Author Archives: 河南殷人

堯問篇第三十二(1)

堯(ぎょう。伝説の聖王)が舜(しゅん。伝説の聖王で、堯の後を継いで即位した)に質問した。
堯「私は天下全てを招き統べることを望む。どうすればよいだろうか?」
舜「心を一つに集中して、これを失わないことです。かすかな言行まで抜かりなく行い、怠らないことです。倦むことなく、忠信をこころがけつづけることです。このようにすれば、天下はおのずから陛下の下にやって参ります。天地のごとく揺るぎなく心を一つに集中し、日月のごとく人が知らない細微な点も抜かりなく運行し、内に忠誠を盛んにして外にこれを輝かせて、天下にこれを明らかに示すのです。

(解釈その一)(注1)
そもそも天下は、一隅に固まっているようなものではありません。天下全てにあまねく己を示すことだけができるのであって、手元に招き統べるようなことは不可能です。」
(解釈その二)
そうすれば天下はまるで一隅に固まってあるようなものであり、わざわざ招き統べる努力など要らぬことでありましょう。」


魏の武侯(ぶこう)(注2)が、政治を立案して見事に的中して、居並ぶ群臣たちは主君の明察に及ぶことができなかった。武侯は朝廷から退いて、喜びの色を顔に示していた。呉起(ごき)(注3)が進み出て、言った。
呉起「わが君、これまで左右の者で、楚の荘王(そうおう)(注4)の言葉をお耳に入れた者がございましたか?」
武侯「楚の荘王の言葉?それは、なんであるか?」
呉起「かつて楚の荘王が、政治を立案して見事に的中して、居並ぶ群臣たちは主君の明察に及ぶことができませんでした。荘王は朝廷から退いて、憂いの色を顔に示していました。申公巫臣(しんこうふしん)(注5)が進み出て、王に問いました、『王よ、朝廷から退いて憂色あるのは、どういたしましたか?』と。荘王は答えました、『不穀(それがし)(注6)は政治を立案して見事に的中し、居並ぶ群臣たちはわが明察に及ぶことができなかった。それが、我が憂いなのだ。かつて仲虺(ちゅうき)(注7)はこう言ったものだ、”諸侯が自ら師を得る者は王者となり、諸侯が自ら友を得る者は覇者となり、諸侯が自ら相談する家臣を得る者は国を保ち、諸侯が自ら政治を立案して自分に及ぶ配下を得られない者は滅亡する”と。今、不穀(それがし)の不肖をもってして、わが考えに居並ぶ群臣が及ばない。これでは、わが国は滅亡するのではないだろうか。これが、我が憂いの理由なのだ』と。楚の荘王は憂いて、わが君は喜んでおられますぞ。」
武侯はここに至って一歩退いて拝礼し、呉起に言った、「ああ、天は先生を寡人(それがし)(注8)に遣わして、過ちから救ってくださった!」と。


(注1)相対立する二通りの解釈が提出されていて、原文の真意を決め難い。よって、二説の訳を併記する。注11参照。
(注2)魏の武侯は、戦国時代初期の君主。先代の文侯と並んで、魏国の最盛期を築いた。魏国は春秋時代の晋国を解体して成立した三晋(魏・韓・趙)の一で、その君主が王を称するのは次代の恵王からである。だが恵王の代になると斉秦楚に攻撃されて、魏国は一転して振るわなくなった。孟子が会見したのは、斉秦楚に敗れた時期の恵王である。恵王の頃には大梁(たいりょう)に都を置いたので、魏国は梁国とも呼ばれるようになった。
(注3)呉起は衛の人で、まず魯国で将軍として功績を挙げたが魯公に疑われて解任され、魏国に移って文侯・武侯の二代に仕えて将軍として名声を得た。しかしやがて武侯にも疑われてしまい、ここを去って楚王に宰相として招かれた。楚国では王の庇護のもとに王族を官職から排して兵を強くする法家思想的な政治改革を行い、楚国の国力は大いに上がった。しかし庇護する楚王が死んだとき、呉起を恨む王族たちによって惨殺されることとなった。呉起の兵法を著したという『呉子』は、『孫子』と並ぶ兵法書として名高い。だが、『呉子』が呉起じしんの著作であるかどうかは不明である。
(注4)楚の荘王は、荀子によって春秋五覇の一に挙げられる。蛮族の王であったが中原諸国を圧する権勢を示し、また明君としての逸話も多く伝えられている。
(注5)楊注は、「巫臣は楚の申邑の大夫なり」と注する。つまり巫臣という名の楚国の大夫で、申という邑を封地としていたのであろう。
(注6)「穀」には「よい」という意味がある。「不穀」は下の「寡人」と同じく、君主が謙遜した自称。
(注7)仲虺は、殷の開祖湯王を補佐した賢相。『書経』商書には仲虺之誥篇があったと記録されているが、現在に残る仲虺之誥篇は偽古文尚書の一篇であって、後世に作られた偽書であることが考証済みである。
(注8)上の「不穀」と同じく、君主が謙遜した自称。
《読み下し》
堯舜に問うて曰く、我天下を致(いた)さん(注9)と欲す、之を爲すこと奈何(いかん)、と。對(こた)えて曰く、一を執りて失うこと無く、微を行いて怠ること無く、忠信にして倦(う)むこと無ければ、天下自(おのずか)ら來る。一を執るは天地の如く、微を行うは日月の如く、忠誠內に盛んにして外に賁(かがや)き(注10)、四海に形(あら)わる。(以下、解釈困難:)天下其在一隅邪、夫有何足致也(注11)、と。

魏の武侯、事を謀りて當り、羣臣(ぐんしん)能く逮(およ)ぶもの莫し。朝より退きて喜色有り。吳起(ごき)進みて曰く、亦嘗て楚の莊王の語を以て、左右に聞する者有りや、と。武侯曰く、楚の莊王の語とは何如(いかん)、と。吳起對えて曰く、楚の莊王、事を謀りて當り、羣臣逮ぶもの莫し。朝より退きて憂色有り。申公巫臣(しんこうふしん)進みて問うて曰く、王朝(ちょう)して憂色有るは、何ぞや、と。莊王曰く、不穀(ふこく)事を謀りて當り、羣臣能く逮ぶもの莫し、是を以て憂うるなり。其れ中蘬(ちゅうき)(注12)の言に在り、曰く、諸侯自(みずか)ら[爲](注13)師を得る者は王たり、友を得る者は霸たり、疑(ぎ)(注14)を得る者は存し、自ら謀を爲して己に若(し)くこと莫き者は亡ぶ、と。今不穀の不肖を以てして、而(しか)も羣臣吾に逮ぶもの莫し。吾が國亡ぶに幾(ちか)からんか。是を以て憂うなり、と。楚の莊王は以て憂い、君は以て憙(よろこ)ぶ、と。武侯逡巡・再拜して曰く、天夫子(ふうし)をして寡人(かじん)の過を振(すく)わしむる(注15)なり、と。


(注9)増注は、「致は来致なり」と言う。天下全てを自分の下に糾合する意。
(注10)楊注は、「賁は飾」と注する。集解の郝懿行は、「大なり」と注する。楊注の意で取るならば「ヒ」と読まれ、郝説の意で取るならば「フン」と読まれる。漢文大系は郝説を取り、新釈は楊注を取って「かがやく」と読み下す。楊注・新釈に従っておく。
(注11)「天下其在一隅邪、夫有何足致也」の句は、その真意を取り難い。金谷治氏は楊注に沿ってこう訳す、「天下の人心は一隅にまとまっているというものではありません。そもそもどうしてとり集めることなどできましょうか」と。いっぽう新釈の藤井専英氏は簡釈鍾泰の説に沿ってこう訳す、「天下はいかに広しと雖も、天下の民心は恰(あたか)も一箇所に纏(まと)まって存在しているかのようなもので、何もわざわざ統べ集める努力をする必要はない」と。すなわち金谷氏は第一句を反語(~であろうか?いや、そんなはずがない)として読み、「天下は其れ一隅に在らんや。夫れ有(また)何ぞ致(まね)くに足らんや」と読み下している。いっぽう藤井氏は第一句を推測の句(きっと~ではないだろうか?)として読み、「天下は其れ一隅に在(お)るか、夫れ有(また)何ぞ致すに足らんや」のように読み下している。だが、どちらを取っても、意味が釈然としない。上の訳は、両説並列させておく。
(注12)楊注は、「中蘬は仲虺と同じにて、湯の左相なり」と言う。つまり、殷の開祖湯王の左相を務めた仲虺(ちゅうき)を指す。
(注13)楊注は、この「爲」は衍字と言う。これに従う。
(注14)楊注は、「疑は博聞達識にして疑惑を決するべき者を謂う」と言う。猪飼補注は荻生徂徠を引いて、「補佐を謂う」と言う。君主の相談役のこと。
(注15)集解の王念孫は、「振」は「救」なり、と言う。すくう。

堯問篇は、末尾の文を除いては歴史上の人物たちの問答や言行を集めた形式となっている。新釈の藤井専英氏は、「実質的には、それを借りて荀子(或は荀子一派)が自己の見解を表明したものというべきであろう」と述べている。だが本篇末尾の文は、荀子の弟子あるいはその末流の者が書いたものである。それは、荀子を孔子に匹敵する人物であると称える荀子賛である。詳しくは、堯問篇末章に譲る。

呉起は、孫子と並んで孫・呉と称される戦国時代初期の兵法家・政治家である。かつて孔子の弟子の曾子(曾参)の下に学んだが、呉起が母の死を聞いても故郷に帰国しなかったので曾子は破門した、と史記に見える。儒家の範疇に入らない呉起であるが、ここでは君主の心得を説く賢者として描かれている。

堯問篇第三十二(2)

伯禽(はくきん)(注1)が、周公の代理として魯国に初めて赴こうとしていた。父の周公が、伯禽の傅(ふ。もり役)に言った、
周公「お主は、いまわが子とともに出発するところであるが、これまでお主が傅として仕えたあの子の美徳な点を、どうか聞かせていただきたい。」
伯禽の傅「お人柄は人に寛大であり、自ら率先してことを行い、しかも慎重であります。御曹司の美徳な点は、この三点に尽きるでしょう。」
周公「ああ!お主は人の悪しき点を挙げて、それを美徳な点だと言っているではないか。君子とは道徳を好むものであり、そのゆえに下の人民もまた君子にならって正道に赴くのである。わが子伯禽が人に寛大であると言うが、それは単に善人と悪人の区別ができないので、誰でも許しているに過ぎないからではないか。なのに、お主はそれを美徳だと言う。わが子伯禽が自ら率先してことを行うと言うが、それは人間が狭小である証拠ではないか。そもそも君子とは、その力がたとえ牛に匹敵していたとしても、牛と力を争ったりはしない。その走る速さがたとえ馬に匹敵していたとしても、馬と速さを争ったりはしない。そして知力がたとえ士に匹敵していたとしても、士と知力を争ったりはしないものだ(注2)。人と争うということは、対等の者どうしが競う気構えなのだ。なのに、お主はそれを美徳だと言う。わが子伯禽が慎重であると言うが、それは人間として底が浅いことを言っているだけではないか。私はこう聞いている、すなわち『身分低い士と位階を越えて会わない、などということはあってはならない』と。そして士に会った時には、『私の見識に、なにか至らないことはないでしょうか?』と問わなければならない。問うて聞かなければ、人の意見が集まることが少ない。そして自らに集まる意見が少なければ、その考えも底の浅いものとなるであろう。底の浅い考えにとどまることは、賤人の道である。なのに、お主はそれを美徳だと言う。そんなお主に、言って聞かせようではないか。この私は、文王の子、武王の弟、成王の叔父である。よってこの私は、天下において決して賤しい身分ではない。それにもかかわらず、私が自ら贄(し)を捧げた者は、十人にのぼる(注3)。また、捧げられた贄(し)を返して会見した者は、三十人にのぼる(注4)。礼を整えて居住まい正しく接待した士は、百人以上にのぼる。また私と会見して何か言おうとする前に、こちらから『言いたいことを遠慮なく全て言ってください』とお願いした者は、千人以上にのぼる。ここまでやってして、私はやっとわずか三名のしかるべき士を得ることができた。彼らのおかげによって、私は己の身を正して天下を治めたのである。しかも、この私が得た三名の士は、さっきの十人・三十人の中から見出したのではなくて、百人・千人の中にあったのだ。ゆえに、私は上士には軽い礼をもって接するが、下士にはむしろ厚い礼をもって接するようにしているのである。人々は、私があまりにも位階を越えて身分低い士を好みすぎる、と言う。しかしながら、だからこそ士が私のもとにやってくるのだ。士がやってくれば、見聞が多く集まる。見聞が多く集まれば、是非善悪の所在がわかってくるのだ。この点は、よくよく戒めなければならない。もしお主が魯国の権勢をもって人に驕るならば、これは危険であろう。単に禄を得ることを望んでいるだけの士であれば、権勢を見せつけて驕っても許されよう。しかし、身を正す士に対しては、驕りを見せてはならない。かの身を正す士とは、貴さを捨てて賤しさにおり、富を捨てて貧しさにおり、安楽さを捨てて労苦の中にいる者である。薄汚れた黒い顔色をしていても、己の正しさを失わない者である。彼らによって天下の綱紀は絶えることがなく、華麗なる礼楽は廃れることがないのだ。」


