Author Archives: 河南殷人

正論篇第十八(6)

世俗の説をなす者は、「堯と舜は教化する能がなかった」と言う。どういう意味かと言えば、「丹朱(たんしゅ)と象(しょう)(注1)を教化できなかったからだ」というのである。だがこれは、まちがっている。堯・舜は天下の者をよく教化する最上の人間であった。南面して天下の訴えを聞き、人民のたぐいは震え畏れて服従し、教化され従順とならない者とていなかった。それなのに、ただ丹朱と象だけが教化されなかった。これは堯・舜のあやまちではなく、丹朱・象の罪である。堯・舜は天下の英傑であった。丹朱・象は天下の狂人であり、天下の屑であった。いま、世俗の説をなす者は、丹朱・象を怪しまずに堯・舜を批判する。それは、なんというはなはだしい過ちであろうか。これこそが、妄説というものである。羿(げい)と蠭門(ほうもん)(注2)は、天下の弓手で最上の人間であった。しかしながら、彼らとて歪んだ弓と曲がった矢を与えられたならば、的に当てることはできないであろう。また王梁(おうりょう)・造父(ぞうほ)(注3)は、天下の御者で最上の人間であった。しかしながら、彼らとてもまともに走らない駄馬と壊れた車を与えられたならば、遠くに駆けさせることはできないであろう。堯・舜は、天下の者をよく教化する最上の人間であった。それでも、狂人や人間の屑を教化することはできはしない。いつの時代でも狂人はいるし、いつの時代でも人間の屑はいる。はるか原始の太皞(たいこう)・燧人(すいじん)(注4)の時代から、こういう輩は尽きなかったのである。(ここ以下のくだりは、正論篇末尾に移す。下の注8参照。)

世俗の説をなす者は、「太古の時代は薄葬であった。棺(ひつぎ)の板の厚さは三寸(6.75cm)しかなく、死者に着せる支装束は三揃いにとどめ、墳墓は農耕の妨げになる土地を避けた。今の乱世はそうでなく、厚葬して棺を副葬品で飾る。ゆえに盗掘が起こるのである」と言う。だがこれは、統治の正道を知るに及ばず、盗掘される理由を洞察できない者の言い分である。およそ人が盗むのは、必ず何らかの目的のために行うものである。欠乏のためやむなく掘り返すのでなければ、富を重ねることが目的であろう。だが聖王が人民を養う道は、すべての人が財貨は十分に豊かであり心は余裕に満ちていることを知らせ、かつ富の蓄積が節度を越えなくさせないところにある。ゆえに、盗賊ですら盗んだりはしなくなるのであり、犬や豚ですら餌に足りて豆や穀物を与えても取ろうとはしなくなるのであり、農民や商人ですら皆貨財を譲り合って利を求めなくなるのである。風俗の美は、男女は正式の婚姻を得ない淫乱を行うことはなく、人民は落し物を拾うことを恥じるのである。故に、孔子はこう言われた、「天下に道有れば、盗賊からまず変わるだろう」と。珠玉を遺体に満載させ、華麗な刺繍を付けた装束を棺の中にあふれさせ、黄金をもって椁(かく。棺を囲う外枠)を豪華に飾り、丹砂の朱色と青銅の青色をもって塗り立て、犀(さい)の角・象の牙で副葬品の宝樹をこしらえ、そこに琅玕(ろうかん)・龍茲(りょうじ)・華覲(かきん)(注5)の宝玉を埋め込む。ここまで豪華であっても、なおかつ人は盗掘したりはしない。その理由はといえば、聖代においては利を求める邪心が少なくなり、分際を犯す恥辱が大きくなるからである。そもそも乱れた今の時代になってから、このような美しい時代に反することが始った。すなわち上は無法をもって下を使い、下は下で無軌道をもって行動し、知者ですら国家に熟慮を行うことができず、能ある者ですら国家を統治ができなくなり、賢者ですら下の者を使うことができなくなったのである。このようになれば、上は天から与えられた自然の本性を利用する機会を逸することになり、下は土地の生ずる利便を利用する機会を逸することになり、その間の人間の世界においては調和が失われて人の力を活用する機会を逸することになる。ゆえに全ての事業は行われなくなり、財貨は尽きて、争乱が起こることになる。王公は国家の財貨が不足して苦しみ、庶民は己の体が凍えて飢えて疲れて痩せて、やはり苦しむことになる。この末世に至って桀(けつ)・紂(ちゅう)の眷属どもが群居して現れ、盗賊を行い、襲撃略奪をほしいままにして上を危機に陥れるのである。連中は禽獣(けだもの)の行いをなし、虎狼の貪りをなし、大人を干し肉にして食らい、子供を火あぶりにして食らうのである。こんな状況であれば、他人の墓を盗掘して、死者の口から含玉(がんぎょく)を抉り出して一儲けを企んだとしても(注6)、誰も咎める者とていなくなるのである。こうなれば、たとえ死者を丸裸にして埋葬したとしても、必ず掘り返すであろう。こんなことでは、埋葬などできない。盗掘人どもは、死体の肉を食らって骨までかじろうとするからである。かの「いにしえの時代は薄葬であったので、誰も盗掘しなかった。今の乱世は厚葬であるので、盗掘するのである」という説は、姦悪の者が乱説に惑わされて、これによって愚者を欺き、これを泥の中に叩き込んで、愚者から利を詐取しようとしているのである。こういう輩こそ、大姦というべきである。言い伝えに、「人を危うくして自らを安んじ、人を害して自らを利す」とあるが、このような説を立てる者こそがこれに当たる。


(注1)丹朱は堯の皇太子、象は舜の異母弟。下のコメント参照。
(注2)羿(げい)も蠭門(ほうもん)も、伝説の弓の名手。
(注3)王梁(おうりょう)も造父(ぞうほ)も、御者の名手。
(注4)太皞(たいこう)は伏羲(ふくぎ)のこと。三皇の最初の者で、八卦を作ったという。燧人(すいじん)は伏羲の前の君主で、人間に火を教えたという。いずれも、堯・舜ら五帝よりもさらに前の時代の伝説上の存在である。
(注5)いずれも宝玉の名。
(注6)原文読み下し「人の口を抉(えぐ)りて利を求むる」。古代の葬礼では、死者の口に玉(ぎょく)を含ませた。玉には霊力があって死体を腐らせないという信仰があったからである。殷周代の陵墓からは、よく玉で蝉の形をかたどった含蝉(がんせん)が出土する。古代では蝉もまた、不老不死の象徴であった。
《原文・読み下し》
世俗の說を爲す者曰く、堯・舜は敎化すること能わずと、是れ何ぞや。曰く、朱(しゅ)・象(しょう)化せず、と。是れ然らざるなり。堯・舜は、至って天下の善く敎化する者なり。南面して天下を聽き、生民の屬、振動・從服して、以て之に化順ざること莫し。然り而(しこう)して朱・象獨り化せず。是れ堯・舜の過に非ず、朱・象の罪なり。堯・舜なる者は天下の英なり、朱・象なる者は、天下の嵬(かい)、一時の瑣(さ)なり。今世俗の說を爲す者、朱・象を怪しまずして、堯・舜を非とするは、豈に過つこと甚しからずや。夫れ是を之れ嵬說(かいせつ)と謂う。羿(げい)・蠭門(ほうもん)なる者は、天下の善く射る者なるも、撥弓(はつきゅう)・曲矢(きょくし)を以て中(あ)つること能わず。王梁(おうりょう)・造父(ぞうほ)なる者は、天下の善く馭(ぎょ)する者なるも、辟馬(へきば)(注7)・毀輿(きよ)を以て遠きを致すこと能わず。堯・舜なる者は、天下の善く敎化する者なるも、嵬瑣(かいさ)をして化せしむること能わず。何(いず)れの時にして嵬無からん、何れの時にして瑣無からん。太皞(たいこう)・燧人(すいじん)より有らざること莫きなり。[(猪飼補注が錯簡とみなす箇所:)故に作(な)す者は不祥にして、學ぶ者は其の殃(おう)を受け、非とする者は慶有り。詩に曰く、下民の孽(げつ)は、天より降るに匪(あら)ず、噂沓(そんとう)して背けば憎む、職として競うは人に由る、とは、此を之れ謂うなり。](注8)
世俗の說を爲す者曰く、太古は薄葬す、棺の厚さ三寸、衣衾(いきん)三領(さんれい)、葬[田](注9)は田を妨げず、故に掘らざるなり。亂今は厚葬して棺を飾る、故に掘るなりと。是れ治道を知るに及ばずして、抇(こつ)・不抇(ふこつ)を察せざる者の言う所なり。凡そ人の盜むや、必ず以て爲(ため)にすること有り、以て不足に備うるならざれば、[足](注10)則ち以て有餘を重ねんとするなり。而(しか)るに聖王の民を生ずるや、皆當厚(ふこう)(注11)・優猶(ゆうゆう)(注12)にして足ることを知りて、有餘を以て度に過ぐること得ざらしむ。故に盜は竊(せつ)せず、賊は刺(し)せず(注13)、狗豕(こうし)は菽粟(しゅくぞく)を吐きて、農賈(のうこ)は皆能く貨財を以て讓り、風俗の美、男女自から涂(みち)に取(めと)らず(注14)、百姓遺(お)ちたるを拾うを羞ず。故に孔子の曰わく、天下道有れば、盜其れ先ず變ぜんか、と。珠玉體に滿ち、文繡棺に充ち、黃金椁(かく)に充ち、之に加うるに丹矸(たんかん)を以てし、之に重ぬるに曾靑(そうせい)を以てし、犀象(さいぞう)以て樹(じゅ)と爲し、琅玕(ろうかん)・龍茲(りょうじ)・華覲(かきん)以て實(じつ)と爲すと雖も、人猶お且つ之を抇(ほ)ること莫きなり。是れ何ぞや。則ち利を求むるの詭(き)(注15)緩にして、分を犯すの羞(しゅう)大なればなり。夫れ亂今にして而(しか)る後是に反す。上は無法を以て使い、下は無度を以て行い、知者も慮(おもんぱか)ることを得ず、能者も治むることを得ず、賢者も使うことを得ず。是(かく)の若くなれば、則ち上は天性を失し、下は地利を失し、中は人和を失す。故に百事廢し、財物屈して、禍亂起る。王公は則ち不足を上に病(うれ)い、庶人は則ち下に凍餧(とうだい)・羸瘠(るいせき)す。是に於て桀・紂羣居(ぐんきょ)して、盜賊擊奪(げきだつ)し、以て上を危うくす。安(すな)わち(注16)禽獸の行、虎狼の貪、故(ことさら)に(注16)巨人を脯(ほ)して嬰兒を炙(しゃ)にす。是の若くなれば則ち有(また)何ぞ人の墓を抇(ほ)り、人の口を抉(えぐ)りて利を求むることを尤(とが)めんや。此れ倮(ら)にして之を薶(うず)むと雖も、猶お且つ必ず抇(こつ)せん、安(いずく)んぞ葬薶(そうばい)するを得んや。彼れ乃ち將に其の肉を食(くら)いて其の骨を齕(か)まんとするなり。夫(か)の太古は薄葬す、故に抇せざるなり、亂今は厚葬す、故に抇するなりと曰うは、是れ特(ただ)に姦人の亂說に誤られて、以て愚者を欺き之を潮陷(どうかん)(注17)して、以て利を偷取(とうしゅ)するなり。夫れ是を之れ大姦と謂う。傳に曰く、人を危くして自ら安んじ、人を害して自ら利す、とは、此を之れ謂うなり。


