礼論篇第十九(1)

By | 2015年10月21日
礼とは、どこから発生したのであろうか?それは、人間とは生まれながらにして欲望があり、欲求して得ることができなければ、それでも求め続けずにはいられない性質がある。もしその求めるところに程度と限界が置かれなければ、必ず争うことになる。争いが起こればカオスとなって、カオスとなれば困窮するだろう。わが文明の建設者である先王たちはそのようなカオスを嫌ったので、礼義を制定して人間に区分を授け、これを通じて人間の欲求をうまく充たしてやり、人間の求めるものを与えて、人間の欲望が財物を己のものに奪い尽くしてしまわないように仕向け、財物が人間の欲求を無限に高揚させてしまわないように仕向け、欲求と財物の両者がバランスを保ちながら成長するように仕向けたのであった。これが、礼の発生した由来である。ゆえに、礼とは人間の欲求をよく養うものである。家畜の肉に穀物、五味に香辛料は、口の欲求を養う財物である。椒(さんしょう)に蘭、香草のたぐいは、鼻の欲求を養う対象である。器物調度の模様や衣装礼服の文様は、目の欲求を養う財物である。大鐘(おおがね)に管(ふえ)に磬(けい。大小の石板を並べて音階をつけた打楽器)、琴瑟(こと)に笙竽(しょうのふえ)は、耳の欲求を養う財物である。風通しのよい部屋に奥深い宮室、越席(かつせき。蒲のむしろ)に牀笫(しょうし。寝台の上に敷くすのこ)に几(き。ひじかけ)に筵(むしろ)は、身体の欲求を養う財物である。(これら礼が取り扱う財物は、すべて人間の欲求をよく養うものである。ゆえに、)礼とは人間の欲求を養うものなのである。君子はこれらの人間の欲求を養う財物を獲得した後に、さらに進んでそれを区別するのである。区別とは何であろうか?それは、貴賤の等級であり、長幼の差別であり、富の貧富と身分の軽重が適切に分配されていることである。ゆえに天子が越席(かつせき)に座し大路(たいろ。天子の乗車)に乗るのは、身体の欲求を養うためである。横には睪(たく)と芷(し。いずれも香草)を置くのは、鼻の欲求を養うためである。前に錯衡(さくこう。乗車の手すりのことと思われる)があるのは、目の欲求を養うためである。和鸞(からん。車に付いた鈴)の音が鳴り、徐行するときは武象(ぶしょう。武も象も、古楽の曲名)の調子に合わせ、快走するときには韶護(しょうかく。韶も護も、古楽の曲名)の調子に合わせるのは、これらの音声で耳の欲求を養うためである(注1)。龍旗に九斿(きゅうりゅう。九枚の垂れ布)を付けるのは、臣民の信頼感を養うためである。車輪には寢兕(しんじ。伏せた水牛)に特虎(とくこ。一匹の虎)を描き、馬には蛟韅(こうけん。水龍を描いた馬の腹帯)を着け、絲幦(しべき。絹糸で織った布)で車を覆い、彌龍(びりゅう。車のくびきの端に着けた龍の金飾り)で飾るのは、天子の威厳を養うためである。そして大路(たいろ)を引く馬は必ず馴らして教化した後に牽引させるは、安楽な乗り心地を養うためなのである。さて一方臣民の側の礼を見るならば、死を覚悟してまで節義を守り通すのは、他人から信用を得て己の生命を養うためであるのを熟知しなければならない。社交のために費用を出すのは、社会的地位を上げて己の財貨を養うためであることを熟知しなければならない。うやうやしくつつしんで譲るのは、他人から傷つけられることを防いで己の安全を養うためであるのを熟知しなければならない。煩雑な礼義文飾を守るのは、欲求をうまく制御して己の情性を養うためであるのを熟知しなければならないのである。ゆえに、人は己の生命を守ることばかりを考えるならば、人から助けてもらえなくなって必ず死ぬことになるであろう。己の利益を得ることばかりを考えるならば、回りまわって必ず損害を受けることになるであろう。なまけてやりたい放題に暮らして居直っているならば、他人から侮蔑を買って必ず危害を受けることになるであろう。己の情性を喜ばせて楽しむばかりであるならば、必ず滅亡して楽しむどころではなくなってしまうであろう。よって、人は礼義をもって唯一の行動原理とするならば、礼義と情性の両者をともに得るであろう。だが情性をもって唯一の行動原理とするならば、礼義と情性の両者をともに失ってしまうであろう(注2)。ゆえに儒者は人に礼義と情性の両者を得させる者なのである。いっぽう墨家の者どもは人に礼義と情性の両者を失わせてしまう者なのである。これが、儒家と墨家の分かれ道である(注3)


