の後に読んでいます。】


富国篇は、荀子の経済政策論である。さきの勧学篇では原文の「君子」を学ぶ者への呼びかけの意を取るために「君たち」と訳したが、この篇などの理論的説明を行う篇については原文の「君子」をそのまま君子と訳すことにする。この場合の君子とは、実際に政治に携わる優秀なエリート官僚のことである。

さて、ここで書かれていることは、孟子の経済政策論をさらに一歩進めたものである。両者ともに、国家第一の目的は人民の生活を豊かにするところにある、という視点を持っている。孟子は「恒産無き者は恒心無し」と言って、住民の生活を安定させる経済政策論を述べ、「鰥寡孤独(かんかこどく)」つまり社会的弱者を国家が救済する福祉政策を述べるのである。なぜ国家がここまで人民の生活を気遣うかといえば、「民を貴しとなし、社稷之に次ぎ、君を軽しと為す」という民本思想があるからである。荀子が孟子の批判的継承者であることが、両者の経済政策論を見れば分かる。
だが孟子の経済政策は、国家が人民に均等に田畑を分与して最低限の生活を保障するという社会主義的福祉政策であった。(いわゆる井田法。『孟子』のこの章を参照)いっぽう荀子の経済政策は、国家の役割を法秩序の維持に最大の力点を置き、人民の経済活動は法秩序の下で可能な限り自由に活動させて収量を増やすべきである、という自由放任主義的な視点が前面に打ち出されている。孟子の国家観はよりおせっかいな家父長主義的であり、荀子の国家観はよりドライで機械的である。荀子の弟子の韓非子は師よりもさらにドライな国家観を展開し、国家から家父長的な仮面をはぎ取って、国家は権力を持った一個の機械にすぎず、法を用いて国民を能率的に操作するものである、と考えた。韓非子の視点まで行くと儒家をはみ出してしまい荀子とは相容れないが、韓非子もまた荀子の批判的継承者であったことは確かであろう。

荀子と孟子には、国家観で相違がある。
荀子は上で述べるように、国家の起源を人間がアナーキーであったならば相争って経済的に豊かにならず、生存すら危うくなるためにあえて秩序に服するところに求めている。孟子には、このような視点はない。

荀子の上のような国家観を、重澤俊郎氏は社会契約論であると言う。

「人人は自発的に社会を組織したのであるが、然しそのままでは秩序の失わるるを知った。知能劣れる者が自己の分を守って常に寡少なる経済生活に満足すれば問題は無いが、此れ到底期すべからざることである。社会の混乱は事実上常に生じ、其の原因は劣等者が過分の欲求を起こすに在る。之が防止は個人意志を超越する絶対権を認め各人が之に服従を誓う以外に道は無い。是に於て相共に階級の維持者を選定し、之に対して服従契約を為したのである。君主権の起源に就いては、、、其の初めは秩序維持の欲求に発している。彼等は階級制度維持の為めに必要な君主の強権を此の時以来承認していることになる。そして君主権を背景とする階級の維持は具体的には所謂(いわゆる)義即ち礼法を通して行われるとされているから、荀子の礼治主義は此に其の根拠が存在する。」(重澤『周漢思想研究』72ページ、大空社、1998年。原本は昭和18年の出版。アンダーラインは引用者)


上の重澤氏の指摘は、T.ホッブスの社会契約論を明らかに前提としたものであり、荀子の国家思想はホッブスと軌を一にしていると考えるのである。

「したがって、各人が各人にとって敵である戦争状態に伴うあらゆることは、自己の力と創意によって得られる以外になんの保障もなしに生きてゆく人々についても同じように伴う。このような状態においては勤労の占める場所はない。勤労の果実が不確実だからである。したがって、土地の耕作も、航海も行われず、海路輸入される物資の利用、便利な建物、多くの力を必要とするような物を運搬し移動する道具、地表面にかんする知識、時間の計算、文字、社会のいずれもない。そして何よりも悪いことに、絶えざる恐怖と、暴力による死の危険がある。そこでは人間の生活は孤独で貧しく、きたならしく、残忍で、しかも短い。(中略)人々に平和を志向させる情念には、死の恐怖、快適な生活に必要なものを求める意欲、勤労によってそれらを獲得しようとする希望がある。また人間は理性の示唆によって、たがいに同意できるようなつごうのよい平和のための諸条項を考えだす。そのような条項は自然法とよばれる。」(ホッブス『リヴァイアサン』第十三章より。永井道雄訳、中央公論社)

「平和のために努力するよう命じたこの基本的自然法から、つぎの第二の法が引きだされる。すなわち、『平和のために、また自己防衛のために必要であると考えられる限りにおいて、人は、他の人々も同意するならば、万物にたいするこの権利を喜んで放棄するべきである。そして自分が他の人々にたいして持つ自由は、他の人々が自分にたいして持つことを自分が選んで認めることのできる範囲で満足すべきである』。なぜならば、各人がその好むところを行う権利を保有しているかぎり、万人は戦争の状態にある。」(同、第十四章より)


いわば荀子は、人民のために国家がある、という孟子ら儒家の民本主義思想を極限まで推し進めた結果、図らずもホッブスに類似した社会契約論による国家観に至ったということができるだろう。

周知のとおりホッブスは国家成立以前の人間を自然状態として想定し、国家のない人間は「各人が各人にとって敵である戦争状態」であると考える。人間はその恐怖と貧窮の状態から抜け出すことを希望するために、全員が万物に対する権利を放棄し、国家主権の下に服属することを契約する。国家は人間に安全と富を保障し、国民は自然状態で持っていた己のままに自由に行動する権利を放棄し、国民は国家の法が許す範囲内のみで行動する権利に制限される。これが、国家を作る社会契約である。ホッブスは国家をリヴァイアサン(Leviathan)と呼ぶ。リヴァイアサン(レヴィアタン)は、聖書に現れる強大な怪獣のことである。人間は、国家という強大な怪獣の庇護を受けることをあえて選ぶのである。しかしながら、怪獣は必要悪であり、無条件の愛を捧げる存在ではないということを念頭から放しては、ホッブスを読み誤るであろう。ホッブスは、国家が国民の生命を保護するためのあてにならない場合には、国民の権利が復活すると言うのである。

「主権者にたいする国民の義務は、主権者が国民を保護できる権力を持ち続けるかぎり、そしてそのかぎりにおいてのみ、継続するものと考えられる。人間にはほかにだれも保護してくれる者がないばあいには自己保存という生来の権利があり、いかなる契約によろうとも、これを譲渡することはできないからである。」(同、二十一章より)


荀子の社会契約論は、はたして生み出された国家がホッブスのように必要悪の怪獣である、という認識を持っているのであろうか。

富国篇第十(2)

人間は生きるために、集団で生きないわけにはいかない。だが集団の中に区別がなければ争いが起こり、争いが起こればカオスとなって、困窮するだろう。ゆえに、区別がないということは人間に大害をなすのである。いっぽう、区別を設けることは天下の真の利益となるのである。そして君主とは、区別を制定管理する最高管理者なのである。ゆえに、この君主を美しく飾ることは、天下の基本を美しく飾ることなのである(注1)。この君主に安楽な生活をさせることは、天下の基本を安楽にさせることなのである。この君主を尊ぶことは、天下の基本を尊ぶことなのである。いにしえの時代、わが国の文明の建設者である先王たちは、人間を身分に分割して格差を設けた。美しい装束住居といやしい服装住居の区別(注2)、禄の多い少ないの区別、逸楽な生活の貴族と労苦する百姓の区別(注3)、これらの区別を設けたのは、単にむやみに立派で過剰に美しい声望を与えようとしたからではない。この区別によって、仁の人を尊ぶべき文化を明らかにして、仁の人の秩序に従わせるためであった。ゆえに器物調度に模様を付け、衣装礼服に文様を織り込むのは、見て美しくしたいゆえなのではなく、単に貴賎の区別を付けるためなのである。鐘に太鼓に笛に磬(けい。石製の打楽器)、琴に瑟(おおごと)に竽(おおきなしょうのふえ)に笙(ちいさなしょうのふえ)で音楽を奏でるのは、吉事の喜びと凶事の哀しみを区別し、みなで共に喜んでその中に調和を保つためなのであり、それだけなのである。宮殿を造り展望台を築くのは、乾燥と湿気を防いで政治を執る者の徳を養い身分の上下を区別できるようにするためなのであり、それだけなのである。『詩経』には、この言葉がある。:

あでやかに、飾り立つるは
その御心、金玉のしるし
わが王(きみ)は、やすむことなく
四方(よも)の国、治めたもうぞ
(大雅、棫樸より)

この言葉が、今言ったことを指し示しているのだ。そもそも色を重ねて装束を着け、味を重ねてこれを食し、財物を集めてこれを支配し、天下を合わせてその君主となるのは、単に奢り高ぶるためではない。天下に王として君臨し、よろずの事案を片付け、よろずの財貨を処理し、よろずの民を養い、天下を統制する者は、仁の人の善に頼るのが最適であると考えるからなのである。この仁の人の知慮は天下を治めるに足り、その厚き仁は天下を安心させるに足り、その徳の名声は天下を教化するに足りる。この人を得ればすなわち治まり、この人を得なければすなわち乱れる。人民は真にこの人の知恵を頼むので、ゆえに彼らは並び立ってこの人のために労苦し、この人を安楽にしようと勤め、こうやってこの人が知恵をじゅうぶんに働かせることができるようにはからうのだ。人民が、真にこの人の仁の厚さを評価するからなのだ。ゆえに、人民はこの人のために身を投げ出して死に、決死の思いで力を尽くして助ける。この人のために器物調度に模様を付け、衣装礼服に文様を織り込んでこれを飾り立て、この人の仁徳を増させるのだ。ゆえに、仁の人が上に立てば、人民はこれを大帝のように尊び、これを父母のように親しみ、これのために生を望むことなく、決死の思いで力を尽くすのだ。この人のもたらす利益が、非常に大きいからなのである。『詩経』には、この言葉がある。:

荷物、輦(てぐるま)
車、牛。
旅の用意は、ととのうた
殿のおん為、働かん
(大雅、黍苗より)

この言葉が、今言った人民の心を指し示しているのだ。

古語に言う、「君子は徳を以てし、小人は力を以てす」と(『春秋左伝』襄公九年。『孟子』滕文公章句上には「心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治めらる」とある)。労働力とは、徳によって使役されるためにあるのだ。人民の力は、為政者の徳を待ってはじめて功績があらわれ、人民の集団は、為政者の徳を待って初めて協力し合い、人民の生産する物資は、為政者の徳を待って初めて集積され、人民の生活は、為政者の徳を待って初めて安定し、人民の寿命は、為政者の徳を待って初めて長くなるのだ。父子といえども為政者の秩序政策がなければ親しみ合うことはなく、同様に弟が兄に従うこともなく、男女も喜び合うこともない。年少者が成長するのも為政者の政策の中で行われるのであり、老年者が養われるのも為政者の政策の中で行われるのである。古語に言う、「天地之を生じ、聖人之を成す」と。この言葉は、人間を産むのは天地であるが人間を人間らしくするのは聖人である、という意味であるが、その理由が今言ったところにあるのだ。しかし、今の世はそうでない。銭への課税を重くして、人民から富を奪っている。田畑への課税を重くして、人民から食を奪っている。関所・市場の税を重くして、商業活動を困難にしている。これだけにとどまらず、人民を叩いて苛め、人民を監視して罪を暴き、人民を騙して生活を傾けて、こうして人民を相次いで倒れさせて、消耗させているのだ。人民はすべて、君主どもが不潔で暴虐であってそのうち窮地に陥るだろうことを、はっきり予測している。ここに至って家臣はその主君を殺し、下の身分の者が上の身分の者を殺し、城を敵に売る利敵行為を行い、節義にそむいて自国のために死のうとはしない。こうなるのはほかでもない、君主の自業自得なのである。『詩経』に、この言葉がある。:

言、むくいざることなく
徳、むくいざることなし
(大雅、抑より)

