富国篇第十(5)

By | 2015年4月9日
人民に利益を与えないでこれを利用するよりも、まず人民に利益を与えてからこれを利用するほうが利益がある。人民を愛さないでこれを用いるよりも、まず人民を愛してからこれを用いたほうが功績がある。だが人民に利益を与えてからこれを利用するよりも、人民に利益を与えながらこれを利用しないほうが利益がある。人民を愛してからこれを用いるよりも、人民を愛しながらこれを用いないほうが功績がある。なぜならば人民に利益を与えてこれを利用せず、人民を愛しながらこれを用いない者は、天下を取るからである。いっぽう人民に利益を与えてからこれを利用し、人民を愛してからこれを用いる者は社稷(注1)を保つからである。最後に人民に利益を与えないでこれを利用し、人民を愛さないでこれを用いる者は、国家を危うくするであろう。

一国が治まっているか乱れているか、政治がよいか悪いかは、国境に至ればもうその端緒が見えてくる。その国境守備兵が厳しく監視を行い、国境の関門での徴税が詳細苛烈であるならば、これは乱国である。国境から入ったとたん、田畑は荒れていて都市や村が損壊しているならば、これは貪欲な君主がいるということである。進んで都の朝廷を見れば、位高い者が賢明でなく、行政官職を見れば、統治する官吏は有能でなく、君主の側近たちを見れば、君主が信任する寵臣たちは不誠実であるならば、これは暗愚な君主である。君主・宰相・家臣・下級官吏のたぐいまで、すべてが収入・支出とその計算については手馴れて厳密に行うものの、礼義と身分秩序についてはしまりがなくて適当であるならば、これは辱(はじ)を受ける国である。
いっぽう耕す者は耕作を楽しみ、戦士は困難をたやすく引き受け、官吏は法を好んで守り、朝廷は礼を尊び、卿と宰相は協調して国事を語るならば、これは治国である。また朝廷を見れば、位高い者が賢明であり、行政官職を見れば、統治する官吏は有能であり、君主の側近たちを見れば、君主が信任する寵臣たちは誠実であるならば、これは賢明な君主である。君主・宰相・家臣・下級官吏のたぐいまで、すべてが収入・支出とその計算についてはゆるやかで厳密でなく、しかし礼義と身分秩序については峻厳で細かくこだわるならば、これは栄える国である。賢明さが変わらないのであれば親族を優先して爵位を与え、才能が変わらないのであれば古くから知っている者を優先して官位を与え、家臣や官吏は汚れた者が皆感化されて謹直になり、狡猾な者が皆感化されて正直になる。これらの功績は、賢明な君主が挙げるところである。

国の強弱・貧富を見るのにも、徴候がある。上が礼を尊ばなければ、兵は弱い。上が人民を愛さなければ、兵は弱い。すでに承認したこと(注2)に信用がなければ、兵は弱い。褒賞を行き届かせなければ、兵は弱い。将軍が無能であれば、兵は弱い。上が侵略を好み功績を独り占めするならば、国は貧しい。上が利益追求を好めば、国は貧しい。士大夫(したいふ。上級・下級の宮廷人)の数が多すぎれば、国は貧しい。商人・職人の数が多すぎれば、国は貧しい(注3)。度量衡が定まらないと、国は貧しい。下が貧しければ上も貧しく、下が豊かであれば上もまた豊かとなるのである。
ゆえに田野と農村は、財貨の源泉である。国の倉庫は、財貨の末節である。人民が和合し、秩序立った事業ができることは、財貨の源泉である。課税と税収は、財貨の末節である。ゆえに賢明な君主は必ず謹んで人民の和合を育成し、末流である税収は節制し、本源である農村を開発して、時に応じてこれらを調整し、大らかな統治によって下には必ず剰余があって上が不足を憂慮させないようにするのである。このようにすれば、上も下も豊かとなり、誰もが剰余を貯蔵するところもないほどとなるであろう。これが国計を知る極地というものである。ゆえに禹(う)は十年間洪水の害があり、湯王は七年間旱魃の害があったが、天下の民でやせ衰える者はおらず、十年の後には年々の収穫は再び戻って、再び備蓄の食糧を余りあるほど積み上げることができたのである。これは他でもない、本末は何か、源泉と末節は何か、を知っていたからなのである。ゆえに、「田野荒れて倉廩(そうりん)実(み)ち、百姓虚しくして府庫満つ」という状態であれば、それは国蹶(こくけつ。国の危機)というものである。国の本を伐り、国の源泉を涸らして、国の末節である倉庫に収奪し、このようでありながら君主も宰相もこれはよくない、と思わないならば、もはやこの国が転覆滅亡することは時間の問題というものである。こういう君主は国を保有しておりながら、やがては自分の逃げ場所すらなくなるのである。こういうのを貪欲の極みというのであり。暗愚な君主の極地である。まさに利益を求めようとして、己の身を危うくしたのである。いにしえの時代には、万単位も国があった。今や、十数国しかない。これは他でもない、君主が国を失う理由は一つだったのである。人に君主たる者は、悟るべし。百里(40km)四方の国ですら、これで独立には十分なのであるよ(注4)