(注1)伯禽は周公の子。周の武王は周公に魯の地を与えたが、周公は武王と次代の成王のもとにとどまって政務を執った。周公は伯禽を自らの代理として魯に赴かせ、以降その子孫が魯公の位を受け継いだ。
(注2)『荀子』においては、君子は士よりも高位にあって、より高い識見を持って士の能力を用いる役割として想定されることが多い。致士篇(1)などを参照。
(注3)贄とは、礼で君主あるいは師に仕えるとき、仕えることを希望する者が捧げ物を持参すること。大略篇(11)注3参照。ここでは周公が贄を捧げて師事することを請うたことを指す。
(注4)周公に仕えることを希望して贄を捧げた者にあえて返還して、対等の立場で会見したことを指す。
《読み下し》
伯禽(はくきん)將(まさ)に魯に歸(き)せんとす(注5)。周公伯禽の傅(ふ)に謂いて曰く、汝將に行かんとす、盍(なん)ぞ而(なんじ)が子の美德を志(しる)さざるや(注6)、と。對(こた)えて曰く、其の人と爲りや寬にして、好みて自ら用い、以て愼む。此の三者は、其の美德なるのみ、と。周公曰く、嗚呼(ああ)、人の惡を以て美德と爲すか、君子は好むに道德を以てす、故に其の民道に歸す。彼れ其の寬なるや、辨(べん)無きに出づ。汝又之を美とす。彼れ其の好みて自ら用うるや、是れ窶小(くしょう)なる所以なり。君子は力牛の如くなるも、牛と力を爭わず、走ること馬の如くなるも、馬と走ることを爭わず、知は士の如くなるも、士と知を爭わず。彼の爭なる者は均者の氣なり。汝又之を美とす。彼れ其の愼むや、是れ其の淺き所以なり。之を聞く、曰く(注7)、越踰(えつゆ)(注8)しては士に見(まみ)えずということある無かれ、と。士を見ては問うて曰く、乃(すなわ)ち察ならざること無きや、と。聞かざれば卽ち物至ること少く、至ること少ければ則ち淺し。彼の淺なる者は、賤人の道なり、汝又之を美とす。吾汝に語(つ)げん。我は文王には之れ子爲(た)り、武王には之れ弟爲り、成王には之れ叔父爲り。吾天下に於て賤しからず。然り而(しこう)して吾贄(し)を執りて見ゆる所の者十人、贄を還(かえ)して相見ゆる者三十人、貌執(ぼうしゅう)(注9)の士者(は)百有餘人、言わんこと欲して事を畢(つ)くさんことを請う者は千有餘人。是に於て吾僅(わず)かに三士を得、以て吾が身を正し、以て天下を定む。吾が三士を得る所以の者は、十人と三十人との中に亡くして、乃ち百人と千人との中に在り。故に上士は吾れ薄く之が貌を爲し、下士は吾れ厚く之が貌を爲す。人人皆我を以て越踰して士を好むと爲すも、然(こ)の故に(注10)士至る。士至りて而(しか)る後に物を見、物を見て然る後に其の是非の在る所を知る。之を戒めん哉(かな)。汝魯國を以て人に驕らば、幾(あやう)し(注11)。夫れ祿を仰ぐの士には、猶お驕る可きなるも、身を正すの士には、驕る可らざるなり。彼身を正すの士は、貴を舍(す)てて賤を爲し、富を舍てて貧を爲し、佚(いつ)を舍てて勞を爲す。顏色黎黑(れいこく)なるも、而(しか)も其の所を失わず。是を以て天下の紀息(や)まず、文章廢(すた)れざるなり、と。


(注5)楊注は、「初めて国に之(ゆ)くを謂う」と注する。魯国に初めて行くときのことを指す。
(注6)原文「盍志而子美德乎」。楊注は、「何ぞ汝が傅する所の子の美徳を志記して、以て我に言わざるや」と注する。「盍」は再読文字で、「なんぞ、、、せざるや」の意。「志」は記録する意で、ここでは記録にあることを伝えること。「而」はここでは「汝」と同じ意。「而(なんじ)が子」とは、傅が仕えてきた子のことであり、つまり伯禽を指す。
(注7)「曰」を宋本は「日」に作る。集解の兪樾は、「曰」の誤りと言う。漢文大系はすでに「曰」字に改められている。
(注8)楊注は「越踰は一日を過ぐるなり」と注する。しかし集解の盧文弨・兪樾、および増注は楊注を非として、身分位階を飛び越えることの意に解する。「士皆等有るも、下士の己と等を踰(こ)ゆるに因りて見(まみ)えざる勿(なか)れ」(盧文弨)、「越踰は等位を越うるを謂う」(増注)。これらに従う。
(注9)楊注は、「執はなお待つがごときなり。礼貌を以て接待す」と言う。礼を整えた容姿で接待する意。
(注10)集解の兪樾は、「然故はすなわち是故なり」と言う。これに従う。
(注11)楊注は、「幾は危なり」と言う。

周公については、儒效篇(1)ほかを参照。君主は自ら動かず、よい仕事ができる家臣を選ぶことに専念しなければならない、という考えは前章の呉起の問答と同じである。

堯問篇第三十二(3)

繒丘(そうきゅう)(注1)の封人(ほうじん。国境の警備人)が、孫叔敖(そんしゅくごう)(注2)に謁見して言った、
繒丘の封人「私はこのように聞いています、『高い官職に長らく座り続ける者は、士にねたまれる。俸禄が厚い者は、人民にうらまれる。地位高く昇った者は、君主にうらまれる』と。今、相国(しょうこく。宰相のこと)は、これら三つのことを全て備えております。なのに、あなたは楚の士と人民から罪されていない。そのわけは、どこにあるのでしょうか?」
孫叔敖「私は、楚国において三度宰相の職に就いたが、就くたびにますます心をへり下らせた。私は、国家から俸禄を加増されるたびに、ますます多くの施しを周囲に与えた。私は、自分の地位が高く昇るたびに、ますます礼を恭しくした。このことが理由で、楚の士と人民から罪されていないのだ。」


子貢が、孔子に質問した、
子貢「賜(それがし)(注3)は人の下に就いておりながらも、いまだに人の下に就く道が分かりません。」
孔子「人の下に就く道とは、たとえるならば土のようになることだ。これを深く掘れば、甘(うま)い泉を得る。これに植えたならば、五穀が生えて草木が繁茂し、鳥や獣が育つようになる。万物は生ずればここの上に立ち、滅すればここの中に入っていく。その功績は多大でありながら、自らはこれを徳としない。人の下に就く者は、たとえるならば土のようになることであるよ。」


むかし、虞(ぐ)国は宮之奇(きゅうしき)を用いなかったために、晋国によって併合された(注4)。萊(らい)国は子馬(しば)を用いなかったために、斉国によって併合された。殷の紂(ちゅう)は王子比干(おうじひかん)の胸を割いて殺したために、周の武王によってその国を取られた。これらは賢者に親しみ知者を用いることをしなかったので、身を滅ぼして国も亡んでしまったのだ。


(注1)集解の郝懿行は、漢書地理志に繒県は東海郡に属す、と注する。繒(または鄫)は、山東省東岸にあった旧国の名。ただし韓詩外伝ほかに見える問答では「孤丘」に作られていて、繒丘が山東省の地名を指しているのどうか判然としない。
(注2)孫叔敖は、春秋時代、楚の荘王の令尹(宰相)。非相篇(1)臣道篇(1)にも見える。
(注3)賜(し)は、子貢の名。自称するときには名を用いる。
(注4)本章の故事について解説する。虞国は春秋時代にあった国で、晋の献公は虢(かく)国を討つという名目で、その通り道にある虞国を通過させることを乞うて、虞公に宝物を渡した。宮之奇はこれに反対したが、虞公は聞き入れずに晋軍を通過させた。晋の献公は、虢国を滅ぼしたその帰途に虞国もまた滅ぼしてしまった。虞国の大夫であった百里奚は、捕らえられて秦国に引き渡された。百里奚は秦の穆公(ぼくこう。繆公とも書かれる)に見出されて仕え、賢者として名声を得た。『孟子』萬章章句上、九を参照。萊国は、今の山東省にあった国。春秋時代、斉国に滅ぼされた。楊注は、「子馬はその姓名未詳」と言う。王子比干とは比干(ひかん)のことで、殷最後の王である紂のおじ。比干は紂の暴虐を諫めたが、紂によって胸を割かれて殺された。のちに周の武王は紂を牧野に討って殺し、殷は滅亡した。
《読み下し》
(注5)語に曰く、繒丘(そうきゅう)の封人(ほうじん)、楚の相孫叔敖(そんしゅくごう)に見(まみ)えて曰く、吾之を聞く、官に處ること久しき者は士之を妬(ねた)み、祿厚き者は民之を怨み、位尊き者は君之を恨む、と。今相國(しょうこく)は此の三者有りて、而(しか)も罪を楚の士民に得ざるは何ぞや、と。孫叔敖曰く、吾三たび楚に相として、心瘉(いよいよ)卑(ひく)く、祿を益す毎に、施瘉(いよいよ)博く、位滋(いよいよ)尊くして、禮瘉(いよいよ)恭し。是を以て罪を楚の士民に得ざるなり、と。

(注6)子貢孔子に問うて曰く、賜(し)は人の下と爲るも、而(しか)も未だ知らざるなり、と(注7)。孔子の曰(のたま)わく、人の下と爲る者は、其れ猶お土のごときなり。深く之を抇(ほ)れば(注8)甘泉を焉(ここ)に得、之に樹うれば五穀焉に蕃(はん)し、草木焉に殖し、禽獸焉に育す。生ずれば則ち焉に立ち、死すれば則ち焉に入る。其の功多くして、而(しか)も息(とく)(注9)とせず。人の下と爲る者は、其れ猶お土のごときなり、と。

昔虞(ぐ)は宮之奇(きゅうしき)を用いずして、晉之を并(あわ)せ、萊(らい)は子馬(しば)を用いずして、齊之を并せ、紂は王子比干を刳(さ)きて、武王之を得。賢を親しみ知を用いず、故に身死して國亡ぶなり。


(注5)本章と趣旨を同じくする問答が、韓詩外伝巻七に見える。韓詩外伝では、「狐丘丈人」が孫叔敖に問いかけている。狐丘丈人と孫叔敖との同様の問答は、淮南子道応訓・列子説符篇にも見える。
(注6)本章の問答は、孔子家語困誓篇、説苑臣術篇にも大同小異の文が見える。韓詩外伝巻七にも同じ趣旨の孔子と子貢の問答があるが、文は多少異なる。
(注7)家語では、「未知爲人下之道(未だ人の下と爲るの道を知らず)」に作る。韓詩外伝では、「請問爲人下之道奈何(請い問う、人の下と爲るの道はいかん)」に作る。増注は両書を引いて、この堯問篇の文には脱文があるのではないか、と言う。上の訳では、家語ほかの他書の言葉に引き寄せて訳する。
(注8)楊注は、「抇は掘」と言う。
(注9)集解の劉台拱は、家語・説苑・春秋繁露山川頌では「而不言(しかもいわず)」に作ることを指摘する。同じ集解の王引之は、この堯問篇の「息」字は「悳」字であるべきで、「悳」は「徳」の古字であると言う。王説に従う。

堯問篇の上の三章もまた、君主・君子の道を説くものである。


次章の荀子賛はすでに訳してあるので、本サイトの『荀子』全訳は、これで一応完結です。
このサイトが少しでも古典文学・古代思想に興味を持った皆さんの手助けになったならば、とてもうれしく思います。

河南殷人 記
二〇一六年三月

堯問篇第三十二(終)