この言葉の意味は、いま言ったことなのである。


(注1)楊注は「美」の意味を区分の秩序の美、と取っている。増注は君主の宮室衣服飲食を美しくする、と取っている。増注に従う。
(注2)楊注は原文の「美」「惡」を褒章と刑罰と取っている。増注は宮室衣服の美悪と取る。増注に従う。
(注3)原文「或佚或樂、或劬或勞」について、集解は王念孫の説を引いて「或いは佚樂、或いは劬勞」が楊注から見ても正しいと言う。これに従う。
《原文・読み下し》
人の生羣(ぐん)する無き能わず、羣して分無ければ則ち爭い、爭えば則ち亂れ、亂るれば則ち窮す。故に分無き者は人の大害なり、分有る者は天下の本利なり、而(しこう)して人君なる者は分を管する所以の樞要(すうよう)なり。故に之を美にする者は是れ天下の本を美にするなり。之を安んずる者は是れ天下の本を安んずるなり、之を貴ぶ者は、是れ天下の本を貴ぶなり。古(いにしえ)は先王(せんおう)分割して之を等異す。故に或は美、或は惡、或は厚、或は薄、或は佚(いつ)、或は樂、或は劬(く)、或は勞ならしむるは、特(ただ)に以て淫泰(いんたい)・夸麗(これい)の聲を爲すに非ず、將に以て仁の文を明らかにし、仁の順に通ぜんとするなり。故に之が雕琢(ちょうたく)・刻鏤(こくろう)・黼黻(ほふつ)・文章を爲すは、以て貴賤を辨(べん)ずるに足らしむるのみ、其の觀を求めず。之が鐘鼓(しょうこ)・管磬(かんけい)・琴瑟(きんしつ)・竽笙(うしょう)を爲すは、以て吉凶を辨じ、歡を合し和を定むるに足らしむるのみ、其の餘を求めず。之が宮室・臺榭(たいしゃ)を爲すは、以て燥溼(そうしつ)を避け、德を養い、輕重を辨ずるに足らしむるのみ、其の外を求めず。詩に曰く、雕琢なる其の章、金玉なる其の相、亹亹(びび)たる我が王、四方を綱紀す(注4)、とは、此を之れ謂うなり。若し夫れ色を重ねて之を衣し、味を重ねて之を食い、財物を重ねて之を制し、天下を合して之に君たるは、特に以て淫泰を爲すに非ざるなり、固(もと)より以て天下に王として、萬變を治し、萬物を材(さい)し、萬民を養い、天下を兼制する者は、[爲](注5)仁人の善に若くこと莫しと爲せばなり。故に其の知慮は以て之を治むるに足り、其の仁厚は以て之を安んずるに足り、其の德音(とくいん)は以て之を化するに足る。之を得れば則ち治まり、之を失えば則ち亂る。百姓(ひゃくせい)誠に其の知を賴む、故に相率いて之が爲に勞苦し、以て務めて之を佚し、以て其の知を養うなり。誠に其の厚を美とするなり。故に之が爲に出死(しゅっし)・斷亡(だんぼう)して以て之を覆救(ふきゅう)し、以て其の厚を養うなり。誠に其の德を美とするなり、故に之が雕琢(ちょうたく)・刻鏤(こくろう)・黼黻(ほふつ)・文章を爲して以て之を藩飾し、以て其の德を養うなり。故に仁人上に在れば、百姓之を貴ぶこと帝の如く、之に親しむこと父母の如く、之が爲に出死・斷亡して愉(とう)せ不(ざ)る(注6)者は、它の故無し、其の是とする所誠に美に、其の得る所誠に大に、其の利とする所誠に多なればなり。詩に曰く、我が任我が輦(れん)、我が車我が牛、我が行既に集(な)る、蓋(みな)云(ここ)に歸せんか、とは、此を之れ謂うなり。
故(こ)に曰く、君子德を以てすれば、小人力を以てす、と。力なる者は、德の役なり。百姓の力は、之を待ちて而(しこう)して後に功あり、百姓の羣(ぐん)は、之を待ちて而して後に和し、百姓の財は、之を待ちて而して後に聚(あつ)まり、百姓の埶(せい)は、之を待ちて而して後に安く、百姓の壽(じゅ)は、之を待ちて而して後に長し。父子得ざれば親しまず、兄弟得ざれば順ならず、男女得ざれば歡せず、少者は以て長じ、老者は以て養わる。故(こ)に曰く、天地之を生じ、聖人之を成す、とは、此を之れ謂うなり。今の世は而(すなわ)ち然らず、刀布(とうふ)の斂(れん)を厚くして、以て之が財を奪い、田野の税を重くして、以て之が食を奪い、關市(かんし)の征(ぜい)を苛にして、以て其の事を難くす。然るのみならず、有(また)掎絜(きけつ)・伺詐(しさ)、權謀(けんぼう)・傾覆(けいふく)、以て相(あい)顛倒(てんとう)し、以て之を靡敝(ひへい)す。百姓曉然(ぎょうぜん)として、皆其の汙漫(おまん)・暴亂(ぼうらん)にして、將に大いに危亡せんとするを知るなり。是を以て臣或は其の君を弑し、下或は其の上を殺し、其の城を粥(ひさ)ぎ、其の節(せつ)に倍(そむ)いて、其の事に死せざる者は、它(た)の故無し、人主自ら之を取るなり。詩に曰く、言(げん)として讎(むく)いざることない、德として報(むく)いざることなし、とは、此を之れ謂うなり。


(注4)現行の『詩経』テキストは彫琢を追琢(ついたく)となし、亹亹を勉勉(べんべん)とする。いずれも古音では通じる。
(注5)ここにある「爲」を増注は衍字と言う。
(注6)原文「出死斷亡而愉」。この「愉」字について、楊注は「愉は歓」と言う。よってこのまま訳したならば、「こころよく決死の思いで力を尽くす」となるだろう。新釈の藤井専英氏は、原文を尊重して楊注のように解釈している。いっぽう集解の王念孫は王覇篇(6)においては「出死斷亡而不愉」と「不」字が加わっていることを指摘し、さらに『群書治要』の引用では「不偸」に作ることを指摘して、ここは「不」字が脱落していて「愉」字は「偸」に通じ、したがって「生を偸(ぬす)まず」の意である、と言う。王念孫に従っておく。なお後の富国篇(4)注5も同様に解釈する。

荀子は、理想の国家と現実の国家を描き出す。現実の国家は、人民の生命と富を守るどころかこれを奪う存在である。なので、人民は背き秩序は壊れる。いっぽう理想の国家はこの篇の(1)に描かれたように、法を敷いて秩序を示し、人民の経済活動を可能な限り妨げない。なので人民は裕福となり、君主の善政を慕うようになる。この君主が華麗な宮殿、豪華な衣食、壮麗な音楽を保持しようとも、それは秩序という利益をもたらす装置なのであるから、許容されるべきである。荀子がここで君主の豪奢を擁護するのは、これから後に国家装置の華美を捨てよと主張する墨家を批判することが目的である。

荀子は、善政を行う君主を守るためならば人民はこの人のために身を投げ出して死に、決死の思いで力を尽くして助けると言う。しかし荀子の国家の起源から見れば、人民は生命の安全と経済的利益を得るために、君主に服属しているはずである。その人民が、身を投げ出して死ぬだろうと荀子は言うのである。これは、矛盾していないだろうか?

ホッブスは、国民が自発的に戦うのでなければ、たとえ主権者が死刑をもって処罰する権利を持っていても、国民は兵士として戦うことを拒否することが許されていて、しかも不正ではないと言う(『リヴァイアサン』第二十一章)。それはホッブスの国家の起源論から言えば当然の帰結であって、自らの生命を危うくする命令に人が従う義務は本来ないのである。ホッブスは戦場で兵士が逃亡するのは不名誉というべきであって、不正(つまり、義務違反)というべきでないというのも、彼の国家の起源論から派生する主張である。

もっとも、ホッブスは国民が戦う義務がある場合を、一つ挙げる。それは、国家が外敵から攻められて防衛する必要が生じた場合である(同、第二十一章)。どうしてかといえば、この場合には契約によって作られたコモンウェルスが破壊される危険があるからであり、生命と富を守る契約を防衛する必要があるからである。

ならば荀子が社会契約論から始めて、しかし善政を行う君主を人民が命を賭けて守る理由は、人民がコモンウェルスを守るという意識に立つからだと想定しているのであろうか?つまり、人民は生命と富を与える善政のシステムを守ることが利益であるために戦うのだ、と解釈するべきなのであろうか。
そう解釈することも、できるだろう。ならば、荀子の人民は君主を慕っているわけでは決してないことになる。人民が慕っているのは、隣国に比べたら優良な政治経済のシステムであるにすぎない。荀子の叙述は伝統的な儒家の聖王観の言葉を用いているために、孟子の王と人民との人間的きずなによる団結、という考えと区別が付きにくい。もし荀子が君主と人民との人間的きずなを守るために戦う、と想定しているのであれば、荀子の社会契約論は破綻している。しかしもし荀子が自国の政治経済システムを守るために人民は戦う、と想定しているのであれば、荀子の理論において整合性は保たれるであろう。『孟子』に、このような対話がある。

滕(とう)の文公が質問した。
滕文公「滕は小国で、斉と楚の間にあります。斉に付くべきでしょうか、楚に付くべきでしょうか?」
孟子「そのような外交は、私にはわかりかねます。だがやむをえない場合には、一つの策があります。堀を深くし、城を固め、人民と共に死守するのです。たとえ死ぬようなことがあっても人民が逃げ出さなければ、国を守ることができるでしょう。」
梁恵王章句下、十三


上のような君民一体の防衛ができる理由を、孟子は仁義の君主であれば人民がこれを慕い懐き、共に戦うことを望むところに見出す。孟子は、国家が統一される原動力は、君主の仁義の徳が人間を動かして慕わせるところにあると主張するからである。

もし上の君民一体の防衛ができる理由を荀子の原理に従って述べるとすれば、人民は滕国という政治経済のシステムを失うのを恐れて侵略者と戦う、ということになるであろう。孟子の原理は、現代では企業やクラブチームがトップの下に団結する原理として、今でも有効であるはずだ。荀子の原理は、先進国の国民がばくぜんと考えていることと言えなくはない。しかしながら、ナショナリズムの原理は、そんな自国の政治経済のシステムへの愛着、といったものとは違うはずである。(それならば後進国・中進国のほうが先進国よりもナショナリズムが強烈にあることが、説明できない)このことについては、また改めて考えたい。私は、荀子の原理では国民の団結はもたらされないだろう、と考えるところである。

「人民の力は、為政者の徳を待ってはじめて功績があらわれ、人民の集団は、為政者の徳を待って初めて協力し合い、人民の生産する物資は、為政者の徳を待って初めて集積され、人民の生活は、為政者の徳を待って初めて安定し、人民の寿命は、為政者の徳を待って初めて長くなるのだ」と荀子は言う。荀子の経済政策は、孟子のそれに比べたら法秩序の維持に重点を置き、経済活動は各産業の生産活動をそれぞれに発展させるべきであると考えて、孟子の農本主義よりは総体的な視野に立って産業の自由な生産活動による発展を認める立場にある。しかしながら、それでも荀子はここまで国家が人間の生活を制御するために必要不可欠であり、人間の生活の隅々まで国家の法秩序が世話をしてる、と述べる。これは、現代の国家もまたいかに自由主義経済を取っていたとしても、国家が国家である以上は人間の生活をここまで管理するものである、という構図をかえって見せてくれている。孟子の統制的経済政策を取ろうが、荀子の自由主義的経済政策を取ろうが、両者の理想とする国家はM.ウェーバーの言う「家父長的家産制」であり、国家は国民の福祉のために隅から隅まで世話を焼いて、これを管理下に置こうとするのである。それは善意の表象を取って行うのであるが、本質は国民を完全に支配するためである。「家父長的家産制」は、過去の時代の帝国の現象ではない。

国家が福祉政策をとることは、現代国家に固有のことではないし、階級支配の隠蔽でもないのです。たとえば、そこに、ウェーバーは「家父長的家産制」(アジア的国家)と封建制の違いの一つを見いだしています。すなわち、封建制が行政機能を極小化し、自分自身の経済的存立にとって不可欠な範囲内においてしか隷属民の境遇を考えないのに対して、家父長制的家産制においては、行政的関心が極大化される。
(柄谷行人『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて』岩波新書、123ページ)


儒家の孟子や荀子の理想国家は、国家が民生を安定する政策を手取り足取り行うものである。それが井田制による直接的平等化政策であろうと、礼法による管理を通じた間接的成長政策であろうと、国家が人民を気遣い管理する政策を描くところは同じである。なので孟子の理想国家は20世紀の社会主義国家に奇妙に類似しており、荀子の理想国家は自由主義陣営の管理された法治国家によく似ている。

ホッブスは、国民の自由は「法の沈黙」つまり主権者が法を制定していない範囲で行う自由である、と喝破するところである(同、第二十一章)。国家が本当に荀子の言うところまで人間の生活に不可欠なのであろうか、という問題もまた、いずれ改めて考えなければいけない。

富国篇第十(3)

天下全てを充足させる道を言おう。
それは、人間の区分を明らかにすることによって達成される。土地をまとめて区画を整備し、雑草を除いて穀物を植え、肥やしを投入して田畑を肥沃にすること。これは庶民農夫の行うことである。だが暦どおりに農作業を指示して農民を督励し、作業を進めて収穫を挙げさせ、人民を調和させ、人民を怠けさせないこと。これは農業監督官(注1)の行うことである。高地で水不足もなく、低地で洪水もなく、寒い季節と暑い季節とが調和して、五穀が時期どおりに実る。これは自然の行うことである。庶民・官吏をすべてまとめあげ、これに恩恵をもたらし、これに統制を与え、結果凶作・水害の年であったとしても人民が飢えて凍える苦しみから守ること。これは、聖君・賢相の行うことである。

墨子の主張は、顔を曇らせて天下のために不足を憂う。だがかの者の不足説は、天下全体のわずらいではない。単に墨子が個人的に憂い、心配しすぎているだけのことである。土から五穀が生じて人間がこれをよく管理すれば、一畝(13.5m×13.5m)ごとに数盆(12斗8升の数倍)の収穫が、一年で二回得られるだろう。さらに瓜、桃、棗(なつめ)、李(すもも)は一本の木から大量に採ることができて、香味野菜ほかの野菜類もまた大量に採ることができて、家畜類は一頭で車がいっぱいになるほど肥え太り、黿(でかいすっぽん)、鼉(わに)(注2)、魚、鼈(すっぽん)、鰌(どじょう)、鱣(かわへび)は時期が来れば子が発生して一群を成し、空を飛ぶ鳥も鳧(かも)も鴈(かり)も霞海のように群れ、昆虫ほかもろもろの生物もその隙間に発生し、こうして人間が食べる食材は、数え切れないほど有り余っているのである。そもそも天地が万物を生じるとき、もとより余剰があるのであって、人に食わせるには十分であり、また麻、葛(くず。繊維を取る)、繭糸(けんし)、鳥獣の羽毛に歯に革もまたもとより余剰があるのであって、人の衣料を作るには十分なのである。そもそも余剰があるのが公理であり、不足は天下全体のわずらいではない。単に墨子は個人的に憂い、心配しすぎているだけのことである。天下全体のわずらいとは、争乱による損害のことである。この争乱を起こしているのは誰だ、とどうして試しに探さないのか?私が思うに、墨子の非楽説は天下を乱し、墨子の節用説は天下を貧窮させているのである。何も私は、墨子を個人攻撃しているのではない。彼の学説が、争乱と貧窮となることが不可避なのである。墨子がもし大は天下を保有し、小は一国を保有したならば、彼はしゅんとして粗衣粗食し、憂えて音楽を廃止するであろう。こんなことをすれば、人民は痩せる。痩せれば、欲が満たされない。欲が満たされなければ、褒賞昇進を行うこともできないだろう。墨子がもし大は天下を保有し、小は一国を保有したならば、労役の人夫を減らし、官職を整理し、君主自ら功績を挙げようと労苦し、人民と同じ仕事を行い、人民と共に働こうとするであろう。こんなことをすれば、君主の威厳はなくなる。威厳がなくなれば、賞罰が行われない。賞が行われなければ賢者を昇進させることもできず、罰が行われなければ愚者を追放することもできないだろう。賢者が昇進せず愚者が追放されないならば、人の能不能に応じて官に付けることができなくなるだろう。こんなことになれば万物の適正な管理ができなくなり、事態の変化に応じることができなくなり、天の時・地の利・人の和を利用する機会を失うだろう。天下は焼け焦げたかのような最悪の事態となり、ここで墨子が粗衣粗食しましょう、縄の帯で節約しましょう、豆スープと水で我慢しましょう、と清貧のすすめをほざいたしても、どうして天下を満足させることができようか。根元から切り倒し、水源から枯らして、天下を焼け野原にしてしまったのである。

