劉向校讎叙録

By | 2015年6月25日
荀卿新書三十二篇(篇名略)(注1)

護左都水使者・光祿大夫の臣向(きょう)(注2)が申し上げます。校訂した孫卿(そんきょう)(注3)の書は全部で三百二十二篇あり、これらを互いに校訂して重複していた二百九十篇を除き、三十二篇に定めてこれを書き起こし、その全てを竹簡に書き留め、筆写可能としました。

孫卿は趙の人であり、名は況(きょう)でした。斉国は威王(いおう)・宣王(せんおう)(注4)の時代に、天下の賢士を斉都の稷下(しょくか)に集めて、これを尊重しました。騶衍(すうえん)・田駢(でんべん)・淳于髡(じゅんうこん)(注5)のような学者たちがはなはだ多数集まり、列大夫の称号をもって呼ばれました。彼らはみな世の賞賛を受け、また彼らはみな書物を作って世の中を批判風刺しました。このとき、孫卿は秀でた才能があり、年五十歳になって初めて斉にやって来て遊学しました(注6)。孫卿は稷下の諸子について、これらはみな先王の法ではないとみなしました。孫卿は詩・礼・易・春秋の学をよく修め、斉の襄王(じょうおう)(注7)の時になると孫卿は最年長の老師となっていました。斉国はなおも列大夫の欠員を補充していて、孫卿は斉で三度祭酒(さいしゅ、長老のことという)の座に着くことを繰り返しました。しかし斉国の国人に、孫卿を誹謗する者がいました。こうして孫卿は、楚国に向かいました。楚国の実力者である春申君(しゅんしんくん)は、孫卿を蘭陵(らんりょう)の令に任命しました。ところがある人が春申君に言いました、「殷の湯王は七十里四方の土地から始めて天下を取り、周の文王は百里四方の土地から始めて天下を取りました。孫卿は賢者です。いまあの者に百里四方の土地を与えたならば、楚国は危ういのではありませんか?」と。春申君は人をやって、孫卿を謝絶しました。孫卿は、それでやむなく楚国を去って趙国に行きました。その後、別の食客が春申君に言いました、「伊尹(いいん)は夏国を去って殷国に入り、殷国は天下の王となりました。管仲(かんちゅう)は魯国を去って斉国に入り、魯国は弱体化して斉国は強大となりました。ゆえに賢者がいるところでは、君主は尊くなって国家は安泰となるのです。いま孫卿は、天下の賢人です。彼が去った国は、危ういのではありませんか?」と。春申君は後悔して、人をやって孫卿を招聘しました。だが孫卿は春申君に書を与えて楚国を批判し、加えて歌賦を作って春申君に贈りました(注8)。春申君は悔い改めて、孫卿に深く詫びました。そこで孫卿は腰を上げて、再度蘭陵の令に就きました。だが春申君も死に、孫卿は解任されました。この後、孫卿は蘭陵に居を構えました。李斯(りし)は、かつて彼の弟子となったことがあったが、秦帝国の宰相となりました。韓非(かんぴ)もまた孫卿の弟子であり、韓子と称されています。また浮丘伯(ふきゅうはく)も孫卿の弟子であり、師から学業を受けて名儒となりました。

孫卿が諸侯の招聘に応じた軌跡を申し上げます。まず、秦の昭襄王(しょうじょうおう)に会見しました。昭襄王は、戦争と討伐を好みました。しかし孫卿は、夏・殷・周の三代の王の法をもって、昭襄王に説得を試みました。だが秦の宰相、応候(おうこう。范雎のこと)は孫卿の建策を全く用いることができませんでした。そこで趙国に赴き、孝成王(こうせいおう)の前で孫臏(そんぴん)と兵について議論しました。孫臏は変詐の兵法を論じましたが、孫卿は王者の兵法をもってこれを批判しました。孫臏はついに反論することができませんでした。結局、趙国でも孫卿は登用されませんでした。孫卿は自らの道としては礼義を守り、自らの行いとしては縄墨(すみなわ)で測るように真っ直ぐに己を正して、貧賤に甘んじました。