このような説を立てる者がいる、「荀子(孫卿)(注1)は孔子に及ばない」と。これは、間違っている。荀子は乱世に苦しめられて、厳刑に脅かされて、上には賢明な君主もなく、下には暴虐の秦国の侵略に遇い、礼義は行われず、教化は成らず、仁者は追い詰められて逼塞し、天下は暗黒となり、行い正しい者は批判され、諸国は急速に衰えていた。このような暗い時代にあっては、知者ですら国家に熟慮を行うことができず、能ある者ですら国家を統治ができなくなり、賢者ですら下の者を使うことができなかった。ゆえに上に立つ君主は心を蔽われて賢者を正しく見て選ぶことができず、その賢者は各国で拒まれて受け入れられなかった。なので荀子は過去の聖人たちの行為を慕う心を持ちながら、表面は狂人を偽り、天下には愚者の姿をあえて見せたのであった。『詩経』に、この言葉がある。:

既に明にして哲なれば
以てその身を保つだろう
(大雅、烝民より)

荀子は、明哲ゆえに身を保ったのである。ゆえに荀子の名声は明らかでなく、門徒は多くなく、功績は光輝くことがなかった。今どきの学ぶ者たちは、荀子の遺した言葉と教えを学んだならば、これを天下の法規・標識となすことができるだろう。その教えが据えられた土地は治安が整い、その教えに遇う機会を得た土地は教化されていくであろう。荀子の善行を見るに、孔子ですらこれを凌駕しない。なのに世の中はこれを理解せず、荀子は聖人でないと言う。これはいったい、どうしたわけであろうか?荀子の時代に天下が治まらなかったのは、荀子が時を得なかったからなのだ。徳は堯(ぎょう)・禹(う)のようであったのに、世の中は荀子を知る者は少なく、荀子の学説は用いられず、人々はその学を疑うに至った。だが荀子の知はきわめて明察であり、正道を修めて行いを正し、よって彼の学は社会の綱紀とするに足りる。ああ、なんという賢人であろうか。荀子こそ、帝王の座に就くべき聖賢であった。なのに天地はこれを知らず、桀(けつ)・紂(ちゅう)のような邪悪な君主に味方して、賢良の人を殺すのである。比干(ひかん)(注2)は胸を割かれて殺され、孔子は匡(きょう)で抑留され(注3)、接輿(せつよ)は世を避け(注4)、箕子(きし)(注2)は狂人を偽った。だが田常(でんじょう)(注5)は乱を起こして斉国を乗っ取り、闔閭(こうりょ)(注6)は策謀を用いて強大な力をほしいままに振舞うことができたのであった。じつに悪をなす者が福を得て、善なる者がわざわいを受ける、間違った時代であった。今どきの「荀子は孔子に及ばない」という説を立てる者たちは、荀子の学の内容をよく洞察しもせずに、その名声の低さだけを信じてこのようなことを言うのである。荀子は、活動していた時代がよき聖代でなかった。これで、どうして名誉を得ることができただろうか?荀子は、政治を行うことができなかった。これで、どうして功績を挙げることができただろうか?荀子は、志をよく修めた、厚徳の人であった。その実際を知ったならば、これを賢人でないと言うような人は決していないだろう。


(注1)原文「孫卿」。議兵篇(1)注2参照。
(注2)比干・箕子は紂王に迫害された殷の王族。議兵篇(5)注8参照。
(注3)孔子の諸国遊説時代のころ、孔子は陳に向かおうとして匡(きょう)という都市を通過しようとしたとき匡人に捕らえられた。孔子の容貌が、かつて匡に狼藉を働いた陽虎(ようこ)に似ていたからだという。孔子は衛国に助けを求めて、ようやく脱出することができた。
(注4)論語微子篇に、楚の狂接輿として現れる。狂人を偽り世を避ける隠者で、乱世を治めようと無駄な遊説をする孔子を諌めたという。
(注5)春秋時代末期の斉国の大夫。主君の簡公を殺して、斉国の実権を全て掌握した。田常の子孫は戦国時代初期に斉国の君主の位を簒奪し、よって戦国時代の斉国は田斉(でんせい)とも呼ばれる。
(注6)春秋時代末期の呉国の王。伍子胥(ごししょ)、孫武(孫子)を重用して呉国を強大化し、楚国を破って滅亡寸前にまで追い込んだ。荀子は春秋五覇の一に数えている。越王勾踐(こうせん)との戦いで傷つき、それが元で死んだ。
《原文・読み下し》
說を爲す者曰く、孫卿は孔子に及ばず、と。是れ然らず。孫卿は亂世に迫せられ、嚴刑に鰌(せま)られ、上に賢主無く、下に暴秦に遇い、禮義行われず、敎化成らず、仁者は絀約(くつやく)し、天下は冥冥として、行全きも之を刺(そし)り、諸侯も大いに傾く。是の時に當りてや、知者も慮(おもんぱか)ることを得ず、能者も治むることを得ず、賢者も使することを得ず。故に君上は蔽われて覩(み)ること無く、賢人は距(こば)まれて受けられず。然れば則ち孫卿聖を懷(おも)うの心を將(もっ)て(注7)、佯狂(ようきょう)の色を蒙り、天下に視(しめ)すに愚を以てす。詩に曰く、旣に明且つ哲、以て其の身を保つ、とは、此を之れ謂うなり。是れ其の名聲白(あきら)かならず、徒與(とよ)衆(おお)からず、光輝博(ひろ)からざる所以なり。今の學者、孫卿の遺言・餘敎を得れば、以て天下の法式・表儀と爲すに足らん。存する所の者は神(おさ)まり(注8)遇(あ)う(注9)所の者は化す。其の善行を觀るに、孔子も過ぎず。世詳(つまびらか)に察せず、聖人に非ずと云うは奈何(いかん)。天下治まらざるは、孫卿時に遇わざればなり。德は堯・禹の若きも、世之を知るもの少く、方術用いられず、人に疑わるる所と爲る。其の知は至明にして、道を脩め行を正し、以て紀綱と爲すに足る。嗚呼賢なるかな、宜(よろし)く帝王と爲るべし。天地知らず、桀・紂を善として、賢良を殺し、比干(ひかん)は心(むね)を剖(さ)かれ、孔子は匡(きょう)に拘(とら)われ、接輿(せつよ)は世を避け、箕子は佯(いつ)わり狂い、田常は亂を爲し、闔閭(こうりょ)は强を擅(ほしいまま)にす。惡を爲すものは福を得、善なる者は殃(わざわい)有り。今の說を爲す者は、又其の實を察せず、乃(すなわ)ち其の名を信ず。時世同じからず、譽(よ)何に由りて生ぜん、政を爲すことを得ず、功安(いずく)んぞ能く成ならん。志脩まり德厚し、孰(たれ)か賢ならずと謂わんや。


(注7)宋本原文は「將懷聖之心」。集解の盧文弨は、「將懷聖」は「懷將聖」の誤り、と言う。漢文大系もこれに従い「懷將聖」とする。盧文弨に従えば、「將(まさ)に聖たらんとするの心を懷(いだ)き」と読むことができて、意味は「荀子は自らが聖知を得ようとする心を抱いていた」、となるだろう。この文は弟子が書いたものであるから、荀子を持ち上げてそう書いたのだ、と考えることは、後に続く師への誇大な持ち上げ方から見て賛同したい心にもなる。しかしながら原文のままで読んでも意味は通るのであり、わざわざ変える必要はないと私は考える。増注および新釈の藤井専英氏は、原文を変えていない。
(注8)議兵篇(4)注5を参照。
(注9)宋本原本は「遇」。集解の盧文弨は「遇」は「過」の誤りと言い、漢文大系もこれに従い「過」とする。理由は、議兵篇(4)注5にあるように、議兵篇や孟子に見えるテキストでは「過」字だからである。しかしながら藤井専英氏も指摘するように、必ず「過」字でなければならない理由はないと思われる。ここは上に訳した文脈から見ても、宋本の「遇」字に戻したほうがよいと考える。

楊倞校訂注『荀子』の末尾に置かれた堯問篇は、最後に荀子を賛える文章が置かれている。楊注は、「或は荀卿弟子の辞ならん」と末尾に注する。おそらく、その通りであろう。楊倞が堯問篇を『荀子』の末尾に置いた理由は、『論語』の末尾が堯曰篇第二十であることと平仄を合わせようとしたのではないだろうか。上の堯問篇末尾の文は、『荀子』全巻の締めくくりとしてふさわしい文章となっている。

上の賛によると、荀子はその高い学問に関わらず、その生涯は栄光もなく不遇であったという。迫害されたというのは、斉国で讒言に会って去ることを余儀なくされたことを指すのであろうか。また秦国の暴虐に遇ったとあるが、始皇帝の六国征服はBC230年の韓滅亡に始まり、荀子の生国である趙国の滅亡は翌年のBC229年(残存政権の代国はBC222年に滅亡)、荀子が最後に定住した楚国の滅亡はBC223年であった。上の文の秦国のことが始皇帝の征服作戦を述べているとするならば、荀子はこのあたりまで生存していたということになるだろう。上の文において、荀子は孔子に勝るとも劣らず、帝王となるべき賢人であったと称えられている。もとより弟子たちが自己の学派を宣伝するために師を誇張して高く持ち上げる意図が、入っていたはずである。しかしながら、彼の学問が高いものであったことは、この『荀子』全巻を読めば自ずから理解できることであろう。

荀子は礼楽の大家であり、名文家であり、言語思想家であり、来るべき中華帝国の統治システムを叙述しきった社会政治思想家であった。その学問は孔子から始まった儒家思想が孟子に伝えられて、その孟子を批判的に継承して、儒家思想に内在する民本思想と人間中心主義を極限まで推し進めたものであった。孟子の「民を貴しとなし、君を軽しとなす」の民本思想は、荀子において社会契約説に行き着き(富国篇)、統治能力の卓越した聖人だけが君主の座に着くことができる、という思想に到達したとき世襲制は事実上放棄された(正論篇)。孔子の「怪力乱神を語らず」に見える超自然的諸力の存在をあえて憶測しない不可知論、孟子の「殀寿貮(たが)わず、身を脩めて以て之を俟(ま)つ」に表れる運命を気にせずなすべきことを全うすべきであるという自律的精神は、荀子により天の現象は人間の行為と無関係であり、人間の政策だけが人間の生活を向上できる、という天から自律した人間中心主義となった(天論篇)。だが荀子は、聖人・君子が国家の指導的地位に立って人民を制御する、という孔子・孟子ら儒家思想家の身分秩序観もまた、忠実に継承した。そのために、身分高い者のぜいたくを批判する墨家思想に対しては、身分格差・経済格差を肯定する立場から激しい批判を浴びせかけた(富国篇)。荀子の性悪説は、人間の「性」が利己的衝動に突き動かされる存在であり、「偽」を身に付けて善的存在となった聖人・君子だけが自然状態の争乱を鎮めて秩序を作ることができる、と論じた点で、社会契約説を裏付けて儒家思想の身分秩序観を補強するための議論であったと言うことができる(性悪篇)。論理によって王者の優位性を証明しようとする荀子は、その過程で覇者の強者に対する優位性を論証し、王者=世界を統一する法治官僚国家なき諸国分立の世界においては、覇者=ヘゲモニー国家が国際的信用を得て強者=侵略的国家を圧倒する必然性を合理的に説明するという副産物を出すことにもなった(王制篇)。

荀子の学問の影響は、秦漢代に大きかった。荀子の下で学んだ韓非子と李斯が、秦帝国の理論的・政策的主柱となったことは、いうまでもない。続く漢代においても、政治家と儒者に対する影響は大きく、とくに漢代の『詩経』・『書経』・『春秋』の学問は、もっぱら荀子の弟子たちの影響下にあった。上の荀子賛で荀子が孔子に匹敵する大人物であったと言われていることは、後世に残した弟子たちの影響力を見れば、あながち誇張とは言えないかもしれない。ただ、漢代を過ぎるとその影響力は急速に衰え、唐代後期以降の儒学復興運動の中においては、荀子は異端として無視されることになってしまった。思うに、荀子の思想的テーマは、すでに秦漢帝国が成立して中華世界が統一され、荀子が描いた法治官僚国家が中華帝国として定着したことによって、全ての課題が成就してしまったのである。秦漢帝国以降の中華世界にとって荀子は達成すべき課題ではなくてすでにある現実であり、もはや思想としての役割を終えたと言えるのではないだろうか。しかし二十一世紀の現代は、世界統一国家などいまだ存在せず(むしろ存在するべきではない、と私は考える)、荀子の課題は世界レベルで未解決なままである。よって、これを再考することは、決して現代人にとっても時間の無駄ではないだろう、と私は思うところである。