ゆえにわが国の文明の建設者である先王たちや聖人たちは、そのような治め方をしなかった。人に君臨する者は、美にせず飾らずでは人民をまとめることができず、富まず厚からずでは家臣を管理することはできず、威あらず強からずでは暴を禁じて凶悪に勝つことができないのを理解していた。ゆえに必ず大鐘(おおがね)をつき、鳴鼓(たいこ)を撃ち、笙竽(しょうのふえ)を吹き、琴瑟(こと)を弾いて、これで美しい音楽を聞いて楽しみ、器物調度に模様を付け、衣装礼服に文様を織り込んで、これで美しい工芸品を見て楽しみ、家畜の肉を食い、穀物を食い、五味を味わい、香辛料を味わって、これで美味を味わって楽しみ、こうした後に労役の人夫を増やして、官職と備え、あるいは褒賞を与え、あるいは刑罰を厳しく下して、人心を引き締めたのであった。こうして天下の人民たちに向けて、欲しいものは君主の手元にしかない、ということを示すことによって、褒賞がよく行われるのである。また畏怖するものは君主の手元にしかない、ということを示すことによって、刑罰によく威が加わるのである。賞が行われて罰に威があれば、賢者は昇進することができて、愚者は追放することができて、人の能不能に応じて官に付けることができるのだ。こうなれば万物の適正な管理ができて、事態の変化に応じることができて、天の時・地の利・人の和を利用することができて、財物は泉のように湧き出て、大河や海のように満ちあふれ、丘や山のように積み上がり、時々焼却処分しなければ収蔵場所がなくなるほどになる。こうであるのに、なんで天下が不足することを心配するのか。ゆえに儒家の政策術が真に実施されるならば、天下は大いに富み、楽に功績を挙げることができて、鐘を撞いて太鼓を撃って和す泰平の世となるのである。『詩経』に、この言葉がある。:

鐘鼓、喤喤(こうこう)たり
管磬(かんけい)、瑲瑲(しょうしょう)たり
福を降(くだ)す、穰穰(じょうじょう)たり
福を降す、簡簡(かんかん)たり
威儀、反反(はんはん)たり
既に酔い、既に飽きぬ
福禄(ふくろく)、反(かえ)りて来る
(周頌、執競より)

先王のこのような泰平の世は、今言った統治術によって行われたのである。

しかし墨子の政策術が真に実施されるならば、天下は倹約を尊重してますます貧しくなり、上は非闘を掲げながらも下は毎日争う結果となり、労苦憔悴してさっぱり功績が挙がらず、いつも暗い顔して憂い、音楽を廃絶して毎日不和となるのである。『詩経』に、この言葉がある。:

天災、重ねて降り
争乱、天下に満つる
民は、一人として称えず
上は、一度として懲りず
(小雅、南山より)

墨子の政策術の結果は、このようになるのだ。


(注1)原文は「將率」。集解は古代の農官の例を挙げて、軍事指揮官のような官吏であるかと言っている。戦国時代、各国は灌漑を行って新田拡大に乗り出していた。そのような直営の新田の経営は、官吏の指揮のもとにあったと思われる。荀子がここで自然農村よりも新田の農業監督官のようなものを想定していたことは、十分にありえる。
(注2)鼉(だ)は鰐(わに)のことと言う。長江には固有種のワニがいたが、絶滅が危惧されている。
《原文・読み下し》
天下を兼足(けんそく)するの道。分を明(あきら)かにするなり。地を掩(おお)い畝(うね)を表(ひょう)(注3)し、屮(くさ)を刺し穀を殖え、糞を多くし田を肥(こや)すは、是れ農夫衆庶の事なり。時を守り民を力(つと)めしめ、事を進め功を長じ、百姓を和齊(わせい)し、人をして偸(おこた)らざらしむるは、是れ將率(しょうすい)の事なり。高き者も旱(かん)せず、下(ひく)き者も水せず、寒暑和節して、五穀時を以て孰するは、是れ天下(注4)の事なり。若し夫れ兼ねて之を覆い、兼ねて之を愛し、兼ねて之を制し、歲凶敗(きょうはい)・水旱(すいかん)すと雖も、百姓をして凍餧(とうだい)の患(うれい)無からしむるは、則ち是れ聖君・賢相の事なり。
墨子の言は、昭昭然(しょうしょうぜん)として天下の爲に不足を憂う。夫の不足は天下の公患に非ざるなり、特(ひとり)墨子の私憂・過計(かけい)なり。今是れ土の五穀を生ずるや、人善く之を治むれば、則ち畝ごとに數盆(すうぼん)あり、一歲にして再び之を獲(う)、然る後瓜桃(かとう)・棗李(そうり)は、一本にして數うるに盆鼓(ぼんこ)を以てし、然る後葷菜(くんさい)・百疏(ひゃくそ)は澤を以て量り、然る後六畜(りくきく)・禽獸(きんじゅう)は一にして車を剸(もっぱら)にし、黿鼉(げんだ)・魚鼈(ぎょべつ)・鰌鱣(しゅうせん)は時を以て別れ、一にして羣(ぐん)を成し、然る後飛鳥(ひちょう)・鳧鴈(ふがん)は煙海の若く、然る後昆蟲(こんちゅう)・萬物其の間に生じ、以て相食養す可き者、勝(あ)げて數う可からざるなり。夫れ天地の萬物を生ずるや、固より餘り有りて、以て人を食(やしな)うに足り、麻葛(まかつ)・繭絲(けんし)、鳥獸の羽毛(うもう)・齒革(しかく)、固より餘り有りて、以て人に衣(き)するに足る。夫有餘(ゆうよ)足らざるは、天下の公患に非ざるなり、特(ひとり)墨子の私憂過計なり。天下の公患は、亂之を傷つくるなり。胡(なん)ぞ嘗試(こころみ)に相與(とも)に之を亂る者は誰ぞと求めざるや。我以(おもえら)く墨子の非樂(ひがく)や、則ち天下をして亂れしめ、墨子の節用や、則ち天下をして貧ならしむ、將に之を墮(こぼ)たんとするに非ざるなり、說免れざるなり。墨子大は天下を有(たも)ち、小は一國を有ち、將(は)た蹙然(しゅくぜん)として麤(そ)を衣(き)惡を食し、憂戚して樂を非とせん。是(かく)の若くなれば則ち瘠せ、瘠せれば則ち欲を足さず、欲を足さざれば則ち賞行われず。墨子大は天下を有ち、小は一國を有たば、將(は)た人徒を少なくし、官職を省き、功を上として勞苦し、百姓と事業を均しくし、功勞を齊(ひと)しくせん。是の若くなれば則ち威あらず、威あらざれば則ち賞罰(注5)行われず、賞行わざれば、則ち賢者得て進む可からざるなり、罰行わざれば、則ち不肖者得て退く可からざるなり。賢者得て進む可からず、不肖者得て退く可からざれば、則ち能・不能得て官す可からざるなり。是の若くなれば、則ち萬物宜しきを失い、事變應(おう)を失い、上は天の時を失い、下は地の利を失い、中は人の和を失い、天下敖然(ごうぜん)として、燒くが若く焦(こが)すが若く、墨子之が爲に褐(かつ)を衣(き)索(なわ)を帶(おび)にし、菽(まめ)を嚽(すす)り水を飲むと雖も、惡(いず)くんぞ能く之を足さんや。既に以て其の本を伐り、其の原を竭(かつ)して、天下を焦せり。
故に先王・聖人之を爲すは然らず。夫の人の主上爲る者は、不美不飾の以て民を一にするに足らず、不富不厚の以て下を管すに足らず、不威不强の以て暴を禁じ悍(かん)に勝つに足らざるを知る。故に必ず將(は)た大鐘(たいしょう)を撞き、鳴鼓(めいこ)を擊ち、笙竽(しょうう)を吹き、琴瑟(きんしつ)を彈じて、以て其の耳に塞(み)たし、必ず將た錭琢(ちょうたく)・刻鏤(こくろう)・黼黻(ほふつ)・文章に、以て其の目を塞(み)たし、必ず將た芻豢(すうけん)・稻粱(とうりょう)・五味・芬芳(ふんほう)、以て其の口を塞たし、然る後人徒を衆(おお)くし、官職を備え、慶賞に漸(ひた)し、刑罰を嚴にして、以て其の心を戒め、天下生民の屬をして、皆己の願欲する所の舉(みな)是于(ここに)在ることを知らしむる、故に其の賞行わる。皆己の畏恐(いきょう)する所の舉是于(ここに)在ることを知る、故に其の罰威あり。賞行われ罰威あれば、則ち賢者得て進む可きなり、不肖者得て退く可きなり、能・不能得て官す可きなり。是(かく)の若くなれば則ち萬物宜しきを得、事變應を得、上は天の時を得、下は地の利を得、中は人の和を得、則ち財貨渾渾(こんこん)として泉源の如く、汸汸(ほうほう)として河海の如く、暴暴(ばくばく)として丘山の如く、時に焚燒(ふんしょう)せざれば、是を臧(ぞう)する所無し。夫れ天下何ぞ不足を患(うれ)えんや。故に儒術誠に行わるれば、則ち天下は大にして富み、使(いつ)(注6)にして功あり、鐘を撞き鼓を擊ちて和す。詩に曰く、鐘鼓(しょうこ)喤喤(こうこう)、管磬(かんけい)瑲瑲(しょうしょう)、福を降(くだ)すこと穰穰(じょうじょう)、福を降すこと簡簡(かんかん)、威儀反反(はんはん)、既に醉い既に飽き、福祿(ふくろく)來反(らいはん)す、とは、此を之れ謂うなり。故に墨術誠に行わるれば、則ち天下儉を尚(たっと)びて彌(いよいよ)貧しく、鬭(とう)を非として日に爭い、勞苦・頓萃(とんすい)して愈(いよいよ)功無く、愀然(しゅうぜん)として憂戚(ゆうせき)し、樂を非として日に和せざらん。詩に曰く、天方(まさ)に薦(かさ)ねて瘥(うれい)、喪亂弘多(こうた)なり、民言嘉(よ)きこと無きも、憯(かつ)て懲むること莫し嗟(ああ)、とは此を之れ謂うなり。


(注3)楊注は、「表」は「明」と言う。猪飼補注は、「表は猶高きがごとしなり。言うは土を覆いて畝と爲す」と言う。
(注4)集解にて王念孫は「下」字を衍字(よけいな字)と言い、増注は「天下は天地に作るべし」と言う。
(注5)集解・増注ともに「賞」は衍字と言う。しかしこれがあった方が後と対応するので、残す。
(注6)集解の王念孫・増注ともに王覇篇に「佚にして功あり」とあることを引いて「使」は「佚」の誤りとなす。猪飼補注は直下の文と対であり「愈(いよいよ)功あり」とするべきで「使」は「愈」の誤りとなす。決め手に欠けるが、集解・増注により訳す。

ここは、荀子の墨家批判の部分である。
墨家は荀子の弟子の韓非子が「世の顕学は、儒墨なり」と言い、戦国時代に儒家と並んで二大思想勢力であった。孟子は墨家を攻撃したが、荀子もまた攻撃するのは、同じ儒家に属しているからである。両者とも、墨家に対しては反論するだけであり、その良い所を認めるなどは一切ない。儒家と墨家は、他人への仁愛が人間として最重要な徳であると主張する点では、共通している。なまじ共通点があるから、細部の違いによって天下の主導権をどちらが取るか、で争いとなった。両者は近親憎悪と言うべきかもしれない。

いちおうは、両派の相違点を整理しておこう。

対立点 儒家の主張 墨家の主張
他人への愛について 人間は近親を優先して愛するのが自然な性質であり、よって近親にまず親しみ、その延長線上に一般人に仁愛を伸ばすべきである。(差別愛) 人間は自分の近親も他人の近親も等しく愛するべきである。儒家の愛は差別である。(兼愛説)
君主の責務について 君主は家臣を信任して働かせ、家臣に慕われることに専念するべきである。自ら働くのは礼ではない。君臨して動かず治めた堯舜を理想とする。 君主は天下のために知恵をふりしぼり、誰よりも率先して働くのが第一人者の責務である。勤労して功績を挙げた禹を理想とする。
音楽・葬儀について 音楽は君臣の和合を促す。葬儀は親への哀悼を示す。よって両者とも大切な文化であり、これを豪華にするのは正しい。 音楽は無駄なぜいたくである。死んだ人間の葬儀で富を消費することは、生きている人間の生活を圧迫する。よって音楽は廃絶し、葬礼は簡単に済ますべきである。(非楽・節葬)
超自然的権威について 天命が人間の運命を左右する。しかし天命を人間が知覚することはできず、人間は努力するのみである。生きる時代が不利なこともまた天命であり、そのときには身近な人々を教化して一人正しく生きるのもやむをえない。 鬼神は人間世界に介入する力を持ち、善行には報いを与え悪行には罰を与える。だから鬼神を信じて、善行に邁進せよ。儒家の人生観は、言い訳をつけて現世から引っ込んでいるばかりで卑怯である。
国家の戦争について 民を救う義戦は行うべきである。仁義の軍は民から歓迎されるため、ほとんど戦わずして勝つはずである。 他国を侵略する戦争は、不義である。墨家は侵略から防衛する戦いを実践し、侵略の意図をくじかなければならない。