孟子もまた、大儒でした。孟子は、人の性が善であると考えました。孫卿は、孟子の百年後に活動しました。孫卿は人の性が悪であると考えて、性悪篇一篇を作って孟子を批判しました。蘇秦・張儀は邪道をもって諸侯を説き伏せ、大いに高貴な位を得ました。だが孫卿は出世から退き、彼らをせせら笑って言いました、「邪道を選んで進まない者は、邪道によって滅びることも絶対にない」と。孫卿はついに世に用いられず、蘭陵の地で老いて、混濁した世の政治を憎みました。亡国乱君が相続き、君主が正道を取らずに祈祷やまじないのたぐいに惑わされるのを憎みました。彼らが、吉凶のうらないを妄信することを憎みました。くだらない三流教師どもが、小事にこだわり(大きなことを見ない)ことを憎みました。 荘周(そうしゅう。荘子のこと)の徒のたぐいに至っては、面白おかしな話を展開して世の風俗を乱す。これもまた憎みました。ここに至って孫卿は、儒家・墨家・道家の三学説と政策の興隆盛衰を論じ、書き連ねて数万語の言葉を残して死に、蘭陵に葬られました。

戦国時代、趙国には公孫龍(こうそんりゅう)があって、堅白同異(けんぱくどうい)(注9)の弁論を行っていました。その他の諸子としては、魏国には李悝(りかい)(注10)があって「地力を尽くすの教え」を立て、楚国には尸子(しし)・長盧子(ちょうろし)があり、また芋子(うし)(注11)がありました。これらの諸子は、みな書を著しました。しかしながら、それらは先王の法ではなく、孔子の政策術に従っていませんでした。ただ孟子と孫卿だけが、仲尼(ちゅうじ。孔子のあざな)を尊重することができました。

蘭陵の地は、学をなす人物が多くあります。これはきっと、孫卿の影響でしょう。蘭陵の長老は、現在(つまり、漢代末期)に至るまで孫卿のことを称えて、こう言います、「蘭陵人が字(あざな)として『卿』を名乗ることを好むのは、きっと孫卿にならっているのでしょう」と。漢が興った後では、江都(こうと)の董仲舒(とうちゅうじょ)(注12)もまた大儒でした。董仲舒もまた、書を作って孫卿を美としました。孟子・孫卿・董仲舒の三者は、みな五覇(ごは)を小として、「仲尼の門徒は五尺の童子でも五覇を称えることを恥じる」(注13)と言いました。人君がもし孫卿を用いたならば、天下の王者となることに近づいたことだったでしょう。しかしながら、世はついに孫卿を用いることができず、戦国六国の君主は滅ぼされ、それらを亡ぼした秦国は大乱が起こり、ついに滅亡しました。孫卿の書を見ると、その王道思想がとても簡易に述べられています。なのに、世は孫卿を用いることがありませんでした。なのでその言葉は悲愴の色があり、痛ましいことこの上ありません。ああ、これまでの人をついに窮乏のうちに終わらせてしまい、その功業が世に現れることはなかったのです。哀しいかな。孫卿のために、涙流れずにはいられません。孫卿の書は、孫卿の伝記と比較することを通じて、世の法規とすることができるでしょう。謹んで、目録を作成いたしました。臣向(きょう)が、愚行ゆえの死罪を顧みずに上言させていただきます(注14)。護左都水使者・光祿大夫の臣向が申し上げるところの、校訂した孫卿の書の目録であります。