楊倞校訂注『荀子』は、この堯問篇の置かれた巻二十の末尾に、旧『孫卿新書』各篇の配列があり、その後に劉向校讎叙録が置かれている。これは『孫卿新書』に添えられた劉向の序文であり、楊倞校訂注『荀子』に添えられたおかげで散逸せずに残存している。『荀子』訳の最後に、劉向校讎叙録の原文・読み下し・訳を添えておくことにする。

【次は、「劉向校讎叙録」を読みます。】

劉向校讎叙録

荀卿新書三十二篇(篇名略)(注1)

護左都水使者・光祿大夫の臣向(きょう)(注2)が申し上げます。校訂した孫卿(そんきょう)(注3)の書は全部で三百二十二篇あり、これらを互いに校訂して重複していた二百九十篇を除き、三十二篇に定めてこれを書き起こし、その全てを竹簡に書き留め、筆写可能としました。

孫卿は趙の人であり、名は況(きょう)でした。斉国は威王(いおう)・宣王(せんおう)(注4)の時代に、天下の賢士を斉都の稷下(しょくか)に集めて、これを尊重しました。騶衍(すうえん)・田駢(でんべん)・淳于髡(じゅんうこん)(注5)のような学者たちがはなはだ多数集まり、列大夫の称号をもって呼ばれました。彼らはみな世の賞賛を受け、また彼らはみな書物を作って世の中を批判風刺しました。このとき、孫卿は秀でた才能があり、年五十歳になって初めて斉にやって来て遊学しました(注6)。孫卿は稷下の諸子について、これらはみな先王の法ではないとみなしました。孫卿は詩・礼・易・春秋の学をよく修め、斉の襄王(じょうおう)(注7)の時になると孫卿は最年長の老師となっていました。斉国はなおも列大夫の欠員を補充していて、孫卿は斉で三度祭酒(さいしゅ、長老のことという)の座に着くことを繰り返しました。しかし斉国の国人に、孫卿を誹謗する者がいました。こうして孫卿は、楚国に向かいました。楚国の実力者である春申君(しゅんしんくん)は、孫卿を蘭陵(らんりょう)の令に任命しました。ところがある人が春申君に言いました、「殷の湯王は七十里四方の土地から始めて天下を取り、周の文王は百里四方の土地から始めて天下を取りました。孫卿は賢者です。いまあの者に百里四方の土地を与えたならば、楚国は危ういのではありませんか?」と。春申君は人をやって、孫卿を謝絶しました。孫卿は、それでやむなく楚国を去って趙国に行きました。その後、別の食客が春申君に言いました、「伊尹(いいん)は夏国を去って殷国に入り、殷国は天下の王となりました。管仲(かんちゅう)は魯国を去って斉国に入り、魯国は弱体化して斉国は強大となりました。ゆえに賢者がいるところでは、君主は尊くなって国家は安泰となるのです。いま孫卿は、天下の賢人です。彼が去った国は、危ういのではありませんか?」と。春申君は後悔して、人をやって孫卿を招聘しました。だが孫卿は春申君に書を与えて楚国を批判し、加えて歌賦を作って春申君に贈りました(注8)。春申君は悔い改めて、孫卿に深く詫びました。そこで孫卿は腰を上げて、再度蘭陵の令に就きました。だが春申君も死に、孫卿は解任されました。この後、孫卿は蘭陵に居を構えました。李斯(りし)は、かつて彼の弟子となったことがあったが、秦帝国の宰相となりました。韓非(かんぴ)もまた孫卿の弟子であり、韓子と称されています。また浮丘伯(ふきゅうはく)も孫卿の弟子であり、師から学業を受けて名儒となりました。

孫卿が諸侯の招聘に応じた軌跡を申し上げます。まず、秦の昭襄王(しょうじょうおう)に会見しました。昭襄王は、戦争と討伐を好みました。しかし孫卿は、夏・殷・周の三代の王の法をもって、昭襄王に説得を試みました。だが秦の宰相、応候(おうこう。范雎のこと)は孫卿の建策を全く用いることができませんでした。そこで趙国に赴き、孝成王(こうせいおう)の前で孫臏(そんぴん)と兵について議論しました。孫臏は変詐の兵法を論じましたが、孫卿は王者の兵法をもってこれを批判しました。孫臏はついに反論することができませんでした。結局、趙国でも孫卿は登用されませんでした。孫卿は自らの道としては礼義を守り、自らの行いとしては縄墨(すみなわ)で測るように真っ直ぐに己を正して、貧賤に甘んじました。

孟子もまた、大儒でした。孟子は、人の性が善であると考えました。孫卿は、孟子の百年後に活動しました。孫卿は人の性が悪であると考えて、性悪篇一篇を作って孟子を批判しました。蘇秦・張儀は邪道をもって諸侯を説き伏せ、大いに高貴な位を得ました。だが孫卿は出世から退き、彼らをせせら笑って言いました、「邪道を選んで進まない者は、邪道によって滅びることも絶対にない」と。孫卿はついに世に用いられず、蘭陵の地で老いて、混濁した世の政治を憎みました。亡国乱君が相続き、君主が正道を取らずに祈祷やまじないのたぐいに惑わされるのを憎みました。彼らが、吉凶のうらないを妄信することを憎みました。くだらない三流教師どもが、小事にこだわり(大きなことを見ない)ことを憎みました。 荘周(そうしゅう。荘子のこと)の徒のたぐいに至っては、面白おかしな話を展開して世の風俗を乱す。これもまた憎みました。ここに至って孫卿は、儒家・墨家・道家の三学説と政策の興隆盛衰を論じ、書き連ねて数万語の言葉を残して死に、蘭陵に葬られました。

戦国時代、趙国には公孫龍(こうそんりゅう)があって、堅白同異(けんぱくどうい)(注9)の弁論を行っていました。その他の諸子としては、魏国には李悝(りかい)(注10)があって「地力を尽くすの教え」を立て、楚国には尸子(しし)・長盧子(ちょうろし)があり、また芋子(うし)(注11)がありました。これらの諸子は、みな書を著しました。しかしながら、それらは先王の法ではなく、孔子の政策術に従っていませんでした。ただ孟子と孫卿だけが、仲尼(ちゅうじ。孔子のあざな)を尊重することができました。

蘭陵の地は、学をなす人物が多くあります。これはきっと、孫卿の影響でしょう。蘭陵の長老は、現在(つまり、漢代末期)に至るまで孫卿のことを称えて、こう言います、「蘭陵人が字(あざな)として『卿』を名乗ることを好むのは、きっと孫卿にならっているのでしょう」と。漢が興った後では、江都(こうと)の董仲舒(とうちゅうじょ)(注12)もまた大儒でした。董仲舒もまた、書を作って孫卿を美としました。孟子・孫卿・董仲舒の三者は、みな五覇(ごは)を小として、「仲尼の門徒は五尺の童子でも五覇を称えることを恥じる」(注13)と言いました。人君がもし孫卿を用いたならば、天下の王者となることに近づいたことだったでしょう。しかしながら、世はついに孫卿を用いることができず、戦国六国の君主は滅ぼされ、それらを亡ぼした秦国は大乱が起こり、ついに滅亡しました。孫卿の書を見ると、その王道思想がとても簡易に述べられています。なのに、世は孫卿を用いることがありませんでした。なのでその言葉は悲愴の色があり、痛ましいことこの上ありません。ああ、これまでの人をついに窮乏のうちに終わらせてしまい、その功業が世に現れることはなかったのです。哀しいかな。孫卿のために、涙流れずにはいられません。孫卿の書は、孫卿の伝記と比較することを通じて、世の法規とすることができるでしょう。謹んで、目録を作成いたしました。臣向(きょう)が、愚行ゆえの死罪を顧みずに上言させていただきます(注14)。護左都水使者・光祿大夫の臣向が申し上げるところの、校訂した孫卿の書の目録であります。


(注1)原文では、この後に劉向旧目録三十二篇の名前が配列されている。旧目録の配列については、『荀子』各篇概要ページを参照。
(注2)劉向子政(りゅうきょう・しせい。元鳳四年-建平元年、BC77-BC6)。前漢末期成帝時代に、当時宮中で入手可能であった秦漢代以前の蔵書を校訂編集し、目録を『別録』として提出した。この『荀卿新書(後の「荀子」)』あるいは『戦国策』は、劉向による校訂編集の作業を経て後世に伝えられる書物として成立した。
(注3)孫卿は、荀子の尊称の一つ。当サイトの訳では孫卿を「荀子」と訳し変えてきたが、ここでは原文のままとする。
(注4)威王は、斉国で始めて王を称した。田忌(でんき)・孫臏(そんぴん)を用いて魏国を破り、斉国を大国の地位に押し上げた。宣王はその子で、孟子がその下で客卿として使えた。威王・宣王の時代に都の臨湽(りんし)の稷下に天下の学者を集めてこれを厚遇し、彼ら学者たちはは稷下先生と呼ばれた。斉国は両王の後も稷下先生を厚遇する文化政策を取り続け、荀子が斉に遊学した背景を作った。
(注5)これら稷下先生の簡潔な伝記は、史記荀卿列伝にある。
(注6)荀子が斉に初めて遊学した時期に関する考証は、彊国篇(2)を参照。
(注7)宣王の二代後の君主。即位のいきさつは、彊国篇(2)を参照。
(注8)言及されている書と歌賦は、劉向が編集校訂した『戦国策』に見える。『戦国策』と同じ記述は、先行する『韓詩外伝』にも見える。しかし集解の王先謙は、『韓詩外伝』『戦国策』の記述の信憑性を疑う。下のコメント参照。
(注9)名家の公孫龍が行った弁論。白い石は、目で見ると石が白いことを認識できるが、そのとき石の堅さは認識できない。石を手で触ると堅いことを認識できるが、そのとき石の色は認識できない。よって白いことと堅いことは同時に感覚で認識できないので、堅くて白い石は存在しない、という詭弁。
(注10)戦国時代初期の魏国の政治家。法家思想家に数えられる。
(注11)いずれも史記荀卿列伝に表れる。「芋子」は史記では「吁子」と書かれる。漢書芸文志に「芋子十八篇有り、名は嬰、齊人なりと云う」とある。
(注12)董仲舒は、前漢の大儒。春秋学を修めて武帝期に活動し、儒教の国教化に大きな役割を果たした。他方で災異説(君主がよい政治を行えば天はよいしるしを地上にもたらし、悪い政治を行えば天は災害や異常現象を起こして警告する、という考え方)を提唱して、後世に儒教がオカルト的な天人相関説に退廃する始原を作った面もある。
(注13)仲尼篇に、ほぼ同じ言葉がある。
(注14)原文読み下し「昧死して上言す」。上奏文に付ける決まり文句であり、「冒昧(ぼうまい。愚行)のために死罪に触れるかもしれないが、おそれながら申し上げます」という意味。通常は、深刻な意味ではない。
《読み下し文》
護左都水使者・光祿大夫・臣向(きょう)言(もう)す。校讎(こうしゅう)する所の中孫卿の書、凡そ三百二十二篇、以て相校し、復重せる二百九十篇を除き、定めて三十二篇を箸(あら)わず。皆以て靑簡に定殺(ていさい)す。書繕寫(ぜんしゃ)す可し。孫卿は趙人にて、名は況。齊の宣王・威王の時に方(あた)りて、天下の賢士を稷下に聚(あつ)めて、之を尊寵す。騶衍(すうえん)・田駢(でんべん)・淳于髡(じゅんうこん)の屬の若き甚だ衆(おお)し、號して列大夫と曰う。皆世の稱する所にして、咸(みな)書を作りて世を刺(し)す。是の時孫卿秀才有り。年五十にして、始めて來りて游學す。諸子の事、皆以て先王の法に非ずと爲すなり。孫卿善く詩・禮・易・春秋を爲(おさ)む。齊の襄王の時に至りて、孫卿最も老師爲(た)り。齊尚お列大夫の缺(けつ)を脩め、孫卿三たび祭酒と爲る。齊人或は孫卿を讒(ざん)す。孫卿乃(すなわ)ち楚に適(ゆ)く。楚の相春申君(しゅんしんくん)以て蘭陵の令と爲す。人或は春申に謂って曰く、湯は七十里を以てし、文王は百里以てす、孫卿は賢者にして、今之に百里の地を與(あた)えば、楚は其れ危からん、と。春申君之に謝す。孫卿去りて趙に之(ゆ)く。後客或は春申君に謂って曰く、伊尹(いいん)は夏を去りて殷に入り、殷王となりて夏亡び、管仲は魯を去りて齊に入り、魯弱くして齊强し、故に賢者の在る所は君尊く國安し、今孫卿は天下の賢人にして、去る所の國は、其れ安からざらん、と。春申君人をして孫卿を聘(へい)せしむ。孫卿春申君に書を遺(おく)りて、楚國を刺(そし)り、因って歌賦を爲(つく)りて、以て春申君に遺す。春申君恨み、復(ま)た固く孫卿を謝す。孫卿乃(すなわ)ち行き、復た蘭陵の令と爲る。春申君死して、孫卿廢せらる。因って蘭陵に家す。李斯嘗て弟子と爲り、已にして秦に相(しょう)たり。及(また)韓非あり、韓子と號す。又浮丘伯あり、皆業を受けて名儒と爲る。孫卿の諸侯に聘に應ずるや、秦の昭王に見(まみ)ゆ。昭王方(まさ)に戰伐を喜ぶ。而るに孫卿三王の法を以て之に說く。秦相應候(おうこう)皆用ること能わざるに及んで、趙に至り孫臏(そんぴん)と兵を趙の孝成王の前に議す。孫臏は變詐の兵を爲し、孫卿は王兵を以て之を難ず。對(こた)うること能わざるなり。卒に用うること能わず。孫卿道は禮義を守り、行は繩墨(じょうぼく)に應じ、貧賤に安んず。孟子なる者も亦大儒なり、人の性善なるを以てす。孫卿は孟子に後るること百餘年なり。孫卿人の性惡と爲すを以てし、故に性惡一篇を作り、以て孟子を非(そし)る。蘇秦・張儀は、邪道を以て諸侯に說き、以て大に貴顯なり。孫卿退いて之を笑いて曰く、夫れ不以其の道を以て進ざる者は、必ず其の道を以て亡びず、と。[(下文に移す:)至漢興。江都相董仲舒亦大儒。作書美孫卿。](注15)孫卿卒(つい)に世に用いられず、蘭陵に老いて、濁世の政、亡国乱君相屬(つづ)き、大道を遂げずして巫祝に營(まど)い、禨祥(きしょう)を信じ、鄙儒(ひじゅ)は小拘(しょうこう)し、荘周等の如きは又猾稽(こっけい)にして俗を亂すを嫉(にく)む。是に於て儒・墨・道德の行事・興壞を推して、數萬言を序列して卒(しゅつ)す。蘭陵に葬る。而して趙に亦公孫龍有りて堅白・同異の辨を爲し、處士の言に、魏に李悝(りかい)の地力を盡(つく)すの敎有り、楚に尸子(しし)・長盧子(ちょうろし)・芋子(くし)有り、皆書を著す。然れども先王の法に非ずして、皆孔氏の術に循わず。唯(ただ)孟軻・孫卿のみ能く仲尼を尊しと爲す。蘭陵多く善く學を爲すは、蓋し孫卿を以てしてなり。長老今に至るまで之を稱して曰く、蘭陵人喜(この)んで字(あざな)して卿と爲すは、蓋し以て孫卿に法(のっと)るなりと。漢興るに至り、江都の相董仲舒(とうちゅうじょ)も亦大儒なりて、書を作りて孫卿を美とす。(注15)孟子・孫卿・董先生は、皆五伯(ごは)を小となし、以て仲尼の門に、五尺の童子も五伯を稱するを羞ずと爲す。如(も)し人君能く孫卿を用いれば、王たるに庶幾(ちか)し。然も世終(つい)に能く用いること莫く、而して六国の君殘滅し、秦國大に亂れ、卒に以て亡ぶ。孫卿の書を觀るに、其の王道を陳(の)ぶること甚だ行い易し。世能く用いること莫きを疾み、其の言悽愴にして、甚だ痛むべきなり。嗚呼(ああ)、斯(か)くの人をして卒に閭巷(りょこう)に終わりて、功業世に見(あらわ)るることを得ざらしむ。哀しい哉、爲(ため)に霣涕(うんてい)す可し。其の書、記傳に比(くら)べて、以て法と爲す可し。謹んで第錄す。臣向、昧死(まいし)して上言す。護左都水使者・光祿大夫・臣向言(もう)す。校讎する所の中、孫卿の書錄なり。