儒家のほうがより保守的な思想であり、墨家のほうがより開明的な主張をする。しかし墨家は鉅子(きょし)というリーダーの統制のもと集団で命を張って小国の防衛のために義軍として働く、狂信的な側面もまたあった。儒家の目的は、朝廷の中で政治家として重きを成すことである。墨家は都市の商工業者など下層民が主な信徒であり、名を挙げることなく信仰のために死んでいった。

『孟子』では墨家への具体的な批判点は、兼愛説であった。孟子は親に仕えつづけた聖王舜の孝を称え、親子のきずなを人間の最も基本的な倫理と考えた。人間は最も身近な親への孝を最初の善なる関係として、それを扇を広げるように他の人間への仁へと広げていくのが、孟子が描く仁の人である。孟子にとって親を大事にしない人間は、そもそも人間として誰も愛することができない。なので、自分の親と他人の親とを等しく愛せよという墨家を自説への最大の敵として攻撃したのであった。
いっぽう荀子は、別の視点から墨家を批判する。それは、これまで述べた自らの国家観と相容れない、墨家の礼楽不用論が対象である。墨家は非楽・節葬を唱え、儒家の礼楽を無駄なぜいたくと批判する。だが荀子にとって礼は社会の区別等級を付けることであり、それを通じて富の階級間の配分比率を規定するという重要な経済的効果がある。よって礼は社会に必要な装置であるから、墨家の礼楽不用論を却下するのである。孟子・荀子ともに儒家として墨家を批判するが、さすが両者は批判の力点が違う。孟子は倫理面から墨家を批判し、荀子は墨家の主張が社会システムとしてうまく機能しないと批判する。

書かれているように、荀子は社会において資源が不足していると考えず、ずいぶんと景気のよい主張を行う。荀子は墨家を批判することを通じて、生産活動と消費活動を肯定するのである。なるほど当時の中国大陸にはまだ開発余地があったのであり、戦乱が去れば経済が成長する用意ができていたのは、戦乱が終わった漢代前期が長期の経済成長を謳歌したところを見ると理解できる。だから、荀子の主張は少なくとも彼の時代に合ったものであった。
経済成長は自然環境の許容する範囲と、時代の人間が持っている技術水準によって天井が決まるものである。自然の開発余地がある段階では、人口が増えれば経済は成長していく。だが自然の開発余地が尽きてしまえば、技術の進歩がない限り生産は打ち止めとなり、人口がそれでも惰性で増加すれば困窮してしまう。荀子以降の中国社会は、こうして成長期と停滞期を繰り返していた。だから、荀子の資源観は歴史のある時期においては通用し、別の時期には通用しないと考えたほうがよいであろう。何よりも、現代の日本経済で難題なのは物資の問題ではなく、人間という資源の活用方法である。荀子のアプローチは、途上国段階の経済のキャッチアップ政策には(資源の制約の問題を抜きにすれば)有効であっても、現代日本の経済にはちょっと古い課題であると私は評価したい。

富国篇第十(4)

小さな事業を施して人民をなつけてあやし、冬の日には温かい粥などを作ってやり、夏には暑気を払う瓜や麮(きょ)(注1)をふるまってやり、これでしばらくの間名声を偸(ぬす)み取る。これは偸道(とうどう)である。しばらくの間悪質な人民の名声を得ることができるが、しかし長久の道ではなく、事業は絶対に成らず功績は絶対に挙がらない。これは悪質な統治なのである。だが断固して行うといった様子で(注2)長期間人民を労役に動員し、事業をひたすら進めて功績にはやり、批判を軽視して人民の離反を軽んじ、結果事業は成ったが人民は憎悪する。これもまたいけない。一時的な人気取りとか無理のある強行策とかは、結局崩れ落ちてしまうものであり、絶対にかえって功績が挙がらないものなのだ。ゆえに、小さな事業で名声を得るのもよくなく、功績を挙げることにはやって人民の声を忘れてしまうのも、よくないのである。これらは全て悪質な道である。ゆえに、いにしえの統治者たちのやり方は違っていた。人民を働かせても夏にはへたらず冬には凍えず配慮し、たとえ急がせたとしても人民の力を傷つけることなく、たとえゆっくりさせたとしても人民の力をだらけさせることなく、ついに事業が成って功績が挙がれば上下ともに富裕となり、こうして人民はみな主君を愛し、まるで流れる水のごとくに人が服属し、主君に親しんで喜ぶことは父母のごとくで、主君のために身を投げ出して死に、決死の思いで力を尽くして助けることを喜んだ。こうなったのは他でもない、中信と調和と均等を徹底したからなのである。ゆえに、国君として人民に君臨する者が時に応じて功績を挙げようとするならば、まず第一に人民を協調させてよく調整すれば一気に急がせるよりも早く達成できるのであり、第二に忠信で均等があれば褒賞があるよりも喜ばれるのであり、第三に先に自らの至らない点を改めた上でしかる後に他人の過失を責めることを実施すれば、刑罰を与えるよりも畏怖されるのである。これら三つの徳があって上に誠実があれば、下はこの者に応じること明らかとなり、名声が広がるまいとしても広がらずにはいられないであろう。『書経』康詰に、この言葉がある。:

君徳が大いに明らかであれば、人民は服するであろう。人民は力いっぱい勤め、協調して事業が早く進むだろう。

いま、この言葉の説明をしたのである。ゆえに教化せずに誅罰すれば、刑罰の数も犯罪も増すばかりである。だが教化してしかも誅罰しなければ、それはそれで悪質な人民が懲りないことになる。また誅罰するのに褒賞がないならば、働く人民でもやる気が起きないだろう。だが誅罰・褒賞を行ってもそれを正しい基準(注3)によって行わないならば、下は疑心を抱き空気は険悪となって人民の心が一つにならないであろう。ゆえにわが国の文明の建設者である先王たちは、礼儀規則を明らかにして人民を一つになし、忠信を尽くして人民を愛し、賢人を尊んで能者を使って人民に序列を与え、爵位と服装と褒賞によって人民を厚遇し、事業は最適な時を選び、人民の負担を軽くして調整し、こうしてひろびろと人民の上に君臨して、人民を養うことがまるで赤子を育てるがごときであった。先王の統治はこのようであったから、邪悪は起こることなく、盗賊も現れることなく、善に化した者は励んで勤めたのであった。どうしてこれができたのであろうか。先王の道は行くに易く、先王の礼法は堅固であり、先王の政令は一つに定まり、先王の基準は明確だったからであった。「上が一なれば則ち下一なり、上が二なれば則ち下二なり。これをたとうるに、草木の枝葉は必ず草木の本体に似るがごとし」という言葉があるが、これは今述べた治乱の道理を言っているのである。(君主が正道に一つであれば、人民は一つにまとまる。君主の道が二つにぶれたならば、人民は割れて離反する。草木の枝葉が必ず本体と類似しているのと同じで、人民の姿は君主の姿の鑑なのである。)


(注1)麮について集解は郝懿行の説を引いて大麦の甘い粥という。渇きを止めるという。ビールの原液か、あるいはロシアのクヴァスのようなものだろうか。
(注2)原文「傮然(そうぜん)」。集解は「傮」は「嘈」に通じると言い、紛雑の意味と言う。猪飼補注は、進み趨く貌(かお)と言う。猪飼補注を取る。
(注3)原文「類」。やはりここも基準に則った法解釈があるかどうか、という意味である。
《原文・読み下し》
事を垂れて民を養い、是を拊循(ふじゅん)し、是を唲嘔(あいおう)し、冬日は則ち之が饘粥(せんじゅく)を爲(つく)り、夏日は則ち之に瓜麮(かきょ)を与え、以て少頃(しばらく)譽(ほまれ)偷取(とうしゅ)す、是れ偷道(とうどう)なり。以て少頃姦民の譽を得可し、然り而(しこう)して長久の道に非ざるなり。事必ず就らず、功必ず立たず、是れ姦治なる者なり。傮然(そうぜん)として時を要し民を務めしめ、事を進め功を長じ、非譽(ひよ)を輕んじて失民を恬(やす)んじ、事進んで而(しか)も百姓之を疾(にく)む、是れ又[不可](注4)偷偏(とうへん)なる者なり。徙(いたずら)に壞(かい)し墮落して、必ず反って功無し。故に事を垂れ譽を養うも不可なり。功を遂ぐるを以て民を忘るるも亦不可なり。皆姦道なり。故に古の人之を爲すは然らず。民をして夏には宛暍(うんあつ)せず、冬には凍寒(とうかん)せず、急なるも力を傷つけず、緩なるも時に後れざらしめ、事成り功立てば、上下俱(とも)に富みて、百姓皆其の上を愛し、人之に歸すること流水の如く、之を親しみて歡ぶこと父母の如く、之が爲めに出死・斷亡して愉(とう)せ不(ざ)る(注5)者は它の故無し、忠信・調和・均辨(きんべん)の至りなればなり。故に國に君とし民に長たる者は、時に趨き功を遂げんと欲すれば、則ち和調累解せば、急疾よりも速(すみや)かに、忠信均辨なれば、賞慶よりも說(よろこ)び、必ず先ず其の我に在る者を脩正して、然る後に徐(おもむろ)に其の人に在る者を責むれば、刑罰よりも威(おそ)る。三德なる者上に誠あれば、則ち下之に應ずること影響(えいきょう)の如く、明達すること無からんと欲すと雖も得んや。書に曰く、乃ち大明ならば服す、惟れ民其れ力懋(りきぼう)し、和して疾きこと有り、とは、此を之れ謂うなり。故に敎えずして誅すれば、則ち刑繁にして邪に勝(た)えず、敎えて誅せざれば、則ち姦民懲りず、誅して賞せざれば、則ち勤屬(きんれい)(注6)の民勸(すす)まず、誅賞して類ならざれば、則ち下疑い、俗險(けん)にして百姓一ならず。故に先王禮義を明かにして以て之を壹(いつ)にし、忠信を致して以て之を愛し、賢を尚(とうと)び能を使いて以て之を次(じ)し、爵服慶賞して以て之を申重(しんちょう)し、其の事を時にし、其の任を輕くして、以て之を調齊(ちょうせい)し、潢然(こうぜん)として之を兼覆(けんふ)し、之を養長すること、赤子を保するが如し。是(かく)の如くなるが故に姦邪作(おこ)らず、盜賊起らずして、善に化する者勸勉(きんべん)す。是れ何ぞや。則ち其の道易く、其の塞固く、其の政令一に、其の防表(ぼうひょう)明かなればなり。故に曰く、上一なれば則ち下一なり、上二なれば則ち下二なり、之を辟(たと)うるに屮木(そうもく)の枝葉は必ず本に類するが若し、とは、此を之れ謂うなり。


(注4)原文の「不可」を集解は後の「不可」字の誤重とみなし、増注もまた衍(よけい)とみなす。
(注5)富国篇(2)注6に同じ。
(注6)「屬」は「厲」の誤り。「勤厲」は、はげむの意。

ここは、(1)~(2)を再説したものである。

社会契約論から始った荀子の国家は、具体的な理想を説明すると「家父長的家産制」国家の運営の姿をはっきりと見せる。民の父母である、慈愛あふれる国家像である。これが荀子たち儒家の理想国家像であるから、やむをえない。荀子のこのあたりの叙述は、孟子のこのあたりの叙述とまるで同じである。人民のための国家、という儒家のメインテーマが共通しているから、目的に到達するための政策論は違っているが、結果としての理想国家のイメージはほとんど重なるのである。

だがそもそも荀子の社会契約説から類推するならば、人民は利益あるから善政の君主を支持する、ただそれだけの関係だったのではないのであろうか。荀子の社会契約説には、ホッブスがそうであったように、潜在的に国家権力に従わない契機が隠されているはずである。しかしながら、荀子はそれを明言しない。

同じ民本思想の孟子は、権力者と一個人は対等でありえる、という上下関係逆転の可能性を明言するのであるが。孟子は、大国の大王である斉王と自分が対等の関係でなければならない、と言う。

大きなことを成そうとする君主には、必ず呼びつけになどせずに丁重に扱う家臣があり、何か相談しようとするときには君主が臣の下に出向いていくものなのです。
公孫丑章句下、二

天下には、最も尊いものが三つあります。すなわち、爵位の身分、年齢の功、そして人徳の道です。朝廷においては、爵位が最も尊重されます。地域社会においては、年功が最も尊重されます。そして世を治め民を率いる事業においては、人徳の道が最も尊重されるのです。この三つのうち一つを持っているからといって、他の二つを軽んじることはできない。
(同)

孟子のこの思い切った態度は、君主はそれ自体で尊重されるのではなく、善政を行うことを条件として尊重されるのであり、ゆえに善政を行うために必要な力を貸す賢人には君主が頭を下げてでも智恵を授からなければならない、という考えから来ている。この孟子の態度には、まだ春秋時代の君主と家臣との関係の名残があると、私は考える。すなわち、春秋時代には君主は貴族集団の第一人者にすぎず、君主と貴族との間には同類意識のほうが強く、その格差はわずかなものでしかない。専制帝国での君主と家臣は支配―隷属の関係であるが、春秋時代の君臣関係はよりギブアンドテイクの互酬関係に近い。これが魯国で三桓氏(さんかんし)が魯公を上回る権勢を持ったり、斉で家臣の田常(でんじょう)が君主を乗っ取ったりする下克上が一般的であった主要な原因であった。

孟子はその春秋時代の名残で君主と賢人の関係をギブアンドテイクの関係と位置づけ、さらに進んで民と君主の関係も服従と恩恵のギブアンドテイクの関係になぞらえて、孟子の民本思想となったに違いない。孟子が孔子から継承した儒家思想は、かくして君主の民政への責務を問う主張となった。