(注1)天子の礼についてのここまでの説明は、正論篇(5)にも同一の内容が見られる。
(注2)荀子は「性」を人間の生物学的属性であり、利己的性質であると考える。「情」はその性が外部に表れた、利己的快楽を求める感情である。この「性」「情」は利己的で破壊的であり、「偽(い)」を後天的に身に付けて矯正善導することが人間の目標である。聖王と君子は制度化された「偽」である礼を制定して運用することによって人間の情性を制御し、欲望を充たす財物を身分と能力に応じて合理的に分配して社会を統治する。以上が荀子の性悪説と、そこから派生する礼による統治論である。ここで情性と礼義が両立する、ということは、礼義によって本能的情性を制御することに成功する、という意味である。「性」「情」の定義については、正名篇(1)を参照。情性は人間の属性であって取り除くことができずむしろ制御しなければならない、という主張については、性悪篇の全体あるいは正論篇後半の子宋子への批判を参照。
(注3)以上の文章は、『史記』礼書に若干の語句の差異をもってほぼ同文が表れる。『史記』礼書でこれに続く文は、議兵篇(5)の文とほぼ同文である。さらに『史記』礼書がその後に続ける文は、次の礼論篇(2)の文とほぼ一致する。すべてまとめると、『史記』礼書の後半部分はほぼ全文が『荀子』礼論篇・議兵篇の中に見ることができる。
《原文・読み下し》
禮は何に起るや。曰く、人生れて欲すること有り、欲して得ざれば、則ち求むること無き能わず。求めて度量・分界無ければ、則ち爭わざること能わず。爭えば則ち亂れ、亂るれば則ち窮す。先王は其の亂を惡(にく)む、故に禮義を制して以て之を分ち、以て人の欲を養い、人の求(もとめ)を給し、欲をして必ず物を窮めず、物必ず欲を屈(つく)せ(注4)ざらしめ、兩者相持して長ず、是れ禮の起る所なり。故に禮なる者は養なり。芻豢(すうけん)・稻梁(とうりょう)、五味・調香は、口を養う所以なり。椒蘭(しょうらん)・芬苾(ふんひつ)は、鼻を養う所以なり。雕琢・刻鏤(こくろう)、黼黻(ほふつ)・文章は、目を養う所以なり。鐘鼓(しょうこ)・管磬(かんけい)、琴瑟(きんしつ)・竽笙(うしょう)は、耳を養う所以なり。疏房(そぼう)・檖䫉(すいぼう)(注5)、越席(かつせき)・牀笫(しょうし)・几筵(きえん)は、體を養う所以なり。故に禮なる者は養なり。君子既に其の養を得、又其の別を好む。曷(なに)をか別と謂う。曰く、貴賤等有り、長幼差有り、貧富・輕重皆稱(しょう)(注6)有る者なり。故に天子は大路(たいろ)・越席なるは、體を養う所以なり。側に睪芷(たくし)を載(お)くは、鼻を養う所以なり。前に錯衡(さくこう)有るは、目を養う所以なり。和鸞(からん)の聲、步は武象(ぶしょう)に中(あた)り、趨(すう)は韶護(しょうかく)に中るは、耳を養う所以なり。龍旗・九斿(きゅうりゅう)は、信を養う所以なり。寢兕(しんじ)・持虎(とくこ)(注7)・蛟韅(こうけん)・絲末(しべき)(注8)・彌龍(びりゅう)は、威を養う所以なり。故に大路の馬は必ず倍(しん)(注9)至り敎順(したが)いて、然る後に之に乘るは、安を養う所以なり。夫の出死・要節の生を養う所以なるを孰知(じゅくち)し、夫の費用を出すの財を養う所以なるを孰知し、夫の恭敬・辭讓の安を養う所以なるを孰知し、夫の禮義・文理の情を養う所以なるを孰知す。故に人苟(いやし)くも生を之れ見ることを爲す若(ごと)き者は必ず死す。苟くも利を之れ見ることを爲す若き者は必ず害せらる。苟くも怠惰・偷懦(とうだ)を之れ安と爲す若き者は必ず危し。苟くも情說(じょうえつ)(注10)を之れ樂と爲す若き者は必ず滅す。故に人之を禮義に一にすれば、則ち之を兩得し、之を情性に一にすれば、則ち之を兩喪す。故に儒者は將(まさ)に人をして之を兩得せしむる者にして、墨者は將に人をして之を兩喪せしむる者なり、是れ儒・墨の分なり。