(注15)集解の盧文弨は、この十七字は下文にあるべし、と言う。これに従って移す。

《原文》
荀卿新書三十二篇(篇名略)

護左都水使者・光祿大夫・臣向言。所校讎中孫卿書。凡三百二十二篇。以相校。除復重二百九十篇。定箸三十二篇。皆以定殺靑簡。書可繕寫。孫卿趙人。名況。方齊宣王・威王之時。聚天下賢士於稷下。尊寵之。若騶衍・田駢・淳于髡之屬甚衆。號曰列大夫。皆世所稱。咸作書刺世。是時孫卿有秀才。年五十。始來游學。諸子之事。皆以爲非先王之法也。孫卿善爲詩禮易春秋。至齊襄王時。孫卿最爲老師。齊尚脩列大夫之缺。而孫卿三爲祭酒焉。齊人或讒孫卿。孫卿(注16)乃適楚。楚相春申君以爲蘭陵令。人或謂春申曰。湯以七十里。文王以百里。孫卿賢者也。今與之百里地。楚其危乎。春申君謝之。孫卿去之趙。後客或謂春申君曰。伊尹去夏入殷。殷王而夏亡。管仲去魯入齊。魯弱而齊强。故賢者所在。君尊國安。今孫卿天下賢人。所去之國。其不安乎。春申君使人聘孫卿。孫卿遺春申君書。刺楚國。因爲歌賦。以遺春申君。春申君恨。復固謝孫卿。孫卿乃行。復爲蘭陵令。春申君死。而孫卿廢。因家蘭陵。李斯嘗爲弟子。(注17)而相秦。及韓非號韓子。又浮丘伯。皆受業爲名儒。孫卿之應聘於諸侯。見秦昭王。昭王方喜戰伐。而孫卿以三王之法說之。及秦相應候皆不能用也。至趙與孫臏。議兵趙孝成王前。孫臏爲變詐之兵。孫卿以王兵難之。不能對也。卒不能用。孫卿道守禮義。行應繩墨。安貧賤。孟子者亦大儒。以人之性善。孫卿後孟子百餘年。孫卿以爲。人性惡。故作性惡一篇。以非孟子。蘇秦張儀。以邪道說諸侯。以大貴顯。孫卿退而笑之曰。夫不以其道進者。必不以其道亡。至漢興。江都相董仲舒亦大儒。作書美孫卿。孫卿卒不用於世。老於蘭陵。疾濁世之政。亡國亂君相屬。不遂大道。而營巫祝。信禨祥。鄙儒小拘。如莊周等。又滑稽亂俗(注18)。於是推儒墨道德之行事興壞。序列數萬言而卒。葬蘭陵。而趙亦有公孫龍。爲堅白同異之辨。處士之言。魏有李悝盡地力之敎。楚有尸子・長盧子・芋子。皆著書。然非先王之法也。皆不循孔氏之術。唯孟軻孫卿爲能尊仲尼。蘭陵多善爲學。蓋以孫卿也。長老至今稱之曰。蘭陵人喜字爲卿。蓋以法孫卿也。孟子・孫卿・董先生。皆小五伯。以爲仲尼之門。五尺童子。羞稱五伯。如人君能用孫卿。庶幾於王。然世終莫能用。而六国之君殘滅。秦國大亂。卒以亡。觀孫卿之書。其陳王道甚易行。疾世莫能用其言悽愴。甚可痛也。嗚呼。使斯人卒終閭巷。而功業不得見於世。哀哉。可爲霣涕。其書比於記傳。可以爲法。謹第錄。臣向昧死上言。護左都水使者・光祿大夫・臣向言。所校讎中孫卿書錄。

(注16)宋本には「孫卿」二字がない。集解の盧文弨は史記によって「孫卿」二字を補う。
(注17)宋本には「已」字がない。集解の盧文弨は史記によって「已」字を補う。
(注18)宋本には「亂俗」二字がない。集解の盧文弨は史記によって「亂俗」二字を補う。

上の文は劉向が子の劉歆(りゅうきん)とともに編集した『別録(べつろく)』の中の『荀卿新書(孫卿新書)』に添えられた叙録(じょろく)である。『別録(べつろく)』とは劉向が前漢成帝の代に漢帝国宮中の蔵書を編集校訂して、これを六類に分類した蔵書目録である。それぞれの書物に付けられた序文が叙録であり、『荀卿新書』叙録は散逸せずに後世まで伝わった数少ない叙録の一つで、劉向の編集方針を確認できる貴重な一次資料である。楊倞は、これを『荀子』の末尾に置いた。

叙録の内容は、史記荀卿列伝の記述からの引用が多くを占めている。ただし、春申君がある人の讒言を受けて荀子をいったん謝絶し、別の食客の進言を入れて再び荀子を招こうとしたが荀子は春申君に書と歌賦を贈った、という記述については、劉向が『荀卿新書』と同じく自らの手で編集した『戦国策』(楚策)に見える。『戦国策』には、荀子が春申君に贈ったという書と歌賦の本文もまた載せられている。『戦国策』と同じ記述が劉向に先立ち前漢代に成立した『韓詩外伝』にもまた収録されていて、両者は同じ資料を典拠としていると思われる。しかし王先謙は集解序において、これらを考証している。すなわち『外伝』において荀子が贈ったと書かれている「書」は『韓非子』姦劫弑臣篇に所収の「厲(れい。ハンセン病患者)が王を憐れむ」の文とほぼ同一である。また『外伝』に記載されている「歌賦」は、『荀子』賦篇に所収の佹詩(きし)末尾にある数句とほぼ同一である。『韓詩外伝』では、「書」「歌賦」ともに荀子が春申君に贈った作品とされている。しかし両者の内容には整合性がなく、また「書」の内容は荀子が春申君に贈った書と考えるには内容が無礼に過ぎる。むしろこの「書」は、『韓非子』に収録されているように、一般論として王と家臣の立場の危険さを指摘した単独の文章であったとみなすべきである。したがって『外伝』所収のエピソードは、(おそらく荀子に由来する)別個の書と歌賦を誤って取って、春申君が荀子を謝絶して再び招いた話とつなげて作られたものであろう。しかし劉向はこの『外伝』に収められた仮構のエピソードを事実として、『戦国策』およびこの叙録に採用したのであろう。そのように王先謙は考証し、この叙録に書かれた荀子が春申君に宛てた書と歌賦を、事実ではないと考える。

また、趙の孝成王の前で荀子が兵を議論した相手を劉向は孫臏(そんぴん)とみなしているが、議兵篇の楊注が考証するようにこれはありえない。議兵篇に表れる臨武君の正体は、はっきりしない(議兵篇の議論を参照)。

叙録における独自の情報としては、董仲舒(とうちゅうじょ)が荀子を美とする書を作った、という記載がある。しかし現在に伝わっている董仲舒の著作は『春秋繁露』八十二篇だけであり、集解の王先謙が言うにその中に荀子を称えた内容は見えない。なので、劉向が言及する董仲舒の書は、すでに散逸したと考えられる。

哀公篇第三十一(1)