柄谷行人氏は、古代国家の成立の過程を、共同体的=互酬的なあり方が消滅する過程として叙述する。

国家とともに、旧来の氏族・部族的共同体は変質する。それを支配共同体と被支配共同体のレベルで見てみよう。支配共同体のレベルでは、それまでの共同体的=互酬的なあり方―肯定的にいえば平等主義的な、否定的にいえば血讐的であるような―が消滅し、ハイアラーキカルな秩序が形成された。もちろん、それは一気に起こったのではない。集権化は、支配階層のなかで、さまざまな首長(貴族)や祭司といった「中間勢力」(モンテスキュー)を徐々に制圧することによってのみ成し遂げられる。つまり、古代専制国家の出現において、近世ヨーロッパにおいて絶対主義的王権が出現したときと構造論的に類似したことが生じたのである。貴族(豪族)を抑えた専制君主の下に、すべての人民が服属するというかたちになる。
(『世界史の構造』岩波書店、109ページ)


中国では、おおよそ春秋時代までは氏族社会が人間のまとまりの中心にあった。その氏族社会とは、支配―隷属の関係を拒む。同族内部であれば仲間同士であり、異族間であるならば原則は対等である。それが春秋時代の下克上の蔓延となって現れたはずなのだ。そこに現れた孔子は、平和の法として礼の秩序を提唱したのであった。注目すべきは孔子の同時代の鄭国に、法治主義者の子産(しさん)が現れたことである。子産は、中国史上はじめて成文法を制定したと記録されている。孔子も子産も、直面していた課題は同じであり、氏族社会がその原理をあらわにしてむき出しの混沌を招いている時代において、氏族社会の原理を越えた新たな秩序を提唱したのであった。なぜ氏族社会がむき出しの混沌となって現れたのかといえば、この時代人間の内面を拘束する慣習や宗教の力が大幅に弱体化したからであった。『論語』には、魯の貴族たちが周時代の慣習や宗教を次々にないがしろにしている姿が描かれている。

都市国家が争った戦国時代に、孔子、老子、韓非子など、諸子百家と呼ばれるさまざまな思想家が輩出した。彼らはギリシャのソフィストのように、諸国家をまわって、彼らの思想を説いてまわった。氏族社会の慣習や宗教による統治が不可能になったため、諸国家は新たな理論を必要としたのである。

秦は短期間に崩壊したが、その後にできた漢帝国は、儒教を統治原理とすることで、その後の帝国のプロトタイプとなった。、、、中国ではこのような帝国の形成とともに、戦国時代において開かれた可能性は閉じられた。つまり、アジア的専制国家がそれ以降、存続したのである。
(『世界史の構造』111-112ページ。文中の年代は省略した)


荀子は、戦国時代末期の思想家であった。戦国時代中期の孟子は、いまだ思想の中に春秋時代の常識を保っていて、専制君主に対して対等の関係を要求した。だが荀子の時代には専制帝国の出現がもう間近に迫っていて、孟子のような思想はもはや想定できなくなった。この富国篇の冒頭において荀子は、国家の起源論として孟子の民本思想を先鋭化して社会契約論に至った。荀子は、そこまでは儒家のプログラムを徹底する作業を行ったのであった。しかしその後で叙述する現実の国家像としては、人民の民生を最も気遣う(つまり荀子の理論のとおりに従うならば、人民の利得にとって最も無害な)専制君主のシステムを叙述することになったのである。

荀子の弟子の李斯は統一秦帝国を実際に運営し、彼のもう一人の弟子韓非子は統一秦帝国のイデオロギーを用意した。時代の人間たちにとって、統一秦帝国そのものが忌避すべき制度ではなかった。それは、次の時代の漢帝国の知識人たちの意見を見れば分かる。司馬遷は前漢代の官僚である賈誼(かぎ)の始皇帝論を『史記秦始皇本紀』の末尾で引用する。賈誼は、秦の統一は本来民にとって歓迎するべきものであり、民は統一君主の下仁義の政治を期待していたにも関わらず、始皇帝と後の二世皇帝はそれを裏切り仁義の政策を取らず、法を過酷にして労役を課したので滅亡を早めた、と言うのである。賈誼やそれを引用する司馬遷の描く理想の国家像は、荀子がここで描く理想の国家像と結果的に一致せざるをえない。いくら社会契約説から始めても、現実に建設されるべき国家としては、専制国家以外の結論はもはやありえなかったからである。

では、荀子の議論には現代的可能性がないのか、といえば、私はそうではない、と考える。はからずも荀子は戦国時代の諸国分裂状況から、天下を統一すべき力はどこに見出されるべきか、という考察を行っている。その考察は、すでに統一が前提とされた漢代以降の論者からは出てこない現代的価値を持っていると私は考える。富国篇のここから後を読んで、そこから一篇さかのぼって王制篇を読んで、『荀子』をより可能性ある読み方をしていきたい。

富国篇第十(5)

人民に利益を与えないでこれを利用するよりも、まず人民に利益を与えてからこれを利用するほうが利益がある。人民を愛さないでこれを用いるよりも、まず人民を愛してからこれを用いたほうが功績がある。だが人民に利益を与えてからこれを利用するよりも、人民に利益を与えながらこれを利用しないほうが利益がある。人民を愛してからこれを用いるよりも、人民を愛しながらこれを用いないほうが功績がある。なぜならば人民に利益を与えてこれを利用せず、人民を愛しながらこれを用いない者は、天下を取るからである。いっぽう人民に利益を与えてからこれを利用し、人民を愛してからこれを用いる者は社稷(注1)を保つからである。最後に人民に利益を与えないでこれを利用し、人民を愛さないでこれを用いる者は、国家を危うくするであろう。

一国が治まっているか乱れているか、政治がよいか悪いかは、国境に至ればもうその端緒が見えてくる。その国境守備兵が厳しく監視を行い、国境の関門での徴税が詳細苛烈であるならば、これは乱国である。国境から入ったとたん、田畑は荒れていて都市や村が損壊しているならば、これは貪欲な君主がいるということである。進んで都の朝廷を見れば、位高い者が賢明でなく、行政官職を見れば、統治する官吏は有能でなく、君主の側近たちを見れば、君主が信任する寵臣たちは不誠実であるならば、これは暗愚な君主である。君主・宰相・家臣・下級官吏のたぐいまで、すべてが収入・支出とその計算については手馴れて厳密に行うものの、礼義と身分秩序についてはしまりがなくて適当であるならば、これは辱(はじ)を受ける国である。
いっぽう耕す者は耕作を楽しみ、戦士は困難をたやすく引き受け、官吏は法を好んで守り、朝廷は礼を尊び、卿と宰相は協調して国事を語るならば、これは治国である。また朝廷を見れば、位高い者が賢明であり、行政官職を見れば、統治する官吏は有能であり、君主の側近たちを見れば、君主が信任する寵臣たちは誠実であるならば、これは賢明な君主である。君主・宰相・家臣・下級官吏のたぐいまで、すべてが収入・支出とその計算についてはゆるやかで厳密でなく、しかし礼義と身分秩序については峻厳で細かくこだわるならば、これは栄える国である。賢明さが変わらないのであれば親族を優先して爵位を与え、才能が変わらないのであれば古くから知っている者を優先して官位を与え、家臣や官吏は汚れた者が皆感化されて謹直になり、狡猾な者が皆感化されて正直になる。これらの功績は、賢明な君主が挙げるところである。

国の強弱・貧富を見るのにも、徴候がある。上が礼を尊ばなければ、兵は弱い。上が人民を愛さなければ、兵は弱い。すでに承認したこと(注2)に信用がなければ、兵は弱い。褒賞を行き届かせなければ、兵は弱い。将軍が無能であれば、兵は弱い。上が侵略を好み功績を独り占めするならば、国は貧しい。上が利益追求を好めば、国は貧しい。士大夫(したいふ。上級・下級の宮廷人)の数が多すぎれば、国は貧しい。商人・職人の数が多すぎれば、国は貧しい(注3)。度量衡が定まらないと、国は貧しい。下が貧しければ上も貧しく、下が豊かであれば上もまた豊かとなるのである。
ゆえに田野と農村は、財貨の源泉である。国の倉庫は、財貨の末節である。人民が和合し、秩序立った事業ができることは、財貨の源泉である。課税と税収は、財貨の末節である。ゆえに賢明な君主は必ず謹んで人民の和合を育成し、末流である税収は節制し、本源である農村を開発して、時に応じてこれらを調整し、大らかな統治によって下には必ず剰余があって上が不足を憂慮させないようにするのである。このようにすれば、上も下も豊かとなり、誰もが剰余を貯蔵するところもないほどとなるであろう。これが国計を知る極地というものである。ゆえに禹(う)は十年間洪水の害があり、湯王は七年間旱魃の害があったが、天下の民でやせ衰える者はおらず、十年の後には年々の収穫は再び戻って、再び備蓄の食糧を余りあるほど積み上げることができたのである。これは他でもない、本末は何か、源泉と末節は何か、を知っていたからなのである。ゆえに、「田野荒れて倉廩(そうりん)実(み)ち、百姓虚しくして府庫満つ」という状態であれば、それは国蹶(こくけつ。国の危機)というものである。国の本を伐り、国の源泉を涸らして、国の末節である倉庫に収奪し、このようでありながら君主も宰相もこれはよくない、と思わないならば、もはやこの国が転覆滅亡することは時間の問題というものである。こういう君主は国を保有しておりながら、やがては自分の逃げ場所すらなくなるのである。こういうのを貪欲の極みというのであり。暗愚な君主の極地である。まさに利益を求めようとして、己の身を危うくしたのである。いにしえの時代には、万単位も国があった。今や、十数国しかない。これは他でもない、君主が国を失う理由は一つだったのである。人に君主たる者は、悟るべし。百里(40km)四方の国ですら、これで独立には十分なのであるよ(注4)


(注1)社稷(しゃしょく)とは、土地の神と五穀の神。古代の天子諸侯は、宮殿の右に国の神として社稷を祀り、左に先祖の宗廟を祀った。意味が転じて、社稷は国家を象徴する意味となった。ここでは、天下を取るべき王者より劣る存在として現実の諸王国の君主たちを想定している。
(注2)
原文「已諾」。増注は「已は其の諾し難い者」と言う。こう取ると、意味は「上のイエス・ノー」ということになる。しかしここでは、藤井専英氏の解釈を取って「已(すで)に諾」とみなす。
(注3)
荀子が農本主義だからというよりも、前近代経済の基本はあくまでも農業だからである。商工業が富の源泉であるという考えは、18~19世紀以降に産業資本主義システムが確立して企業間の利潤追求の競争が起こり、競争により工業の技術進歩が短期間で累積して起こるようになった、すなわち産業革命以降に成立した新しい常識である。
(注4)方七十里から興った殷の湯王、方百里から興った周の文王を想定している。『孟子』公孫丑章句上、三および同章句上、四を参照。荀子は孟子のこのような王者観を基本的に継承しているが、覇者に対する評価は孟子とはかなり異なっている。王制篇などを参照。
《原文・読み下し》
利せずして之を利すは、利して而(しこう)して後に之を利するの利なるに如かざるなり。愛せずして之を用うるは、愛して而して後に之を用うるの功なるに如かざるなり。利して而して後之を利するは、利して利せざる者の利に如かざるなり。愛して而して後に之を用うるは、愛して用いざる者の功に如かざるなり。利して利せず、愛して用いざる者は、天下を取るなり。利して而して後に之を利し、愛して而して後に之を用うる者は、社稷(しゃしょく)を保つなり。利せずして之を利し、愛せずして之を用うる者は、國家を危うくするなり。
國の治亂(ちらん)・臧否(ぞうひ)を觀るや、疆易(きょうえき)に至りて端已(すで)に見(あら)わる。其の候繳(こうきょう)は支繚(しりょう)し、其の竟關(きょうけつ)の政は盡察(じんさつ)なるは、是れ亂國のみ。其の境に入れば、其の田疇(でんちゅう)は穢(あ)れ、都邑は露(ろ)(注5)なるは、是れ貪主(たんしゅ)のみ。其の朝廷を觀れば、則ち其の貴者は賢ならず、其の官職を觀れば、則ち其の治者は能ならず、其の便嬖(べんべい)を觀れば、則ち其の信者は愨(かく)ならざるは、是れ闇主のみ。凡そ主・相・臣下・百吏の俗(注6)、其の貨財の取與(しゅよ)・計數(けいすう)に於けるや、須孰(じゅんじゅく)(注7)盡察し、其の禮義・節奏(せっそう)や、芒軔(ぼうじん)・僈楛(まんこ)なるは、是れ辱國(じょくこく)のみ。其の耕者は田を樂しみ、其の戰士は難に安んじ、其の百吏は法を好み、其の朝廷は禮を隆(とうと)び、其の卿相は調議するは、是れ治國のみ。其の朝廷を觀れば、則ち其の貴者は賢に、其の官職を觀れば、則ち其の治者は能に、其の便嬖を觀れば、則ち其の信者は愨(かく)なるは、是れ明主のみ。凡そ主・相・臣下・百吏の屬、其の貨財の取與・計數に於けるや、寬饒(かんじょう)・簡易に、其の禮義・節奏に於けるや、陵謹(りょうきん)(注8)・盡察(じんさつ)なるは、是れ榮國のみ。賢齊しければ則ち其の親なる者先(ま)ず貴く、能齊しければ則ち其の故なる者先ず官し、其の臣下・百吏・汙者(おしゃ)皆化して脩に、悍者皆化して愿(げん)に、躁者皆化して愨(かく)なるは、是れ明主の功のみ。
國の強弱・貧富を觀るに徵驗(ちょうけん)有り。上禮を隆(とうと)ばざれば則ち兵弱く、上民を愛さざれば則ち兵弱く、已諾(いだく)信ならざれば則ち兵弱く、慶賞漸(ひた)さざれば則ち兵弱く、將率(しょうすい)能ならざれば則ち兵弱し。上攻を好めば(注9)則ち國貧しく、上利を好めば則ち國貧しく、士大夫衆(おお)ければ則ち國貧しく、工商衆ければ則ち國貧しく、制數度量無ければ則ち國貧し。下貧しければ則ち上貧しく、下富めば則ち上富む。故に田野・縣鄙(けんぴ)なる者は、財の本なり。垣窌(えんぼう)・倉廩(そうりん)なる者は財の末なり。百姓時(こ)れ和し、事業敘(じょ)を得る者は、貨の源なり、等賦・府庫なる者は、貨の流(りゅう)なり。故に明主は必ず謹みて其の和を養い、其の流を節し、其の源を開きて時に斟酌し、潢然(こうぜん)として天(か)(注10)の下をして必ず餘有りて、上をして不足を憂えざらしむ。是(かく)の如くなれば、則ち上下俱に富み交(こもごも)之を藏する所無し。是れ國計を知るの極なり。故に禹は十年の水あり、湯は七年の旱(ひでり)ありて、天下菜色(さいしょく)の者無く、十年の後、年穀復(ま)た孰して、陳積(ちんし)餘有り。是れ它(た)の故無し、本末源流を知るの謂(いい)なり。故に田野荒れて倉廩實ち、百姓虛しうして府庫滿つ、夫れ是を之れ國蹶(こくけつ)と謂う。其の本を伐り、其の源を竭(つ)くして、之を其の末に幷(あわ)せ、然り而(しこう)して主相惡(にく)むことを知らざれば、則ち其の傾覆滅亡、立ちどころにして待つ可きなり。國を以て之を持して、以て其の身を容るるに足らず、夫れ是を之れ至貪(したん)(注11)と謂う、是れ愚主の極なり。將に以て富を求めんとして其の國を喪い、將に以て利を求めんとして其の身を危うくす、古(いにしえ)は萬國有り、今は十數有り、是れ它の故無し、其の之を失する所以は一なり。人に君たる者亦以て覺(さと)る可し。百里の國、以て獨立するに足る。


