堯問篇第三十二(2)

By | 2016年3月1日
伯禽(はくきん)(注1)が、周公の代理として魯国に初めて赴こうとしていた。父の周公が、伯禽の傅(ふ。もり役)に言った、
周公「お主は、いまわが子とともに出発するところであるが、これまでお主が傅として仕えたあの子の美徳な点を、どうか聞かせていただきたい。」
伯禽の傅「お人柄は人に寛大であり、自ら率先してことを行い、しかも慎重であります。御曹司の美徳な点は、この三点に尽きるでしょう。」
周公「ああ!お主は人の悪しき点を挙げて、それを美徳な点だと言っているではないか。君子とは道徳を好むものであり、そのゆえに下の人民もまた君子にならって正道に赴くのである。わが子伯禽が人に寛大であると言うが、それは単に善人と悪人の区別ができないので、誰でも許しているに過ぎないからではないか。なのに、お主はそれを美徳だと言う。わが子伯禽が自ら率先してことを行うと言うが、それは人間が狭小である証拠ではないか。そもそも君子とは、その力がたとえ牛に匹敵していたとしても、牛と力を争ったりはしない。その走る速さがたとえ馬に匹敵していたとしても、馬と速さを争ったりはしない。そして知力がたとえ士に匹敵していたとしても、士と知力を争ったりはしないものだ(注2)。人と争うということは、対等の者どうしが競う気構えなのだ。なのに、お主はそれを美徳だと言う。わが子伯禽が慎重であると言うが、それは人間として底が浅いことを言っているだけではないか。私はこう聞いている、すなわち『身分低い士と位階を越えて会わない、などということはあってはならない』と。そして士に会った時には、『私の見識に、なにか至らないことはないでしょうか?』と問わなければならない。問うて聞かなければ、人の意見が集まることが少ない。そして自らに集まる意見が少なければ、その考えも底の浅いものとなるであろう。底の浅い考えにとどまることは、賤人の道である。なのに、お主はそれを美徳だと言う。そんなお主に、言って聞かせようではないか。この私は、文王の子、武王の弟、成王の叔父である。よってこの私は、天下において決して賤しい身分ではない。それにもかかわらず、私が自ら贄(し)を捧げた者は、十人にのぼる(注3)。また、捧げられた贄(し)を返して会見した者は、三十人にのぼる(注4)。礼を整えて居住まい正しく接待した士は、百人以上にのぼる。また私と会見して何か言おうとする前に、こちらから『言いたいことを遠慮なく全て言ってください』とお願いした者は、千人以上にのぼる。ここまでやってして、私はやっとわずか三名のしかるべき士を得ることができた。彼らのおかげによって、私は己の身を正して天下を治めたのである。しかも、この私が得た三名の士は、さっきの十人・三十人の中から見出したのではなくて、百人・千人の中にあったのだ。ゆえに、私は上士には軽い礼をもって接するが、下士にはむしろ厚い礼をもって接するようにしているのである。人々は、私があまりにも位階を越えて身分低い士を好みすぎる、と言う。しかしながら、だからこそ士が私のもとにやってくるのだ。士がやってくれば、見聞が多く集まる。見聞が多く集まれば、是非善悪の所在がわかってくるのだ。この点は、よくよく戒めなければならない。もしお主が魯国の権勢をもって人に驕るならば、これは危険であろう。単に禄を得ることを望んでいるだけの士であれば、権勢を見せつけて驕っても許されよう。しかし、身を正す士に対しては、驕りを見せてはならない。かの身を正す士とは、貴さを捨てて賤しさにおり、富を捨てて貧しさにおり、安楽さを捨てて労苦の中にいる者である。薄汚れた黒い顔色をしていても、己の正しさを失わない者である。彼らによって天下の綱紀は絶えることがなく、華麗なる礼楽は廃れることがないのだ。」


