富国篇第十(4)

By | 2015年4月8日
小さな事業を施して人民をなつけてあやし、冬の日には温かい粥などを作ってやり、夏には暑気を払う瓜や麮(きょ)(注1)をふるまってやり、これでしばらくの間名声を偸(ぬす)み取る。これは偸道(とうどう)である。しばらくの間悪質な人民の名声を得ることができるが、しかし長久の道ではなく、事業は絶対に成らず功績は絶対に挙がらない。これは悪質な統治なのである。だが断固して行うといった様子で(注2)長期間人民を労役に動員し、事業をひたすら進めて功績にはやり、批判を軽視して人民の離反を軽んじ、結果事業は成ったが人民は憎悪する。これもまたいけない。一時的な人気取りとか無理のある強行策とかは、結局崩れ落ちてしまうものであり、絶対にかえって功績が挙がらないものなのだ。ゆえに、小さな事業で名声を得るのもよくなく、功績を挙げることにはやって人民の声を忘れてしまうのも、よくないのである。これらは全て悪質な道である。ゆえに、いにしえの統治者たちのやり方は違っていた。人民を働かせても夏にはへたらず冬には凍えず配慮し、たとえ急がせたとしても人民の力を傷つけることなく、たとえゆっくりさせたとしても人民の力をだらけさせることなく、ついに事業が成って功績が挙がれば上下ともに富裕となり、こうして人民はみな主君を愛し、まるで流れる水のごとくに人が服属し、主君に親しんで喜ぶことは父母のごとくで、主君のために身を投げ出して死に、決死の思いで力を尽くして助けることを喜んだ。こうなったのは他でもない、中信と調和と均等を徹底したからなのである。ゆえに、国君として人民に君臨する者が時に応じて功績を挙げようとするならば、まず第一に人民を協調させてよく調整すれば一気に急がせるよりも早く達成できるのであり、第二に忠信で均等があれば褒賞があるよりも喜ばれるのであり、第三に先に自らの至らない点を改めた上でしかる後に他人の過失を責めることを実施すれば、刑罰を与えるよりも畏怖されるのである。これら三つの徳があって上に誠実があれば、下はこの者に応じること明らかとなり、名声が広がるまいとしても広がらずにはいられないであろう。『書経』康詰に、この言葉がある。:

君徳が大いに明らかであれば、人民は服するであろう。人民は力いっぱい勤め、協調して事業が早く進むだろう。

いま、この言葉の説明をしたのである。ゆえに教化せずに誅罰すれば、刑罰の数も犯罪も増すばかりである。だが教化してしかも誅罰しなければ、それはそれで悪質な人民が懲りないことになる。また誅罰するのに褒賞がないならば、働く人民でもやる気が起きないだろう。だが誅罰・褒賞を行ってもそれを正しい基準(注3)によって行わないならば、下は疑心を抱き空気は険悪となって人民の心が一つにならないであろう。ゆえにわが国の文明の建設者である先王たちは、礼儀規則を明らかにして人民を一つになし、忠信を尽くして人民を愛し、賢人を尊んで能者を使って人民に序列を与え、爵位と服装と褒賞によって人民を厚遇し、事業は最適な時を選び、人民の負担を軽くして調整し、こうしてひろびろと人民の上に君臨して、人民を養うことがまるで赤子を育てるがごときであった。先王の統治はこのようであったから、邪悪は起こることなく、盗賊も現れることなく、善に化した者は励んで勤めたのであった。どうしてこれができたのであろうか。先王の道は行くに易く、先王の礼法は堅固であり、先王の政令は一つに定まり、先王の基準は明確だったからであった。「上が一なれば則ち下一なり、上が二なれば則ち下二なり。これをたとうるに、草木の枝葉は必ず草木の本体に似るがごとし」という言葉があるが、これは今述べた治乱の道理を言っているのである。(君主が正道に一つであれば、人民は一つにまとまる。君主の道が二つにぶれたならば、人民は割れて離反する。草木の枝葉が必ず本体と類似しているのと同じで、人民の姿は君主の姿の鑑なのである。)