(注1)社稷(しゃしょく)とは、土地の神と五穀の神。古代の天子諸侯は、宮殿の右に国の神として社稷を祀り、左に先祖の宗廟を祀った。意味が転じて、社稷は国家を象徴する意味となった。ここでは、天下を取るべき王者より劣る存在として現実の諸王国の君主たちを想定している。
(注2)
原文「已諾」。増注は「已は其の諾し難い者」と言う。こう取ると、意味は「上のイエス・ノー」ということになる。しかしここでは、藤井専英氏の解釈を取って「已(すで)に諾」とみなす。
(注3)
荀子が農本主義だからというよりも、前近代経済の基本はあくまでも農業だからである。商工業が富の源泉であるという考えは、18~19世紀以降に産業資本主義システムが確立して企業間の利潤追求の競争が起こり、競争により工業の技術進歩が短期間で累積して起こるようになった、すなわち産業革命以降に成立した新しい常識である。
(注4)方七十里から興った殷の湯王、方百里から興った周の文王を想定している。『孟子』公孫丑章句上、三および同章句上、四を参照。荀子は孟子のこのような王者観を基本的に継承しているが、覇者に対する評価は孟子とはかなり異なっている。王制篇などを参照。
《原文・読み下し》
利せずして之を利すは、利して而(しこう)して後に之を利するの利なるに如かざるなり。愛せずして之を用うるは、愛して而して後に之を用うるの功なるに如かざるなり。利して而して後之を利するは、利して利せざる者の利に如かざるなり。愛して而して後に之を用うるは、愛して用いざる者の功に如かざるなり。利して利せず、愛して用いざる者は、天下を取るなり。利して而して後に之を利し、愛して而して後に之を用うる者は、社稷(しゃしょく)を保つなり。利せずして之を利し、愛せずして之を用うる者は、國家を危うくするなり。
國の治亂(ちらん)・臧否(ぞうひ)を觀るや、疆易(きょうえき)に至りて端已(すで)に見(あら)わる。其の候繳(こうきょう)は支繚(しりょう)し、其の竟關(きょうけつ)の政は盡察(じんさつ)なるは、是れ亂國のみ。其の境に入れば、其の田疇(でんちゅう)は穢(あ)れ、都邑は露(ろ)(注5)なるは、是れ貪主(たんしゅ)のみ。其の朝廷を觀れば、則ち其の貴者は賢ならず、其の官職を觀れば、則ち其の治者は能ならず、其の便嬖(べんべい)を觀れば、則ち其の信者は愨(かく)ならざるは、是れ闇主のみ。凡そ主・相・臣下・百吏の俗(注6)、其の貨財の取與(しゅよ)・計數(けいすう)に於けるや、須孰(じゅんじゅく)(注7)盡察し、其の禮義・節奏(せっそう)や、芒軔(ぼうじん)・僈楛(まんこ)なるは、是れ辱國(じょくこく)のみ。