(注7)楊注は、「辟」は「躄」と同じという。「躄馬」で、いざり馬、まともに走らない駄馬。
(注8)猪飼補注は、「此れ邪説の害を言う。上文と相接せず。蓋(けだ)し錯簡なり。故に『作者』以下『此之謂也』に至る三十六字は、当(まさ)に篇末『見侮不辱』に応ずる章の下に移すべし」と言う。確かにこの文は、上の文と文意がつながらない。正論篇ではこの後に下で訳した墨家への批判、それから子宋子への批判が続く。たとえば富国篇(3)での墨家批判のように、最後に邪説の害を述べて『詩経』などの他書からの引用で締める、という書き方は、荀子の通常のスタイルである。子宋子への批判の末尾には他書からの引用がないので、猪飼補注の主張には説得力があると私は考える。よって、これを錯簡とみなして正論篇末尾に移したい。
(注9)増注は、「田」字は衍字と言う。
(注10)増注・集解の盧文弨は、「足」字は衍字と言う。
(注11)増注・集解の王念孫は、「當」字は「富」字となすべし、と言う。
(注12)増注は、疑うは「猶」字は「裕」の誤りであるかと言う。
(注13)「刺」を楊注は殺すことと取るが、集解の兪樾は采取の意と取る。「さがしとる。」兪樾の説を取る。
(注14)新釈の藤井専英氏は、「取」は「娶」であり、「涂に娶らず」とは正式の婚姻でないことはしない、と言う。これに従う。
(注15)「詭」を楊注は詭詐と言い、集解の郝懿行・王先謙は「責」となす、と言う。金谷治氏および新釈の藤井専英氏は楊注を取り、漢文大系は郝・王の説を取る。郝・王の説を取れば「盗掘の利に伴う刑罰を恐れる心が少なくなり、分際を犯す恥の心が大きくなる」となるだろう。しかしこれでは聖王の下では刑罰は厳格である、という正論篇(3)あたりの叙述と矛盾することになる。やはり楊注説を取ったほうがよいと考える。
(注16)集解本・増注本に拠る漢文大系の原文は「安禽獸行、虎狼貪、故脯巨人、、」であり、増注は「安」は語助、と言う。影宋台州本に拠る新釈は「安」字を「必」字に作る。すなわち読み下しは「禽獸の行、虎狼の貪を必(ひつ)するなり、故に巨人を脯して、、」となる。とりあえず漢文大系に従っておく。
(注17)増注および集解の盧文弨は、「潮」は「淖」たるべしと言う。

これまで「世俗の説」を一つづつ読んできたが、今回は二つまとめて読むことにしたい。

一つ目の「世俗の説」は、堯帝・舜帝の一族である丹朱と象が愚者であったという言い伝えを挙げて、堯・舜の教化能力は大したことはない、という主張である。これを誰が言ったのか、は明言されていない。おそらく道家、とりわけ慎到(しんとう)あたりの「勢」を重んじる論者であろうか。慎到は「堯も匹夫となれば三人を治むること能わず」(『韓非子』難勢篇)と言って、君主の教化力などは国家にとって何ほどの意味もなさない、国家を統合する力は君主の地位そのものがもっている「勢」すなわち家臣への強制力である、と言った。「勢」は君主の能力とはいささかの関係もなく、国家というシステムそのものが持っている。そんな論者にとって、堯が皇太子の丹朱すら教化できず、舜が弟の象ですら教化できなかった、というエピソードは、聖王の能力が身の回りにすら及ばなかった好例として儒家批判にとって格好の題材となったことであろう。

丹朱については、『書経』や『史記』において堯帝の後を継ぐにふさわしくない不肖者であった、ということが書かれている。よって堯帝の死後に人民は丹朱を慕わず、舜を次代の帝として推戴した。そのいきさつと儒家思想における意義は、さきの正論篇(5)で検討したところである。

象については、『孟子』萬章章句で詳しく検討されている。舜の父である瞽瞍(こそう)は、後妻との子であった象を愛して舜を憎み、父と弟といっしょになって舜を殺すことを望んだ。しかしながら舜は無体な父のことを怨むことはなかった(萬章章句上、一)。やがて舜は堯帝にその能力を見出されて、帝の娘を妻として与えられて将来の後継者として財産を与えられる幸福を得た。だがそれを見た瞽瞍と象は、舜を殺して財産を奪い取るあさはかな計画を立てた。瞽瞍は舜に屋根の修繕を命じて、下から火をつけた。舜はうまく飛び降りて、命を永らえた。父は殺すことに失敗したら今度は井戸の掃除を命じて、舜が中に入ったときに父と弟で上から土を投げ込んで生き埋めにした。しかし舜は井戸の横にあらかじめ穴を掘っておいて、逃げおおせた。弟の象が舜の妻を奪おうと小躍りして兄の宮殿に乗り込んだら、兄はなにごともなかったかのように宮殿に戻っていた。「あなたが生きていてよかった!」などと醜い言い訳をする弟に対して、舜はいつもと変わらず接したのであった(同、二)。舜は帝位につくと、父の瞽瞍を決して臣下にせず生涯これに仕え(同、四)、自分を殺そうとした象を処罰するどころか有庳(ゆうひ)の地に国を与えたのであった(同、三)。このように、舜は不肖者の家族に囲まれながらこれを怨まず、むしろ愛して優遇したという。

このように、孟子は舜が瞽瞍や象を教化したかどうか、はあまり問題とせず、むしろ不肖の家族でも怨まず愛し続けたことに評価の重点を置いた。それは、孟子の統治原理の根幹が舜の伝説を評価することに現れているからであった。孟子は、君主の最大の事業は仁義の徳を養い、それを周囲に及ぼすことであると考えた。その仁義の徳は、まず最初に親に仕えて家族を愛するところからはじまり、その愛を一般人民に広く及ぼしていく(たとえば離婁章句上、十一)。いわゆる「差別愛」の原理である。舜は、不肖の家族に囲まれながらも親によく仕えて、家族を愛する義務を最もよく果たした。よって、孟子はこれを自らの統治原理のモデルケースとして詳しく検討し、これに最大の評価を与えたのであった。孟子にとって、舜は親と家族を最も愛する者であったゆえに、仁義の君主となることができた聖王であった。

いっぽう荀子は、孟子のような家族への愛の延長線上に国家の統治がある、といった主張を取ることがない。荀子にとって堯・舜が聖王であったのは、ただ人に優れた知力と仁義があり、国家の礼法をよく制定してこれに従う統治能力があったからであった。荀子にとっては、家族だからといって優先的に教化しなければならない、という考えはない。単に丹朱や象は人間の屑の範疇に入る者であるから、これらまでを教化することは不可能であり、なおかつ教化せずとも国家の運営に支障はない、とさらりと言うだけである。孟子が君主の仁義の徳を重視する統治思想を展開するのに対して、荀子は君主の統治能力を重視する統治思想を展開する。その違いが、ここでの両者の議論の違いに現れている。もし孟子であれば、ここでの「世俗の説」の批判は孟子の主張にとって痛烈な打撃となりえるものであり、孟子はこれを無視するかあるいは何らかのエクスキューズを立てるか選択しなければならなかったであろう。しかし荀子にとっては、「世俗の説」の批判は反論可能なものであった。

二つ目の「世俗の説」は、明らかに墨家の節葬主義への批判である。富国篇(3)でもあったように、荀子は墨家の非楽・節葬・節用を批判し、身分高い者の豪奢は礼の制度として必要不可欠なのである、と主張した。ここでの荀子の墨家への批判は、葬礼が豪華であっても統治がよく行われている社会であれば盗掘などは滅多に起こらなくなるのだ、今の時代に盗掘が頻発しているのは礼法が社会を統制することなく、法の抑止力が働かず、社会に十分な財貨が行き渡らないからである、というものである。荀子は儒家として手厚い葬儀に文化的価値を見出しているから、これを擁護しなければいけなかったのである。

正論篇第十八(7)

子宋子(しそうし)(注1)は、「侮られることは、恥辱でない。このことが明らかになれば、人は争わなくなるであろう。人というものは、侮られることを恥辱とみなすから争うのである。だから世の人が侮られることが恥辱でないことを知ったならば、この世から争いはなくなるであろう」と言う。これに対して、「いったいあなたは人が情として侮りを憎まない、と言うのですか?」と問えば、子宋子は、「いや、人は情として侮りを憎む。しかしなおかつそれでも恥辱とはしないのだ」と答えるのだ。

子宋子のこのような説では、世の中から決して争いはなくならないであろう。そもそも人が争うのは、必ず憎しみが原因となっているのであって、恥辱が原因となっているのではない。俳優とか侏儒(しゅじゅ。小人の道化師)とか狎徒(こうと。たいこもち)とかは客に馬鹿にされても争ったりしないが、彼らが子宋子の言うところの「侮られることは、恥辱でない」という原理を知っているのであろうか?そうではないだろう。彼らが争わないのは、馬鹿にされるのが商売なのであるから客に憎しみを抱かないからにすぎない。いま、人が他人の家にくぐり穴から侵入してその家から豚を盗んだならば、家の者は得物を持って盗人を追っかけて、盗人に返り討ちに合って死傷することも厭わないであろう。これは、豚を取られたことが恥辱なのであろうか?そうではないだろう。それでも闘おうとするのは、盗人を憎んだからである。だから、俳優のように侮られるのが恥辱であることを知っていても、憎まなければ争うことはしない。逆に、たとえ侮られることが恥辱でないと知っていたとしても、憎しみがあれば必ず争うのである。つまり、争うか争わないかの分かれ目は、恥辱であるか否かではなくて、相手を憎むか否かにあるのである。子宋子は、侮られることを憎むという人の情を、解消するわけではない。それなのに、人に対して「恥辱だと思うな」と熱心に説いて回るのだ。なんというひどい誤りであろうか。その立派な舌で口が裂けるまでしゃべったとしても、何の益も得られないことであろう。無益であることに気づかないならば、すなわち不知である。無益であることを知っていながら人を欺く弁舌を行うならば、すなわち不仁である。不仁・不知であることは、恥辱の最たるものではないか。子宋子は人に益あることだと思って弁舌しているのであろうが、実際は誰の益にもならず、大恥を得て引っ込むしかないのだ。世の中にはいろいろな説があるが、子宋子の説ほどに悪い説はない。

