臣道篇第十三(4)

By | 2015年10月15日
大忠というものがあり、次忠というものがあり、下忠というものがあり、国賊というものがある。その人徳によって君主を覆いつくしてこれを善に教化してしまうのが、大忠である。その人徳によって君主を調整してこれを輔佐するのが、次忠である。是をもって非を諌めて君主から怒りを買うのは、下忠である。君主の栄辱をかえりみず、国家の善悪をかえりみず、主君にまにあわせの迎合をして主君からの下命は適当に受け取って、このようにして禄を保って己の交際を広めるばかりであるならば、これは国賊である。周公の成王に対するあり方は、大忠と言うべきである(注1)。管仲の桓公に対するあり方は、次忠と言うべきである。子胥(ししょ)の夫差(ふさ)に対するあり方は、下忠と言うべきである(注2)。曹觸龍(そうしょくりゅう)の紂王に対するあり方のごときは、国賊と言うべきである(注3)

仁者は必ず人を敬う。およそ人というものは、賢者でなければすなわち愚者である。賢者であるのにこれを敬わない者がいるならば、その者は禽獣(ケダモノ)というべきである。だが愚者であってもあえてこれを敬わない者がいるならば、その者は虎を侮るようなものであり、何をしでかすか分からない愚者に噛み付かれる恐れがある。禽獣は、無茶苦茶なことをする。虎を侮れば、危険が待っている。そうして災いが己の身に及ぶだろう。『詩経』に、この言葉がある(注4)。:

虎を暴(てうち)にする者はおらず
黄河を馮(かちわた)る者もおらぬ
人はそのことを知るれども
すべて他事もかくすべきこと、知らぬなり
戦々兢兢(せんせんきょうきょう)として、
深き淵に臨むがごとく、
薄き冰(こおり)を履(ふ)むがごとく、なさねばならぬ
(小雅、小旻より)

まさに、人に対するには、相手が賢愚を問わず細心の注意が必要なのだ。ゆえに仁者は、必ず人を敬う。人を敬うには、道がある。賢者はこれを尊んで敬い、愚者はこれを恐る恐る扱って敬い、賢者はこれに親しんで敬い、愚者はこれを遠ざけて敬うのである。仁者が人を敬うという姿勢は、常に一つである。しかしながら、その敬うときの内情は、このように二通りなのである。だが相手に忠信かつ誠実であって相手を傷つけないことにおいては、誰と接しても常に同じなのである。これが、仁人の本質である。仁人とは忠信を本質となし、誠実をもって規範となし、礼儀によって装飾し、類推判断(注5)によって理を定め、ちょっとした言葉の端でも、ちょっとした動作でも、全てが一つの規則に則っているのである。『詩経』に、この言葉がある。:

僭(たが)わず、賊(そこ)なわざれば
則(のり)とならざること鮮(すくな)し
(大雅、抑より)

仁人は、こうして規則どおりに動くのである。

つつしんで敬うことが、礼の精神である。調和することが、楽(がく。音楽)の精神である。謹慎することは、己の利益となる。怒って戦うことは、己の害となる。ゆえに君子は礼楽(れいがく)に安んじ、謹慎を利益とみなして、怒って戦うことはしない。この原則ゆえに百事を行って過ちがないのである。小人はこの反対である。

(君命に逆らって君主を利する)忠は、(君命に従って君主を利する)順に結局は通じるのである(注6)。君主と争って君主を危険に追い込むことは、やがて平治をもたらすことを計算して行うのである。しかし君主が災いと争乱を起こしたきに、それに聴き従っているだけの者もある。この三者の区別は、明主でなければよく知ることはできない。君主と争った末に国のためによい結果をもたらし、君主に逆らった末に国のために功績を挙げ、死を覚悟して出撃して私心無く、忠を極めて公のために尽くすこと。これが、忠が順に通じると言うのであり、信陵君(しんりょうくん)(注7)はこれに近い。君主から権力を奪った末に正義をもたらし、君主を殺した末に仁政を行い、上下の位をひっくり返した末に貞節を守り、その功績は天地を統御し、その恩沢は人民に行き渡る。これが、平治のために君主を危険に追い込むと言うのであり、湯王・武王はこれに当たる。君主に過失があっても心を合わせ、君主と和合しても筋道がなく、正しいことか正しくないことかはどうでもよく、正しいことと曲がっていることをよく見極めることもせず、主君にまにあわせの迎合をして主君からの下命は適当に受け取って、わけのわからぬ者どもを迷わせかき乱す。これが、君主が災いと争乱を起こしたきに、それに聴き従っているだけの者と言うのであり、飛廉(ひれん)と悪来(あくらい)(注8)はこれに当たる。言い伝えには、「不揃いゆえに揃い、曲がっているゆえに素直であり、同じからずして一つである」とある。『詩経』には、この言葉がある(注9)。:

