論語についてのノート(4)

By | 2015年4月6日

四、孟子の遊説の意義について

孟子一生の業績については、司馬遷の孟子荀卿列伝や趙岐の孟子題字などもあるが、なによりも『孟子』本文に数多く書かれた記事が、最終的に最も参考となるはずだ。

『孟子』の内容によると、孟子は少なくとも以下の諸国に遊説を行った業績がある。(カッコ内は、遊説した諸侯の名)

  1. 魏(恵王→襄王)
  2. 斉(宣王)
  3. 宋(文中からは不明であるが、おそらく最後の王である偃王)
  4. 滕(文公)
  5. 魯(平公)

上は、小林勝人先生の整理によるの遊説の順序のとおりに並べたところである。

これまで武内先生の考証に従ったところ、孔子死後には曾子を源流とする魯スクールがあり、他方斉には子貢を源流とする斉スクールがあり、孟子の斉遊説の結果として両者の和解総合が為され、その記念的成果が孟子以降に論語学而篇となったというのである。

その孟子は、斉に赴く前に、魏で遊説を試みている。
魏は、戦国時代初期に出た文候が西門豹・呉起・李悝などを活用して富み栄え、初期戦国で最強を自称した国であった。その二代後に立った恵王はいちはやく自国を正当化する歴史書を編纂し、独自の暦を制定し、王を名乗った。魏が自家編纂した歴史書は後世の晋代に発見されて、現在『竹書紀年』と名づけられている。(以上の叙述は、平勢隆郎氏の戦国時代史に負う所が大きい。尾形勇・平勢隆郎『世界の歴史 中華文明の誕生』中央公論社、第1章)
孟子は、当時の強国に期待をかけて、遊説に赴いたのであろうか。
『孟子』の叙述を読む限り、孟子が魏に遊説した理由は、それに尽きる。孟子は、晩年の魏(『孟子』の中では国名を「梁」と表記されている)の恵王に会見した。恵王は、彼の推進した過剰な拡張政策が災いして、孟子との会見以前に隣の諸国との戦争に連敗し、失意となっていた。孟子は、その恵王に対して、朗々と儒家の王道政治を展開するのである。両者の会見の内容は、梁恵王章句上篇に詳しい。

だが、魏という国は、儒家にとって全く疎遠な国だったのだろうか。
さきの漢書儒林伝や魏世家の記事には、孔子の弟子の卜商子夏が魏に赴き、魏文候の師となったことが書かれていた。魏の文候は一方で礼節を重要視して子夏やその追随者たちを師として厚遇し、他方で法家の源流の一とされる李悝を登用して富国強兵に務めた。経済政策と道徳政策を硬軟織り交ぜながら推進していった後世の戦国君主たちの先駆けたる姿を、魏の文候に見ることができる。子夏の一派は、魏を強大となした文候の下で、道徳政策の柱として重きを成した。

『史記』孫武呉起列伝の記事によれば、呉起は衛の出身で魯に赴いて孔子の弟子である曾参に学んだが、破門された。その後魏に行って将軍となり、大いに盛名を挙げたという。さきの『漢書』儒林伝では、子夏が呉起を教えたと報告されている。ならば、稀代の英才である呉起は、魯から魏へとはるばる儒家スクールを尋ねて行ったことになるだろう。外交官でもなく、人質でもなく、戦争捕虜でもない一私人が、はるかに遠国である斉魯文化圏から三晋(春秋時代の晋国を分け取った魏・韓・趙三国のこと)文化圏にまで学を求めて渡り歩くことなど、中国でそれまでの時代にあったであろうか?-私は、各地に散じて行った孔子学派の弟子たちは、華北平原が広がる範囲までは一つの倫理的原理が通用するはずであり、そして一つの「天下」として平定されるべきである、という戦国時代の知識人の通念を作り出す基盤を作った、いわば思想的インフラの創設世代ではなかったか、と思う。

子夏は、貧しくて衣服はぼろぼろであった。ある人が、「あなたはどうして仕官しないのですか?」と聞いた。子夏は答えた、「諸侯であろうが、私に驕り高ぶる者には、私は家臣とならない。大夫であろうが、私に驕り高ぶる者には、私は二度と会わない。魯の柳下恵は、城の門限に遅れるようなだらしない人間のような衣装をしていたが、疑われなかった。それは、彼の風聞が一日で成ったものではなかったからだ。ノミの甲羅のような小さな利益を争うと、いずれ自分の掌まで失ってしまう災厄となるのだ。」
(『荀子』大略篇)


『荀子』に引用されている、子夏のエピソードである。後世の子思や孟子の原型とも言える、自分の価値についての強烈な自意識と自負心である。彼は、中華史上で始めて現れた、知識で身を立てやがて世界を革命しようという孔子学校の一員として、当時の国境を越えた天下への気概に燃えていたに違いない。果たして彼は魯を飛び出して遠い魏に赴き、大国の君主の師となるまでに、影響力を持った。今の日本人がアメリカに飛び出して成功するよりも、大きな困難を乗り越えた生涯であったろう。