子宋子は、「侮られても、恥辱としない」と言う。これに答えて言おう。およそ議論というものは、何が正義であるかを厳しく定義して、その後で可能となるのである。正義が定義されていないと、是非の境界が分かれず、弁論も訴訟も裁決することができない。ゆえに私はこう聞いている、「天下最大の正義とは、是非の境界が起こるところであり、身分・職掌・名義・法が起こるところであり、それは王者のなす制度である」と。ゆえに、あらゆる言論・議論・約定・法令は、ことごとく聖王をもって師となすのであり、そして聖王のなす根本区分は、何が栄光であり何が恥辱であるかを区分してこれを国制となすところにある。この栄光と恥辱には、二通りがある。「正義が与える栄光」があり、「勢威が与える栄光」があり。反対に「正義が与える恥辱」があり、「勢威が与える恥辱」がある。意志がよく修まり、徳行が厚く行われ、知慮が明らかであることは、人の内部から出る栄光である。よって、これを「正義が与える栄光」と呼ぶ。爵位の序列が高位であり、禄高が大きく、権勢が高く、高くは天子・諸侯に上り、低くは卿・士大夫に上ること、これらは人が外部から得る栄光である。よって、これを「勢威が与える栄光」と呼ぶ。行いは放埓で心は穢れ、分際を犯して道理を乱し、傲慢で暴力的で利を貪ること、これらは人の内部から出る恥辱である。よって、これを「正義が与える恥辱」と呼ぶ。罵られ侮られること、髪を掴まれてねじ伏せられること、笞(むち)(注2)で打たれること、足切りの刑を食らうこと、斬首・手足切断の刑を食らうこと、はりつけの刑を食らうこと、罪人として鉄鎖でつながれること、猿轡(さるぐつわ)を付けられて拘束されること、これらは人が外部から得る恥辱である。よって、これを「勢威が与える恥辱」と呼ぶ。これが、栄光と恥辱の両端である。ゆえに君子は「勢威が与える恥辱」を受けることはあるが、「正義が与える恥辱」を受けることはありえない。いっぽう小人は「勢威が与える栄光」を受けることはあるが、「正義が与える栄光」を受けることはありえない。この「勢威が与える恥辱」をたとえ受けたとしても、聖王の堯となることに差し障りがあろうはずがない。またこの「勢威が与える栄光」をたとえ受けたとしても、悪王の桀となることを押しとどめるべくもない。「正義が与える栄光」と「勢威が与える栄光」は、君子であってしかる後にこの両者を併せ持つことができる。「正義が与える恥辱」と「勢威が与える恥辱」は、小人であってしかる後にこの両者を併せ食らうのである。これが、栄光と恥辱の区分なのである。聖王はこの区分を法として天下に発布し、士大夫はこの区分を正道として政治を行い、官人はこの区分を守って己を律し、庶民はこの区分を習俗として自然に身に付け、この区分は万世において変えることができない不磨の法なのである。それなのに、子宋子はこの区分に逆らい、ただ一人だけ身を屈して侮りを受けながらも恥辱がないなどとうそぶき、我流の主張を説いて回るのである。そうして、一朝一夕で世の中を一変させようと夢想する。そんな主張は、絶対に行われない。これをたとえるならば、手で丸めた泥で長江と大海を塞き止めようとするようなものであり、焦僥(しょうぎょう)(注3)の頭に泰山を載せようとするようなものである。あっという間にひっくり返って、体が砕け散ることは必定である。弟子諸君(注4)の中には、子宋子の主張を善とする者がいるようだが、早急にこれから離れたほうがよい。あのような説を信じていたら、恐らく世間からひどい目にあって、自分の体を損なう結末となるであろうよ。


(注1)宋鈃(そうけい)のこと。『孟子』では宋牼、『韓非子』では宋栄子(そうえいし)と記録される。
(注2)「笞」は「むち」と訓じられるが、古代の刑罰で用いられる笞(むち)は現代にイメージされる鞭(むち)とは違って、竹の棒で殴りつけることである。竹刀で体を殴るようなもので恐ろしく痛いが、それでも笞刑(ちけい)は五刑のように体の一部を欠損させる刑よりは軽い刑罰であった。
(注3)楊注によると、焦僥は小人(こびと)。富国篇(6)注5参照。
(注4)原文「二三子」。弟子たちへの呼びかけの語として、『論語』にも見える。このテキストは、荀子の弟子たちへの講義の記録であると思われる。
《原文・読み下し》
子宋子曰く、侮ら見(る)るの辱たらざるを明らかにすれば、人をして鬭(たたか)わざらしむと。人皆侮ら見るを以て辱と爲す、故に鬭うなり。侮ら見るの不辱たるを知れば、則ち鬭わずと。之に應じて曰く、然れば則ち亦人の情を以て侮(あなどり)を惡(にく)まずと爲すかと。曰く、惡んで辱とせざるなり。曰く、是(かく)の若くならば、則ち必ず求むる所を得ず。凡そ人の鬭うや、必ず其の之を惡むを以て說と爲す、其の之を辱とするを以て故(こ)と爲すに非ざるなり。今俳優・侏儒(しゅじゅ)・狎徒(こうと)、詈侮(りぶ)せられて鬭わざる者は、是れ豈鉅(あに)侮ら見るの不辱爲(た)るを知らんや。然り而(しこう)して鬭わざる者は、惡まざるが故なり。今人或は其の央瀆(けつとう)(注5)に入りて、其の豬彘(ちょてい)を竊(ぬす)めば、則ち劍戟(けんげき)を援(と)って之を逐い、死傷を避けず。是れ豈に豬を喪(うしな)うを以て辱と爲さんや。然り而して鬭うことを憚らざる者は、之を惡むが故なり。侮ら見るを以て辱と爲すと雖も、惡まざれば則ち鬭わず。侮ら見るの不辱爲るを知ると雖も、之を惡めば則ち必ず鬭う。然れば則ち鬭と不鬭とは、辱と不辱とに亡きなり、乃ち惡(お)と不惡とに在るなり。夫れ今子宋子は人の侮を惡むを解くこと能わず、務めて人に說くに辱とすること勿からんを以てす。豈に過つこと甚しからずや。金舌にして弊口(へいこう)(注6)するも、猶お將(は)た益無きなり。其の益無きを知らざるは、則ち不知なり。其の益無きを知って直(ただ)に以て人を欺くは、則ち不仁なり。不仁・不知は、辱焉(これ)より大なるは莫し。將た以て人に益有りと爲すか、則ち與(みな)人に益無きなり。則ち大辱を得て退かんのみ、說是より病(へい)なるは莫し。子宋子曰く、侮ら見(れ)て辱とせずと。之に應じて曰く、凡そ議は必ず將た隆正を立てて、然る後可なり。隆正無ければ則ち是非分たず、辨訟(べんしょう)決せず。故に聞く所に曰く、天下の大隆、是非の封界、分職・名象の起る所は、王制是なり。故に凡そ言議・期命は、聖王を以て師と爲すに非ざるは是(な)く(注7)、聖王の分は、榮辱是なり。是れ兩端有り、義榮なる者有り、埶榮(せいえい)なる者有り、義辱なる者有り、埶辱(せいじょく)なる者有り。志意脩まり、德行厚く、知慮明(あきら)かなるは、是れ榮の中由(よ)り出ずる者なり、夫れ是を之れ義榮と謂う。爵列尊く、貢祿厚く、形埶勝り、上は天子・諸侯と爲り、下は卿・相・士大夫と爲る、是れ榮の外從(よ)り至る者なり、夫れ是を之れ埶榮と謂う。流淫・汙僈(おまん)にして、分を犯し理を亂り、驕暴(きょうぼう)・貪利(たんり)なるは、是れ辱の中由り出ずる者なり、夫れ是を之れ義辱と謂う。詈侮・捽搏(そつはく)、捶笞(すいち)・臏腳(ひんきゃく)、斬斷(ざんだん)・枯磔(こたく)(注8)、藉靡(しゃび)(注9)・舌擧(*)(ぜっきょ)(注9)なるは、是れ辱の外由り至る者なり、夫れ是を之れ埶辱と謂う。是れ榮辱の兩端なり。故に君子は以て埶辱有る可くして、以て義辱有る可からず。小人は以て埶榮有る可くして、以て義榮有る可からず。埶辱有るも堯爲(た)るに害無く、埶榮有るも桀(けつ)爲るに害無し。義榮・埶榮は、唯(ただ)君子にして而(しこう)して後に之を兼有し、義辱・埶辱は、唯小人にして然る後に之を兼有す。是れ榮辱の分なり。聖王は以て法と爲し、士大夫は以て道と爲し、官人は以て守と爲し、百姓は以て俗と成し、萬世易(か)うること能わざるなり。今子宋子は案(すなわ)ち然らず、獨り容を詘(くつ)して己が為にし(注10)、一朝にして之を改めんことを慮(おもんぱか)る。說必ず行われず。之を譬うるに、是れ猶お塼塗(たんと)を以て江海を塞(ふさ)ぎ、焦僥(しょうぎょう)を以て太山を戴(いだ)くがごときなり。蹎跌(てんてつ)碎折(さいせつ)せんこと、頃(しばらく)を待たず。二三子の子宋子を善とする者は、殆(ほと)んど之を止むるに若(し)かず、將た恐らくは得(また)其の體を傷つけんなり。(注11)

(*)原文は「糸へん+擧」。CJK統合漢字および同拡張Aにないので、やむなく代用する。

(注5)楊注は「央瀆」を中瀆のことで、人家の水を出す溝、と言う。増注は「央」は「缺」たるべく、「瀆」は「竇」と古字通じ、「缺竇」で潜踰するべきの穴、つまり人が侵入できる小さな穴のこと、と言う。増注に従う。
(注6)猪飼補注は「弊」は「敞」に作るべし、と言う。「金舌敞口」は、黄金の舌で口が裂けるまでしゃべるということ。
(注7)原文「言議期命是非以聖王爲師」。集解の王引之は、「是非」は「莫非」たるべし、と言う。これに従う。
(注8)増注は、「枯」は読んで「辜」となす、と言う。「辜磔」は、はりつけの刑。
(注9)「藉靡舌擧」を増注は未詳にして強いて説くべからず、と言う。楊注は「藉靡」を刑徒の人が鉄鎖(てっさ)以て相連繋するを謂う、と言い、「舌擧」はやはり未詳と言う。「藉靡」は楊注に従って鉄鎖で繋ぐことと解釈し、「舌擧」は漢文大系と新釈に従って猿轡(さるぐつわ)を付けられること、と一応解釈しておく。
(注10)楊注は、「独り容を屈して辱を受け、己の道を為さんと欲す」と言う。いちおうこれに従う。
(注11)猪飼補注は、ここに正論篇(6)で錯簡と思われる部分を挿入するべきと考えておられるようである。しかしながら、私は子宋子への全体への締めとして、次の正論篇(8)の末尾にあえて挿入したい。

子宋子すなわち宋鈃(そうけい)は、相当に影響力のあった思想家のようである。同時代人の孟子も言及しているし、韓非子の中にも言及がある。中でも『荀子』の中での批判が、最も組織的である。今は読み飛ばしている非十二子篇においても、荀子の前の時代に影響力のあった邪説の一として取り上げられているし、この正論篇の末尾では長大な批判文が収録されている。諸子百家の中では、墨家に分類されている。孟子の時代の墨家集団の鉅子(きょし)、つまりリーダーの一人であった可能性がある。

宋鈃の思想は、徹底的な平和主義である。しかも、物理的な抑止力による平和や会議による話し合いによる解決を目指す平和ではなく、人間の心の持ちようで平和は訪れるのだ、というものである。このような思想は歴史上繰り返し現れて、二十世紀の平和主義者や若者文化において全盛を向かえ、二十一世紀の現在でも形を変えて活動中である。だから、現代人にとって最もわかりやすい思想であろう。しかし荀子は、これを一刀両断する。ここでは宋鈃の「侮られて恥辱と思うからいけない。侮られても恥辱と思わなければ怒りも出ないのだから、争うこともなくなるよね?」と言う議論を叩きのめし、ここから後に続くところでは「人というものは、ほんとうは欲が少なくても生きていけるんだ。無理して欲を追い求めることなく、みんなが人間本来のそこそこの欲で留まっていれば、争わずに済んで平和に生きていけるんだ」というたぐいの平和論を却下するのである。現代の私から見ても、確かに宋鈃の議論はナイーブに過ぎる。人間の欲望を本気で抑えようとすれば、これは宗教に頼るしかないであろう。宋鈃が墨家であるとすると、墨家は諸子百家の中でも濃く宗教性を帯びた集団であったので、信徒の内ではこのような論はすんなり受け入れられたであろう。しかし荀子の儒家のような外部の者から見れば、その議論はナイーブすぎて話にならない、と考えられたのはこれまた当然のことであっただろう。

