富国篇第十(6)

By | 2015年4月10日
他国を攻める者は、名声を挙げるためでなければ、利益を得るためか、そうでなければ怒りのためである。仁の人が国を治めるときには、己の志を修め、身と行いを正しくし、礼を厚くし、忠信を窮め、礼を貫徹するのである。たとい粗衣に破れ靴の貧者であってもこれらを誠に実行したならば、この者が雨漏りのするあばら家にいたとしても、王公ですら名声を争うことはできはしない。ましてや一国を持ってこれらを行えば、天下広しといえどもこの名声が隠れることはないであろう。こうなれば、名声のために攻めて来ようとしても、できなくなる。田野を開き、倉庫を満たし、装備・用品を整え、上下が心を一つにし、総軍が力をひとつにして団結する。この国に対して遠征軍を送って決戦しようとしても、成功しないであろう。国内の者たちは固く守り、時期をみはからって敵軍を誘い込み、敵将を捕らえることは麷(ほう)(注1)を撥ね飛ばすように容易いであろう。敵軍に多少の局地的勝利があったとしても、全体で受けた深手を癒して大敗を補うには足らないであろう。こうなれば敵は自国の爪と牙を大事にするため、こちらと戦うことを恐れるのである。こうなれば、利益を得るために攻めて来ようとしても、できなくなる。大国・小国・強国・弱国の力関係を熟知し、この現状に沿って守ろうとする。礼節は非常に整い、珪璧(けいへき)(注2)は非常に立派であり、進物は非常に豪勢であり、使者の弁舌は文章・弁舌が巧みで賢明な君子を派遣して来る。敵国にいやしくも人間の心があるならば、ここまで立派な外交態度に対して怒るに怒れないであろう。こうなれば、怒りのために攻めて来ようとしても、できなくなる。名声のために攻めることができず、利益のために攻めることができず、怒りのために攻めることができないならば、国は磐石よりも固く、旗(き)・翼(よく)(注3)よりも永らえるであろう。こうなれば他国が全て乱れても、自国だけは治まっている。他国が全て危機に陥っても、自国だけは安泰である。他国が全て亡国となったときには、自国はおもむろに立ってこれらを制することができるのである。ゆえに、仁の人が国を治めるときには、単に自国を保とうとして治めるのではなく、他国までも影響下に置こうという志があるものなのである。『詩経』に、この言葉がある。:

親鳥は、君子のごとく
威儀礼儀、迷わず一つ
迷わずに、一つであるゆえ
四方(よも)の国、正されるかな
(曹風、鳲鳩より)

仁の人は、結局この言葉のようにならずにいられない。

最後に、国を保持していく難易について述べる。
「強暴な国に従うのは難しく、強暴な国をこちらに従わせるのはたやすいことである」と言う。強暴な国に従うために財貨を進呈することを使うならば、財貨が尽きたならばそれが縁の切れ目となるであろう。これと条約・盟約を結ぶならば、条約を結んだとたんに相手から反故にされることであろう。これに自国の領地を少しずつ割譲するという手で宥和するならば、領地割譲が決まれば次の領地要求の欲が厭くことなく始まるであろう。こうしてかの国に従うための譲歩にこちらはますます頭を痛めることとなり、かの国がこちらを侵略することはますます甚だしくなり、必ずこちらの財貨が尽きて国が乗っ取られるところまで至って終わるのである。たとえ聖王の堯と舜がこちらの左右に控えていたとしても、この結末から逃れることはできはしないであろう。これをたとえるならば、処女が宝珠の首飾りを着けて腰に宝石を帯び、しかも黄金を背負って中山(ちゅうざん)(注4)の野盗に合ってしまったようなものである。目をそむけて腰を曲げて膝を折り、あなた様の下女となるから許してください、と懇願したとしても、身ぐるみ剥がされるのは決まりきったことである。ゆえに、人心を一つにする道を取らずして、単に口舌で相手国に懇願して機嫌を取ったとしても、国を保持してわが身を安泰にするには足りないのである。
ゆえに、賢明な君主はこのような道を取らない。必ず礼を修めて朝廷を整え、法を正して官吏を整え、政治を平明にして人民を整える。しかるのち朝廷は礼の規則が整い、官吏は行政万事が整い、人民もまた秩序立つことになる。こうして国が整ったならば、近国は競って友好を結ぼうとするであろうし、遠国もまた友好を望んで来るであろうし、国内では上下の心は一つになり、総軍は力を一つにして団結し、敵国はわが国の国際的・国内的名声によって炙り焼かれることとなり、また敵国はわが国の権威の力によってむち打たれることとなり、こうなれば何も動かずして口で指図するだけで、強暴の国はわが国の下で使い走られることとなるであろう。これをたとえるならば、烏獲(うかく)と焦僥(しょうぎょう)(注5)が取っ組み合うようなものである。(わが国の勢威の前には、強暴な国など組み敷かれるまでである。)ゆえに、「強暴な国に従うのは難しく、強暴な国をこちらに従わせるのはたやすいことである」と言うのである。