(注1)伯禽は周公の子。周の武王は周公に魯の地を与えたが、周公は武王と次代の成王のもとにとどまって政務を執った。周公は伯禽を自らの代理として魯に赴かせ、以降その子孫が魯公の位を受け継いだ。
(注2)『荀子』においては、君子は士よりも高位にあって、より高い識見を持って士の能力を用いる役割として想定されることが多い。致士篇(1)などを参照。
(注3)贄とは、礼で君主あるいは師に仕えるとき、仕えることを希望する者が捧げ物を持参すること。大略篇(11)注3参照。ここでは周公が贄を捧げて師事することを請うたことを指す。
(注4)周公に仕えることを希望して贄を捧げた者にあえて返還して、対等の立場で会見したことを指す。
《読み下し》
伯禽(はくきん)將(まさ)に魯に歸(き)せんとす(注5)。周公伯禽の傅(ふ)に謂いて曰く、汝將に行かんとす、盍(なん)ぞ而(なんじ)が子の美德を志(しる)さざるや(注6)、と。對(こた)えて曰く、其の人と爲りや寬にして、好みて自ら用い、以て愼む。此の三者は、其の美德なるのみ、と。周公曰く、嗚呼(ああ)、人の惡を以て美德と爲すか、君子は好むに道德を以てす、故に其の民道に歸す。彼れ其の寬なるや、辨(べん)無きに出づ。汝又之を美とす。彼れ其の好みて自ら用うるや、是れ窶小(くしょう)なる所以なり。君子は力牛の如くなるも、牛と力を爭わず、走ること馬の如くなるも、馬と走ることを爭わず、知は士の如くなるも、士と知を爭わず。彼の爭なる者は均者の氣なり。汝又之を美とす。彼れ其の愼むや、是れ其の淺き所以なり。之を聞く、曰く(注7)、越踰(えつゆ)(注8)しては士に見(まみ)えずということある無かれ、と。士を見ては問うて曰く、乃(すなわ)ち察ならざること無きや、と。聞かざれば卽ち物至ること少く、至ること少ければ則ち淺し。彼の淺なる者は、賤人の道なり、汝又之を美とす。吾汝に語(つ)げん。我は文王には之れ子爲(た)り、武王には之れ弟爲り、成王には之れ叔父爲り。吾天下に於て賤しからず。然り而(しこう)して吾贄(し)を執りて見ゆる所の者十人、贄を還(かえ)して相見ゆる者三十人、貌執(ぼうしゅう)(注9)の士者(は)百有餘人、言わんこと欲して事を畢(つ)くさんことを請う者は千有餘人。是に於て吾僅(わず)かに三士を得、以て吾が身を正し、以て天下を定む。吾が三士を得る所以の者は、十人と三十人との中に亡くして、乃ち百人と千人との中に在り。故に上士は吾れ薄く之が貌を爲し、下士は吾れ厚く之が貌を爲す。人人皆我を以て越踰して士を好むと爲すも、然(こ)の故に(注10)士至る。士至りて而(しか)る後に物を見、物を見て然る後に其の是非の在る所を知る。之を戒めん哉(かな)。汝魯國を以て人に驕らば、幾(あやう)し(注11)。夫れ祿を仰ぐの士には、猶お驕る可きなるも、身を正すの士には、驕る可らざるなり。彼身を正すの士は、貴を舍(す)てて賤を爲し、富を舍てて貧を爲し、佚(いつ)を舍てて勞を爲す。顏色黎黑(れいこく)なるも、而(しか)も其の所を失わず。是を以て天下の紀息(や)まず、文章廢(すた)れざるなり、と。


(注5)楊注は、「初めて国に之(ゆ)くを謂う」と注する。魯国に初めて行くときのことを指す。
(注6)原文「盍志而子美德乎」。楊注は、「何ぞ汝が傅する所の子の美徳を志記して、以て我に言わざるや」と注する。「盍」は再読文字で、「なんぞ、、、せざるや」の意。「志」は記録する意で、ここでは記録にあることを伝えること。「而」はここでは「汝」と同じ意。「而(なんじ)が子」とは、傅が仕えてきた子のことであり、つまり伯禽を指す。
(注7)「曰」を宋本は「日」に作る。集解の兪樾は、「曰」の誤りと言う。漢文大系はすでに「曰」字に改められている。
(注8)楊注は「越踰は一日を過ぐるなり」と注する。しかし集解の盧文弨・兪樾、および増注は楊注を非として、身分位階を飛び越えることの意に解する。「士皆等有るも、下士の己と等を踰(こ)ゆるに因りて見(まみ)えざる勿(なか)れ」(盧文弨)、「越踰は等位を越うるを謂う」(増注)。これらに従う。
(注9)楊注は、「執はなお待つがごときなり。礼貌を以て接待す」と言う。礼を整えた容姿で接待する意。
(注10)集解の兪樾は、「然故はすなわち是故なり」と言う。これに従う。
(注11)楊注は、「幾は危なり」と言う。

周公については、儒效篇(1)ほかを参照。君主は自ら動かず、よい仕事ができる家臣を選ぶことに専念しなければならない、という考えは前章の呉起の問答と同じである。

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