宗教による内面のコントロールを前提としないのであれば、荀子の説くように人間には憎悪がつきものであり、これをなくすことを考えるよりもこれを制御することを考えるのが正義である、という議論のほうがより妥当性を持つであろう。荀子にとって人間の憎悪を制御する方法とは、統一国家を作って天下全てに公正な褒賞と刑罰の法を公布し、善には比例的に栄光を与えて悪には比例的に恥辱を与えることによって行われるであろう。いわば、社会の憎悪を私的な復讐によってではなくて国家の法が代わって執行することによって回収する道といえるであろう。

後半で、是非の境界は王者のなす制度が定める、と言われる。これは、人間の正義は国家が制定した人定法によって定められなければならない、と言っているのである。荀子と同じ社会契約説に立つホッブスは、「結ばれた契約は履行すべし」という自然法を守るところに「正義」の源泉があるのだが、コモンウェルス(国家)が成立して、各人に対して契約に対する強制力を与えない限り、契約そのものが成立しないと言う。なぜならば国家がない自然状態においては、万人が万人に対する戦争状態であって、全ての人は世の中にある全てのものを力ずくで得る権利を持っているからである。

相互信頼による契約は、いずれかの側に不履行のおそれがあるところでは、、、無効であり、したがって正義の源泉が契約にあるとはいえ、そうした恐れの原因が除去されるまで、実際上不正はありえない。そうした恐怖の原因は人々が戦争という自然状態にあるかぎり除去されえない。したがって正、不正の名が存在しうるためには、そのまえになんらかの強制力が存在して、人々が契約の破棄から期待する利益よりもより大きな処罰の恐怖によって、彼らに等しく契約を履行させるものでなければならない。そして彼らが放棄する普遍的権利の代償として、相互契約(コントラクト)によって獲得する管理権を彼らに確保させなければならない。これを可能にする強制力は、コモンウェルスの設立までは存在しない。(ホッブス『リヴァイアサン』第十五章より。永井道雄訳、中央公論社)


荀子もまた、正義や栄光、恥辱の概念は、国家が制定してはじめて機能する、と言うのである。このことは、後の正名篇で徹底的に強調される。荀子にとっては、人間に正義をもたらすのも国家、公正をもたらすのも国家、なのである。それは荀子の生きた戦争と混乱の時代においては痛切な要求であったことは確かであろうが、現代に生きる私たちもまた国家に全ての正義と公正を任せてよいものであろうか、ということは再考しなければならない。人間には国家を通じない水平的な交換様式である互酬(reciprocity)の交換様式があることを、看過するべきではない。まず互酬の交換様式が豊かにある社会が先で、これを法によって国家が補強することが、最も健全な国家と社会の関係のはずだからである。

正論篇第十八(8)

子宋子は、「人の情は、本来寡欲なのである。なのに世の人はみな己の情を多欲であると考える。これは、まちがいである」と言う。それで子宋子の信奉者ども(注1)は、その信徒を率いて自説を説き、たとえ話を操って相手にはっきりと分からせようとする。こうやって世の人に人間の情は寡欲であると啓蒙しようとするのである。彼らに対して、「ならば人の情は、目は美しい色をとことん見たいと望まず、耳は美しい音色をとことん聞きたいと望まず、口は美味をとことん究めたいと望まず、鼻は麗しい香りをとことん味わいたいと望まず、身体は安楽をとことん究めたいと望まないということになる。こういった五官の快楽を望むのも、人の情ではないか。あなたがたはそれでも、人の情は快楽を欲しないと言うのであるか?」と問えば、彼らは「いや、人の情は確かにこれら五官の快楽を欲する」と答える。それならば、彼らの主張は絶対に行われないだろう。人の情が五官の快楽を欲することを認めて、しかもそれを欲することが少ない、と言うのであるか?それはたとえるならば、人が情として富貴を望みながら財貨を得ることを欲せず、また情として美を望みながら西施(せいし)(注2)を憎むと言っているようなものだ。いにしえの人が人の情を扱うやり方は、違っていた。彼らは人の情とは多欲であり、少なくしか欲が満たされないことを欲しないと考えた。ゆえに、褒賞には厚く富をもって報い、刑罰には持てるものを剥奪することによって応じたのであった。これは、わが国の歴史上の王(注3)が全て同じく取っていた政策であった。最も賢明な人材は王となって天下全体を禄として保有し、次に賢明な人材は諸侯となって一国を禄として保有し、それに劣る賢明な人材は領地の田畑や村落を禄として保有し、下々の誠実な庶民は衣食を十分に得ることができる。いま子宋子の輩は、人の情は寡欲であって多くを欲しない、と言う。ならば、わが国の文明の建設者であるいにしえの先王たちは、人が望まないことをもって褒賞とし、人が望むことをもって刑罰としたとでもいうのであるか?そんなことを行ったら、社会は大混乱となるであろう。いま子宋子の輩はいかめしい態度で好んで説教を行い、生徒を集め、学派を立てて、信徒内の規則を定めたりしている。しかしそうしたところで、彼らの主張はこれぞ統治の究極策であると言いながら、実際には究極の混乱をもたらすだけなのである。なんというひどい過ちであろうか。ゆえに子宋子の説をなす者は、不吉な末路となるだろう。子宋子の説を学ぶ者は、その咎を受けるであろう。だが子宋子を批判するものは、吉であろう。『詩経』に、この言葉がある。:

下々の民の孽(わざわい)は
天より降(くだ)るものでなし
噂(たみ)どうしで沓(むだばなし)、陰に回れば憎みあい
そんなこんなにいそしめば、咎が来るのは当たり前
(小雅、十月之交より)

彼らの末路は、こうなるに決まっているのだ。


(注1)原文では「其」が三度続いていて、「子宋子」の言い換えである。しかし子宋子すなわち宋鈃は孟子の同時代人であって荀子の前の時代の人間である。よって荀子の時代に活動していたのはその後継の信徒たちであるから、ここでは「其」をこのように訳した。
(注2)西施は、春秋時代、越国の美女。越王勾踐(こうせん)が呉王夫差を堕落させるためにこれを贈り、夫差は西施に傾倒して越国への備えを忘れ、勾踐に攻められて滅亡したという。『史記』には見えず、『呉越春秋』には記載される。孟子も荘子も西施のことを美人の代名詞として言及しており、西施の伝説は戦国時代にはすでに普及していた。
(注3)原文「百王」。天論篇(3)注3と同じ。
《原文・読み下し》
子宋子曰く、人の情は欲寡(すくな)し、而(しか)るに皆己の情を以て、欲多しと為す、是れ過なりと。故に其の羣徒(ぐんと)を率い、其の談說を辨(べん)じ、其の譬稱(ひしょう)を明(あきら)かにし、將(まさ)に人をして情は欲之れ寡き(注4)を知らしめんとするなり。之に應じて曰く、然れば則ち亦人の情を以て[欲](注5)、目は色を綦(きわ)むることを欲せず、耳は聲を綦むることを欲せず,口は味を綦むることを欲せず、鼻は臭を綦むることを欲せず、形は佚(いつ)を綦むることを欲せずと爲すなり。此の五綦(ごき)の者も、亦人の情を以て欲あらずと為すか。曰く、人の情是を欲するのみ、と。曰く、是の若くんば則ち說必ず行われず。人の情を以て、此の五綦の者を欲して、而も欲多からずと爲すは、之を譬うるに、是れ猶お人の情を以て、富貴を欲して而も貨を欲せず、美を好んで而も西施を惡(にく)むと爲すがごときなり。古(いにしえ)の人之を爲すは然らず、人の情を以て、欲多くして欲寡からずと爲す。故に賞するに富厚を以てして、罰するに殺損(さいそん)を以てするなり。是れ百王の同じき所なり。故に上賢は天下を祿し、次賢は一國を祿し、下賢は田邑を祿し、愿愨(げんかく)の民は衣食を完くす。今子宋子は是(ひと)(注6)の情を以て、欲寡くして欲多からずと爲す。然らば則ち先王は人の欲せざる所の者を以て賞し、人の欲する所の者を以て罰するか。亂焉(これ)より大なるは莫し。今子宋子は嚴然として說を好み、人徒を聚(あつ)め、師學を立て、文曲(ぶんてん)(注7)を成す。然り而(しこう)して說至治を以て至亂と爲すを免れざるなり。豈(あ)に過つこと甚しからずや。(猪飼補注が錯簡とみなす箇所:)故に作(な)す者は不祥にして、學ぶ者は其の殃(おう)を受け、非とする者は慶有り。詩に曰く、下民の孽(げつ)は、天より降るに匪(あら)ず、噂沓(そんとう)して背けば憎む、職として競うは人に由る、とは、此を之れ謂うなり。(注8)


(注4)原文「情欲之寡」。楊注は、あるいは「情の欲寡き」であるかと言い、集解の王念孫はこの説が正しいと言う。新釈の藤井専英氏に従って読み下す。
(注5)原文「然則亦以人之情、爲欲目不欲綦色、、」。集解の盧文弨は、後の句の最初の「欲」は衍字であると言う。
(注6)増注は、「是」は「人」に作るべし、と言う。
(注7)増注・集解の王念孫は、「曲」は「典」に作るべし、と言う。
(注8)正論篇(6)において、猪飼補注が錯簡とみなす箇所を、私はここに置くことにする。

つづいて、宋鈃の寡欲説への荀子の攻撃である。趣旨は明快であって、説明は不要であろう。

ただ人間の物欲というものは、少ないとは言えなくても無限ではない。無限の欲は、権力欲と金銭欲である。君主の権力欲は古代から常に発動していたものであり、いっぽう人間の金銭欲は近代になって産業資本主義が全面的に展開されたときになって、社会を動かす主要動因となった。人間の経済を物欲レベルでのみ考えて、市場メカニズムによる自動調節が全てを解決する、と楽観的に考えるのは、現代の経済学で最主流の新古典派経済学である。だがいったん人間の経済を金銭欲レベルで考えるならば、資本の無限蓄積の欲望が経済を一方で成長させるが、他方で利潤率の架空のかさ上げに依存したバブル経済を生み出し、バブルが弾けた後に利潤率が劇的に低下して大不況をもたらし、国家がてこ入れしなければ経済が回復しない、という茶番劇のような経済システムが見えてくるだろう。こちらに正しく着目したのは、マルクスとケインズであった。人間の権力欲と同じく、人間の金銭欲は荀子が楽観するほどに国家がうまく制御できるものではないだろう。