(注1)麮について集解は郝懿行の説を引いて大麦の甘い粥という。渇きを止めるという。ビールの原液か、あるいはロシアのクヴァスのようなものだろうか。
(注2)原文「傮然(そうぜん)」。集解は「傮」は「嘈」に通じると言い、紛雑の意味と言う。猪飼補注は、進み趨く貌(かお)と言う。猪飼補注を取る。
(注3)原文「類」。やはりここも基準に則った法解釈があるかどうか、という意味である。
《原文・読み下し》
事を垂れて民を養い、是を拊循(ふじゅん)し、是を唲嘔(あいおう)し、冬日は則ち之が饘粥(せんじゅく)を爲(つく)り、夏日は則ち之に瓜麮(かきょ)を与え、以て少頃(しばらく)譽(ほまれ)偷取(とうしゅ)す、是れ偷道(とうどう)なり。以て少頃姦民の譽を得可し、然り而(しこう)して長久の道に非ざるなり。事必ず就らず、功必ず立たず、是れ姦治なる者なり。傮然(そうぜん)として時を要し民を務めしめ、事を進め功を長じ、非譽(ひよ)を輕んじて失民を恬(やす)んじ、事進んで而(しか)も百姓之を疾(にく)む、是れ又[不可](注4)偷偏(とうへん)なる者なり。徙(いたずら)に壞(かい)し墮落して、必ず反って功無し。故に事を垂れ譽を養うも不可なり。功を遂ぐるを以て民を忘るるも亦不可なり。皆姦道なり。故に古の人之を爲すは然らず。民をして夏には宛暍(うんあつ)せず、冬には凍寒(とうかん)せず、急なるも力を傷つけず、緩なるも時に後れざらしめ、事成り功立てば、上下俱(とも)に富みて、百姓皆其の上を愛し、人之に歸すること流水の如く、之を親しみて歡ぶこと父母の如く、之が爲めに出死・斷亡して愉(とう)せ不(ざ)る(注5)者は它の故無し、忠信・調和・均辨(きんべん)の至りなればなり。故に國に君とし民に長たる者は、時に趨き功を遂げんと欲すれば、則ち和調累解せば、急疾よりも速(すみや)かに、忠信均辨なれば、賞慶よりも說(よろこ)び、必ず先ず其の我に在る者を脩正して、然る後に徐(おもむろ)に其の人に在る者を責むれば、刑罰よりも威(おそ)る。三德なる者上に誠あれば、則ち下之に應ずること影響(えいきょう)の如く、明達すること無からんと欲すと雖も得んや。書に曰く、乃ち大明ならば服す、惟れ民其れ力懋(りきぼう)し、和して疾きこと有り、とは、此を之れ謂うなり。故に敎えずして誅すれば、則ち刑繁にして邪に勝(た)えず、敎えて誅せざれば、則ち姦民懲りず、誅して賞せざれば、則ち勤屬(きんれい)(注6)の民勸(すす)まず、誅賞して類ならざれば、則ち下疑い、俗險(けん)にして百姓一ならず。故に先王禮義を明かにして以て之を壹(いつ)にし、忠信を致して以て之を愛し、賢を尚(とうと)び能を使いて以て之を次(じ)し、爵服慶賞して以て之を申重(しんちょう)し、其の事を時にし、其の任を輕くして、以て之を調齊(ちょうせい)し、潢然(こうぜん)として之を兼覆(けんふ)し、之を養長すること、赤子を保するが如し。是(かく)の如くなるが故に姦邪作(おこ)らず、盜賊起らずして、善に化する者勸勉(きんべん)す。是れ何ぞや。則ち其の道易く、其の塞固く、其の政令一に、其の防表(ぼうひょう)明かなればなり。故に曰く、上一なれば則ち下一なり、上二なれば則ち下二なり、之を辟(たと)うるに屮木(そうもく)の枝葉は必ず本に類するが若し、とは、此を之れ謂うなり。