(注1)炒った麦、あるいは麦芽のことという。炒った麦は軽く、麦芽はもろい。
(注2)珪璧は古代の玉器。外交使が持参する礼儀であった。
(注3)旗(箕)・翼はそれぞれ中国天文学における二十八宿の一。星の寿命のように長い、という意味であると言う。
(注4)中山とは戦国時代初期に存在した国家で当時の列強の一。趙に併合された。北狄(ほくてき)系で中華とは異文化であり、荀子の時代でも凶悪視されていたのかもしれない。
(注5)烏獲は秦の有名な力士。焦僥は楊注によると、身長三尺(68cm)の短人という。
《原文・読み下し》
凡そ人を攻むる者は、以て名の爲にするに非ざれば、則案(すなわち)以て利の爲にするなり、然らざれば則ち之を忿(いか)るなり。仁人の國を用(もち)うるは、將に志意を脩め、身行を正しくし、隆高を伉(きわ)め、忠信を致し、文理を期せんとす。布衣(ほい)紃屨(じゅんく)の士是を誠にすれば、則ち窮閻(きゅうえん)・漏屋(ろうおく)に在りと雖も、王公も之と名を爭うこと能わず、國を以て之を載(おこな)えば、則ち天下之を能く隱匿すること莫きなり。是(かく)の若くなれば則ち名の爲にする者攻めざるなり。將に田野を辟(ひら)き、倉廩(そうりん)を實(みた)し、備用を便にし、上下心を一にし、三軍力を同じうせんとす。之と遠舉(えんきょ)して極戰すれば則ち不可なり。境內の聚や固を保ち、可を視て其の軍を午(むか)え、其の將を取ること、麷(ほう)を撥するが若し。彼之を得るも以て傷を藥(いや)し敗を補うに足らず。彼其の爪牙を愛し、其の仇敵を畏る、是の若くなれば則ち利の爲にする者攻めざるなり。將に小大・強弱の義を脩めて、以て之を持愼(じしん)せんとす。禮節將(は)た甚だ文に、珪璧(けいへき)將た甚だ碩(せき)に、貨賂(かろ)將た甚だ厚く、之に說(ぜい)する所以の者は、必ず將た雅文・辯慧(べんけい)の君子なり。彼苟(いやし)くも人意有らば、夫れ誰か能く之を忿らん。是の若くなれば、則ち忿(いかり)の爲にする(注6)者も攻めざるなり。名の爲にする者否(しか)せず、利の爲にする者否せず,忿の爲にする者否せざれば、則ち國は盤石より安く、旗翼より壽(じゅ)なり。人皆亂れ、我獨り治まり、人皆危く、我獨り安く、人皆之を失喪し、我獨り按(すなわ)ち起(た)ちて之を制す。故に仁人の國を用うるや、特(ただ)に將に其の有を持せんするのみに非ざるなり、又將に人を兼ねんとす。詩に曰く、淑き人君子、其の儀忒(たが)わず、其の儀忒わざれば、是の四國を正す、とは、此を之れ謂うなり。
國を持するの難易。強暴の國に事(つか)うるは難く、強暴の國をして我に事えしむるは易し。之に事うるに貨寶(かほう)を以てすれば、則ち貨寶單(つ)きて交結ばれず、約信盟誓すれば、則ち約定まりて畔(そむ)くこと日無し、國の錙銖(ししゅ)を割いて以て之に賂(まかな)えば、則ち割(かつ)定まりて欲厭(あ)く無し、之に事うること彌(いよいよ)煩にして、其の人を侵すこと愈(いよいよ)甚だしく、必ず資單(つ)き國舉(きょ)するに至りて然る後に已む。堯を左にして舜を右にすと雖も、未だ能く此の道を以て免るることを得る者有らざるなり。之を辟(たと)うるに是れ猶處女をして寶珠を嬰(か)け、寶玉を佩(お)び、黃金を負戴して、中山(ちゅうざん)の盜に遇わしむるがごとし。之が爲めに逢蒙視(ほうもうし)して、要(こし)を詘(くつ)し膕(かく)を撓(ま)げ、君が(注7)盧屋(ろおく)の妾(しょう)たらんと雖も、由(な)お將に以て免るるに足らざらんとす。故に人を一にするの道有るに非ずして、直(ただ)に將に巧繁(こうはん)・拜請(はいせい)して之に畏事(いじ)せんとすれば、則ち以て國を持し身を安んずるに足らず。故に明君は道(よ)らざるなり。必ず將た禮を脩めて以て朝を齊え、法を正して以て官を齊え、政を平かにして以て民を齊え、然る後に節奏(せっそう)朝に齊い、百事官に齊い、衆庶下に齊う。是の如くならば則ち近き者は競い親しみ、遠方は願を致し、上下心を一にし、三軍力を同じくし、名聲以て之を暴炙(ばくしゃ)するに足り、威強以て之を捶笞(すいち)するに足り、拱揖(きょうゆう)指揮して、強暴の國趨使(すうし)せざること莫し。之を譬(たと)うるに、是れ猶烏獲(うかく)と焦僥(しょうぎょう)と搏(う)つがごときなり。故に曰く、強暴の國に事うるは難し、強暴の國をして我に事えしむるは易し、とは、此を之れ謂うなり。