これで、正論篇は終わった。
続く礼論篇第十九、および楽論篇第二十は、儒家が最も重視する「礼楽(れいがく)」についてのエッセイである。荀子にとって礼法は国家の秩序を制定する要の制度であり、音楽はその間にあって上下の関係を感覚によって調和させる文化的装置である。両者ともに安定した国家を運営するために必要不可欠であると儒家は考えるのであって、よって荀子はこの両者について詳細な説明を行う。しかしながら、それが現代の社会に説得力を持つ論題となるのは、難しい。荀子の時代において国家中枢のエリートたる君子は、いわば現代に置き換えるならば高級官僚・弁護士・大学教授を兼ねた政治面および文化面において国家をリードする存在であった。後世の中華帝国において科挙に及第した士大夫官僚たちもまた、政治的エリートかつ文化的エリートとしての矜持(きょうじ)を持っていた。華麗な詩文を遺した蘇軾(そしょく)や黄庭堅(こうていけん)も、思想面で大きな仕事をした朱熹(しゅき)や王陽明(おうようめい)も、いずれも科挙に及第した中華帝国のエリートたちであった。よって歴史的には荀子の言わんとすることは説得力を持った時代もあったのであるが、現代においては政治はともかく文化においては市井の人民の創作力が国家の力のすべてであって、試験エリートたちに文化の創造力がないことは、人民の側でとっくにお見通しである。なので、荀子たち儒家の言うような上から降りてくるエリート文化についてのエッセイは、今の時代には何の価値も持たない。私はそのように捉えるので、礼論篇・楽論篇は検討せずに今は読み飛ばすことにしたい。

続く解蔽篇第二十一、および正名篇二十二は、正しい概念についてのエッセイである。荀子たち儒家は真理は実在すると考えるプラトニストであり、なおかつ荀子は正義や公正といった人間の正しい価値は国家がこれを定義して異論を禁止しなければならない、と主張する。荀子の説は儒家の国家偏重の思想を露骨に表したものであり、これは批判的に読まなければならないと私は考える。よって、解蔽篇および正名篇は荀子を批判する立場から読むことにしたい。

【次は、「解蔽篇第二十一」を読みます。】

天論篇第十七(1)

天の運行は、常に同じである。堯(伝説の聖王)のために天がうまく動くことなどせず、桀(伝説の悪王)のために天が滅びることなどもない。むしろ、天の起こす現象によい統治を以て対すれば吉なのであり、天の起こす現象に乱れた行為を以て対すれば凶なのである。統治の基本である農業政策に勤めて財政を節約したならば、天の起こす災異といえども人を貧しくすることはできないのである。生活物資を備えて適切な時期に活動すれば、天の起こす災異といえども人を苦しめることはできないのである。統治の正道に従って外れなければ、天の起こす災異といどもわざわいをもたらすことはできないのである。ゆえに、水害も干害も飢餓につながるわけではない。酷寒も酷暑も病苦につながるわけではない。妖怪のたぐいが活動したとしても、災害につながるわけではない(注1)。しかし統治の基本である農業政策が荒れ果てて財政が放漫となったならば、天の与える恵みがあっても人を豊かにすることはできない。生活物資の用意がおろそかで適切な時期の活動をほとんど行わないならば、天の与える恵みがあっても人は物資を十分に得ることができない。統治の正道にそむいて無茶苦茶な行いをすれば、天の与える恵みがあったとしても幸福をもたらすことはできない。ゆえに、水害や干害が来る前に飢餓が起こり、酷寒や酷暑が迫る前に病苦につながり、妖怪が来なくても災害が起こるであろう。たとえ天の現象が治世と同じ条件下であったとしても、治世とまるで違ってわざわいが降りかかることになる。これで天を怨むなど、筋違いである。統治者が悪の道をたどったから、こうなったまでである。そういうわけで、天の力と人の力とを分けて評価する発想(注2)を明らかに持つならば、至人というべきである。

人が何もせずして成長し、人が求めもしないのに得られるもの。それが「天職」、すなわち天のはたらきである。天のはたらきは、深遠である。しかしながら、よき人はこれについて熟慮したりしない。天のはたらきは、巨大である。しかしながら、よき人はこれについて知ろうとしたりしない。天のはたらきは、精密である。しかしながら、よき人はこれについて考察したりしない。それが、天のはたらきと争わない態度である。天は、自ら天の時をもって運行する。地は、自らの力をもって財物を作る。そして人は、自らの統治力をもって万物を支配する。このようであるのが、よく三者のはたらきに従うというものである。天・地・人それぞれのはたらきに従うことをしないで、それでいながら天・地・人の作る成果を欲しいというのか?それは、迷いというものである。天の星々は巡り、太陽と月は交替で天に輝き、春夏秋冬の四季は交替で訪れ、陰と陽とはダイナミックに変化し(注3)、風と雨とは地上に広く行き渡る。万物おのおのは、これら自然の調和を得て発生し、自然から養分を得て生育するのである。何が起こっているのかは見えないが、起こった成果は明らかに見える。これが、神妙な自然の力である。人間はできあがった万物を知ることができるが、その背後にある生成の原理を知ることはできない。これが、「天功」すなわち天の見えざる功績である。ただ聖人だけが、天のはたらきをあえて知ろうと試みずに、人間のはたらきに集中できる。天職がすでに行われて天功がすでに成り、人間には身体が備わって精神が生まれる。そこに好悪・喜怒・哀楽が宿される。これが、「天情」である。耳・目・鼻・口・身体の各器官がそれぞれ外物に接するが、それぞれが音・光・匂い・味・触覚といった別々の感覚を受け取り、それぞれが代用できない。これが、「天官」である。心臓は、体内の空間にあってこれら五官を統御している(注4)。これが、「天君」である。外界の財物は人類ではないにも関わらず、人類を養い生存させる。これが、「天養」である。人類の本性に従って身体を養えば福であるが、人類の本性に逆って身体を害したならわざわいとなる(注5)。これが「天政」である。己の「天君」をくらまし、「天官」を乱し、「天養」を捨て、「天政」に逆らい、「天情」に逆らう。これが、ほんとうの大凶なのである。聖人は、己の天君を清くし、天官を正しくし、天養を備え、天政に従い、天情を養って、こうして自然の与えた「天功」を完全に利用するのである。こうする道こそが、なすべきところを知りなすべきでないことを知るというものである。天は己の職分を果たし、地は己の職分を果たし、その結果として万物はおのおのがはたらきを見せる。そこに対した聖人は、自らの行いを尽くして、人を養う方策を適切に行い、しかも万物の生育を妨げないように利用する。これこそが、天を知るというのである。ゆえに「大巧」すなわち最大の技能とは、あえて天地の領分について為さないところにあるのである。また「大智」すなわち最高の智恵とは、あえて天地の領分について考えないところにあるのである。天について知ることができるものは、天体の運行や季節現象などだけであって、そこから我々が今後何が起こるか予測できるところにとどまる。地について知ることができるものは、地形と土地の豊凶だけであって、そこから我々が何を生産するかを計画するところにとどまる。四季において知ることができるものは、その順番だけであって、そこから我々がいつどのような仕事をなすべきかを計画するところにとどまる。陰陽について知ることができるものは、調和・不調和の様子だけであって、そこから我々が君臣・上下を調和させるように統治の努力を行うところにとどまる(注6)。天の運行や土地の豊凶を記録するのは、官人である。しかしそのデータを受け取って人のなすべき領分を行うのは、人君である(注7)


(注1)世に不自然な現象が起こるとき、昔の人は何か見えない物の怪が背後で活動しているのだ、と考えたことは、現代人もよく知っているところである。荀子の時代にも、「鬼神」が地上で活動していることは広く信じられていた。これが、「妖怪(祅怪)」の語の出典である。
(注2)原文「天人之分」。ここでは意訳した。
(注3)原文「陰陽大化」。中国の自然思想は、宇宙は陰と陽の二つの気が混合変化して万物が生成変化すると考えた。この自然思想は、荀子にも共通である。
(注4)原文読み下し「心は中虛に居り、以て五官を治む」金谷治氏も藤井専英氏も心が体内の中虚・中心にある、と訳しているが、抽象的すぎてかえってわけがわからない。ここは現代医学から見れば誤りであっても、古代中国の考えに従って、心臓が人間の意思を司る器官であるとみなした。当然現代的に言えば、これは脳髄である。
(注5)原文読み下し「其の類に順(したが)う者は之を福と謂い、其の類に逆(さから)う者は之を禍と謂う」。金谷治氏は人類の生活に順応する、と訳す。藤井専英氏は人類の集団生活の規範に従って暮らしていく、と訳す。ここでは、藤井氏の訳のような規範的なことはまだ言っていなし、また金谷氏のように人間が主体的に選んで順応する、という意味でもないと私は考える。むしろ、増注の久保愛の言うように、人類の本性に従って身体を養えば福であるが、人類の本性に逆って身体を害したならばわざわいである、という生命活動レベルの話をしていると私は考える。
(注6)ここは、難しい。ここで荀子は、陰陽は一種の自然現象であり、人間がそれを所与として一定範囲コントロールできることを言明している。その範囲をどこまで広げるべきか。陰陽術は、自然の陰陽の調和まで人間がコントロールできると考える。しかし荀子は王制篇の序官表において陰陽術者を占い師と同じカテゴリーに入れて、それを担当する傴巫(うふ)・跛擊(はげき)は明らかに卑賤の者である。荀子は陰陽の調和・不調和は自然現象であるが、人間ができることは人間世界の調和として君臣・上下の調和術として礼法を整えることを想定していたのではないだろうか。その想定の上に、意訳した。
(注7)原文読み下し「官人は天を守りて、自ずから道を守ることを爲すなり。」難解。ここでは荻生徂徠の解釈に近づけて訳した。藤井専英氏はここでうがった解釈を取られているが、私は取らない。
《原文・読み下し》
天行(てんこう)常有り、堯の爲めに存せず、桀の爲めに亡せず。之に應ずるに治を以てすれば則ち吉、之に應ずるに亂を以てすれば則ち凶なり。本を强(つと)めて用を節すれば、則ち天も貧にすること能わず。養備わりて動時なれば、則ち天も病ましむること能わず。道に脩(したが)いて(注8)貳(たが)わざれば、則ち天も過(わざわい)すること能わず。故に水旱(すいかん)も之をして飢えしむること能わず、[渇](注9)寒暑も之をして疾(や)ましること能わず、祅怪(ようかい)も之をして凶ならしむること能わず。本荒れて用侈(し)なれば、則ち天も之をして富ましむること能わず、養略にしえ動罕(まれ)なれば、則ち天も之をして全からしむること能わず。道に倍(そむ)きて妄行すれば、則ち天も之をして吉ならしむること能わず。故に水旱は未だ至らずして飢え、寒暑は未だ薄(せま)らずして疾み、祅怪は未だ至らずして凶なり。時を受くること治世と同じくして、殃禍(おうか)治世と異なり。以て天を怨む可からず、其の道然るなり。故に天人の分に明なれば、則ち至人と謂うべし。
爲さずして成り、求めずして得(う)、夫れ是を之れ天職と謂う。是(かく)の如くなる者は、深しと雖も其の人慮を加えず、大なりと雖も能を加えず、精なりと雖も察を加えず、夫れ是を之れ天と職を爭わずと謂う。天に其の時有り、地に其の財有り、人に其の治有り、夫れ是を之れ能く參すと謂う。其の參する所以を舍(す)てて、其の參する所を願うは、則ち惑(まど)えり。列星隨旋(ずいせん)し、日月遞炤(ていしょう)し、四時代御(だいぎょ)し、陰陽大化し、風雨博施す。萬物各(おのおの)其の和を得て以て生じ、各其の養を得て以て成る。其の事を見ずして、其の功を見る、夫れ是を之れ神と謂う。皆其の以て成る所を知り、其の無形を知ること莫し、夫れ是を之れ天と謂う(注10)。唯(ただ)聖人は天を知るを求めずと爲す。天職既に立ち、天功既に成り、形具して神生じ、好惡(こうお)・喜怒・哀樂臧す、夫れ是を之れ天情と謂う。耳目・鼻口・形能(けいたい)(注11)は、各(おのおの)接すること有りて相能くせざるなり、夫れ是を之れ天官と謂う。心は中虛に居り、以て五官を治む、夫れ是を之れ天君と謂う。財は其の類に非ずして、以て其の類を養う、夫れ是を之れ天養と謂う。其の類に順(したが)う者は之を福と謂い、其の類に逆(さから)う者は之を禍と謂う、夫れ是を之れ天政と謂う。其の天君を暗まし、其の天官を亂し、其の天養を棄て、其の天政に逆い、其の天情に背きて、以て天功を喪う、夫れ是を之れ大凶と謂う。聖人は其の天君を清くし、其の天官を正し、其の天養を備え、其の天政に順い、其の天情を養い、以て其の天功を全くす。是の如くなれば、則ち其の爲す所を知り、其の爲さざる所を知る。則ち天地官して萬物役す。其の行曲(つぶさ)に治まり、其の養曲に適し、其の生傷(やぶ)らず、夫れ是を之れ天を知ると謂う。故に大巧は爲さざる所に在り、大智は慮(おもんぱか)らざる所に在り。天に志(し)る(注12)所の者は、其の見象(げんしょう)の以て期す可き者に已(とどま)る。地に志る所の者は、其の見宜(げんぎ)の以て息す可き者に已る。四時に志る所の者は、其の見數(げんすう)の以て事とす可き者に已る。陰陽に志る所の者は、其の見知(げんわ)(注13)の以て治む可き所の者に已る。官人は天を守りて、自ずから道を守ることを爲すなり。