(注5)「露」を楊注は城郭牆垣(しょうえん)が無い、つまり城が裸であることと言う。集解は王念孫を引き、露は敗すなわち、やぶれていることと言う。
(注6)楊注は「俗は風俗を謂う」と言う。集解は兪樾を引き、「俗」は屬(たぐい)の誤りと言う。どちらでも通じるが、兪樾に沿って訳す。
(注7)
集解の兪樾、増注ともに「須」は順の誤りと言う。順孰はよく習い馴れている様。
(注8)「陵」について集解の王念孫の言、増注、猪飼補注、すべて致仕篇の用例を引く。集解は「陵は厳密」、猪飼補注は「陵は峻」と言う。峻厳なこと。
(注9)原文「好攻取功」について集解は王念孫が前の文との対句の関係を見れば「攻取」の二字を取るべきであると言うのに賛同している。
(注10)集解は「天」は「夫」の誤りと言う。
(注11)集解にて王先謙は、「貪」は「貧」の誤りと言う。

ここから富国篇は、後半というべき内容に入る。ここから先の叙述は、一つ前の王制篇あるいは一つ後の王覇篇とも繋がっているものである。

最初に、荀子という思想家の国際性について指摘しよう。

荀子は趙国で生まれ、斉国に遊学してそこで稷下の学者の重鎮として長年留まり、斉で讒言を受けた後は春申君に庇護されて楚に定住した。また『荀子』の中の記録を見ると、遠く秦国にも向かって宰相の范雎と会見したことが伺える(地図参照)。この行動範囲の広さは、魯・斉・魏といったいわゆる中原地方での活動にとどまった孟子とは、スケールが一回り異なっている。孟子は、魯の出身である。そして魏は孔子の弟子であった卜商子夏(ぼくしょう・しか)が魯から出国して儒家を根付かせた国であり、斉は魯と文化的に近くてやはり孔子の弟子である端木賜子貢(たんぼくし・しこう)が儒家を根付かせた国である。孟子は彼の時代ですでに儒家が受け入れられていた地域を活動の拠点としたのである(拙筆レジメ参照)。

しかし荀子は、孟子の時代に儒家の活動が見られなかった趙国から斉に現れた。荀子の出現は、儒家思想がようやく国際的に通用する原理であることが、中華世界中で認められるようになったことの現れであると思われる。その荀子は、彼の時代にすでに超大国の様相を示していた秦国に赴いた。のちに読む彊国篇で荀子は、秦国の整った政治を高く評価し、その上で儒家の原理を採用して国家を完成させるべきことを宰相に説いた。荀子が野蛮国であると中原諸国からみなされていた秦国の実情を正しく評価することができて、なおかつ儒家思想を国際的に通用する原理であると確信することができたのは、彼が儒家発祥の地である中原地方から離れた土地から現れた思想家であったことと強く関係している、と私は考えるのである。孟子は、同時代の趙国・秦国についてはほとんど言及すらすることなく(春秋時代の秦国への言及はある)、楚国は異言語の南蛮人であると蔑んだのであった。これは、荀子の広い視点よりも視野が狭い。

荀子は、当時の中華世界の各国を見聞する機会を持ち、それぞれの国情と風俗を実地に見た。彼の持つ冷静な理性は、諸国の政治と経済の実情を比較考量させたはずであると、私は考える。なので、ここから後の治まる国と治まらない国についての叙述は、単なる頭の中の理念の産物ではなくて、諸国の制度を見聞した経験を下地にした上で、儒家の理論に再度あてはめて整理したものであると、私は考えたい。

荀子は、人間の根本を利益を求める存在として見る。それが彼の「性悪説」である。富国篇の冒頭は国家の起源論を取り上げて、人間が利益あるから国家権力に服することをあえて選んだのだ、という社会契約説から始った。荀子の冷静な観察眼は、国家に対して被支配者が真に期待しているものは、生命の安全と経済的利得である、と写っていたはずである。利得を抜きにして精神論を唱える後世の儒者たちの発想からは、荀子は遠ざかっているはずだ。なので、荀子が治まる国と強い国を観察したとき、それはいかに表面上は人民が国家と君主への忠誠心を持つ国であるように見えたとしても、それを支えるシステム、つまりぶっちゃければ人民が己の生命の安全と経済的利得を供給するシステムを持つ国を支持していることを、荀子が見逃すはずがない。

この視点は、ナショナリズムに支えられた国家をまとめる原理とは違わなければならない。国家(ステート)に民族共同体(ネーション)を期待して忠誠心を誓うのが、ナショナリズムである。このネーション=ステートの結合は近代的現象であって、自然な共同体が壊れてしまった社会において、他人との平等を確保してくれる期待が投影できて、なおかつ他人との連帯の意識を想像することができる対象として、近代資本主義の時代になって浮上する。

ネーションの基盤には、市場経済の浸透とともに、また、都市的な啓蒙主義とともに、解体されていった農業共同体がある。それまで、自立的で自給自足的であった各農業共同体は、貨幣経済の浸透によって解体されるとともに、その共同性(相互扶助や互酬性)を、ネーション(民族)の中に想像的に(引用注:ベネディクト・アンダーソンの用語「想像の共同体(imagined communities)」を念頭に置いた言葉)回復するわけである。
(柄谷行人『トランスクリティーク』批評空間、409ページ)


実際に国家が平等と連帯を供給するかどうかはとりあえず関係がない。もっとも国家の側は支配を維持するために国民の忠誠を求める演出を行い、また富の再分配と雇用の創出を少なくとも国民に約束するのであるが。大事なことは国民が自発的に「想像」して、期待することである。ナショナリズムは、被支配者の側からの国家へのラブコールが先立つものである。

だが荀子を読むときには、国家統合の原理をナショナリズムとは違ったものとして捉えざるをえない。荀子の立てる治まる国・強い国の原理は、あくまで支配する側が率先して支配される側に供給するサーヴィスが良好であるところに見出される。支配する側のサーヴィスが劣悪であれば(一時しのぎの福祉政策は劣悪なサーヴィスであることが、(4)で言及された。良好なサーヴィスは、継続的に国家を運営できる原理に立って供給されなければならない)、支配される側からの支持を失うのである。これは、ナショナリズムを演出することにより国家へ忠誠を促すことよりも国家にとっては面倒であり、なおかつ利によって集まって来る人間は国家への忠誠心を内面化しそうにない。なので、荀子が立てる原理だけでは、おそらく対外戦争が起こったときには勝てないであろう。国家が外敵と直面したときには、どこかで孟子的な君主個人への利害を超えた忠誠心を必要とするか、あるいは多少なりともナショナリズムを持ち出すより他はない。しかしながら、荀子の原理には重大な効果があると、私は考える。

荀子の国家は文化を超えて国際的に通用する、支配される人民の安全と経済的利得を供給するという原理を貫くことによって、まず第一に外国への信用を生み、第二に亡命者の逃げ場所として選ばれる効果があるだろう。第一および第二の効果は、今後王制篇などを読むところで展開される。そしてこれらの効果は、世界帝国が供給できる国際的信用というべきものである。

帝国は軍事的な征服によって形成されるのだが、実際には、ほとんど戦争を必要としない。各共同体や小国家は、戦争状態よりもむしろ帝国の確立を歓迎するからだ。その意味で、世界=帝国の形成は、交換様式B(引用者注:国家内での支配者―被支配者の間で行われる、略取―再分配の交換)だけでなく、交換様式C(引用者注:互いに疎遠な共同体、あるいは個人の間で行われる、貨幣を仲立ちにした商品交換)が重要な契機となる。
(柄谷『世界史の構造』157ページ)


柄谷氏は、世界=帝国が供給する間共同体的な原理とテクノロジーとして、四つを挙げる。世界貨幣、共同体を越えた法、世界宗教、世界言語はいずれも征服者・被征服者の両者を拘束する、どちらからも独立した原理とテクノロジーである。ゆえに拡散する力を持つのである。の四つである。これらの供給は、各共同体や小国家にとって国際的安全保障と交易による経済的利益を供給する。なので、力による征服をほとんど行わずとも、世界=帝国は自発的に参加者が集まって形成されるのである。逆に言えば、各共同体や小国家にとって利益がない世界=帝国は成立することができない。表面上の意識では偉大な征服者の徳に各国がなびいて平和が訪れた、という神話が吹聴されたとしても、実際に各国がそれを選択したのは利益があるからなのである。世界貨幣、共同体を越えた法、世界宗教、世界言語はいずれも征服者・被征服者の両者を拘束する、どちらからも独立した原理とテクノロジーである。ゆえに拡散する力を持つのである。

後に検討する、荀子が想定する「王者」は、柄谷に従うならば各国の間に拡散することができる間共同体的な原理を実践することによって、国際的な人心を掴むと言うべきであろう。ゆえに「王者」は単に一国の暴力だけで勢力を拡大しようとする「強者」を、国際的信用というより強い力によって凌駕してしまうのである。柄谷の四原理のうち、荀子の「王者」は中華世界の各共同体を越えた法=礼法を供給する者である。世界貨幣と世界言語は、後に実際に秦漢帝国が成立した後に実現されることとなった。秦帝国が暴力によって強制した統一貨幣と統一言語を、その崩壊後に受け継いだ漢帝国が優秀なテクノロジーとしてそのまま継続し、利益あるゆえに定着したものである。最後に「王者」は仏教やイスラム教のような世界宗教を積極的に供給するわけではない。しかしながら儒学(儒教ではない)が後世に中華世界を越えて朝鮮・日本に導入された点には、儒学の唱える原理(すなわち、「王者」の原理)が普遍性を持つ思想として間共同体的に受け入れられる要素を持っていたことを示している。

荀子が「王者」の強さは力を用いずして信用が拡散していくことにある、と指摘することを、私は上のような柄谷の世界=帝国の原理から見ることによって理解してみたい。

富国篇第十(6)

他国を攻める者は、名声を挙げるためでなければ、利益を得るためか、そうでなければ怒りのためである。仁の人が国を治めるときには、己の志を修め、身と行いを正しくし、礼を厚くし、忠信を窮め、礼を貫徹するのである。たとい粗衣に破れ靴の貧者であってもこれらを誠に実行したならば、この者が雨漏りのするあばら家にいたとしても、王公ですら名声を争うことはできはしない。ましてや一国を持ってこれらを行えば、天下広しといえどもこの名声が隠れることはないであろう。こうなれば、名声のために攻めて来ようとしても、できなくなる。田野を開き、倉庫を満たし、装備・用品を整え、上下が心を一つにし、総軍が力をひとつにして団結する。この国に対して遠征軍を送って決戦しようとしても、成功しないであろう。国内の者たちは固く守り、時期をみはからって敵軍を誘い込み、敵将を捕らえることは麷(ほう)(注1)を撥ね飛ばすように容易いであろう。敵軍に多少の局地的勝利があったとしても、全体で受けた深手を癒して大敗を補うには足らないであろう。こうなれば敵は自国の爪と牙を大事にするため、こちらと戦うことを恐れるのである。こうなれば、利益を得るために攻めて来ようとしても、できなくなる。大国・小国・強国・弱国の力関係を熟知し、この現状に沿って守ろうとする。礼節は非常に整い、珪璧(けいへき)(注2)は非常に立派であり、進物は非常に豪勢であり、使者の弁舌は文章・弁舌が巧みで賢明な君子を派遣して来る。敵国にいやしくも人間の心があるならば、ここまで立派な外交態度に対して怒るに怒れないであろう。こうなれば、怒りのために攻めて来ようとしても、できなくなる。名声のために攻めることができず、利益のために攻めることができず、怒りのために攻めることができないならば、国は磐石よりも固く、旗(き)・翼(よく)(注3)よりも永らえるであろう。こうなれば他国が全て乱れても、自国だけは治まっている。他国が全て危機に陥っても、自国だけは安泰である。他国が全て亡国となったときには、自国はおもむろに立ってこれらを制することができるのである。ゆえに、仁の人が国を治めるときには、単に自国を保とうとして治めるのではなく、他国までも影響下に置こうという志があるものなのである。『詩経』に、この言葉がある。:

親鳥は、君子のごとく
威儀礼儀、迷わず一つ
迷わずに、一つであるゆえ
四方(よも)の国、正されるかな
(曹風、鳲鳩より)