魯の哀公(あいこう)が、孔子に質問した。
哀公「私は、我が国の士を選考して、よき人材とともに国を治めたいと願っている。あえて質問したい、どうやってこれを選び出せばよいだろうか?」
孔子「それは、今の乱れた時代に生まれながらも、いにしえの道を志し、今の乱れた風俗の中にいながらも、いにしえの服装を着ようとする者です。このことを行いながら非をなす者は、まず滅多におりません。」
哀公「ならば、章甫(しょうほ。殷朝の冠)を被り、絇屨(くく。飾り付きの靴)を履き、紳(しん。大帯)を締めて笏(こつ。手に持って備忘用のメモに用いる札で、いわゆる「しゃく」のこと)をそこに挟んでいるならば、その者はすべて賢者なのであろうか?」
孔子「必ずしも、そうとは言えません。しかしながら、玄端(げんたん。黒色の麻で作った祭服)を着て絻(べん。冠)を被って路(ろ。車)に乗る者は、厳粛な祭儀に臨む礼装を着る立場にあるからには潔斎時の禁食である葷(くん。ねぎ・にらなどの香味野菜)を食べようとは思わないものです。また斬衰(ざんさい。最も重い喪服)を着て菅屨(かんく。菅の草履)を履き杖をついて粥をすする者は、深い喪に服して哀しむ立場にあるからには酒や肉を楽しもうとは思わないものです。今の乱れた時代に生まれながらもいにしえの道を志し、今の乱れた風俗の中にいながらもいにしえの服装を着ようとする者であるならば、それを行いながら非をなす者は、たとえいたとしてもまず滅多にはおりません。(だから、このことをあえて行う士ならばきっと志も高いはずなので、これを選べばまず間違いないでしょう。)」
哀公「なるほど。」
《読み下し》
(注1)魯の哀公孔子に問うて曰く、吾、吾が國の士を論じ、之と與(とも)に國を治めんと欲す。敢て問う、(孔子家語・金谷治氏に従い改める:)如何(いか)にして之を取らん、と(注2)。孔子對えて曰(のたま)わく、今の世に生れて古(いにしえ)の道に志し、今の俗に居りて古の服を服す、此に舍(お)りて非を爲す者は、亦鮮(すくな)からずや、と。哀公曰く、然らば則ち夫(か)の章甫(しょうほ)・絇屨(くく)(注3)、紳(しん)して笏(こつ)を搢(さしはさ)む者は、此(みな)(注4)賢なるか、と。孔子對えて曰わく、必ずしも然らず。夫れ端衣(たんい)・玄裳(げんしょう)(注5)、絻(べん)して路(ろ)に乘る者は、志葷(くん)を食うに在らず。斬衰(ざんさい)・菅屨(かんく)、杖して粥を啜(すす)る者は、志酒肉に在らず。今の世に生れて古の道に志し、今の俗に居りて古の服を服す、此に舍りて非を爲す者は、有りと雖も亦鮮からずや、と。哀公曰く、善し、と。


(注1)本章は、大戴礼記哀公問五義篇および孔子家語五儀解篇にほぼ同じ文が見える。
(注2)原文「何如取之邪」。宋本は「取」がなくて「何如之邪」に作る。集解の盧文弨は大戴礼記・家語に依り「取」字を補うべきを言い、集解本はこれに従って「取」字を加えている。しかし大戴礼記は「何如者取之(いかなる者に之を取らん)」に作り、家語は「如何取之(いかにして之を取らん)」に作る。文法的に正しくするならば、大戴礼記あるいは家語のようにさらに修正されるべきであろう。増注は「取」字を加えるべきであると注しながら本文では「取」字を加えていないが、これはおそらく文法的に言えば宋本の「何如之邪」の形のほうがまだ通るからであろう。よって宋本を取って読み下すか、大戴礼記あるいは家語のように語句を修正するか、のどちらかを選ぶべきであろう。新釈は宋本に従って「之をいかんぞや」と読み下す。金谷治氏は、家語のように「何如」を「如何」に入れ替えている。家語および金谷氏が意味を最もすっきりさせるので、これに従いたい。
(注3)楊注は、「絇は屨頭に拘飾有るを謂う」と言う。絇屨は、先端に飾りがついた礼装の靴。
(注4)楊注は、「端衣玄裳は即ち朝玄端なり」と言う。玄端とは、黒色の麻で作られた祭服。
(注5)集解の兪樾は、「此はまさに比に作るべし。比は皆なり」と言う。これに従う。

哀公篇は孔子と魯の哀公との問答が主で、一つだけ魯の定公と孔子の弟子顔淵(顔回)との問答が収録されている。やはり、孔子家語ほかの他書と重なる問答が多い。
哀公は、孔子晩年時代の魯公である。孔子の死後に、魯の国政を牛耳る三桓氏を除くべく、強国の越国の援助をあてにしてクーデターを企てた。しかし三桓氏に攻められて他国に逃亡し、その後再び魯国に戻ったものの魯公の君権をますます衰えさせる結果となった。哀公の死後も魯国は戦国時代中期まで細々と生き残ったが、最終的に楚国に併合されて国の歴史を終えた。

本篇の章割りは、新釈漢文大系に従う。

哀公篇第三十一(2)

孔子が、哀公に言われた。
孔子「人間は五つの等級に分けることができます。庸人(凡人)・士・君子・賢人・大聖です。」
哀公「あえて質問したい、庸人とはどのような人物を言うのであるか?」
孔子「いわゆる庸人とは、その口は善言を言うこともできず、その心は不満憂悶することを知らず、賢人・善士を選び我が身をそれに託して知恵の足りない自分の苦境を助けてもらうことも知らない。己の行動を修める努力も知らず、己の立ち留まるべき所を定めることも知らず、日々あれかこれかと目移りして真に貴ぶべきものを知らず、いろいろな外物に定見なく従って帰する原理を知らない。感覚器官が外物に働いたら、それを受け取った心は感覚の奴隷となって崩れてしまう。このようであるならば、庸人と言うべきです。」
哀公「なるほど。さらにあえて質問したい、士とはどのような人物を言うのであるか?」
孔子「いわゆる士とは、正道を治める術を完全に使い切ることまではできないが、必ず正道に従うことはできる。あらゆる点を美善に成し遂げることまではできないが、必ず美善の道に留まることはできる。このゆえに、その知は博覧であることを務めずに、己が知る狭い範囲の知を詳しく究めることに専念する。その行動は多様なことを行うことを務めずに、己が依拠する狭い範囲のことを隅々までやり遂げることに専念する。このゆえにその知は知るべきことをすべて知り、その言葉は言うべきことを全て言い、行動は行うべきことを全て行うので、それらが生命や皮膚のように取り替えできないほど身に付いている人物である。こうして(狭い範囲ながらも完成しているので)、たとえ富貴の境遇にあってもこれに加えるものはなく、卑賤の境遇に落ちてもこれが欠けることもない。このようであるならば、士と言うべきです。」
哀公「なるほど。さらにあえて質問したい、君子とはどのような人物を言うのであるか?」
孔子「いわゆる君子とは、言葉は忠信でありながらも、心はそのことで自らを徳とすることはない。仁義が身にありながらも、顔色はそのことを自ら誇る様子がない。思慮は明通しながらも、言葉は己の知によって他人と争うことはない。ゆえに、ゆったりとした様子であって、一見誰でも届きそうなくらい平凡に見える(だが実際には決して到達することができない)。このようであるならば、君子と言うべきです。」
哀公「なるほど。さらにあえて質問したい、賢人とはどのような人物を言うのであるか?」
孔子「いわゆる賢人とは、行動は礼義の基準によく当たりながらも、しかも我が身を傷つけることはない。発する言葉は天下の法度たるにふさわしいが、しかも我が身を傷つけることはない。富は天下を保有するほど大きいが、しかも財を溜め込むことはない。そして天下に富を分け与えるが、しかも貧しくなることを憂うことはない。このようであるならば、賢人と言うべきです。」
哀公「なるほど。さらにあえて質問したい、大聖とはどのような人物を言うのであるか?」
孔子「いわゆる大聖とは、知は大いなる正道に精通し、あらゆる変化に見事に対応できて尽きることがなく、万物の情性を理解し尽くす者である。大いなる正道とは、万物を変化させ成し遂げさせる自然の原理である。情性とは、万物が是非と取捨を行う自然の原理である。ゆえにこれらを知り尽くした存在は、その偉大なる働きが天地にあまねく行き渡り、その明らかな知は日月よりも輝き、万物を統括することは風や雨が行うがごときとなるのである。深遠でありながらも純粋であり、その者の行いに常人は付いて行くことすらできず、まるで天の子のごときであり、その者のなす事業を知覚することすらできない。人民は何も知ることもなく、どこからどこまでがこの者のなしたことであるのかを知ることもない。このようであるならば、大聖と言うべきです。」
哀公「なるほど。」
《読み下し》
(注1)孔子の曰(のたま)わく、人に五儀(ごぎ)(注2)有り。庸人(ようじん)有り、士有り、君子有り、賢人有り、大聖有り、と。哀公曰く、敢て問う、何如(いか)なる斯(これ)を庸人と謂う可きか、と。孔子對えて曰わく、所謂(いわゆる)庸人なる者は、口は善言を言うこと能わず、心に色色(ゆうゆう)(注3)を知らず、賢人・善士を選びて其の身を託して、以て己が憂を爲(おさ)むることを知らず(注4)、勤行(どうこう)(注5)に務むる所を知らず、止交(しりつ)(注6)に定まる所を知らず、日(ひび)に物を選擇して貴ぶ所を知らず、物に從うこと流るるが如くにして、歸する所を知らず。五鑿(ごさく)(注7)正(せい)(注8)を爲せば、心從うて壞(くず)る。此の如くなれば則ち庸人と謂う可し、と。哀公曰く、善し、と。敢て問う、何如なる斯を士と謂う可きか、と。孔子對えて曰わく、所謂士なる者は、道術を盡(つ)くすこと能わずと雖も、必ず率(したが)うこと有り、美善を徧(あまね)くすること能わずと雖も、必ず處ること有るなり。是の故に知は多きを務めずして、其の知る所を審(つまびら)かにするを務め、言は多きを務めずして、其の謂う所を審かにするを務め、行は多きを務めずして、其の由る所を審かにするを務む。故に知は旣(すで)に已(すで)に之を知り、言は旣に已に之を謂い、行は旣に已に之に由れば、則ち性命・肌膚(きふ)の易(か)う可からざるが若きなり。故に富貴も以て益すに足らず、卑賤も以て損ずるに足らざるなり。此の如くなれば則ち士と謂う可し、と。哀公曰く、善し、と。敢て問う、何如なる斯を君子と謂う可きか、と。孔子對えて曰わく、所謂君子なる者は、言は忠信にして而(しか)も心は德とせず、仁義は身に在りて而も色は伐(ほこ)らず、思慮は明通にして而も辭は爭わず、故に猶然(ゆうぜん)として將(まさ)に及ぶ可からんとするが如きの者は(注9)、君子なり、と。哀公曰く、善し、と。敢て問う、何如なる斯を賢人と謂う可きか、と。孔子對えて曰わく、所謂賢人なる者は、行は規繩(きじょう)に中(あた)りて、而も本を傷つけず、言は天下に法たるに足りて、而も身を傷つけず、富は天下を有して、而も怨財(うんざい)(注10)無く、天下に布施(ふせ)して、而も貧を病(うれ)えず。此の如くなれば則ち賢人と謂う可し、と。哀公曰く、善し、と。敢て問う、何如なる斯を大聖と謂う可きか、と。孔子對えて曰わく、所謂大聖なる者は、知は大道に通じ、應變して窮せず、萬物の情性を辨ずる者なり。大道なる者は、萬物を變化・遂成(すいせい)する所以にして、情性なる者は、然不・取舍(しゅしゃ)を理(おさ)むる所以なり。是の故に其の事の大なることは天地に辨(あまね)く(注11)、明なることは日月より察(あきら)かに、萬物を總要することを風雨の於(ごと)し(注12)、繆繆(ぼくぼく)・肫肫(じゅんじゅん)(注13)にして、其の事循(したが)う可からず、天の嗣(し)の若く、其の事識る可からず、百姓淺然(せんぜん)として其の鄰(りん)(注14)をも識らず。此の若くなれば則ち大聖と謂う可し、と。哀公曰く、善し、と。