(注8)集解の王念孫は、「脩」は「循」であるべし、と言う。
(注9)集解の劉台拱は、「渇」字は衍字であると言う。
(注10)ここの解釈は、諸説対立している。楊注の或説、および集解の王念孫は、「天」の下に「功」字が抜けている、と言う。藤井専英氏、金谷治氏はこちらを取る。増注の久保愛は「功」字を入れることは非として、「無形」の「無」字が衍字であると言う。ここで荀子は、自然現象の背後にある何らかの働きが人間には見えないしわからない、と言っていると考えられるので、「無」を取り去る久保説を私は支持しない。
(注11)集解の王念孫は「能」を「態」を読み、「形態」で形である、と言う。
(注12)楊注は「志」は記識なり、と言う。理解すること。
(注13)集解の王念孫は、楊注の或説を取って「知」は「和」であると言う。

【この篇は、「彊国篇第十六」の後に読んでいます。】

天論篇は、「天人の分」を示した文章として、中国思想上で重要な位置を占めている。
ただ、荀子の合理的自然観ばかりが単独で強調されすぎているきらいがあるように思われる。荀子の「天人の分」は、れっきとした儒家思想の延長線上に行われているものである。

上のくだりで述べられているように、荀子は天地の与えた自然現象の意味について、不可知論を取る。人間は天地が生み出した自然現象の一つであり、天地の間で自らを養う万物が与えられている。ではなぜ人間は地上で生きていて、自らを養う万物が与えられているのか。これを説明するのは宗教であり、キリスト教やイスラム教はここに教義の最重要点を置いていることは、周知のところである。しかしながら、荀子はその意味を考えることを拒絶する。なぜ、拒絶するのか?それは、天地の自然現象、および人間の生物学的な身体の構造は、人間がコントロールすることができないからである。荀子は、人間が努力によってコントロールできる範囲内に限って努力を行うのが、君子であると考える。結果、荀子は君子のその努力が自然を克服して利用して、人間の生活を向上させることを説く。儒家が君子の人間社会における絶対的指導性を主張する以上、その主張は必要なのである。

すなわち荀子の合理的自然観は、儒家が主張する君子の主体的努力を通じた理想社会の建設、というテーマを忠実になぞった結果、君子の主体的努力でコントロールできない自然現象を考察の範囲外に追放したものであると言うことができるだろう。荀子の「天人の分」は、儒家の主張する君子の役割を極限にまで先鋭化した結果、君子がコントロールできる範囲内の現象だけに努力を集中するために置かれた思想と言うことができるだろう。

さきの富国篇では、孟子の民本思想を極限まで先鋭化して、社会契約説に至った。この「天人の分」もまた、そうである。荀子は、儒家思想の持つ原理を極限にまで先鋭化する作業を行った思想家であった。

君子が社会を改善するための努力だけに集中して、存在の意味や死後の生命といった議論を行うべきではない、という主張は、たとえば孔子にもあった。

孔子の弟子の樊遅(はんち)が、智とは何かを質問した。孔子は言われた、「人民を教化する義務に努め、鬼神(きじん。「鬼」は死者の霊魂であり、「神」は自然万物の神霊。)は敬してこれを遠ざけることだ。」
(論語、雍也篇より)


荀子は、ここでいう孔子の「人民を教化する義務に努め、鬼神を敬して遠ざける」という路線を忠実に守っている。荀子は後のくだりで天文現象は人間の生活に影響を及ぼさない、という合理的な主張を行うが、それは科学的方法による推論から出た主張ではなくて、経験の結果として常識が教える主張と言うべきであろう。だが荀子がその視点を持つことができたのは、君子が主体的にコントロールできない現象の人間への影響を否定して、君子の仕事を明確に位置づけるという彼の統治思想の課題のゆえである。結果、荀子は政治万能主義を取る。人間の不幸は、すべて政治が悪いところから起こる。自然が起こす災異は、正道を取った統治によって十分に克服できる。そして荀子は正道を取った統治が人間に必ず幸福をもたらすことを約束するために、人間が天地の万物を全て利用する権利を持ち、これによって自らの欲求を満たすことができると言う。

この人間中心主義は、人間が自然を搾取(exploit)する自然観であると言えるだろう。人間が自然を搾取する自然観は、産業革命以降に産業資本主義が勃興して、より多くの利益を生み出すために自然を加工して資源を採掘し尽くすダイナミズムが始ったときに、世界中で全面的に広がった。ヨーロッパにおける産業革命以降の自然を搾取(exploit)する自然観は、キリスト教的自然観に対抗して自然をより合理的に説明する(explain)近代科学の自然観が先行していた。ヨーロッパの自然観はそこから搾取する自然観へと移行していったのだが、荀子は古代中国において説明する(explain)自然観を欠いていたにも関わらず、搾取(exploit)する自然観をすでに全面的に展開させている。

荀子の天論篇ほかの自然に関する議論を読んだときに、私は二つの点でその現代性に驚く。その一つは、「天人の分」に見える合理的な自然観である。しかしながらもう一つは、自然への畏敬を欠いてこれを搾取する対象としか見ない自然観である。荀子は儒家思想を最も先鋭化させた思想家であり、儒家思想に潜在していた人間中心主義に傾いた自然観が、荀子においては過剰なまでに明瞭に打ち出されている。それは古代においては余りにも先鋭すぎたゆえに社会的条件と整合できず、前漢代後期以降に中国思想を席捲した災異説のような天人相関説に道を譲ることになったのであろうか。董仲舒が唱えた災異説は、皇帝の上位に天=自然の意思を置き、皇帝の不徳は人間世界に災害や天変地異をもたらす。すなわち人の行為と天の現象が相関しているという、天人相関説であった。こちらのほうが古代社会としては荀子の思想よりも常識的な思考様式であり、ゆえに現代人の思考様式からはより遠ざかる。

天論篇第十七(2)

地上の治乱は、天のなせるわざであろうか?太陽・月・星の巡ることは、禹(聖人で夏王朝の始祖)と桀(夏王朝滅亡時の悪王)とで同じことであった。しかし禹の代はよく治まり、桀の代は乱れたではないか。天は治乱とは関係がない。
では、時のなせるわざであろうか?春夏に作物が発芽繁茂し、秋冬に作物を借り入れて収蔵するのは、禹と桀とで同じことであった。しかし禹の代はよく治まり、桀の代は乱れたではないか。時は治乱とは関係がない。
では、地のなせるわざであろうか?よい土地得れば生を得て、悪い土地を得れば死を得ることは、禹と桀とで同じことであった。しかし禹の代はよく治まり、桀の代は乱れたではないか。地は治乱とは関係がない。
『詩経』にこの言葉がある。:

天は、岐山を作り出し
大王、ここにて治めたまい
民草、ここに集いしは
文王これを、安んじたまうゆえ
(周頌、天作より)

つまり、地上の治乱は人のなせるわざであり、それ以外の原因はない。

天は人が寒さを嫌がるからといって、冬をやめないであろう?地は人が目的地まで遠いことを嫌がるからといって、狭くなったりしないだろう?それと同様に、君子は小人がいちいち騒ぎ立てるからといって、正しい行いをやめることはないのだ。天には、天の常の運行がある。地には、地の常の法則がある。君子には、君子の常の正道があるのだ。君子は常の正道を行って統治し、小人は統治された下で功利を計算する、それが自然の姿なのである(注1)。詩に「(礼義を誤らず行うならば、)何を恐れることがあろうか」(注2)と言うのは、このことなのである。

楚王が巡幸すると、後ろには千台の車が付き従う。しかし楚王は、智者ではない。君子は豆のスープをすすって水を飲んでも、愚者ではない。両者の開きは、偶然のめぐり合わせのせいである。だが心中の意志を修めること、徳行を厚くすること、思慮を明らかにすること、現代に生まれながらいにしえの時代以来の正道を志すこと、これらは全て己の内に持っている宝である(注3)。ゆえに、君子は己の中にあるものを謹んで、天にあるものを慕わない。だが小人は己の中にあるものを放っておいて、天にあるものを慕う。君子は己の中にあるものを敬って、天にあるものに憧れない。だから、日ごとに進歩する。だが小人は己の中にあるものを放っておいて、天にあるものに憧れる。だから、日ごとに停滞する。ゆえに、君子が日ごとに進歩する理由と、小人が日ごとに停滞する理由は、同じなのである。君子と小人が大きく差がつくのは、ただここだけにある。

星が堕ちて木が鳴る(注4)と、国人たちはみな恐れて「これはどうしたことか」と問うであろう。その答えは、何も大したことではない、これは天地の変化、陰陽の変化であり、まれに起こる現象であるにすぎない。これを不思議がるのはよいが、恐れるのは間違いである。日蝕・月蝕が起こったり、異常な風雨が襲ったり、妖しい星がまれに出現したりするのは(注5)、いつの時代にも常に起こったことなのである。いま君主が明察であり政治が公正に行われているならば、一代のうちに何度もこのような天の異常が起こったとしても、国が傷つくことはありえない。だがいま君主が暗愚であり政治が不公正に行われているならば、天の異常が何一つ起こらなくても、国が栄えることはありえない。星が堕ちたり木が鳴ったりすることは天地の変化、陰陽の変化であり、まれに起こる現象であるにすぎない。これを不思議がるのはよいが、恐れるのは間違いである。田畑をまずく耕したならば、作物の生育を損なうであろう。草を十分に刈らなかったら、収穫を失うであろう。政治が不公正であるならな、民心を失うであろう。田畑は荒れて作物は育たず、穀物の価格は高騰して人民は飢え、やがて道路には死人が転がる。これが、人妖である。法令はルールがなく、農民の徴発は時期を外し、農業政策はおざなりで、農民の力を用いる時期が分かっていない。こうなると牛馬でさえも奇形の仔を産み、家畜にすら異常な行動が起こる。これが、人妖である。礼義が修まらず、秩序の区別が崩れて、男女が淫乱をなす。こうなると父子が互いに疑い、上下は心が離れて、外国の侵略が次々に起こる国難となる。これが、人妖である。妖事とは、人間社会の乱れから生じるのである。これら三つの人妖が同時に起こったならば、安泰な国などありえない。人の妖事は天の妖事に比べたらずっと人の間近で起こることであるが、その惨害はずっと大きいのである。これこそ、不思議がるべきである。かつ、恐れるべきである。伝承に、「万物の怪異については記録するが、これについて原因を述べることはしない」とある。天の妖事についての無用の弁論、不急の考察は、これを棄てなければならず、探求してはならない。むしろ人の正道である君臣の義、父子の親、夫婦の別(注6)は、日々に精進するべきであって棄ててはならない。