(注4)原文の「不可」を集解は後の「不可」字の誤重とみなし、増注もまた衍(よけい)とみなす。
(注5)富国篇(2)注6に同じ。
(注6)「屬」は「厲」の誤り。「勤厲」は、はげむの意。

ここは、(1)~(2)を再説したものである。

社会契約論から始った荀子の国家は、具体的な理想を説明すると「家父長的家産制」国家の運営の姿をはっきりと見せる。民の父母である、慈愛あふれる国家像である。これが荀子たち儒家の理想国家像であるから、やむをえない。荀子のこのあたりの叙述は、孟子のこのあたりの叙述とまるで同じである。人民のための国家、という儒家のメインテーマが共通しているから、目的に到達するための政策論は違っているが、結果としての理想国家のイメージはほとんど重なるのである。

だがそもそも荀子の社会契約説から類推するならば、人民は利益あるから善政の君主を支持する、ただそれだけの関係だったのではないのであろうか。荀子の社会契約説には、ホッブスがそうであったように、潜在的に国家権力に従わない契機が隠されているはずである。しかしながら、荀子はそれを明言しない。

同じ民本思想の孟子は、権力者と一個人は対等でありえる、という上下関係逆転の可能性を明言するのであるが。孟子は、大国の大王である斉王と自分が対等の関係でなければならない、と言う。

大きなことを成そうとする君主には、必ず呼びつけになどせずに丁重に扱う家臣があり、何か相談しようとするときには君主が臣の下に出向いていくものなのです。
公孫丑章句下、二

天下には、最も尊いものが三つあります。すなわち、爵位の身分、年齢の功、そして人徳の道です。朝廷においては、爵位が最も尊重されます。地域社会においては、年功が最も尊重されます。そして世を治め民を率いる事業においては、人徳の道が最も尊重されるのです。この三つのうち一つを持っているからといって、他の二つを軽んじることはできない。
(同)

孟子のこの思い切った態度は、君主はそれ自体で尊重されるのではなく、善政を行うことを条件として尊重されるのであり、ゆえに善政を行うために必要な力を貸す賢人には君主が頭を下げてでも智恵を授からなければならない、という考えから来ている。この孟子の態度には、まだ春秋時代の君主と家臣との関係の名残があると、私は考える。すなわち、春秋時代には君主は貴族集団の第一人者にすぎず、君主と貴族との間には同類意識のほうが強く、その格差はわずかなものでしかない。専制帝国での君主と家臣は支配―隷属の関係であるが、春秋時代の君臣関係はよりギブアンドテイクの互酬関係に近い。これが魯国で三桓氏(さんかんし)が魯公を上回る権勢を持ったり、斉で家臣の田常(でんじょう)が君主を乗っ取ったりする下克上が一般的であった主要な原因であった。

孟子はその春秋時代の名残で君主と賢人の関係をギブアンドテイクの関係と位置づけ、さらに進んで民と君主の関係も服従と恩恵のギブアンドテイクの関係になぞらえて、孟子の民本思想となったに違いない。孟子が孔子から継承した儒家思想は、かくして君主の民政への責務を問う主張となった。

柄谷行人氏は、古代国家の成立の過程を、共同体的=互酬的なあり方が消滅する過程として叙述する。

国家とともに、旧来の氏族・部族的共同体は変質する。それを支配共同体と被支配共同体のレベルで見てみよう。支配共同体のレベルでは、それまでの共同体的=互酬的なあり方―肯定的にいえば平等主義的な、否定的にいえば血讐的であるような―が消滅し、ハイアラーキカルな秩序が形成された。もちろん、それは一気に起こったのではない。集権化は、支配階層のなかで、さまざまな首長(貴族)や祭司といった「中間勢力」(モンテスキュー)を徐々に制圧することによってのみ成し遂げられる。つまり、古代専制国家の出現において、近世ヨーロッパにおいて絶対主義的王権が出現したときと構造論的に類似したことが生じたのである。貴族(豪族)を抑えた専制君主の下に、すべての人民が服属するというかたちになる。
(『世界史の構造』岩波書店、109ページ)