(注1)原文では、この後に劉向旧目録三十二篇の名前が配列されている。旧目録の配列については、『荀子』各篇概要ページを参照。
(注2)劉向子政(りゅうきょう・しせい。元鳳四年-建平元年、BC77-BC6)。前漢末期成帝時代に、当時宮中で入手可能であった秦漢代以前の蔵書を校訂編集し、目録を『別録』として提出した。この『荀卿新書(後の「荀子」)』あるいは『戦国策』は、劉向による校訂編集の作業を経て後世に伝えられる書物として成立した。
(注3)孫卿は、荀子の尊称の一つ。当サイトの訳では孫卿を「荀子」と訳し変えてきたが、ここでは原文のままとする。
(注4)威王は、斉国で始めて王を称した。田忌(でんき)・孫臏(そんぴん)を用いて魏国を破り、斉国を大国の地位に押し上げた。宣王はその子で、孟子がその下で客卿として使えた。威王・宣王の時代に都の臨湽(りんし)の稷下に天下の学者を集めてこれを厚遇し、彼ら学者たちはは稷下先生と呼ばれた。斉国は両王の後も稷下先生を厚遇する文化政策を取り続け、荀子が斉に遊学した背景を作った。
(注5)これら稷下先生の簡潔な伝記は、史記荀卿列伝にある。
(注6)荀子が斉に初めて遊学した時期に関する考証は、彊国篇(2)を参照。
(注7)宣王の二代後の君主。即位のいきさつは、彊国篇(2)を参照。
(注8)言及されている書と歌賦は、劉向が編集校訂した『戦国策』に見える。『戦国策』と同じ記述は、先行する『韓詩外伝』にも見える。しかし集解の王先謙は、『韓詩外伝』『戦国策』の記述の信憑性を疑う。下のコメント参照。
(注9)名家の公孫龍が行った弁論。白い石は、目で見ると石が白いことを認識できるが、そのとき石の堅さは認識できない。石を手で触ると堅いことを認識できるが、そのとき石の色は認識できない。よって白いことと堅いことは同時に感覚で認識できないので、堅くて白い石は存在しない、という詭弁。
(注10)戦国時代初期の魏国の政治家。法家思想家に数えられる。
(注11)いずれも史記荀卿列伝に表れる。「芋子」は史記では「吁子」と書かれる。漢書芸文志に「芋子十八篇有り、名は嬰、齊人なりと云う」とある。
(注12)董仲舒は、前漢の大儒。春秋学を修めて武帝期に活動し、儒教の国教化に大きな役割を果たした。他方で災異説(君主がよい政治を行えば天はよいしるしを地上にもたらし、悪い政治を行えば天は災害や異常現象を起こして警告する、という考え方)を提唱して、後世に儒教がオカルト的な天人相関説に退廃する始原を作った面もある。
(注13)仲尼篇に、ほぼ同じ言葉がある。
(注14)原文読み下し「昧死して上言す」。上奏文に付ける決まり文句であり、「冒昧(ぼうまい。愚行)のために死罪に触れるかもしれないが、おそれながら申し上げます」という意味。通常は、深刻な意味ではない。
《読み下し文》
護左都水使者・光祿大夫・臣向(きょう)言(もう)す。校讎(こうしゅう)する所の中孫卿の書、凡そ三百二十二篇、以て相校し、復重せる二百九十篇を除き、定めて三十二篇を箸(あら)わず。皆以て靑簡に定殺(ていさい)す。書繕寫(ぜんしゃ)す可し。孫卿は趙人にて、名は況。齊の宣王・威王の時に方(あた)りて、天下の賢士を稷下に聚(あつ)めて、之を尊寵す。騶衍(すうえん)・田駢(でんべん)・淳于髡(じゅんうこん)の屬の若き甚だ衆(おお)し、號して列大夫と曰う。皆世の稱する所にして、咸(みな)書を作りて世を刺(し)す。是の時孫卿秀才有り。年五十にして、始めて來りて游學す。諸子の事、皆以て先王の法に非ずと爲すなり。孫卿善く詩・禮・易・春秋を爲(おさ)む。齊の襄王の時に至りて、孫卿最も老師爲(た)り。齊尚お列大夫の缺(けつ)を脩め、孫卿三たび祭酒と爲る。齊人或は孫卿を讒(ざん)す。