(注1)前章と同じく、本章もまた大同小異の問答が大戴礼記哀公問五義篇および孔子家語五儀解篇に見える。また韓詩外伝四には本章の「庸人」のくだりと一致する格言が見える。
(注2)集解の郝懿行は、「儀は匹(ひつ)なり、匹はなお儔類のごときなり」と言う。範疇、分類の意。
(注3)大戴礼記は、「邑邑」に作る。集解の郝懿行は「色色」は「邑邑」の誤りであるとみなし、「邑邑は悒悒と同じ。悒悒は憂逆短気の貌」と言う。「悒悒」に取るならば、不満で憂悶する様子と解釈できるだろう。新釈の藤井専英氏は劉師培を挙げて、「邑は挹(ゆう)に同じく、退・損の意」と言う。ならば、自制して謙遜する様子と解釈できるだろう。郝説に従っておく。
(注4)原文「不知選賢人・善士、託其身焉、以爲己憂」。二通りの読み方が提出されている。楊注は、「賢に託することを知らず、但(ただ)自ら憂うのみ」と注する。この場合の読み方は「以爲己憂」を前句から切り離して「賢人・善士を選びて其の身を託することを知らず、以て己が憂いと爲す」と読み下し、意味は「賢人・善士を選んで己の身を託することを知らずに、ただただ自分一人で憂っている」がごときとなるであろう。いっぽう新釈の兪樾は全体が一句であり、「爲は癒の義あり」と注する。金谷治氏・新釈は「爲(為)」字を「おさむ」と読み下して、全体を一句として読んでいる。兪樾説に従っておく。
(注5)集解の郝懿行は、大戴礼記および韓詩外伝が「勤」字を「動」字に作ることを引いて、疑うは形の誤りと言う。これに従う。
(注6)集解の郝懿行は、大戴礼記および韓詩外伝が「交」字を「立」字に作ることを引いて、同じく形の誤りと言う。これに従う。
(注7)楊注は、「五鑿は耳・目・鼻・口および心の竅(きょう)なり」と言う。竅(きょう)とは、人体の穴の意であり、感覚器官のことである。新釈の藤井専英氏は、「七竅」(両目・両耳・二つの鼻の穴・口)の誤りであることを示唆する。また楊注或説は、「五鑿は五情」と言う。五情は視・聴・味・嗅・触の五感であり、意味的にはこちらのほうがわかりやすい。郝懿行・王念孫は楊注或説を是とする。楊注本説は心にも感覚を受け取る穴がある、とみなしているようであるが、そのような考えが古代に実際にあったのかどうか、私は寡聞にして知らない。ともかく、上の訳は人間の五つの感覚器官とみなしておく。
(注8)集解の盧文弨および増注は、大戴礼記で「正」が「政」に作られることを引いて、「政」となすべしと言う。五つの感覚器官が働くこと。
(注9)原文「如將可及者」。猪飼補注は、家語がここのくだりを「若(如)將可越、而終不可及者(まさに越ゆるべくして、しかもついに及ぶべからざるが如し」に作ることを引いて、「而終不可及」の五字が脱落していることを言う。大戴礼記もまた、家語と同様の表現となっている。ともかくも、一見誰でも届きそう(だが実際には届くことができない)なのが君子である、という意味を指している。
(注10)集解の郝懿行は、「怨」は「蘊」の転と言う。たくわえること。これに従う。
(注11)増注および集解の王念孫は、「辨」は読んで「徧」となすと言う。これらに従う。あまねく。
(注12)増注および猪飼補注は、この句に脱誤があることを疑う。新釈は劉師培説を引いて、「於は如」と注する。新釈に従っておく。
(注13)猪飼補注および集解の郝懿行は、大戴礼記に「穆穆・純純」に作ることを指摘する。穆穆・純純は、「深遠純粋の貌(猪飼補注)」「和にして美、精にして密(郝懿行)」のこと。
(注14)猪飼補注は、「鄰は以て畔界に喩う」と言う。境界・輪郭のこと。

本章は、大戴礼記および家語においても前章からの問答の続きとして編集されている。大戴礼記の哀公問五義篇と重なるテキストは、本章までである。いっぽう家語の五儀解篇には、本章の後にさらにこの哀公篇と重なるテキストが収録されている。

本章の問答は、人間を知徳の程度で庸人・士・君子・賢人・大聖の五ランクに分別する議論である。同様のランク付けが荀子の他篇にも見える。解蔽篇(6)注4、非相篇(5)注2、礼論篇第(6)注1を参照。これを国家の官僚組織に当てはめると、庶民(庸人)・下級官僚(士)・上級官僚(君子)・宰相クラスの最上級の官僚(賢人)・君主(大聖)の各段階に人間を等級分けする規準とみなすことができるだろう。知徳の最高段階にあるべき大聖を形容する言葉がほとんど具体的な表現を欠いた空疎なレトリックに終始していることもまた、荀子の他篇と共通している。儒家の国家官僚組織における君主の役割は賢人・君子を役職に任命してこれに仕事をさせることに尽きるのであって、君主じたいは具体的な仕事を何も行う必要がない。君道篇ほかで説かれているとおりである。

哀公篇第三十一(3)

魯の哀公が、舜(しゅん。伝説の聖王)の冠のことを孔子に質問した。しかし、孔子は答えなかった。哀公は三度繰り返して質問したが、孔子は答えなかった。哀公が言った、「寡人(それがし)(注1)が舜の冠をあなたに質問しているのに、どうして何も言われないのか?」と。孔子がやっと答えて言われた、「いにしえの王者は、粗末な帽子と衣服を着ている者すらありましたが、その政治は人を生かすことを好んで人を殺すことを憎むものでありました。このような聖代であったので、鳳(ほう。伝説の聖鳥)は樹木の上に止まり、麟(りん。伝説の聖獣)は郊野に遊び、烏鵲(うじゃく。かささぎ)すら人がのぞき込めるような低いところに巣作りをするほどでありました。わが君は、このことを問おうとなされずに、舜の冠をご質問なさる。なので、答えなかったのです。(聖王の衣装に興味を持たれる前に、聖王の政治を知ろうとなさりませ)」と。


魯の哀公は、孔子に質問した。
哀公「寡人(それがし)は、宮殿の奥深くで生まれて、婦人たちの手で育てられた。なので、哀・憂・労・懼・危とはどういったものであるのかを知らないのだ。」
孔子「わが君の問われることは、まさしく聖君の問うことでございますぞ。丘(それがし)(注2)は小人でありまして、とてもそのような問いの答えを知ることができません。」
哀公「あなたでなければ、このことを聞くことはできません!」
孔子「ならば、あえてお答えしましょう。わが君が、ご先祖の宗廟の門から入って右に進み、胙階(そかい。東の階段)から廟内に登り、廟の榱(たるき)や棟(むね)を仰ぎ見て、下を向いて几(つくえ)や筵(むしろ)を見たときに、建物や調度は昔のままであるのに、君主の側に侍るべき股肱の家臣たちはもういない。わが君がいったんこのことを思われたならば、どうして哀惜の情が起こらずにいられるでしょうか。わが君が夜明け前に櫛(くしけず)って冠を頂いて、早朝から朝政を聴かれたときに、たった一つのことでも理にかなわないことが政務にあったならば、それはいずれ乱に発展する端緒でありましょう。わが君がいったんこのことを思われたならば、どうして憂慮の情が起こらずにいられるでしょうか。わが君が早朝から朝政を聴き、日が傾き午後になって政務を終えて退かれるときに、わが君の朝廷の末席には必ず諸侯の子孫が参内しているのを見られるでしょう(注3)。わが君がいったん彼らの労苦を思われたならば、どうして労苦のことを知らずにはいられるでしょうか。わが君が魯都の四方の門から外遊されて、魯国の四方の郊外を望見なされたならば、滅んだ国家の廃墟が必ずいくつも連なって見られることでありましょう。わが君がいったんこれら滅んだ諸国のことを思われたならば、どうして恐懼の情が起こらずにいられるでしょうか。また、丘(それがし)はこう聞いております、『君は舟、庶民は水。水はすなわち舟を載せ、水はすなわち舟を覆す』と。わが君がいったんこの格言のことを思われたならば、どうして危惧の情が起こらずにはいられましょうか?(わが君は、真摯に政務に励んでおられないから、哀・憂・労・懼・危を知らないなどと言われるのです。これらのことは、政治を真摯に執れば必ず思わずにはいられないことなのですぞ。)」


(注1)「寡人」とは、春秋戦国時代の君主が賢者の前で謙遜して用いた自称。徳の寡(すくな)い人、という意味。
(注2)丘は、孔子の名。自称するときには一般的に名を用いる。
(注3)楊注は、「諸侯の子孫、奔亡して魯に至りて仕える者を謂う」と注する。楊注は、哀公もまた諸侯の子孫であり、いま戒懼して徳を脩めなければいずれ亡命する労苦があるだろう、と解釈している。実際哀公は孔子の死後に魯国から亡命させられるのであるが、それは後の結果から見た後付けの解釈というものである。
《読み下し》
(注4)魯の哀公舜の冠を孔子に問う。孔子對(こた)えず。三たび問うて對えず。哀公曰く、寡人(かじん)舜の冠を子に問う、何を以て言わざるや、と。孔子對えて曰(のたま)わく、古(いにしえ)の王者は、務(ぼう)して拘領(こうりょう)する(注5)者有り、其の政生を好んで殺を惡(にく)む。是を以て鳳は列樹に在り、麟(りん)は郊野に在り、烏鵲(うじゃく)の巢は俯して窺う可きなり。君此を問わずして、舜の冠を問う。對えざる所以なり、と。

(注6)魯の哀公孔子に問うて曰く、寡人は深宮の中に生れ、婦人の手に長ず。(注7)未だ嘗て哀を知らず、未だ嘗て憂を知らず、未だ嘗て勞を知らず、未だ嘗て懼(く)を知らず、未だ嘗て危を知らず、と。孔子の曰わく、君の問う所は、聖君の問なり。丘は小人なり、何ぞ以て之を知るに足らんや、と。曰く、吾子(ごし)に非ずんば、之を聞く所無きなり、と。孔子の曰わく、君廟門に入りて右し、胙階(そかい)(注8)より登り、榱棟(すいとう)を仰視し、几筵(きえん)を俛見(ふけん)(注9)せば、其の器は存して、其の人は亡(な)し。君此を以て哀を思わば、則ち哀將(は)た焉(いずく)んぞ至らざんや(注10)。君昧爽(まいそう)にして櫛冠(しつかん)し、平明にして朝を聽き、一物應ぜざるは、亂の端なり。君此を以て憂を思はば、則ち憂將た焉んぞ至らざんや。君平明にして朝を聽き、日昃(かたむ)きて退き、諸侯の子孫、必ず君の末庭に在る者有らん。君此を以て勞を思わば、則ち勞將た焉んぞ至らざらんや。君魯の四門を出て、以て魯の四郊を望まば、亡國の虛則(きょれつ)(注11)は必ず數蓋(すうがい)有らん(注12)。君此を以て懼を思わば、則ち懼將た焉んぞ至らざらんや。且つ丘之を聞く、君なる者は舟なり、庶人なる者は水なり、水は則ち舟を載せ、水は則ち舟を覆す、と。君此を以て危を思わば、則ち危將た焉んぞ至らざらんや、と。


(注4)本章は、孔子家語好生篇に大同小異の文が見える。
(注5)楊注は、「務は読んで冒となす。拘は句と同じにて曲領なり。言うは冠衣拙朴といえども仁政を行うなり」と注する。楊注は尚書大伝に「古の人、衣の上に冒して句領する者有り」の句があることを指摘する。したがって、粗末な帽子と衣服のこと。
(注6)本章と大同小異の文が、孔子家語五儀解篇において哀公篇(2)の文につなげる体裁を取って置かれている。
(注7)宋本には、ここに「寡人」二字がある。増注は、元本に拠ってこれを削っている。
(注8)楊注は、「胙はと阼と同じ」と言う。阼階は、東の階段。
(注9)増注は、「俛は俯と同じ」と言う。
(注10)原文「則哀將焉[而]不至矣」。以下の憂・勞・懼・危の同型の句と共通して、宋本は「而」字がなく、元刻はすべて「而」が置かれている。集解の盧文弨は、五句すべての「而」字が衍字であるとみなすよりは、これらを「能(よく)」と読むべきであると言う。王念孫は、盧説に賛同している。増注本は「而」字を置かず、集解本は置く。より古い宋本を取る増注に従って、「而」を置かないことにする。
(注11)楊注は、「虛(虚)は読んで墟となす」と言い、また新序に「亡國之墟列」の句があることを指摘する。それを受けて集解の郝懿行は、「則」は「列」の誤であると言う。これに従う。
(注12)原文「必有數蓋焉」。楊注は、「有數蓋」は「蓋有數(けだし数有らん)」の倒置であると注する。増注は、「蓋」字は衍字であるとみなす。集解の盧文弨は、「數蓋」は「數區(数区)」のことと考える。新釈の藤井専英氏は、「蓋は揜(おお)うて、こんもりしたような形のものを指す。、、数蓋は、そのような場所(廃墟の遺跡)が数箇所ある意を示すもの」と注する。盧説および新釈に従い、倒置・衍字とみなさない。

上の二章もまた、家語に類似の文が見える。「君なる者は舟なり、庶人なる者は水なり、水は則ち舟を載せ、水は則ち舟を覆す」の格言は、王制篇にも見える。

哀公篇第三十一(4)

魯の哀公が孔子に質問した、「紳(しん。大帯)・委(い。周朝の冠)・章甫(しょうほ。殷朝の冠)といった衣裳は、人に無益なのだろうか?」と。孔子は顔色を変えて言われた、「わが君!そのようなことを言われてはなりません。喪服を着て苴杖(しょじょう。枯死した竹で作った杖)をつく者は、音楽を聴きません。それは耳が聞こえないのではなくて、喪服を着るゆえにあえて聴かないのです。華やかな刺繍をした祭服を着る者は、葷(くん。ねぎ・にらなどの香味野菜)を食べません。それは口が食べられないのではなくて、祭服を着るゆえにあえて口にしないのです。また丘(それがし)(注1)はこう聞いています、『商売を好む者は、損失をこうむることを避ける。ゆえに徳ある長者は商売をしない(なぜならば、目先の利害に目がくらんで真の利害を忘れることを嫌うためである)』と。何が人にとって有益であり、何が人にとって無益であるか。このことを明らかに理解されたならば、わが君はきっとお分かりなるはずです(礼に従った衣裳は、ただの飾りではありません。人間にとって真に有益なものなのです)」と。