中国では、おおよそ春秋時代までは氏族社会が人間のまとまりの中心にあった。その氏族社会とは、支配―隷属の関係を拒む。同族内部であれば仲間同士であり、異族間であるならば原則は対等である。それが春秋時代の下克上の蔓延となって現れたはずなのだ。そこに現れた孔子は、平和の法として礼の秩序を提唱したのであった。注目すべきは孔子の同時代の鄭国に、法治主義者の子産(しさん)が現れたことである。子産は、中国史上はじめて成文法を制定したと記録されている。孔子も子産も、直面していた課題は同じであり、氏族社会がその原理をあらわにしてむき出しの混沌を招いている時代において、氏族社会の原理を越えた新たな秩序を提唱したのであった。なぜ氏族社会がむき出しの混沌となって現れたのかといえば、この時代人間の内面を拘束する慣習や宗教の力が大幅に弱体化したからであった。『論語』には、魯の貴族たちが周時代の慣習や宗教を次々にないがしろにしている姿が描かれている。

都市国家が争った戦国時代に、孔子、老子、韓非子など、諸子百家と呼ばれるさまざまな思想家が輩出した。彼らはギリシャのソフィストのように、諸国家をまわって、彼らの思想を説いてまわった。氏族社会の慣習や宗教による統治が不可能になったため、諸国家は新たな理論を必要としたのである。

秦は短期間に崩壊したが、その後にできた漢帝国は、儒教を統治原理とすることで、その後の帝国のプロトタイプとなった。、、、中国ではこのような帝国の形成とともに、戦国時代において開かれた可能性は閉じられた。つまり、アジア的専制国家がそれ以降、存続したのである。
(『世界史の構造』111-112ページ。文中の年代は省略した)


荀子は、戦国時代末期の思想家であった。戦国時代中期の孟子は、いまだ思想の中に春秋時代の常識を保っていて、専制君主に対して対等の関係を要求した。だが荀子の時代には専制帝国の出現がもう間近に迫っていて、孟子のような思想はもはや想定できなくなった。この富国篇の冒頭において荀子は、国家の起源論として孟子の民本思想を先鋭化して社会契約論に至った。荀子は、そこまでは儒家のプログラムを徹底する作業を行ったのであった。しかしその後で叙述する現実の国家像としては、人民の民生を最も気遣う(つまり荀子の理論のとおりに従うならば、人民の利得にとって最も無害な)専制君主のシステムを叙述することになったのである。

荀子の弟子の李斯は統一秦帝国を実際に運営し、彼のもう一人の弟子韓非子は統一秦帝国のイデオロギーを用意した。時代の人間たちにとって、統一秦帝国そのものが忌避すべき制度ではなかった。それは、次の時代の漢帝国の知識人たちの意見を見れば分かる。司馬遷は前漢代の官僚である賈誼(かぎ)の始皇帝論を『史記秦始皇本紀』の末尾で引用する。賈誼は、秦の統一は本来民にとって歓迎するべきものであり、民は統一君主の下仁義の政治を期待していたにも関わらず、始皇帝と後の二世皇帝はそれを裏切り仁義の政策を取らず、法を過酷にして労役を課したので滅亡を早めた、と言うのである。賈誼やそれを引用する司馬遷の描く理想の国家像は、荀子がここで描く理想の国家像と結果的に一致せざるをえない。いくら社会契約説から始めても、現実に建設されるべき国家としては、専制国家以外の結論はもはやありえなかったからである。

では、荀子の議論には現代的可能性がないのか、といえば、私はそうではない、と考える。はからずも荀子は戦国時代の諸国分裂状況から、天下を統一すべき力はどこに見出されるべきか、という考察を行っている。その考察は、すでに統一が前提とされた漢代以降の論者からは出てこない現代的価値を持っていると私は考える。富国篇のここから後を読んで、そこから一篇さかのぼって王制篇を読んで、『荀子』をより可能性ある読み方をしていきたい。

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