孫卿乃(すなわ)ち楚に適(ゆ)く。楚の相春申君(しゅんしんくん)以て蘭陵の令と爲す。人或は春申に謂って曰く、湯は七十里を以てし、文王は百里以てす、孫卿は賢者にして、今之に百里の地を與(あた)えば、楚は其れ危からん、と。春申君之に謝す。孫卿去りて趙に之(ゆ)く。後客或は春申君に謂って曰く、伊尹(いいん)は夏を去りて殷に入り、殷王となりて夏亡び、管仲は魯を去りて齊に入り、魯弱くして齊强し、故に賢者の在る所は君尊く國安し、今孫卿は天下の賢人にして、去る所の國は、其れ安からざらん、と。春申君人をして孫卿を聘(へい)せしむ。孫卿春申君に書を遺(おく)りて、楚國を刺(そし)り、因って歌賦を爲(つく)りて、以て春申君に遺す。春申君恨み、復(ま)た固く孫卿を謝す。孫卿乃(すなわ)ち行き、復た蘭陵の令と爲る。春申君死して、孫卿廢せらる。因って蘭陵に家す。李斯嘗て弟子と爲り、已にして秦に相(しょう)たり。及(また)韓非あり、韓子と號す。又浮丘伯あり、皆業を受けて名儒と爲る。孫卿の諸侯に聘に應ずるや、秦の昭王に見(まみ)ゆ。昭王方(まさ)に戰伐を喜ぶ。而るに孫卿三王の法を以て之に說く。秦相應候(おうこう)皆用ること能わざるに及んで、趙に至り孫臏(そんぴん)と兵を趙の孝成王の前に議す。孫臏は變詐の兵を爲し、孫卿は王兵を以て之を難ず。對(こた)うること能わざるなり。卒に用うること能わず。孫卿道は禮義を守り、行は繩墨(じょうぼく)に應じ、貧賤に安んず。孟子なる者も亦大儒なり、人の性善なるを以てす。孫卿は孟子に後るること百餘年なり。孫卿人の性惡と爲すを以てし、故に性惡一篇を作り、以て孟子を非(そし)る。蘇秦・張儀は、邪道を以て諸侯に說き、以て大に貴顯なり。孫卿退いて之を笑いて曰く、夫れ不以其の道を以て進ざる者は、必ず其の道を以て亡びず、と。[(下文に移す:)至漢興。江都相董仲舒亦大儒。作書美孫卿。](注15)孫卿卒(つい)に世に用いられず、蘭陵に老いて、濁世の政、亡国乱君相屬(つづ)き、大道を遂げずして巫祝に營(まど)い、禨祥(きしょう)を信じ、鄙儒(ひじゅ)は小拘(しょうこう)し、荘周等の如きは又猾稽(こっけい)にして俗を亂すを嫉(にく)む。是に於て儒・墨・道德の行事・興壞を推して、數萬言を序列して卒(しゅつ)す。蘭陵に葬る。而して趙に亦公孫龍有りて堅白・同異の辨を爲し、處士の言に、魏に李悝(りかい)の地力を盡(つく)すの敎有り、楚に尸子(しし)・長盧子(ちょうろし)・芋子(くし)有り、皆書を著す。然れども先王の法に非ずして、皆孔氏の術に循わず。唯(ただ)孟軻・孫卿のみ能く仲尼を尊しと爲す。蘭陵多く善く學を爲すは、蓋し孫卿を以てしてなり。長老今に至るまで之を稱して曰く、蘭陵人喜(この)んで字(あざな)して卿と爲すは、蓋し以て孫卿に法(のっと)るなりと。漢興るに至り、江都の相董仲舒(とうちゅうじょ)も亦大儒なりて、書を作りて孫卿を美とす。(注15)孟子・孫卿・董先生は、皆五伯(ごは)を小となし、以て仲尼の門に、五尺の童子も五伯を稱するを羞ずと爲す。如(も)し人君能く孫卿を用いれば、王たるに庶幾(ちか)し。然も世終(つい)に能く用いること莫く、而して六国の君殘滅し、秦國大に亂れ、卒に以て亡ぶ。孫卿の書を觀るに、其の王道を陳(の)ぶること甚だ行い易し。世能く用いること莫きを疾み、其の言悽愴にして、甚だ痛むべきなり。嗚呼(ああ)、斯(か)くの人をして卒に閭巷(りょこう)に終わりて、功業世に見(あらわ)るることを得ざらしむ。哀しい哉、爲(ため)に霣涕(うんてい)す可し。其の書、記傳に比(くら)べて、以て法と爲す可し。謹んで第錄す。臣向、昧死(まいし)して上言す。護左都水使者・光祿大夫・臣向言(もう)す。校讎する所の中、孫卿の書錄なり。