魯の哀公が孔子に質問した、「人材を選び取る道を教えていただきたい」と。孔子が答えられた、「人を押しのけるほど強気に過ぎる者は、採用してはなりません。他人の意見をふさぎ止めるような者は、採用してはなりません。口先ばかり達者で誠実さがない者は、採用してはなりません。強気に過ぎる者は、功績を貪り取ります。他人の意見をふさぎ止める者は、朝廷を乱します。口先ばかりの者は、大言壮語します。ゆえに、弓はきちんと飛ぶように調整されていることが必須で、その後に強い弓を求めるのです。馬は従順であることが必須で、その後に働きよい馬を求めるのです。士は誠実であることが必須で、その後に知力と能力を求めるのです。士が誠実でないのに知力・能力が多いならば、それは豺(やまいぬ)か狼のたぐいというものです。これに近づいてはなりません。言い伝えに、『斉の桓公は己に仇なした賊を登用し、晋の文公は己から盗んだ盗人を登用した』(注2)と言います。ゆえに、明主は熟慮に判断を任せて、これを己の怒りに任せません。しかし闇主は己の怒りに判断を任せて、これを熟慮に任せません。熟慮が怒りに勝つ者は強く、怒りが熟慮に勝つ者は滅びるのです」と。


(注1)丘は、孔子の名。哀公篇(3)を参照。
(注2)前半は、桓公が己に敵対した管仲を許して登用したことを指す。仲尼篇(1)注2参照。後半は、楊注は寺人勃鞮、増注は豎頭須、集解の郝懿行は里鳧須を挙げる。里鳧須は文公が公子時代に府庫を守る役であったが、公子が亡命したときに府庫から宝を盗んで逃亡した。後に文公が故国に戻ったとき、里鳧須は再び文公の前に表れたが、文公はこれを許したと言う(新序雑事篇五より)。
《読み下し》
(注3)魯の哀公孔子に問うて曰く、紳(しん)・委(い)・章甫(しょうほ)は仁(ひと)(注4)に益有りや、と。孔子蹴然(しゅくぜん)として曰(のたま)わく、君號(なん)ぞ(注5)然るや。資衰(しさい)(注6)・苴杖(しょじょう)する者は、樂を聽かず、耳聞くこと能わざるに非ず、服然らしむるなり。黼衣(ほい)・黻裳(ふつしょう)する者は、葷(くん)を茹(くら)わず、口味わうこと能わざるに非ず、服然らしむるなり。且つ丘(きゅう)之を聞く、肆(し)を好めば折(せつ)を守らず(注7)、長者は市を爲さず、と。其の益有ると其の益無きとを竊(あきら)かにすれば(注8)、君其れ之を知らん、と。

(注9)魯の哀公孔子に問うて曰く、人を取るを請い問う、と。孔子對(こた)えて曰わく、健(けん)(注10)を取ること無かれ、詌(かん)(注11)を取る事無かれ、口啍(こうじゅん)(注12)を取ること無かれ。健なれば貪(たん)し、詌なれば亂し、口啍なれば誕(たん)す。故に弓は調して而(しこう)して後に勁を求め、馬は服して而して後に良を求め、士は信愨(しんかく)にして而して後に知能を求む。士信愨ならずして有(また)知能多きは、之を譬(たと)うるに其れ豺狼(さいろう)なり、身を以て尒(ちか)づく可からざるなり。語に曰く、桓公は其の賊を用い、文公は其の盜を用う、と。故に明主は計に任じて怒に信(まか)せず、闇主は怒に信して計に任ぜず。計怒に勝つ者は强く、怒計に勝つ者は亡ぶ、と。


(注3)本章は、孔子家語好生篇に大同小異の文が見える。
(注4)増注は、「仁はまさに人に作るべし、音の誤なり」と言う。これに従う。
(注5)楊注は、「號」は読んで「胡」となす、と言う。なんぞ。
(注6)楊注は、「資」は「齊」と同じ、と言う。齊衰は、一年の喪の服。
(注7)楊注は、「市肆(しし)を喜ぶの人は、守る所の貨財をして折耗せしめず」と注する。肆は店舗で、商売の意。折は損失の意。現代中国語でも「折」字は割引の意味である。
(注8)楊注は、「竊」はよろしく「察」となすべし、と言う。
(注9)本章の「語に曰く」より前の文と同趣旨の文は、孔子家語五儀解篇・韓詩外伝四・説苑尊賢篇に見える。家語五儀解篇では、哀公篇(3)の後章につなげて置かれている。本章の「語に曰く」以下の文は、新序雑事五にも見える。
(注10)「健」について金谷治氏は「元気すぎる者」と訳し、新釈は「ただ強いばかりの人間」と訳す。強気すぎて、謙譲の心がない人物のことであろう。
(注11)集解の郝懿行は、「詌」は説苑に「拑」に作ることを是とする。拑は、人を脅してものを言わせないこと。
(注12)楊注は、「啍」は「諄」と同じ、と言う。口諄は、口では教誨の言葉を出しながら心に誠実がない者のこと。

漢文大系は、後章の「語に曰く」以下を別の一章としている。この文が家語・韓詩外伝・説苑に所収の孔子と哀公との問答に表われないので、問答ではない単独の格言とみなしたと思われる。新釈は、これを哀公との問答につなげて解釈している。

哀公篇第三十一(5)

定公が、顔淵(がんえん)(注1)に質問した。
定公「東野畢(とうやひつ)(注2)の御者術は、優れているといえるだろうか?」
顔淵「優れていると言われれば、優れていると言えるでしょう。しかしながら、いまその操る馬が逃げ去ろうとしています。」
定公は顔淵の言葉を喜ばず、奥に入って左右の者に言った、「君子というものは、人の悪口を言うものであろうか?」と。
ところが三日後、校(こう。馬の飼育係)が定公に謁見して、「東野畢(とうやひつ)の馬が、逃げ去ってしまいました。両驂(りょうさん。四頭立て馬車の外側の両馬)が綱を引きちぎって逃げ出して、両服(りょうふく。四頭立て馬車の内側の両馬)だけが厩舎に戻りました」と告げた。定公は席から飛び上がって立ち上がり、「ただちに車を出して、顔淵を召し出せい!」と命じた。かくて顔淵が、再度現れた。定公は言った、
定公「先日、寡人(それがし)(注3)があなたに質問したとき、あなたは『東野畢の御者術は、優れていると言われれば優れていると言えるでしょう。しかしながら、いまその操る馬が逃げ去ろうとしています』と言われましたなあ。分からないのだが、あなたはどうやってそれを知ったのであるか?」
顔淵「臣は、これを政治の鉄則から類推したのです。むかし舜(しゅん。伝説の聖王)は、人民を使うことが巧みでありました。また造父(ぞうほ)(注4)は、馬を使うことが巧みでありました。舜は、その人民を窮迫させることをしませんでした。また造父は、その馬を窮迫させることをしませんでした。そのために舜の治世下には逃亡する人民はおらず、また造父が用いた馬は逃走しませんでした。いっぽう、いま東野畢の御者術を観るならば、なるほど立派なものであり、車に搭乗して轡(たづな)を取って姿勢は正しく、並足も駈足もよく調練されています。しかしながら、馬といえども難所を駆けて遠くまで走った後には、馬の力も尽きるものです。なのに東野畢は、それでもなお馬を強いて走らせようとしています。臣は、これによって彼の馬が逃げ出すであろうことを知ったのです。」
定公「なるほど。もう少し、その点について詳しく聞かせていただきたい。」
顔淵「臣は、こう聞いております、『鳥は窮すればくちばしでつっつき、獣は窮すれば爪でつかみかかり、人は窮すれば詐りの言を吐く』と。いにしえの時代から現代に及ぶまで、いまだかつて下に仕える者を窮迫させながら、なおかつ危険に陥らずに済んだ者はありませんでした。」


(注1)姓は顔、名は回、字は子淵。姓と名を取って顔回と呼ばれるか、あるいは字の略称を取って顔淵と呼ばれる。後世、曾子と並んで孔子門下の最重要の弟子として称揚された。
(注2)姓は東野、名は畢。
(注3)君主の自称。哀公篇(3)を参照。
(注4)造父は、周の穆王(ぼくおう)の御者。名御者の代表として『荀子』でしばしば言及されている。性悪篇(6)注5参照。
《読み下し》
(注5)定公顏淵に問うて曰く、東野子は之れ善馭なるか、と。顏淵對(こた)えて曰く、善は則ち善なり、然りと雖も、其の馬將(まさ)に失(いつ)せん(注6)とす、と。定公悅(よろこ)ばず、入りて左右に謂いて曰く、君子固(もと)より人を讒するか、と。三日にして校(こう)來り謁して曰く、東野畢(とうやひつ)の馬失し、兩驂(りょうさん)は列(れつ)(注7)し、兩服は廄(うまや)に入る、と。定公席を越えて起ちて曰く、趨(すみやか)に駕して顏淵を召せ、と。顏淵至る。定公曰く、前日寡人(かじん)吾子に問う、吾子曰く、東野畢の駛、善は則ち善なり、然りと雖も、其の馬將に失せんとす、と。識らず、吾子何を以て之を知るや、と。顏淵對えて曰く、臣は政を以て之を知る。昔舜は民を使うに巧にして、造父(ぞうほ)は馬を使うに巧なり。舜は其の民を窮せしめずして、造父は其の馬を窮せしめず、是(ここ)を(孔子家語ほかに従って補う:)以て(注8)舜に失民(いつみん)(注9)無く、造父に失馬(いつば)(注9)無し。今東野畢の馭は、車に上り轡(たづな)を取りて、銜體(ぎょたい)正しく(注10)、步驟(ほしゅう)・馳騁(ちてい)して、朝禮(ちょうれい)(注11)畢(つく)せるも、險を歷(へ)、遠を致(きわ)むれば、馬力盡(つ)き、然も猶お馬を求めて已(や)まず。是を以て之を知るなり、と。定公曰く、善し。少しく進むを得可きか、と。顏淵對えて曰く、臣之を聞く、鳥は窮すれば則ち啄(たく)し、獸は窮すれば則ち攫(かく)し、人は窮すれば則ち詐る、と。古自(よ)り今に及ぶまで、未だ其の下を窮せしめて而(しこう)して能く危きこと無き者有らざるなり、と。


(注5)本章は、孔子家語顔回篇・新序雑事篇五・韓詩外伝二に大同小異の文が見える。
(注6)楊注は、「失」は読んで「逸」となす、と言う。家語・韓詩外伝は「佚」字に作る。
(注7)楊注は、「列」は「裂」と同じ、と言う。(馬が)綱を引きちぎってしまう様。
(注8)増注の久保愛、および集解の盧文弨・王念孫はここに注して、新序・家語・韓詩外伝・太平御覧に「以」字が置かれることを指摘する。いずれも、他書に従ってここに「以」字があるべきことを言う。
(注9)注6と同じ。家語・韓詩外伝は「佚」字に作る。
(注10)原文「取轡銜體正」。「轡」はたづなの意で、「銜」はくつわの意。漢文大系および金谷治氏は、新序に従い「銜」を「御」の誤りとみなす。新釈の藤井専英氏は、本説で「銜體(体)」を輿馬全体の状態の意、と注する。新釈は別に或説で梁啓雄『簡釈』が「取轡銜、體正」と区切って読んでいることを示す。簡釈に従うならば、「轡銜(ひかん)を取りて、体正しく」と読み下すであろう。「轡」字に引きずられて「御」字を「銜」字に誤った可能性は十分に考えられるので、漢文大系および金谷氏に従っておく。
(注11)集解の郝懿行は、「朝」は「調」と古字通ず、と言う。調禮(礼)は、馬の調練の意。

哀公篇の末尾には、魯の定公と孔子の高弟顔淵(顔回)との問答が置かれている。魯の定公は哀公の先代で、定公の在位中に孔子は昇進して大司寇の位に就き、同じく定公の時代のうちに失脚して魯を去り諸国流浪の旅に出た。魯国は、孔子とその門下にある顔淵のような人材を有効に活用することができなかった。