其の耕者は田を樂しみ、其の戰士は難に安んじ、其の百吏は法を好み、其の朝廷は禮を隆(とうと)び、其の卿相は調議するは、是れ治國のみ。其の朝廷を觀れば、則ち其の貴者は賢に、其の官職を觀れば、則ち其の治者は能に、其の便嬖を觀れば、則ち其の信者は愨(かく)なるは、是れ明主のみ。凡そ主・相・臣下・百吏の屬、其の貨財の取與・計數に於けるや、寬饒(かんじょう)・簡易に、其の禮義・節奏に於けるや、陵謹(りょうきん)(注8)・盡察(じんさつ)なるは、是れ榮國のみ。賢齊しければ則ち其の親なる者先(ま)ず貴く、能齊しければ則ち其の故なる者先ず官し、其の臣下・百吏・汙者(おしゃ)皆化して脩に、悍者皆化して愿(げん)に、躁者皆化して愨(かく)なるは、是れ明主の功のみ。
國の強弱・貧富を觀るに徵驗(ちょうけん)有り。上禮を隆(とうと)ばざれば則ち兵弱く、上民を愛さざれば則ち兵弱く、已諾(いだく)信ならざれば則ち兵弱く、慶賞漸(ひた)さざれば則ち兵弱く、將率(しょうすい)能ならざれば則ち兵弱し。上攻を好めば(注9)則ち國貧しく、上利を好めば則ち國貧しく、士大夫衆(おお)ければ則ち國貧しく、工商衆ければ則ち國貧しく、制數度量無ければ則ち國貧し。下貧しければ則ち上貧しく、下富めば則ち上富む。故に田野・縣鄙(けんぴ)なる者は、財の本なり。垣窌(えんぼう)・倉廩(そうりん)なる者は財の末なり。百姓時(こ)れ和し、事業敘(じょ)を得る者は、貨の源なり、等賦・府庫なる者は、貨の流(りゅう)なり。故に明主は必ず謹みて其の和を養い、其の流を節し、其の源を開きて時に斟酌し、潢然(こうぜん)として天(か)(注10)の下をして必ず餘有りて、上をして不足を憂えざらしむ。是(かく)の如くなれば、則ち上下俱に富み交(こもごも)之を藏する所無し。是れ國計を知るの極なり。故に禹は十年の水あり、湯は七年の旱(ひでり)ありて、天下菜色(さいしょく)の者無く、十年の後、年穀復(ま)た孰して、陳積(ちんし)餘有り。是れ它(た)の故無し、本末源流を知るの謂(いい)なり。故に田野荒れて倉廩實ち、百姓虛しうして府庫滿つ、夫れ是を之れ國蹶(こくけつ)と謂う。其の本を伐り、其の源を竭(つ)くして、之を其の末に幷(あわ)せ、然り而(しこう)して主相惡(にく)むことを知らざれば、則ち其の傾覆滅亡、立ちどころにして待つ可きなり。國を以て之を持して、以て其の身を容るるに足らず、夫れ是を之れ至貪(したん)(注11)と謂う、是れ愚主の極なり。將に以て富を求めんとして其の國を喪い、將に以て利を求めんとして其の身を危うくす、古(いにしえ)は萬國有り、今は十數有り、是れ它の故無し、其の之を失する所以は一なり。人に君たる者亦以て覺(さと)る可し。百里の國、以て獨立するに足る。