(注15)集解の盧文弨は、この十七字は下文にあるべし、と言う。これに従って移す。

《原文》
荀卿新書三十二篇(篇名略)

護左都水使者・光祿大夫・臣向言。所校讎中孫卿書。凡三百二十二篇。以相校。除復重二百九十篇。定箸三十二篇。皆以定殺靑簡。書可繕寫。孫卿趙人。名況。方齊宣王・威王之時。聚天下賢士於稷下。尊寵之。若騶衍・田駢・淳于髡之屬甚衆。號曰列大夫。皆世所稱。咸作書刺世。是時孫卿有秀才。年五十。始來游學。諸子之事。皆以爲非先王之法也。孫卿善爲詩禮易春秋。至齊襄王時。孫卿最爲老師。齊尚脩列大夫之缺。而孫卿三爲祭酒焉。齊人或讒孫卿。孫卿(注16)乃適楚。楚相春申君以爲蘭陵令。人或謂春申曰。湯以七十里。文王以百里。孫卿賢者也。今與之百里地。楚其危乎。春申君謝之。孫卿去之趙。後客或謂春申君曰。伊尹去夏入殷。殷王而夏亡。管仲去魯入齊。魯弱而齊强。故賢者所在。君尊國安。今孫卿天下賢人。所去之國。其不安乎。春申君使人聘孫卿。孫卿遺春申君書。刺楚國。因爲歌賦。以遺春申君。春申君恨。復固謝孫卿。孫卿乃行。復爲蘭陵令。春申君死。而孫卿廢。因家蘭陵。李斯嘗爲弟子。(注17)而相秦。及韓非號韓子。又浮丘伯。皆受業爲名儒。孫卿之應聘於諸侯。見秦昭王。昭王方喜戰伐。而孫卿以三王之法說之。及秦相應候皆不能用也。至趙與孫臏。議兵趙孝成王前。孫臏爲變詐之兵。孫卿以王兵難之。不能對也。卒不能用。孫卿道守禮義。行應繩墨。安貧賤。孟子者亦大儒。以人之性善。孫卿後孟子百餘年。孫卿以爲。人性惡。故作性惡一篇。以非孟子。蘇秦張儀。以邪道說諸侯。以大貴顯。孫卿退而笑之曰。夫不以其道進者。必不以其道亡。至漢興。江都相董仲舒亦大儒。作書美孫卿。孫卿卒不用於世。老於蘭陵。疾濁世之政。亡國亂君相屬。不遂大道。而營巫祝。信禨祥。鄙儒小拘。如莊周等。又滑稽亂俗(注18)。於是推儒墨道德之行事興壞。序列數萬言而卒。葬蘭陵。而趙亦有公孫龍。爲堅白同異之辨。處士之言。魏有李悝盡地力之敎。楚有尸子・長盧子・芋子。皆著書。然非先王之法也。皆不循孔氏之術。唯孟軻孫卿爲能尊仲尼。蘭陵多善爲學。蓋以孫卿也。長老至今稱之曰。蘭陵人喜字爲卿。蓋以法孫卿也。孟子・孫卿・董先生。皆小五伯。以爲仲尼之門。五尺童子。羞稱五伯。如人君能用孫卿。庶幾於王。然世終莫能用。而六国之君殘滅。秦國大亂。卒以亡。觀孫卿之書。其陳王道甚易行。疾世莫能用其言悽愴。甚可痛也。嗚呼。使斯人卒終閭巷。而功業不得見於世。哀哉。可爲霣涕。其書比於記傳。可以爲法。謹第錄。臣向昧死上言。護左都水使者・光祿大夫・臣向言。所校讎中孫卿書錄。