仁の人は、結局この言葉のようにならずにいられない。

最後に、国を保持していく難易について述べる。
「強暴な国に従うのは難しく、強暴な国をこちらに従わせるのはたやすいことである」と言う。強暴な国に従うために財貨を進呈することを使うならば、財貨が尽きたならばそれが縁の切れ目となるであろう。これと条約・盟約を結ぶならば、条約を結んだとたんに相手から反故にされることであろう。これに自国の領地を少しずつ割譲するという手で宥和するならば、領地割譲が決まれば次の領地要求の欲が厭くことなく始まるであろう。こうしてかの国に従うための譲歩にこちらはますます頭を痛めることとなり、かの国がこちらを侵略することはますます甚だしくなり、必ずこちらの財貨が尽きて国が乗っ取られるところまで至って終わるのである。たとえ聖王の堯と舜がこちらの左右に控えていたとしても、この結末から逃れることはできはしないであろう。これをたとえるならば、処女が宝珠の首飾りを着けて腰に宝石を帯び、しかも黄金を背負って中山(ちゅうざん)(注4)の野盗に合ってしまったようなものである。目をそむけて腰を曲げて膝を折り、あなた様の下女となるから許してください、と懇願したとしても、身ぐるみ剥がされるのは決まりきったことである。ゆえに、人心を一つにする道を取らずして、単に口舌で相手国に懇願して機嫌を取ったとしても、国を保持してわが身を安泰にするには足りないのである。
ゆえに、賢明な君主はこのような道を取らない。必ず礼を修めて朝廷を整え、法を正して官吏を整え、政治を平明にして人民を整える。しかるのち朝廷は礼の規則が整い、官吏は行政万事が整い、人民もまた秩序立つことになる。こうして国が整ったならば、近国は競って友好を結ぼうとするであろうし、遠国もまた友好を望んで来るであろうし、国内では上下の心は一つになり、総軍は力を一つにして団結し、敵国はわが国の国際的・国内的名声によって炙り焼かれることとなり、また敵国はわが国の権威の力によってむち打たれることとなり、こうなれば何も動かずして口で指図するだけで、強暴の国はわが国の下で使い走られることとなるであろう。これをたとえるならば、烏獲(うかく)と焦僥(しょうぎょう)(注5)が取っ組み合うようなものである。(わが国の勢威の前には、強暴な国など組み敷かれるまでである。)ゆえに、「強暴な国に従うのは難しく、強暴な国をこちらに従わせるのはたやすいことである」と言うのである。


(注1)炒った麦、あるいは麦芽のことという。炒った麦は軽く、麦芽はもろい。
(注2)珪璧は古代の玉器。外交使が持参する礼儀であった。
(注3)旗(箕)・翼はそれぞれ中国天文学における二十八宿の一。星の寿命のように長い、という意味であると言う。
(注4)中山とは戦国時代初期に存在した国家で当時の列強の一。趙に併合された。北狄(ほくてき)系で中華とは異文化であり、荀子の時代でも凶悪視されていたのかもしれない。
(注5)烏獲は秦の有名な力士。焦僥は楊注によると、身長三尺(68cm)の短人という。
《原文・読み下し》
凡そ人を攻むる者は、以て名の爲にするに非ざれば、則案(すなわち)以て利の爲にするなり、然らざれば則ち之を忿(いか)るなり。仁人の國を用(もち)うるは、將に志意を脩め、身行を正しくし、隆高を伉(きわ)め、忠信を致し、文理を期せんとす。布衣(ほい)紃屨(じゅんく)の士是を誠にすれば、則ち窮閻(きゅうえん)・漏屋(ろうおく)に在りと雖も、王公も之と名を爭うこと能わず、國を以て之を載(おこな)えば、則ち天下之を能く隱匿すること莫きなり。是(かく)の若くなれば則ち名の爲にする者攻めざるなり。將に田野を辟(ひら)き、倉廩(そうりん)を實(みた)し、備用を便にし、上下心を一にし、三軍力を同じうせんとす。之と遠舉(えんきょ)して極戰すれば則ち不可なり。境內の聚や固を保ち、可を視て其の軍を午(むか)え、其の將を取ること、麷(ほう)を撥するが若し。彼之を得るも以て傷を藥(いや)し敗を補うに足らず。彼其の爪牙を愛し、其の仇敵を畏る、是の若くなれば則ち利の爲にする者攻めざるなり。將に小大・強弱の義を脩めて、以て之を持愼(じしん)せんとす。禮節將(は)た甚だ文に、珪璧(けいへき)將た甚だ碩(せき)に、貨賂(かろ)將た甚だ厚く、之に說(ぜい)する所以の者は、必ず將た雅文・辯慧(べんけい)の君子なり。彼苟(いやし)くも人意有らば、夫れ誰か能く之を忿らん。是の若くなれば、則ち忿(いかり)の爲にする(注6)者も攻めざるなり。名の爲にする者否(しか)せず、利の爲にする者否せず,忿の爲にする者否せざれば、則ち國は盤石より安く、旗翼より壽(じゅ)なり。人皆亂れ、我獨り治まり、人皆危く、我獨り安く、人皆之を失喪し、我獨り按(すなわ)ち起(た)ちて之を制す。故に仁人の國を用うるや、特(ただ)に將に其の有を持せんするのみに非ざるなり、又將に人を兼ねんとす。詩に曰く、淑き人君子、其の儀忒(たが)わず、其の儀忒わざれば、是の四國を正す、とは、此を之れ謂うなり。
國を持するの難易。強暴の國に事(つか)うるは難く、強暴の國をして我に事えしむるは易し。之に事うるに貨寶(かほう)を以てすれば、則ち貨寶單(つ)きて交結ばれず、約信盟誓すれば、則ち約定まりて畔(そむ)くこと日無し、國の錙銖(ししゅ)を割いて以て之に賂(まかな)えば、則ち割(かつ)定まりて欲厭(あ)く無し、之に事うること彌(いよいよ)煩にして、其の人を侵すこと愈(いよいよ)甚だしく、必ず資單(つ)き國舉(きょ)するに至りて然る後に已む。堯を左にして舜を右にすと雖も、未だ能く此の道を以て免るることを得る者有らざるなり。之を辟(たと)うるに是れ猶處女をして寶珠を嬰(か)け、寶玉を佩(お)び、黃金を負戴して、中山(ちゅうざん)の盜に遇わしむるがごとし。之が爲めに逢蒙視(ほうもうし)して、要(こし)を詘(くつ)し膕(かく)を撓(ま)げ、君が(注7)盧屋(ろおく)の妾(しょう)たらんと雖も、由(な)お將に以て免るるに足らざらんとす。故に人を一にするの道有るに非ずして、直(ただ)に將に巧繁(こうはん)・拜請(はいせい)して之に畏事(いじ)せんとすれば、則ち以て國を持し身を安んずるに足らず。故に明君は道(よ)らざるなり。必ず將た禮を脩めて以て朝を齊え、法を正して以て官を齊え、政を平かにして以て民を齊え、然る後に節奏(せっそう)朝に齊い、百事官に齊い、衆庶下に齊う。是の如くならば則ち近き者は競い親しみ、遠方は願を致し、上下心を一にし、三軍力を同じくし、名聲以て之を暴炙(ばくしゃ)するに足り、威強以て之を捶笞(すいち)するに足り、拱揖(きょうゆう)指揮して、強暴の國趨使(すうし)せざること莫し。之を譬(たと)うるに、是れ猶烏獲(うかく)と焦僥(しょうぎょう)と搏(う)つがごときなり。故に曰く、強暴の國に事うるは難し、強暴の國をして我に事えしむるは易し、とは、此を之れ謂うなり。


(注6)原文「忿之」。集解の王引之は、「爲忿」となるべし、と言う。
(注7)集解の劉台拱は、疑うは「君」は「若(ごとし)」であるかと言い、『漢文大系』はこれを採用している。しかし楊注・増注に従い、素直に「あなたの」の意に取る。

荀子のこのあたりの叙述は、外交論としても非常に面白い。今、日本は外交の岐路に立たされている。太平洋戦争敗戦の後から、日本は戦後時代に入った。この戦後時代の外交は、単純な一つの原理に従い続けた。アメリカ西側陣営の一員としての姿勢を政府としては一度も疑うことなく、対米協調路線を貫いた。東側ブロックと正面から対峙していた日本としては、これ以外に国を保つ道はなかったのであろう。ここまでは、賢明な判断であったと私は評価する。しかしながら、21世紀の現在は元外務省職員・作家の佐藤優氏いわく「新帝国主義の時代」に入っている。私は、佐藤氏の現状分析を正しいと認める者の一人である。この「新帝国主義の時代」は、近くは二十世紀前半時代の反復である。ヘゲモニー国家(十七世紀にはオランダ、十九世紀にはイギリス、二十世紀後半にはアメリカ)が世界を保持する力を失い、世界はヘゲモニー国家不在の状況でめいめいの国益を求めて合従連衡離合集散を行う時代、むしろ行うことを強いられる時代である。この状況は、古代中国の戦国時代、あるいはわが国の戦国時代と、国際状況の配置として同質である。こんな時代においてわが国は、これまでの戦後時代のように自ら外交の道を一つに絞る、という姿勢でよいのか。むしろわが国の国益は何か、そしてわが国が世界の外交界で評価される賢明な舵取りはいかがなものであるか、これを問い直さなければならない。戦国時代に思索した荀子の外交論を、何度か味わってみるのもよいであろう。

「ゆえに、人心を一つにする道を取らずして、単に口舌で相手国に懇願して機嫌を取ったとしても、国を保持してわが身を安泰にするには足りないのである。」と荀子は言うが、しかしこれをナショナリズムで国を一体化する、と読んでは荀子を読み誤ると私は考えたい。これまでも言ってきたことであるが、荀子の国家観はナショナリズムとは違う原理に強国の力の源泉を見ているはずだからである。

最後のところで強暴な国が描かれているが、これは次に読む王制篇において「強者」と呼ばれる。「強者」はひたすら力に頼んで他国を侵略する国であり、これは必ず「覇者」に敗れる運命であるとされる。荀子の面白いところは「覇者」の国際正義による外交努力を高く評価しているような書き方をしながら、「覇者」はまだ十分でなくて真の勝者は「王者」であると言うところである。「強者」、「覇者」、「王者」については、次に読むことにしたい。

荀子の国が強暴な国を打ち負かしてやがて天下への道を開く力は、軍事力にも経済力に頼るものではない。なぜならば、荀子がここで言う「仁の人」とは、それがたかだか百里四方の国を治める湯王や文王(富国篇(5)の注4を参照)のような小統治者であったとしても、あてはまるものでなければならないからである。荀子は、儒家の湯王や文王の理想はただのおとぎ話ではない、と考えるからである。小国でも他国から信用を得たならば、広域連合の盟主となって大勢力となれる、と想定するのである。それは、現実に可能であろうか?

さきほど、柄谷氏の世界=帝国の成立過程を見た。世界=帝国はほとんど軍事力を用いることなく、周辺の共同体や小国に承認される力を持つ。それは、彼らにとって世界=帝国の支配が安全保障と経済的利益を産むからであった。荀子の国が近国・遠国から歓迎されるのは、この国が信用のおける国だからであり、よって同盟することに利益があると判断されるからに違いない。その利益とは、安全保障上の利益であることは容易に理解できる。いわば小国連合の盟主として信用が置ける、というものである。同時にこの小国連合が安定的に運営されて、なおかつ盟主となる荀子の国の法制度と文化が隣国に採用される高品質なものであれば、広域文化経済連合に繋がり、経済的利益も同じく生じることであろう。それは、信用のおける盟主国家が主宰する国際連合のような組織となるであろう。理念としては、そのような筋道を考えることはできる。

しかしながら、歴史上成立した世界=帝国は、圧倒的なヘゲモニーを持った一国家が各時代にあって、それが軍事力と経済力を背景にして、ヘゲモニーを持った国家があえてあからさまな暴力を使うことなしに、全世界が世界=帝国の秩序を自ずから承認して生まれることを常としてきた。ヘゲモニー国家は自らの帝国を維持する利益のために国際的道義を重んじて、秩序の破壊者に限定的な軍事力による制裁を与える。またヘゲモニー国家は自由主義政策を取り、周辺諸国から亡命者を受け入れる(ヘゲモニー国家オランダの首都アムステルダムはデカルト、スピノザらの亡命先であったし、次のヘゲモニー国家イギリスの首都ロンドンはマルクスらの亡命先であった。柄谷『世界史の構造』409ページ。二十世紀後半のアメリカが亡命者の受け入れ大国であったことは、言うを待たない)。それは、世界秩序の中で不偏不党な主催者であることに留まることが利益があるからであり、また経済的な優位が自由主義を掲げる利益を産むからである。歴史上において、荀子の国のように秩序の維持者として世界から承認される国家は、常にそれぞれの時代で最強の力を持ったヘゲモニー国家であった。そしてヘゲモニー国家が衰えてやがて世界からヘゲモニー国家が消失すると、世界から安全保障と自由主義が消滅する時代に陥ってしまう。これが、歴史の現実であった。

これで、富国篇は終わる。
次から、王制篇を読みたい。そこでは「覇者」と「王者」について注目して読んでみたい。私は荀子の「覇者」を、歴史上の現実として現れたヘゲモニー国家のことであると読み替えたい。そして「王者」を、まだ歴史上に現れない、カント的な世界連合体の理念として読み替えることはできないか、考えてみたいと思う。荀子の最終点である「王者」を統一帝国の皇帝、として読む従来の読み方では、それは現代的意義は何もないからである。

【次は、「王制篇第九」を読みます。】

勧学篇第一(1)

君たちは、こうあってほしい―

「学ぶことは、継続しなければいけない。青の染料は、藍の草から採取するものだ。だがその色は、元の草よりも青いではないか。氷は、水から形成される。だがその冷たさは、元の水よりも冷たいではないか。」(君たちもまた、学び続ければますますよい人間となるのだ。努力を怠ってはならない。)