(注5)「露」を楊注は城郭牆垣(しょうえん)が無い、つまり城が裸であることと言う。集解は王念孫を引き、露は敗すなわち、やぶれていることと言う。
(注6)楊注は「俗は風俗を謂う」と言う。集解は兪樾を引き、「俗」は屬(たぐい)の誤りと言う。どちらでも通じるが、兪樾に沿って訳す。
(注7)
集解の兪樾、増注ともに「須」は順の誤りと言う。順孰はよく習い馴れている様。
(注8)「陵」について集解の王念孫の言、増注、猪飼補注、すべて致仕篇の用例を引く。集解は「陵は厳密」、猪飼補注は「陵は峻」と言う。峻厳なこと。
(注9)原文「好攻取功」について集解は王念孫が前の文との対句の関係を見れば「攻取」の二字を取るべきであると言うのに賛同している。
(注10)集解は「天」は「夫」の誤りと言う。
(注11)集解にて王先謙は、「貪」は「貧」の誤りと言う。

ここから富国篇は、後半というべき内容に入る。ここから先の叙述は、一つ前の王制篇あるいは一つ後の王覇篇とも繋がっているものである。

最初に、荀子という思想家の国際性について指摘しよう。

荀子は趙国で生まれ、斉国に遊学してそこで稷下の学者の重鎮として長年留まり、斉で讒言を受けた後は春申君に庇護されて楚に定住した。また『荀子』の中の記録を見ると、遠く秦国にも向かって宰相の范雎と会見したことが伺える(地図参照)。この行動範囲の広さは、魯・斉・魏といったいわゆる中原地方での活動にとどまった孟子とは、スケールが一回り異なっている。孟子は、魯の出身である。そして魏は孔子の弟子であった卜商子夏(ぼくしょう・しか)が魯から出国して儒家を根付かせた国であり、斉は魯と文化的に近くてやはり孔子の弟子である端木賜子貢(たんぼくし・しこう)が儒家を根付かせた国である。孟子は彼の時代ですでに儒家が受け入れられていた地域を活動の拠点としたのである(拙筆レジメ参照)。

しかし荀子は、孟子の時代に儒家の活動が見られなかった趙国から斉に現れた。荀子の出現は、儒家思想がようやく国際的に通用する原理であることが、中華世界中で認められるようになったことの現れであると思われる。その荀子は、彼の時代にすでに超大国の様相を示していた秦国に赴いた。のちに読む彊国篇で荀子は、秦国の整った政治を高く評価し、その上で儒家の原理を採用して国家を完成させるべきことを宰相に説いた。荀子が野蛮国であると中原諸国からみなされていた秦国の実情を正しく評価することができて、なおかつ儒家思想を国際的に通用する原理であると確信することができたのは、彼が儒家発祥の地である中原地方から離れた土地から現れた思想家であったことと強く関係している、と私は考えるのである。孟子は、同時代の趙国・秦国についてはほとんど言及すらすることなく(春秋時代の秦国への言及はある)、楚国は異言語の南蛮人であると蔑んだのであった。これは、荀子の広い視点よりも視野が狭い。

荀子は、当時の中華世界の各国を見聞する機会を持ち、それぞれの国情と風俗を実地に見た。彼の持つ冷静な理性は、諸国の政治と経済の実情を比較考量させたはずであると、私は考える。なので、ここから後の治まる国と治まらない国についての叙述は、単なる頭の中の理念の産物ではなくて、諸国の制度を見聞した経験を下地にした上で、儒家の理論に再度あてはめて整理したものであると、私は考えたい。

荀子は、人間の根本を利益を求める存在として見る。それが彼の「性悪説」である。富国篇の冒頭は国家の起源論を取り上げて、人間が利益あるから国家権力に服することをあえて選んだのだ、という社会契約説から始った。荀子の冷静な観察眼は、国家に対して被支配者が真に期待しているものは、生命の安全と経済的利得である、と写っていたはずである。利得を抜きにして精神論を唱える後世の儒者たちの発想からは、荀子は遠ざかっているはずだ。なので、荀子が治まる国と強い国を観察したとき、それはいかに表面上は人民が国家と君主への忠誠心を持つ国であるように見えたとしても、それを支えるシステム、つまりぶっちゃければ人民が己の生命の安全と経済的利得を供給するシステムを持つ国を支持していることを、荀子が見逃すはずがない。

この視点は、ナショナリズムに支えられた国家をまとめる原理とは違わなければならない。国家(ステート)に民族共同体(ネーション)を期待して忠誠心を誓うのが、ナショナリズムである。このネーション=ステートの結合は近代的現象であって、自然な共同体が壊れてしまった社会において、他人との平等を確保してくれる期待が投影できて、なおかつ他人との連帯の意識を想像することができる対象として、近代資本主義の時代になって浮上する。

ネーションの基盤には、市場経済の浸透とともに、また、都市的な啓蒙主義とともに、解体されていった農業共同体がある。それまで、自立的で自給自足的であった各農業共同体は、貨幣経済の浸透によって解体されるとともに、その共同性(相互扶助や互酬性)を、ネーション(民族)の中に想像的に(引用注:ベネディクト・アンダーソンの用語「想像の共同体(imagined communities)」を念頭に置いた言葉)回復するわけである。
(柄谷行人『トランスクリティーク』批評空間、409ページ)


実際に国家が平等と連帯を供給するかどうかはとりあえず関係がない。もっとも国家の側は支配を維持するために国民の忠誠を求める演出を行い、また富の再分配と雇用の創出を少なくとも国民に約束するのであるが。大事なことは国民が自発的に「想像」して、期待することである。ナショナリズムは、被支配者の側からの国家へのラブコールが先立つものである。