(注16)宋本には「孫卿」二字がない。集解の盧文弨は史記によって「孫卿」二字を補う。
(注17)宋本には「已」字がない。集解の盧文弨は史記によって「已」字を補う。
(注18)宋本には「亂俗」二字がない。集解の盧文弨は史記によって「亂俗」二字を補う。

上の文は劉向が子の劉歆(りゅうきん)とともに編集した『別録(べつろく)』の中の『荀卿新書(孫卿新書)』に添えられた叙録(じょろく)である。『別録(べつろく)』とは劉向が前漢成帝の代に漢帝国宮中の蔵書を編集校訂して、これを六類に分類した蔵書目録である。それぞれの書物に付けられた序文が叙録であり、『荀卿新書』叙録は散逸せずに後世まで伝わった数少ない叙録の一つで、劉向の編集方針を確認できる貴重な一次資料である。楊倞は、これを『荀子』の末尾に置いた。

叙録の内容は、史記荀卿列伝の記述からの引用が多くを占めている。ただし、春申君がある人の讒言を受けて荀子をいったん謝絶し、別の食客の進言を入れて再び荀子を招こうとしたが荀子は春申君に書と歌賦を贈った、という記述については、劉向が『荀卿新書』と同じく自らの手で編集した『戦国策』(楚策)に見える。『戦国策』には、荀子が春申君に贈ったという書と歌賦の本文もまた載せられている。『戦国策』と同じ記述が劉向に先立ち前漢代に成立した『韓詩外伝』にもまた収録されていて、両者は同じ資料を典拠としていると思われる。しかし王先謙は集解序において、これらを考証している。すなわち『外伝』において荀子が贈ったと書かれている「書」は『韓非子』姦劫弑臣篇に所収の「厲(れい。ハンセン病患者)が王を憐れむ」の文とほぼ同一である。また『外伝』に記載されている「歌賦」は、『荀子』賦篇に所収の佹詩(きし)末尾にある数句とほぼ同一である。『韓詩外伝』では、「書」「歌賦」ともに荀子が春申君に贈った作品とされている。しかし両者の内容には整合性がなく、また「書」の内容は荀子が春申君に贈った書と考えるには内容が無礼に過ぎる。むしろこの「書」は、『韓非子』に収録されているように、一般論として王と家臣の立場の危険さを指摘した単独の文章であったとみなすべきである。したがって『外伝』所収のエピソードは、(おそらく荀子に由来する)別個の書と歌賦を誤って取って、春申君が荀子を謝絶して再び招いた話とつなげて作られたものであろう。しかし劉向はこの『外伝』に収められた仮構のエピソードを事実として、『戦国策』およびこの叙録に採用したのであろう。そのように王先謙は考証し、この叙録に書かれた荀子が春申君に宛てた書と歌賦を、事実ではないと考える。

また、趙の孝成王の前で荀子が兵を議論した相手を劉向は孫臏(そんぴん)とみなしているが、議兵篇の楊注が考証するようにこれはありえない。議兵篇に表れる臨武君の正体は、はっきりしない(議兵篇の議論を参照)。

叙録における独自の情報としては、董仲舒(とうちゅうじょ)が荀子を美とする書を作った、という記載がある。しかし現在に伝わっている董仲舒の著作は『春秋繁露』八十二篇だけであり、集解の王先謙が言うにその中に荀子を称えた内容は見えない。なので、劉向が言及する董仲舒の書は、すでに散逸したと考えられる。

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