(注6)原文「忿之」。集解の王引之は、「爲忿」となるべし、と言う。
(注7)集解の劉台拱は、疑うは「君」は「若(ごとし)」であるかと言い、『漢文大系』はこれを採用している。しかし楊注・増注に従い、素直に「あなたの」の意に取る。

荀子のこのあたりの叙述は、外交論としても非常に面白い。今、日本は外交の岐路に立たされている。太平洋戦争敗戦の後から、日本は戦後時代に入った。この戦後時代の外交は、単純な一つの原理に従い続けた。アメリカ西側陣営の一員としての姿勢を政府としては一度も疑うことなく、対米協調路線を貫いた。東側ブロックと正面から対峙していた日本としては、これ以外に国を保つ道はなかったのであろう。ここまでは、賢明な判断であったと私は評価する。しかしながら、21世紀の現在は元外務省職員・作家の佐藤優氏いわく「新帝国主義の時代」に入っている。私は、佐藤氏の現状分析を正しいと認める者の一人である。この「新帝国主義の時代」は、近くは二十世紀前半時代の反復である。ヘゲモニー国家(十七世紀にはオランダ、十九世紀にはイギリス、二十世紀後半にはアメリカ)が世界を保持する力を失い、世界はヘゲモニー国家不在の状況でめいめいの国益を求めて合従連衡離合集散を行う時代、むしろ行うことを強いられる時代である。この状況は、古代中国の戦国時代、あるいはわが国の戦国時代と、国際状況の配置として同質である。こんな時代においてわが国は、これまでの戦後時代のように自ら外交の道を一つに絞る、という姿勢でよいのか。むしろわが国の国益は何か、そしてわが国が世界の外交界で評価される賢明な舵取りはいかがなものであるか、これを問い直さなければならない。戦国時代に思索した荀子の外交論を、何度か味わってみるのもよいであろう。

