哀公篇第三十一(1)

By | 2016年2月16日
魯の哀公(あいこう)が、孔子に質問した。
哀公「私は、我が国の士を選考して、よき人材とともに国を治めたいと願っている。あえて質問したい、どうやってこれを選び出せばよいだろうか?」
孔子「それは、今の乱れた時代に生まれながらも、いにしえの道を志し、今の乱れた風俗の中にいながらも、いにしえの服装を着ようとする者です。このことを行いながら非をなす者は、まず滅多におりません。」
哀公「ならば、章甫(しょうほ。殷朝の冠)を被り、絇屨(くく。飾り付きの靴)を履き、紳(しん。大帯)を締めて笏(こつ。手に持って備忘用のメモに用いる札で、いわゆる「しゃく」のこと)をそこに挟んでいるならば、その者はすべて賢者なのであろうか?」
孔子「必ずしも、そうとは言えません。しかしながら、玄端(げんたん。黒色の麻で作った祭服)を着て絻(べん。冠)を被って路(ろ。車)に乗る者は、厳粛な祭儀に臨む礼装を着る立場にあるからには潔斎時の禁食である葷(くん。ねぎ・にらなどの香味野菜)を食べようとは思わないものです。また斬衰(ざんさい。最も重い喪服)を着て菅屨(かんく。菅の草履)を履き杖をついて粥をすする者は、深い喪に服して哀しむ立場にあるからには酒や肉を楽しもうとは思わないものです。今の乱れた時代に生まれながらもいにしえの道を志し、今の乱れた風俗の中にいながらもいにしえの服装を着ようとする者であるならば、それを行いながら非をなす者は、たとえいたとしてもまず滅多にはおりません。(だから、このことをあえて行う士ならばきっと志も高いはずなので、これを選べばまず間違いないでしょう。)」
哀公「なるほど。」
《読み下し》
(注1)魯の哀公孔子に問うて曰く、吾、吾が國の士を論じ、之と與(とも)に國を治めんと欲す。敢て問う、(孔子家語・金谷治氏に従い改める:)如何(いか)にして之を取らん、と(注2)。孔子對えて曰(のたま)わく、今の世に生れて古(いにしえ)の道に志し、今の俗に居りて古の服を服す、此に舍(お)りて非を爲す者は、亦鮮(すくな)からずや、と。哀公曰く、然らば則ち夫(か)の章甫(しょうほ)・絇屨(くく)(注3)、紳(しん)して笏(こつ)を搢(さしはさ)む者は、此(みな)(注4)賢なるか、と。孔子對えて曰わく、必ずしも然らず。夫れ端衣(たんい)・玄裳(げんしょう)(注5)、絻(べん)して路(ろ)に乘る者は、志葷(くん)を食うに在らず。斬衰(ざんさい)・菅屨(かんく)、杖して粥を啜(すす)る者は、志酒肉に在らず。今の世に生れて古の道に志し、今の俗に居りて古の服を服す、此に舍りて非を爲す者は、有りと雖も亦鮮からずや、と。哀公曰く、善し、と。


(注1)本章は、大戴礼記哀公問五義篇および孔子家語五儀解篇にほぼ同じ文が見える。
(注2)原文「何如取之邪」。宋本は「取」がなくて「何如之邪」に作る。集解の盧文弨は大戴礼記・家語に依り「取」字を補うべきを言い、集解本はこれに従って「取」字を加えている。しかし大戴礼記は「何如者取之(いかなる者に之を取らん)」に作り、家語は「如何取之(いかにして之を取らん)」に作る。文法的に正しくするならば、大戴礼記あるいは家語のようにさらに修正されるべきであろう。増注は「取」字を加えるべきであると注しながら本文では「取」字を加えていないが、これはおそらく文法的に言えば宋本の「何如之邪」の形のほうがまだ通るからであろう。よって宋本を取って読み下すか、大戴礼記あるいは家語のように語句を修正するか、のどちらかを選ぶべきであろう。新釈は宋本に従って「之をいかんぞや」と読み下す。金谷治氏は、家語のように「何如」を「如何」に入れ替えている。家語および金谷氏が意味を最もすっきりさせるので、これに従いたい。
(注3)楊注は、「絇は屨頭に拘飾有るを謂う」と言う。絇屨は、先端に飾りがついた礼装の靴。
(注4)楊注は、「端衣玄裳は即ち朝玄端なり」と言う。玄端とは、黒色の麻で作られた祭服。
(注5)集解の兪樾は、「此はまさに比に作るべし。比は皆なり」と言う。これに従う。

哀公篇は孔子と魯の哀公との問答が主で、一つだけ魯の定公と孔子の弟子顔淵(顔回)との問答が収録されている。やはり、孔子家語ほかの他書と重なる問答が多い。
哀公は、孔子晩年時代の魯公である。孔子の死後に、魯の国政を牛耳る三桓氏を除くべく、強国の越国の援助をあてにしてクーデターを企てた。しかし三桓氏に攻められて他国に逃亡し、その後再び魯国に戻ったものの魯公の君権をますます衰えさせる結果となった。哀公の死後も魯国は戦国時代中期まで細々と生き残ったが、最終的に楚国に併合されて国の歴史を終えた。

本篇の章割りは、新釈漢文大系に従う。

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