(注1)君子が支配者として制度の枠組みを作り、小人が被支配者として制度の下で功利を追求するという役割分担は、論語里仁篇の「君子は徳を懐(おも)い、小人は土を懐う」、または「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」を想起させる。
(注2)これは逸詩、つまりすでに散逸した詩の引用である。下の注8参照。
(注3)楚王と君子の対比は、『孟子』公孫丑章句下、二の曾子の言葉を想起させる。
(注4)集解の兪樾らの引用によると、古代には社木が鳴るのは不思議な現象が起こる前兆であるという信仰があったらしい。注釈者たちは風によって木が鳴ること、と説明しているが、そのようなことは嵐の日には普通に起こるはずで、別に珍しいことではない。もっと違う現象を言っているのではないだろうか。
(注5)原文読み下し「怪星の黨(たまたま)見(あらわ)るる」。増注・集解の王念孫ともに「黨」は「儻」であると言う。たまたま。面白いのは、天論篇は『韓詩外伝』にも引用されているのであるが、そこでは「黨」が「晝(昼)」となっている。王念孫は「晝」字はおそらく後人の改むる所と注しているが、実際に地球に近い超新星爆発は、昼間でも見えるほど明るいのである。中国で最も古い超新星の記録は紀元2世紀であるが、それよりも以前の時代にあった超新星爆発が、昼間に星が突然現れた記憶として伝承されていたのかもしれない。なので、『韓詩外伝』の「晝」字でもあながち間違いとはいえない。
(注6)君臣は義によって結ばれるべきであり、親子は親しみの情愛によって結ばれるべきであり、夫婦は家の秩序に従い区別されるべきである。『孟子』滕文公章句上、四ではこれに長幼の序、朋友の信を加えて、儒家の社会倫理の基本である「五倫」が説かれる。
《原文・読み下し》
治亂は天なるか。曰く、日月・星辰の瑞厤(ずいれき)(注7)するは、是れ禹・桀の同じき所なり。禹は以て治まり、桀は以て亂る。治亂は天に非ざるなり。時なるか。曰く、春夏に繁啓・蕃長し、秋冬に畜積・收臧す、是れ禹・桀の同じき所なり。禹は以て治まり、桀は以て亂る。治亂は時に非ざるなり。地なるか。曰く、地を得れば則ち生じ、地を失えば則ち死す、是れ又禹・桀の同じき所なり。禹は以て治まり、桀は以て亂る。治亂は地に非ざるなり。詩に曰く、天高山を作り、大王之を荒(おお)いにす、彼作り、文王之を康(やす)んず、とは、此を之れ謂うなり。
天は人の寒を惡(にく)むが爲に冬を輟(や)めず、地は人の遼遠を惡むが爲に廣(ひろ)きを輟めず、君子は小人の匈匈(きょうきょう)たるが爲めに行を輟めず。天に常道有り、地に常數有り、君子に常體有り。君子は其の常に道(よ)りて、小人は其の功を計る。詩に曰く(注8)、何ぞ人の言を恤(うれ)えん、とは、此を之れ謂うなり。
楚王は後車千乘なるも、知に非ざるなり。君子は菽(まめ)を啜り水を飲むも、愚に非ざるなり。是れ節然るなり。若(も)し夫れ志意脩まり、德行厚く、知慮明かに、今に生じて古に志す、則ち是れ其の我に在る者なり。故に君子は其の己に在る者を敬して、其の天に在る者を慕わず。小人は其の己に在る者を錯(お)きて、其の天に在る者を慕う。君子は其の己に在る者を敬して、其の天に在る者を慕わず、是を以て日に進むなり。小人は其の己に在る者を錯きて、其の天に在る者を慕う、是を以て日に退くなり。故に君子の日に進む所以と、小人の日に退く所以とは、一なり。君子・小人の相縣(けん)する所以の者は、此に在るのみ。
星隊ち木鳴れば、國人皆恐る。曰く、是れ何ぞや。曰く、何も無きなり。是れ天地の變、陰陽の化、物の罕(まれ)に至る者なり。之を怪むは可なるも、之を畏るるは非なり。夫の日月の蝕有り、風雨の時ならず、怪星の黨(たまたま)見(あらわ)るるは、是れ世として常に之有らざること無し。上明にして政平かなれば、則ち是れ並世にして起ると雖も、傷(いた)むこと無きなり。上闇にして政險ねれば、則ち是れ一の至る者無しと雖も、益無きなり。夫の星の隊ち、木の鳴るは、是れ天地の變、陰陽の化、物の罕に至る者なり。之を怪しむは可なるも、之を畏るるは非なり。物の已(はなはだ)至る者は、人祅則ち畏る可きなり。楛耕(ここう)は稼を傷(そこな)い、耘耨(こうん)は薉(とし)を失い(注9)、政險にして民を失し、田薉(あ)れて稼惡しく、糴(てき)貴(たか)くして民飢え、道路に死人有り、夫れ是を之れ人祅と謂う。政令明ならず,舉錯(きょそ)時ならず、本事理(おさ)まらず、勉力時ならざれば、則ち牛馬相生し、六畜(りくきく)祅を作(な)す(注10)、夫れ是を之れ人祅と謂う。禮義脩まらず、內外別無く、男女淫亂なれば、則ち父子相疑い、上下乖離し、寇難(こうなん)並び至る、夫れ是を之れ人祅と謂う。祅は是れ亂に生ず。三者錯(まじ)われば安國無し。其の說甚だ邇(ちか)くして、其の菑(わざわい)甚だ慘なり。怪しむ可きなり。而(しか)も不(また)(注11)畏る可きなり。傳に曰く、萬物の怪は書するも說(と)かず、と(注12)。無用の辯、不急の察は棄てて治めず。若し夫れ君臣の義、父子の親、夫婦の別は、則ち日に切瑳して舍かざるなり。


(注7)増注は「瑞」字は未詳という。猪飼補注は「環」に作るべし、と言い、新釈漢文大系は一応これに従っている。
(注8)増注は、これは逸詩すなわち散逸した詩の引用であると言う。集解の兪樾は、『文選』の中に荀子のこの箇所の引用があり、そこでは「何ぞ人の言を恤(うれ)えん」の前に「禮義之不愆」の五字があり、李善の注がこれらが皆孫卿子(荀子)の言であると言及していること。同じ逸詩と思われる引用が正名篇にもあり、そこでも「禮義之不愆」の五字があること。これらを証拠として、ここには「禮義之不愆」五字が本来ある、と言う。その通りであろうが、ここでは上の句が省略されたのであろう。
(注9)原文「耘耨失薉」について、集解の郝懿行らは『韓詩外伝』の引用では「枯耘傷歳」となっていることを指摘して、これが正しいであろうと言う。集解に従う。
(注10)『漢文大系』は楊注に従う形で、アンダーラインを「其の菑(わざわい)甚だ慘なり」の下に置いている。『新釈漢文大系』は集解の王念孫に従ってアンダーラインをここに置く。今は新釈に従う。
(注11)集解の王念孫は「不」は「亦」に作るべし、と言う。
(注12)楊注は「書」は六経と言い、万物の怪を広説するに務めず、と言う。猪飼補注は六経の一である『春秋』に隕石落下のことなどが記載されている例を出して、ここの意味は「記録に書いても、(その現象の人間の行いとの対応関係を)説明しない」、と言う意味であると言う。あるいはこの「書」の下に字が脱けているのではないか、と言う。補注も指摘するように『春秋』には天変地異の記録が多数あるわけで、董仲舒などはここから災異説を展開するわけであり、楊注の説明は事実に反しているだろう。

今回の部分は、天変地異が人間の行為とは無関係に起こる現象であり、これを恐れるのは間違いである、と宣言したものである。そして、前回にも書いたとおり、その宣言を行う理由は、君子の主体的な行為がもたらす結果だけに注目せよ、と言うためである。

楚王と君子を比較するくだりは、これを孟子の言葉だとみなしても、何ら違和感はないだろう。孟子には、荀子のような自然現象に注目した「天人の分」思想はない。しかしながら、孟子はいわば別の側面での「天人の分」思想を持っている。それは、天の幸運と君子の努力を区別する思想である。

自らの心を伸ばし尽くす者は、自らの本性を知る者だ。自らの本性を知る者は、天から降された意味を知る者だ。よき心を保ち、本性を養うことこそ、天に仕える道である。寿命の長い短いなど気にするな。ひたすら自分自身を修めて命尽きるのを待て。それが、天命を損なわずにまっとうするということなのだ。
盡心章句上、一


ここで孟子は、天から与えられた命を自己を研鑽することにひたむきに費やし、結果の良し悪しは気にしないのが君子である、と言うのである。人間には、幸運不運がある。それによって得られる、富と地位がある。しかしながら孟子は君子の本質は心中の善にあり、外界の快楽にはないと言うのである。

広大な土地と多数の人民を治めるのは、君子もまた願うところである。だが、君子の楽しみはそこにはない。天下の真ん中に立って四海の民を安んじることは、君子の楽しみである。だが、君子の本性はそこにはない。君子の本性はどんなに大きく道を行ったといえども加わらないものであるし、またどんなにせまい所に窮居していたとしても減らないものである。なぜならば、天の与えたる天分は決まっているからだ。君子の本性とは、仁・義・礼・智が心にしっかりと根ざされているところにあるのだ。
同、二十一


上の句に限らず、『孟子』の中では偶然の結果である富貴・栄達は君子にとって関心を持つべき対象ではなく、むしろ己の内の徳を高めるべきことだけに関心を集中するべきことが説かれている。孟子はいわば、「運」という人間がコントロールできない対象を君子の関心から追放せよ、と説くのである。こうして位置づけると、孟子と荀子の共通点が浮かび上がっては来ないだろうか。両者は同じ儒家であり、先行者とその批判的継承者の関係である。両者の間に共通して流れている思想があるのは、当然の事だ。

孟子と荀子は、両者に共通する意図を別の側面において展開する。共通する意図とは、君子の努力を外界から自律させる、というものである。両者は、君子が社会のエリートとしてふさわしい徳を積むべきであり、エリートであるゆえに国家を指導する立場に立つのがふさわしいと考える点については、全く一致している。しかし両者の違いは、孟子はエリートたちの内面の自律性を最も重視することに対して、荀子は君子がエリートたちの政策の自律性を最も重視することにある。両者が否定すべき外界を表にすると、共通点と相違点が見えてくるだろう。