(注4)楊注は、「屈」は「竭」なり、と言う。つきる。
(注5)「疏房」について楊注は、通明の房なりと言う。風通しのよい部屋の意。「檖䫉」について、楊注は未詳、或説に「檖」は読んで「邃」となし、䫉(貌)は廟にして宮室尊厳の名なり、と言う。したがって奥深い宮室の意味となるだろう。この或説に従っておく。なお「䫉」字はCJK統合漢字拡張Aにしかない。
(注6)楊注は、「稱(称)は各(おのおの)その宜しきに当たるを謂う」と注する。
(注7)集解の盧文弨は、「持」は「特」の誤り、と言う。漢代の礼制では、諸侯王の車の車輪には兕(じ。水牛の一種)と一匹の虎が描かれ、この虎の絵を特虎(とくこ)と呼んだということである。
(注8)楊注は、「末」は「幦(べき)」と同じ、と言う。糸幦(しべき)とは、絹糸で織った布のことと言う。
(注9)集解の盧文弨は、『史記』では「倍」が「信」に作られていることを言う。これに従う。
(注10)楊注は、「説」は読んで「悦」となす、と言う。

礼論篇は、礼の重要性を主張する長大な篇である。これまで見てきたように、荀子は礼の実践を君子の倫理として、なおかつ国家の政策として最も重視する。なので、この礼論篇が荀子の思想にとって要の篇の一つであることは、荀子と彼の学派が最もよく意識していたことであろう。

礼論篇のテキストの一部は『史記』礼論篇と『大戴礼記』礼三本篇、および『礼記(小戴礼記)』三年問篇のテキストとほぼ一致する記事となっている。上に訳した箇所は、『史記』礼書において若干の語句の差異をもってほぼ同文が表れる。また礼論篇のこの後に続く「礼に三本有り」以下の叙述は、やはり『史記』礼書にほぼそっくりそのまま表れる。この「礼に三本有り」以下の文は、『大戴礼記』礼三本篇ともほぼ同テキストである。『荀子』が劉向によって荀卿新書(孫卿新書)の名で編纂されたのは漢代末期であり(BC26年)、『史記』(漢武帝期)『大戴礼記』『礼記』(両者の正確な編纂時期は不明だがテキストは漢代初期に伝わっていた儒家のテキストに拠る)よりも後の時代である。『荀子』が編纂される以前に、荀子学派の礼関係のテキストは他書に収録されるまでに漢代の学者界隈で重視されていた。

礼論篇の冒頭では、礼の起源について、富国篇と同じ説が立てられる。すなわち、人間の無限の欲望は互いの欲望の衝突をもたらし、絶えざる争いと貧困の世界を招かずにはいられない。そのためにいにしえの先王は礼義を制定して身分秩序を作り、各人の能力に応じて身分の貴賤を定め、身分と能力に応じて欲望の実現できる程度を階層化した。これによって人間は争いと貧困の日常から脱却できたのであって、人間は自らの生存と繁栄のために君主の権力とその制定した礼義の作る身分秩序にあえて従うのである。それが荀子の社会契約説であり、したがって荀子にとって礼義とは人間の生存と繁栄のために必要不可欠な社会装置なのである。

上に訳した箇所の最後に、墨家が儒家と比較されて、墨家を批判する。荀子が墨家を批判する理由は、これもまた富国篇の叙述に詳しい。富国篇での批判の眼目は、墨家の非楽・節葬・節用が社会に秩序をもたらさず混乱を招くだけである、という墨家の推奨する政策の無効性についてであった。いっぽうこの礼論篇においては、墨家の主張の一である節葬に対抗するために、「三年の喪」を擁護する長大な文章が置かれている。「三年の喪」は、『論語』『孟子』にも表れる。それは、儒家が古代中国の正統的な喪礼であると主張し続けた儀式である。儒家を受け継ぐ荀子は、それゆえにこの礼論篇でその有益性を主張したのである。だが、「三年の喪」は、本当に中国文化のいにしえの時代において実施されていた古制であったのだろうか。それは節葬を主張する墨家に対抗するために、儒家があえて固執したグロテスクな復古思想であったのかもしれない。礼論篇の「三年の喪」を擁護するあたりの叙述は後半に表れるが、現代の読者にとっては退屈なものである。

One thought on “礼論篇第十九(1)

  1. ミッツー

    漢文の授業中お世話になっております。やってみりゃいいんすよ

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