小球(しょうきゅう)・大球(だいきゅう)のみたからを受け
諸国したがう、綴旒(めじるし)となる
(殷頌、長發より)

こうして称えられた湯王のように、あえて争って天下に平治をもたらす道は、むしろ忠の道に通じるのである。


(注1)周公と成王との関係は、儒效篇(1)および同(6)を参照。
(注2)子胥は伍子胥のこと。臣道篇(2)注2参照。
(注3)曹觸龍について。楊注はここの注で『説苑』を引いて、夏の桀王の左師に「觸龍」なる者があったと書かれていることを指摘する。しかしながら荀子はこの臣道篇でも議兵篇でも、曹觸龍を殷の紂王の時代の人物とみなしている。
(注4)詩中の「暴」字は手討ちにする意。また「馮」字は徒歩で渡る意。
(注5)原文「倫類」。勧学篇(5)注1でこの語を「法の解釈」と訳した。「倫」はとなりの意であって、倫類は物事に対してとなり合う類をもって類推判断を適用することである。ここではより一般的な判断基準のように訳す。
(注6)ここでの「忠」「順」は、臣道篇(2)の言葉の定義に従っているのである。
(注7)魏の信陵君については、臣道篇(2)注4を参照。
(注8)飛廉・悪来については、解蔽篇(2)注3を参照。
(注9)詩中の「球」とは大小の玉のこと。小国は大球を贈り大国は大球を贈り、服属することを象徴する。また詩経の毛伝は、「綴」は表、「旒」は章、と言う。両者ともに、しるしのこと。
《原文・読み下し》
大忠なる者有り、次忠なる者有り、下忠なる者有り、國賊なる者有り。德を以て君を復(おお)いて(注10)之を化するは、大忠なり。德を以て君を調(ととの)えて之を補(たす)くる(注11)は、次忠なり。是(ぜ)を以て非を諫めて之を怒らすは、下忠なり。君の榮辱を卹(かえり)みず、國の臧否を卹みず、偷合(とうごう)・苟容(こうよう)し、之を以て祿を持し交を養うのみなるは、國賊なり。周公の成王に於けるが若きは、大忠と謂う可し、管仲(かんちゅう)の桓公に於けるが若きは、次忠と謂う可し、子胥(ししょ)の夫差(ふさ)に於けるが若きは、下忠と謂う可し、曹觸龍(そうしょくりゅう)の紂に於けるが若き者は、國賊と謂う可し。
仁者は必ず人を敬す。凡そ人(ひと)賢に非ざれば、則案(すなわち)(注12)不肖なり。人賢にして敬せざれば、則ち是れ禽獸なり。人不肖にして敬せざれば、則ち是れ虎を狎(あなど)るなり。禽獸なれば則ち亂れ、虎を狎れば則ち危く、災い其の身に及ぶ。詩に曰く、敢て暴虎(ぼうこ)せず、敢て馮河(ひょうが)せず、人其の一を知りて、其の它(た)を知ること莫し、戰戰兢兢(せんせんきょうきょう)として、深淵に臨むが如く、薄冰(はくひょう)を履(ふ)むが如し、とは、此を之れ謂うなり。故に仁者は必ず人を敬す。人を敬するに道有り。賢者をば則ち貴びて之を敬し、不肖者をば則ち畏れて之を敬す。賢者をば則ち親みて之を敬し、不肖者をば則ち疏(うと)んじて之を敬す。其の敬は一なるも、其の情は二なり。若し夫れ忠信・端愨(たんかく)にして害傷せざるは、則ち接すとして然らざること無し、是れ仁人の質なり。忠信以て質と爲し、端愨以て統と爲し、禮義以て文と爲し、倫類以て理と爲し、喘(ぜん)にして言い、臑(ぜん)にして動くも、一に以て法則と爲す可し(注13)。詩に曰く、僭(せん)せず賊(ぞく)せざれば、則(のり)と爲さざること鮮(すくな)し、とは、此を之れ謂うなり。
恭敬は禮なり、調和は樂(がく)なり、謹愼は利なり、鬭怒(とうど)は害なり。故に君子は禮樂に安んじ、謹愼を利として、鬭怒無し、是を以て百舉(ひゃくきょ)して過たざるなり。小人は是に反す。
忠の順に通じ、險の平を權(けん)し(注14)、禍亂には聲(こえ)に從う、三者は明主に非ざれば之を能く知ること莫きなり。爭いて然る後に善く、戾(もと)りて然る後に功あり、出死して私無く、忠を致(きわ)めて公なり、夫れ是を之れ忠の順に通ずと謂い、信陵君之に似たり。奪いて然る後に義に、殺して然る後に仁に、上下位を易(か)えて然る後に貞なり、功天地に參し、澤生民に被(こうむ)る、夫れ是を之れ險の平を權すと謂い、湯・武是(これ)なり。過ちて情を通じ、和して經無く、是非を卹みず、曲直を論ぜず、偷合・苟容して、狂生(きょうせい)を迷亂す、夫れ是を之れ禍亂には聲に從うと謂う、飛廉(ひれん)・惡來(あくらい)是なり。傳に曰く、斬(ざん)にし齊(ひと)しく、枉(ま)げて順(したが)い、不同にして一なり、と(注15)。詩に曰く、小球大球を受け、下國の綴旒(てつりゅう)と爲る、とは、此を之れ謂うなり。