「ゆえに、人心を一つにする道を取らずして、単に口舌で相手国に懇願して機嫌を取ったとしても、国を保持してわが身を安泰にするには足りないのである。」と荀子は言うが、しかしこれをナショナリズムで国を一体化する、と読んでは荀子を読み誤ると私は考えたい。これまでも言ってきたことであるが、荀子の国家観はナショナリズムとは違う原理に強国の力の源泉を見ているはずだからである。

最後のところで強暴な国が描かれているが、これは次に読む王制篇において「強者」と呼ばれる。「強者」はひたすら力に頼んで他国を侵略する国であり、これは必ず「覇者」に敗れる運命であるとされる。荀子の面白いところは「覇者」の国際正義による外交努力を高く評価しているような書き方をしながら、「覇者」はまだ十分でなくて真の勝者は「王者」であると言うところである。「強者」、「覇者」、「王者」については、次に読むことにしたい。

荀子の国が強暴な国を打ち負かしてやがて天下への道を開く力は、軍事力にも経済力に頼るものではない。なぜならば、荀子がここで言う「仁の人」とは、それがたかだか百里四方の国を治める湯王や文王(富国篇(5)の注4を参照)のような小統治者であったとしても、あてはまるものでなければならないからである。荀子は、儒家の湯王や文王の理想はただのおとぎ話ではない、と考えるからである。小国でも他国から信用を得たならば、広域連合の盟主となって大勢力となれる、と想定するのである。それは、現実に可能であろうか?

さきほど、柄谷氏の世界=帝国の成立過程を見た。世界=帝国はほとんど軍事力を用いることなく、周辺の共同体や小国に承認される力を持つ。それは、彼らにとって世界=帝国の支配が安全保障と経済的利益を産むからであった。荀子の国が近国・遠国から歓迎されるのは、この国が信用のおける国だからであり、よって同盟することに利益があると判断されるからに違いない。その利益とは、安全保障上の利益であることは容易に理解できる。いわば小国連合の盟主として信用が置ける、というものである。同時にこの小国連合が安定的に運営されて、なおかつ盟主となる荀子の国の法制度と文化が隣国に採用される高品質なものであれば、広域文化経済連合に繋がり、経済的利益も同じく生じることであろう。それは、信用のおける盟主国家が主宰する国際連合のような組織となるであろう。理念としては、そのような筋道を考えることはできる。

しかしながら、歴史上成立した世界=帝国は、圧倒的なヘゲモニーを持った一国家が各時代にあって、それが軍事力と経済力を背景にして、ヘゲモニーを持った国家があえてあからさまな暴力を使うことなしに、全世界が世界=帝国の秩序を自ずから承認して生まれることを常としてきた。ヘゲモニー国家は自らの帝国を維持する利益のために国際的道義を重んじて、秩序の破壊者に限定的な軍事力による制裁を与える。またヘゲモニー国家は自由主義政策を取り、周辺諸国から亡命者を受け入れる(ヘゲモニー国家オランダの首都アムステルダムはデカルト、スピノザらの亡命先であったし、次のヘゲモニー国家イギリスの首都ロンドンはマルクスらの亡命先であった。柄谷『世界史の構造』409ページ。二十世紀後半のアメリカが亡命者の受け入れ大国であったことは、言うを待たない)。それは、世界秩序の中で不偏不党な主催者であることに留まることが利益があるからであり、また経済的な優位が自由主義を掲げる利益を産むからである。歴史上において、荀子の国のように秩序の維持者として世界から承認される国家は、常にそれぞれの時代で最強の力を持ったヘゲモニー国家であった。そしてヘゲモニー国家が衰えてやがて世界からヘゲモニー国家が消失すると、世界から安全保障と自由主義が消滅する時代に陥ってしまう。これが、歴史の現実であった。

これで、富国篇は終わる。
次から、王制篇を読みたい。そこでは「覇者」と「王者」について注目して読んでみたい。私は荀子の「覇者」を、歴史上の現実として現れたヘゲモニー国家のことであると読み替えたい。そして「王者」を、まだ歴史上に現れない、カント的な世界連合体の理念として読み替えることはできないか、考えてみたいと思う。荀子の最終点である「王者」を統一帝国の皇帝、として読む従来の読み方では、それは現代的意義は何もないからである。

【次は、「王制篇第九」を読みます。】

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