孟子の時代、魏における儒家の勢力が子夏の後にどれぐらい残存していたかは、分からない。おそらく魯や斉にくらべると他学派に圧倒されていたであろうし、たとえ残っていたとしても、その思想内容は時と地域を隔てて魯や斉のものと大きく変化していたことであろう。『孟子』で孟子が魏の臣と対話した記事は、周霄と白圭のそれである。(それぞれ滕文公章句下篇第三章、告子章句下篇第十章)しかし両名とも、その言葉を見るに、儒家の徒であるようには見えない。

しかし、孟子は魏に赴いた。
魏は、少なくとも子夏が植え付けた孔門の末裔がまだ幾分かは残っていたからこそ、孟子は赴く地盤があったのではないだろうか?あるいはたとえ門人としてはすでに絶えていたとしても、偉大なる文候の記憶はいまだに孟子の時代に強く残っていたはずであり、文候が子夏を師としたように当時の王もまた孟子という儒家のリーダーを迎え入れることを、国勢回復の手段として喜んだはずではなかろうか(注)。

私は、学而篇に子夏の章が一つ入れられている事実を、あえて重視したい。
武内先生が学而篇を魯スクールと斉スクールとの和解総合の記念であり、ゆえに曾子と子貢の言葉が乗せられていると考えられるならば、また子夏の言葉は彼を源流とする魏の孔門の名残りまでも孟子が遊説に赴いてこれを儒家の本流に一本化させた、その記念であったと考えるのは、うがち過ぎであろうか?
さきほどの公孫丑章句上第二章で、孟子は子夏と曾子の両名の勇を取り上げて、「いずれが賢(まさ)れるかを知ら」ないが、曾子を「守るに約たり」と評して、両名をともに讃えながらも曾子が一枚上であると評価して、子夏を巧みに顕彰しながらも魯スクールの優位を主張しているなどは、発言の背景を詮索したい気になって来る。
時代は諸子百家の時代であり、儒家は墨・道・農・法・縦横ほかの各家と激しい争いを繰り広げていた。時代は、儒家にとって思想的危機であった。もと儒家の徒であった者が脱落して他家に鞍替えすることが相継いでいたであろうことは、『孟子』滕文公章句において儒家から農家に鞍替えして孟子に批判された陳相たちの記事などを見れば、推測が付く。陳相などの例は、当時氷山の一角であっただろう。
その危機的時代において、孟子は各国に分裂していた儒家スクールを回って遊説して、その一本化に務める使命を別に持っていたのではないだろうか。今は分裂している時期ではなく、生き残るためには、思想の統一を急がなければならなかった。孟子の遊説の表看板は諸侯に王道政治を説くことであったが、それに付随した教団政策上の意図があって、各国の儒家を一本化して教団を再び活性化させるところにあったのでは、なかっただろうか?

またひょっとしたら、斉の後に孟子が赴いた宋にも、歴史にははっきり現れていないが儒家の別流のスクールがあったのかもしれないと、私は想像を伸ばしてみたい。
漢書儒林伝では「子張は陳」、「澹台子羽は楚」に赴いたと書かれているところである。両者ともに、論語に登場する。とりわけ子張は若年の弟子ながら頻繁に登場し、論語子張篇の記述を見れば、曾子や子夏らに反感を持たせるほどに一門が勢力を持ったようである。
彼らのスクールは、やがて陳・楚といった南方に教線を張っていったに違いない。陳は戦国時代初期に楚に併合されて、戦国時代には楚一国が残る。『孟子』滕文公章句上篇四章には楚人陳良が孟子の前の時代に儒家として出色であったことが、言及されている。孟子は陳良の弟子でありながら儒家を棄てて許行の創始した農家に転向した陳相たちを、変節者として痛烈に批判するのである。陳良の出自がもとの陳であったのかは分からないが、少なくとも孟子のすぐ前の時代にも、楚に一定の儒家の影響力は残っていたことは確かに違いないだろう。

宋も南方の国家であり、道家の代表的理論家である荘子の故国である。
道家は楚に始まり、宋や韓など南方の隣接諸国で大いに流行した。孟子は、そのような楚文化圏に親近性があった宋にも赴き政策を提言したことが、『孟子』の各章で明らかに言及されている。
宋は、殷王朝の遺臣微子を国の始祖としていた。論語微子篇が、微子ら殷の遺臣たちを讃える章から始まっているのは、この篇が元来宋に由来するテキストであった可能性を示唆してはいないだろうか。その微子篇を編んだ者は、誰だったのであろうか?そして、微子篇は儒家によってどのような経緯で、取り込まれたのであろうか?


(注)だが、秦末漢初においても魏地方で儒学が一定の影響力を持ち続けていたであろうことは、この時代に現れた人物たちの経歴から、推測できる。陳豫は楚漢抗争時代の群雄の一であるが、彼は大梁の人で儒学を好んだという(史記張耳・陳豫列伝)。大梁はすなわち魏の都である。また漢建国者である高祖劉邦の幕僚の一であった酈食其(れきいき、酈生とも言う)は明確に儒者を自称していたが、彼は陳留県高陽の人で、その土地に住んでいたが高陽を攻略した劉邦と会見して、幕下にはせ参じた(史記酈生・陸賈列伝)。陳留県高陽は、地理的に大梁に近い。

[(5)へつづく]

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