もとの木はたとえピンと張った縄(すみなわ)で計測できるほど真っ直ぐであったとしても、これを曲げて車の輪に仕立て上げると、コンパスの曲線で計測できる円形に加工されるのだ。こうなったらたとえ乾かしても、元の真っ直ぐな形には戻らない。それは、曲げる力を加えたからなのだ。ゆえに、木は縄を使って加工すれば真っ直ぐな木材となり、金属は砥石で研げば鋭利な道具となる。君たちも、同じなのだ。広く学んで毎日怠りなく自己を反省すれば、やがて君たちの智恵は輝き、行いに過ちのない人材となることができるのだ。しかしそのためには、高い山に登って、天の高さを知らなければならない。深い谷に下りて、地殻の厚さを知らなければならない。つまりわが国の長い歴史の中で、これまでわが国の文明を作り出した建設者である先王たち(注1)が残した業績をよく学び取らなければ、学問の効果が絶大であることが分からないのだ。干人(かんじん)・越人(えつじん)・夷人(いじん)・貉人(ばくじん)(注2)は、生まれたときは同じ声で泣く。しかし成長すれば、それぞれの習俗を身につけて異なってしまう。この変化は生まれつきでは決してなく、後天的な教育の結果なのだ。(だから学び教えられることが、人間をどれだけ形作るかがわかるというものだ。)『詩経』には、この言葉がある(注3)。:

おお、なんじ君子よ!
安息を常とするなかれ!
なんじの地位につつしみ励み、
ひたすらに正直を愛せよ!
よく精神を働かせてよく見聞し、
なんじの幸福を助けよ!
(小雅、小明より)

よく精神を働かせるためには、正道と共に歩むのが最高なのだ。
そして幸福とは、(正道と共に歩む智恵によって)禍を受けなくすることが最上なのだ。


(注1)原文は「先王」であり、中華のいにしえの聖王たちのことであるが、より普遍的な意味に解釈するために補って訳した。
(注2)干・越・夷・貉は当時の中華周辺の諸族。
(注3)詩の訳は、新釈漢文大系の解釈によった。下のコメントを参照。
《原文・読み下し》
(注4)君子曰く、學は以て已む可からず。靑は之を藍に取りて、而(しこう)して藍よりも靑く、冰(こおり)は水之を爲して、而して水よりも寒し。木直なること繩に中(あた)るも、輮(たわ)めて以て輪と爲せば、其の曲なること規に中り、槁暴(こうばく)有りと雖も、復(ま)た挺せざるは、輮(じゅう)之をして然らしむるなり。故に木繩を受くれば則ち直く、金礪(れい)に就けば則ち利(するど)く、君子博く學びて日に己を參省すれば、則ち智明らかにして行い過ち無し。故に高山に登らざれば、天の高きを知らざるなり。深谿(しんけい)に臨まざれば、地の厚きを知らざるなり。先王の遺言を聞かざれば、學問の大なることを知らざるなり。干(かん)・越(えつ)・夷(い)・貉(ばく)の子、生れて聲を同じくし、長じて俗を異にするは、教え之をして然らしむるなり。詩に曰く、嗟(ああ)爾(なんじ)君子、恆(つね)に安息する無かれ、爾の位を靖共(せいきょう)し、是の正直(せいちょく)を好み、之を神(しん)にし之に聽(したが)い、爾の景福を介(たす)くと、神は道に化するより大なるは莫(な)く、福は禍無きより長なるは莫し。


(注4)勧学篇の前半部は、『大戴礼記(だたいらいき)』勧学篇とほぼ同一のテキストである(本サイトの(3)末尾までが一致する)。両者の関係については、議兵篇(5)のコメントを参照。

『荀子』という書物は『孟子』に比べると、不遇な扱いを受けて来た。
宋代の朱子学においては異端と決め付けられて、儒学の正統なテキストから弾かれてしまった。有名な詩人の蘇軾(蘇東坡)は『荀卿論』を書いて荀子を「好んで異説をなして譲らず、あえて高邁な議論を立てて後を顧みず、その言葉は愚人の驚くところであり小人の喜ぶところである。子思(しし。孔子の孫であり『中庸』の作者とみなされる)・孟軻(孟子の本名)は世のいわゆる賢人君子である。だが荀卿(荀子のこと)一人だけが『天下を乱す者は子思・孟軻である』などと言うのだ」と批判している。蘇軾は、荀子の弟子で秦の丞相であった李斯がなした悪政は師の荀子に由来するとまで言い、散々である(注)。

わが日本では、荻生徂徠が荀子に一定の評価を与えた。徂徠は儒学を個人の倫理学として学ぶ朱子学の姿勢を斥け、儒学はむしろ「礼楽刑政(れいがくけいせい)」、つまり古代中国の為政者たちが創生した統治のための法律、文化の体系を学ぶことであると、大胆な価値転換を提唱した。徂徠によって、儒学は統治論として読み替えられた。それゆえ徂徠は個人倫理を重視する孟子を批判し、礼楽刑政のシステムを論ずる荀子により好意的な評価を与えたのであった。しかし日本の儒学の本流はやはり朱子学であり、あるいはそのアンチとしての陽明学であり、両者ともに孔子・孟子を称えるが、荀子は顧みられることが少なかった。

その荀子が著した書が、『荀子』である。現在のテキストは、前漢末の劉向(りゅうきょう)が整理した『荀卿新書』三十二篇が唐代にははなはだしく混乱したテキストとなって伝わっていたために、唐の楊倞(ようりょう)がこれを再び校訂して注解を施したものが起源である(元和十三年、818)。劉向の『荀卿新書』はすでに伝わらず、ましてや劉向の整理以前の原型がどのようであったかは、今は知る由もない。どこまでが荀子本人の著作で、弟子あるいは他人の追加がどれだけあったのかも、わからない。その後清代になると朱子学から距離を取って古代文化を客観的に研究しようとする考証学が盛んとなり、ようやく中国での『荀子』研究が進んだ。王先謙の『荀子集解』(光緒十七年、1891)はその成果である。日本では、久保愛(1759-1835)が研究成果をまとめて『荀子増注』(文政三年、1820序)を著した。

こうして正統な儒学から目の敵にされ続けた、『荀子』である。それほどに、世の正義漢たちの神経を逆撫でする書物なのであろうか?

現在手に取ることができる『荀子』の開巻の言葉が、上のものである。私は読んだとき、なんと穏やかで理性に満ちた語り始めであろうか、と感心してしまった。『孟子』の開巻の言葉は、王との対話である。富国強兵を望む梁の恵王に対して、「なんぞ必ずしも利を言わん。ただ仁義あるのみ!」と食って掛かるのである。孟子の戦略は、大王を圧倒してねじふせる言葉の魔力を用いてこれを洗脳し、頂上のトップから理想の改革を行わせようとするものである。なので孟子の言葉は、宗教的な折伏の響きがある。論理は時に飛躍し、たとえ話で分かった気にさせるものである。

しかしながら、この『荀子』の開巻の言葉は、大王へのメッセージではない。この書を開く興味を持った、志ある諸君に対しての語りかけである。この勧学篇が冒頭に置かれていることは、まちがいなく『論語』を意識している。『論語』の冒頭には、「学びて時に之を習う、また楽しからずや」に始る有名な句が置かれている。荀子も参照したことであろう『論語』は、その冒頭に志あって学ぶ者たちへの励ましの言葉が置かれているのである。荀子は、自らこそが儒学の正統派であると疑うことがなかった。それで、『論語』の続編を書くつもりで、学ぶ者たちを励ます言葉を冒頭に置いたに違いない。(荀子のオリジナルな配置が、現行のとおりであったとは限らない。しかしながら、私は少なくとも現行の形に最初に並べた前漢の劉向は、明らかにこの書が『論語』の続編であることを意識していたはずだと思う。)

荀子は、「性悪説」の提唱者であると知られている。じっさい、後の篇にはそのものずばり「性悪篇」まである。人間はしょせん利得を考える欲望的存在が本性であり、善人はその本性を矯正することによって後天的になり得るのである、という主張である(誤解してはいけないが、荀子は人間の本性が邪悪を好む、と言っているのではない。単なる利得を求める利己心が本性であると言うのである)。その主張はいずれ検討するとして、この冒頭の言葉はそんなスレた人間観から発するものであろうか?性悪説と言っておきながら、読む者の自発的な奮起を期待する、熱い励ましの魂があるではないか?これから後、荀子は読む者に対して知性ある立派な人間となることを勧め、人相で人物を評価する当時の風潮を批判し、これを打ち砕け、人間の真の価値は外見にはなく心の中にあるのだ、と喝破するのである。その言葉は、人が善を選んで自己を向上させることを明らかに期待している。これのどこが性悪説なのであろうか?

私は、「性悪説」はあくまでも孔子以来の儒家の主要テーマである「国家をいかに運営すれば平和な統治が行われるか?」という統治論的問題を荀子が考察した際に、人間認識として置いた作業仮説であると考えたい。『荀子』では、中盤以降で統治論が展開される。そこでは、人間は「悪=利得を求める存在」として設定され、その存在をよく誘導して統治する方策が述べられる。国家を統治する方法を考えるときには、統治される対象である人間に幻想を持たず、これを突き放して捉える冷徹さを持たなければならない。荀子は、マクロの社会を考察するときの統治論を考察するための作業仮説として「性悪説」を唱えたのではないだろうか。

他方彼が批判する孟子は、マクロの社会を統治するための政治経済学でもミクロの個人がいかに生きるべきかを勧める倫理学においても、一貫して「性善説」である。ゆえに、ミクロの倫理学では人間は自らの持つ善なる可能性を伸ばして無限の努力を行えば聖人にすらなれると説くわけである。同時にマクロの統治論の領域においてもまた、統治する君主の仁義が最初の一撃となって、それが人間の輪を作って強い国家を作り、さらには天下全体までこれを喜んで推戴するであろうという主張につながったのであった。だが荀子ら後世の理論家から見れば、孟子のマクロの統治論はあまりに粗雑であった。荀子はそれに替えて、人間の本性は「悪=利得を求める存在」であり、そのような人間を統治するためには国家システムを構築して制御しなけければならない、というプランを提示したのであった。この荀子のプランは、人間が利得を求める存在であるという視点に立って、初めて説明することができた。ゆえに彼の性悪説は、マクロの統治論の必要から要請されたものであった。

他方、荀子はミクロの個人がいかに生きるべきかを勧める倫理学を説く際には、孟子と対立する必要を感じなかったはずである。マクロの政治経済学とミクロの倫理学では、おのずから対象が違うのである。この対象においては、この勧学篇のように荀子は人間が善に向かい自己を向上させることを信じている。そしてこの『荀子』を読む者に対しても、そうなってほしいと期待しているのである。最初の勧学篇は、この天下をよい世界を作ることに導くべき志ある者への呼びかけの倫理学である。後に続く諸篇は、志あり学問を積んだ統治者が社会に直面したときに、心がけるべき政治経済学である。『荀子』に収録された両者の議論は、冒頭の勧学篇は読む者じしんへの呼びかけ、続く諸篇は読む者が対象とすべき社会への認識であり、読む段階によって対象が違う。「性悪説」は、後者を対象とした仮説であると読まなければいけない。私は、そう考えたい。

さて、上の訳について、私は原文の「君子」をあえて「君たち」と訳してみた。これは宮崎市定氏が『論語』にある「君子」という言葉は孔子の弟子たちへの呼びかけであることが多く、そういった場合は「諸君」という意味に取ったほうがよい、と提案していることに賛同したものである(宮崎『論語の学而第一』岩波現代文庫『論語の新しい読み方』収録)。荀子は孔子の後継を自任する者であり、この開巻の呼びかけの言葉は志ある者への誘いの言葉で間違いがないだろう。なので、「君子」を「君たち」とあえて訳してみた。そうすると、荀子の熱い励ましの息遣いが聞こえてくる。

後半に、『詩経』からの引用がある。『詩経』は古代中国の詩集であり、孔子の学校ではこれの学習に力を入れていた。宮廷人として、尊敬される紳士として、『詩経』を学んでいることは必須であり、『詩経』を知らない者は教養を疑われた。教養ある者は折にふれて『詩経』から一フレーズを引用して、それで思いの丈を伝えたり、政治的主張を遠まわしに伝えたりする。これが、古代中国における洒落者たちの流儀であったのだ。なので、荀子もまた『詩経』を引用して、学ぶ者にこれぐらいの敷居はまたいで来なさいよ、と言うわけである。今の日本では、このような共通の教養はあるのだろうか?ガンダムで例えるのは、教養とはいえないだろう、、、

詩の原文で、「神之聽之」とある。古代詩の本来の意味を取れば、「神之(これ)之を聽き」と読み下し、「神様が(まっとうな私を)聞き届けてくださる」と訳すべきである。しかしここでは、『新釈漢文大系』訳者の藤井専英氏の指摘に基づいて訳した。荀子は「神」という文字に超越的存在を意味させることはなく、人間の内なる精神、つまりは理性のはたらきを意味させるのが専らである。荀子は、人間が自らの力でできることに限って議論を行うのであり、超越的存在について論じることはない。その点もまた、「怪・力・乱・神を語らず」(論語、述而篇)の孔子と同じくしている。ただ孔子は語りはしなかったが、鬼神への畏敬の心は強く持っていた。それに比べて荀子は、よくも悪くもずっと合理的な考えの持ち主である。ゆえに荀子は、世の人が迷信を信じていることを厳しく批判するのである。


(注)服部宇之吉氏によれば、蘇軾の真意は荀子・李斯の名を借りて王安石・呂恵卿を誹るものであったという(『漢文大系十五巻 荀子集解』収録の「荀子解題」)。しかしながら、宋代の新法批判者たちが王安石を攻撃するために荀子の名を借りて、それが受け入れられたということは、すでに宋代主流の儒者たちの間において荀子とはそういうものであると受け止められていたことを意味しているはずであろう。ましてや、以降の朱子学者たちにとってはなおさらである。