だが荀子を読むときには、国家統合の原理をナショナリズムとは違ったものとして捉えざるをえない。荀子の立てる治まる国・強い国の原理は、あくまで支配する側が率先して支配される側に供給するサーヴィスが良好であるところに見出される。支配する側のサーヴィスが劣悪であれば(一時しのぎの福祉政策は劣悪なサーヴィスであることが、(4)で言及された。良好なサーヴィスは、継続的に国家を運営できる原理に立って供給されなければならない)、支配される側からの支持を失うのである。これは、ナショナリズムを演出することにより国家へ忠誠を促すことよりも国家にとっては面倒であり、なおかつ利によって集まって来る人間は国家への忠誠心を内面化しそうにない。なので、荀子が立てる原理だけでは、おそらく対外戦争が起こったときには勝てないであろう。国家が外敵と直面したときには、どこかで孟子的な君主個人への利害を超えた忠誠心を必要とするか、あるいは多少なりともナショナリズムを持ち出すより他はない。しかしながら、荀子の原理には重大な効果があると、私は考える。

荀子の国家は文化を超えて国際的に通用する、支配される人民の安全と経済的利得を供給するという原理を貫くことによって、まず第一に外国への信用を生み、第二に亡命者の逃げ場所として選ばれる効果があるだろう。第一および第二の効果は、今後王制篇などを読むところで展開される。そしてこれらの効果は、世界帝国が供給できる国際的信用というべきものである。

帝国は軍事的な征服によって形成されるのだが、実際には、ほとんど戦争を必要としない。各共同体や小国家は、戦争状態よりもむしろ帝国の確立を歓迎するからだ。その意味で、世界=帝国の形成は、交換様式B(引用者注:国家内での支配者―被支配者の間で行われる、略取―再分配の交換)だけでなく、交換様式C(引用者注:互いに疎遠な共同体、あるいは個人の間で行われる、貨幣を仲立ちにした商品交換)が重要な契機となる。
(柄谷『世界史の構造』157ページ)


柄谷氏は、世界=帝国が供給する間共同体的な原理とテクノロジーとして、四つを挙げる。世界貨幣、共同体を越えた法、世界宗教、世界言語はいずれも征服者・被征服者の両者を拘束する、どちらからも独立した原理とテクノロジーである。ゆえに拡散する力を持つのである。の四つである。これらの供給は、各共同体や小国家にとって国際的安全保障と交易による経済的利益を供給する。なので、力による征服をほとんど行わずとも、世界=帝国は自発的に参加者が集まって形成されるのである。逆に言えば、各共同体や小国家にとって利益がない世界=帝国は成立することができない。表面上の意識では偉大な征服者の徳に各国がなびいて平和が訪れた、という神話が吹聴されたとしても、実際に各国がそれを選択したのは利益があるからなのである。世界貨幣、共同体を越えた法、世界宗教、世界言語はいずれも征服者・被征服者の両者を拘束する、どちらからも独立した原理とテクノロジーである。ゆえに拡散する力を持つのである。

後に検討する、荀子が想定する「王者」は、柄谷に従うならば各国の間に拡散することができる間共同体的な原理を実践することによって、国際的な人心を掴むと言うべきであろう。ゆえに「王者」は単に一国の暴力だけで勢力を拡大しようとする「強者」を、国際的信用というより強い力によって凌駕してしまうのである。柄谷の四原理のうち、荀子の「王者」は中華世界の各共同体を越えた法=礼法を供給する者である。世界貨幣と世界言語は、後に実際に秦漢帝国が成立した後に実現されることとなった。秦帝国が暴力によって強制した統一貨幣と統一言語を、その崩壊後に受け継いだ漢帝国が優秀なテクノロジーとしてそのまま継続し、利益あるゆえに定着したものである。最後に「王者」は仏教やイスラム教のような世界宗教を積極的に供給するわけではない。しかしながら儒学(儒教ではない)が後世に中華世界を越えて朝鮮・日本に導入された点には、儒学の唱える原理(すなわち、「王者」の原理)が普遍性を持つ思想として間共同体的に受け入れられる要素を持っていたことを示している。

荀子が「王者」の強さは力を用いずして信用が拡散していくことにある、と指摘することを、私は上のような柄谷の世界=帝国の原理から見ることによって理解してみたい。

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