(注10)集解の兪樾は、韓詩外伝の引用が「復」を「覆」に作ることを指摘して、これを取る。おおう。
(注11)集解の郝懿行は、韓詩外伝の引用が「補」を「輔」に作ることを指摘する。
(注12)則、案ともに「すなわち」の意。語調を整えるために、意味の同じ二字が揃えられている。二字あわせて「すなわち」と読み下す。
(注13)勧学篇(4)に「端(ぜん)にして言い、蝡(ぜん)にして動くも、一に以て法則と爲す可し」とある。楊注は、「喘は微言にして、臑は微動なり」と言う。
(注14)楊注は、「危険の事を權(権)用し、平に至らしむ」と言う。増注は、「權(権)はその軽重を称量す」と言う。治平のことを考慮に入れて、あえて争う様。
(注15)栄辱篇の末尾と同一の文。集解の劉台拱は、「斬」は読んで「儳」のごとし、と言う。「儳」は、たがいに不ぞろいの様子。

「忠」を強調する臣道篇は、以上で終わる。

孟子の説く君子像は、君主に天下を取らせるというサーヴィスを提供する君主の師であって、君主とは等価交換の立場に立つべき存在であり、決してその下に立つ存在ではない。しかしその一世紀後に儒家思想を展開した荀子の臣道は、国家の官僚制度の枠内にあることが前提となって、その中であえて正道を貫いて上の者と争うことによって官僚システムを活性化させる役割が期待されているようである。孟子の説く君子は、独立独歩のプロフェッショナルというべきであり、君主から求められたならば政治に貢献するが、君主の隷属下にはいない。いっぽう荀子の説く家臣は、官僚システムの中で国家のために正義を貫いて死することもあるが、国家に奉仕することに疑いを置かない隷属者である。孟子から荀子の思想へと移行した背景には、諸国分立時代から統一国家の登場へと移行する政治状況の変化があり、また春秋時代の遺風が残っていた戦国時代中期から国家権力にすべての臣民が隷属する戦国時代末期の官僚国家へと移行する社会構造の変化があったはずである。

2 thoughts on “臣道篇第十三(4)

  1. 高橋

    河南先生
    「仁者は必ず人を敬う。」の一節は長らく私の大事な指針となっています。
    ネットだからこそ出会うことができました。書物から辿りつくことはできなかったと思います。
    どうもありがとうございます。

    Reply
    1. 河南殷人 Post author

      高橋さん、コメントありがとうございます。このサイトに掲げているのは、荀子の全文です。他の箇所でもこの偉大な古代思想家の以外な点を発見できる一助となれば、幸いです。

      Reply

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