君子が否定すべき外界 君子の外界への対処
孟 子 人間の運命 君子の徳は外界の快楽に影響を及ぼされない
荀 子 自然現象 君子の政策は外界の自然現象によって妨げられない

  
両者の違いは、個人的な思想傾向のためでもあっただろうし、また置かれた時代の要請の違いでもあっただろう。孟子はまだ統一帝国のシステムを構想するには時代が早く、孔子の古い時代の君子像を継承して、諸国に対して実力で雇われるプロフェッショナルな君子を想定していた。いっぽう荀子はもはや統一帝国が見えていた時代においてそれを具体的に構想することが課題であり、統一帝国の下で政策判断を行う官僚としての君子を想定していた。しかしながら、両者ともに君子の外界からの自律性を確保するために、人間の力ではコントロールできない外界を君子の関心の対象から外せ、と主張した点では同じであった。両者は儒家思想家として、人間の力だけを信じるに値すると主張するのである。

天論篇第十七(3)

「雩(あまごい)をしたら、雨が降る。何か効果があるに違いない」と言うのか?答えよう、何の効果もない。雩しなくて雨が降ることと、何の違いもない。日蝕や月蝕が起こったら、太鼓を打って日月の回復を願う儀式を行う(注1)。天候が旱魃となったら、雩の儀式を行う。戦争などの大事に先立っては、卜筮(ぼくぜい)して吉凶を占う。こういう儀式は、効果を期待して行っているのではないのだ。これらの儀式は、政治を装飾するものなのだ。ゆえに、君子はこれらの儀式を装飾だと分かっているが、人民はこれらの厳粛な儀式に何やら神妙な効果があると信じるのだ。君子がこれを政治の装飾だと考えるのは、よい結果を生む。しかし君子たるものがこれに神妙な効果があるなどと信じるようでは、政治に凶である。

天にあるもので、太陽と月よりも明らかなものはない。地にあるもので、水と火よりも明らかなものはない。財物の中で、珠玉よりも明らかなものはない。人においては、礼義よりも明らかなものはない。太陽と月は高くに昇らなければ輝きが大きくならず、水と火は大きく集まらなければ明るさと深さが大きくならず、珠玉は外に見せなければ王公はこれを宝とみなすことはなく、礼義は国家に加えなければ功名は明らかとならないのである。ゆえに、人の命は天の賜り物であるが、国の命は礼を加えるところにあるのだ。人の君主たる者は礼を尊び賢人を尊べば王者となり、法を重んじ人民を愛すれば覇者となり、利を好んで詐術が多ければ己を危うくし、権謀を行い人民を苦しめ陰険な行為を行うならば滅亡するだろう。(注2)天を偉大だと崇めて天の恵みを望むぐらいならば、人の力で財貨を蓄えて分配することに専念せよ。天のままに従って天を称えるぐらいならば、天から与えられたものを人の力で活用することに専念せよ。よい時が来ることを待って望むぐらいならば、いまの時に応じて最適な活用を行うことに専念せよ。自然が恵みを増やすのを待って望むぐらいならば、人の知能を使って加工して財貨を増やすことに専念せよ。手元にないものをさもあるかのように空想するぐらいならば、いま手元にあるものを活用してこれがなくなってしまわないように努力することに専念せよ。万物生成の力のはたらきが成し遂げてくれることを願うぐらいならば、万物生成の力が現に存在していて万物を作り出し、人としてこれらを活用することに専念せよ。ゆえに、人の力を無視してただ天を思うだけであるならば、それは万物の本性を見失うことになるのだ。

わが国の歴史上の王たち(注3)が変えることをしなかったものこそが、根本の正道とみなすことができる。礼義の細目は時代によって廃止されたり新設されたりしたが、対応の根本は同じであった。根本をよく治めていれば国は乱れず、根本を知らなければ状況の変化に対応できなかった。根本の本質は、いまだかつて滅んだことはなかったのである。乱は根本から離れたときに起こり、治は根本を詳しく極めたところに起こった。ゆえに、正道とはそもそもが善政のためのものなのだから、これに当たっていれば従うべきであり、しかし正道から見て偏っていればこれを行ってはならず、もし正道から外れていれば大いに迷ってしまうだろう。水を渉る者は、水深が深くなる所に目印を付けておく。この目印が不正確であると、人は深みに陥ってしまう。人民を治める者は、正道に目印を付けておく。この目印が不正確であると、国はカオスに陥ってしまう。礼というものは、この正道の目印なのである。礼を否定すれば世の中は目印がなくなってまるで闇夜に入ったようになり、世の中が闇夜に入れば大混乱が起きるであう。ゆえに正道は明らかでなければならず、内と外で目印を変えて、見せるものと見せないものとの仕切りに一定のルールがあれば、人民は去就に迷って罪に陥ることもなくなるのである。

万物は、「道」の一片でしかない(注4)。一物は、万物の一片でしかない。愚者は、人間という一物の偏った一片でしかない。その愚者が、「自分は『道』を理解している」などと言うのは、自分の無知をさらけだしているのである。慎到(しんとう)は、人間の退歩的側面ばかりを見て、進歩的な力を見ようとしない(注5)。老子は、消極的屈従のよさばかりを言って、積極的発展の力を見ようとしない。墨子は、人間を平等にすることばかりを言って、人間には差別が必要であることを見ようとしない(注6)。宋鈃(そうけい)は、人間の寡欲さを称えるばかりで、人間が多欲であることを見ようとしない(注7)。慎到のように人間の退歩的側面ばかりを見るならば、人民が努力して進んでいくべきガイドラインがなくなってしまう。老子のように消極的屈従のよさばかりを言うならば、人が貴い身分に上昇しようとしなくなって貴賤が分離しなくなる。墨子のように人間を平等にすることばかりを言うならば、人の上に立つ者がいなくなって政治と法令が効力を発揮しなくなる。宋鈃のように人間の寡欲さを称えるばかりであるならば、人民を褒賞によって向上させて教化することができなくなる。『書経』に、この言葉がある。:

己の好き勝手な考えは、持ってはならない。
王者の正道に、従わなければならない。
悪をなすことは、あってはならない。
王者の正道に、従わなければならない。
(洪範篇)

この言葉が意味することは、今述べたとおりである。


(注1)増注は、例として春秋左氏伝文公十五年の記事を引用する。日蝕があったので周王は音楽を中止して社において鼓を打ち、諸侯は社に幣を納めて朝廷において鼓を打ち、神に祈る儀式を行った。
(注2)増注は、これ以下の節が変わるまでのくだりは老荘の徒が自然に任せることを知って自ら勉めることを知らないことを批判している、と見る。
(注3)原文「百王」。この言葉は儒效篇にも現れる。いにしえの時代の統治者たちのこと。
(注4)新釈漢文大系の藤井専英氏が書いているように、ここで荀子が使う「道」の意味は、他の箇所で用いるときには礼義・忠信といった人間の正道を指しているにも関わらず、道家と類似した自然の道理のように見える。
(注5)慎到についてのレビューは、王制篇(1)を参照。ただし、ここで荀子が慎到を批判するポイントは、彼の「勢」による統治術が賢人の政治を否定して権力の強制力のみに頼る点である。
(注6)墨子に対する荀子の批判は、富国篇(3)を参照。
(注7)宋鈃(宋牼、宋栄子とも記録される)については、孟子告子章句下、四を参照。
《原文・読み下し》
雩(う)して雨ふるは、何ぞや。曰く、何も無きなり。猶お雩せずして雨ふるがごときなり。日月食して之を救い、天旱(かん)して雩し、卜筮(ぼくぜい)して然る後に大事を決するは、以て求を得と爲すに非ざるなり、以て之を文(かざ)るなり。故に君子は以て文と爲し、百姓は以て神と爲す。以て文と爲せば則ち吉なるも、以て神と爲せば則ち凶なり。
天に在る者は日月より明なるは莫く、地に在る者は水火より明なるは莫く、物に在る者は珠玉より明なるは莫く、人に在る者は禮義より明なるは莫し。故に日月高からざれば、則ち光輝赫(かく)ならず、水火積まざれば、則ち煇潤(きじゅん)博ならず、珠玉外に睹(しめ)さざれば(注8)、則ち王公以て寶(たから)と爲さず、禮義國家に加わらざれば、則ち功名白(あきらか)ならず。故に人の命は天に在り、國の命は禮に在り。人に君たる者は、禮を隆(とうと)び賢を尊びて王たり、法を重んじ民を愛して霸たり、利を好み詐多くして危く、權謀・傾覆・幽險にして[盡](注9)亡ぶ。天を大として之を思うは、物畜して之を制(さい)する(注10)に孰與(いずれ)ぞ。天に從いて之を頌するは、天命を制して之を用うるに孰與ぞ。時を望んで之を待つは、時に應じて之を使うに孰與ぞ。物に因って之を多とするは、能を騁(は)せて之を化するに孰與ぞ。物を思いて之を物とするは、物を理して之を失うこと勿きに孰與ぞ。物の生ずる所以を願うは、物の成る所以有るに孰與ぞ。故に人を錯(お)きて天を思はば、則ち萬物の情を失う。
百王の變ずること無き、以て道貫と爲すに足る。一廢一起するも、之に應ずるに貫を以てす。貫を理すれば亂れず、貫を知らざれば、變に應ずるを知らず。之が大體を貫すれば、未だ嘗て亡びざるなり。亂は其の差に生じ、治は其の詳に盡(つ)く。故に道の善なる所、中なれば則ち從う可く、畸なれば則ち爲す可からず、匿(とく)(注11)なれば則ち大いに惑う。水を行く者は深に表す、表明(あきら)かならざれば則ち陷(おちい)る。民を治むる者は道に表す、表明かならざれば則ち亂る。禮なる者は表なり。禮を非とするは、世を昏ますなり。世を昏ますは、大亂なり。故に道は明かならざること無く、外內表を異にし、隱顯(いんけん)常有れば、民陷(みんかん)乃ち去る。
萬物は道の一偏爲(た)り、一物は萬物の一偏爲り。愚者は一物の一偏爲り、自ら以て道を知ると爲すも、知ること無きなり。愼子は後に見る有りて、先に見る無し。老子は詘(くつ)に見る有りて、信に見る無し。墨子は齊に見る有りて、畸に見る無し。宋子は少に見る有りて、多に見る無し。後有りて先無ければ、則ち羣衆(ぐんしゅう)門無し。詘有りて、信無ければ、則ち貴賤分かれず。齊有りて畸無ければ、則ち政令施さず。少有りて多無ければ、則ち羣衆化せず。書に曰く、好を作(な)すこと有ること無かれ、王の道に遵(したが)え、惡を作すこと有ること無かれ、王の路に遵え、とは、此を之れ謂うなり。


(注8)集解の王念孫は、「睹」字は「暏」であるべき、と言う。これならば「あきらか」という意味となる。新釈の藤井専英氏はこれに反対し、「睹」字のままでよい、と言う。「睹」字はふつう「みる」の意であるが、ここでは「しめす」の意で取る。藤井説に従う。
(注9)増注・集解の王先謙ともに、「盡」字は無用と言う。
(注10)集解の王念孫は、「制」は「裁」であるべき、と言う。理由はここから一連のくだりは対の語を押韻してあり、「思」と古代音で対応するのは「制」ではなくて「裁」だからである。
(注11)集解の王念孫は、「匿」字は「慝」であると言う。たがう、よこしまの意。

ここは、『荀子』全篇中でも最も有名なくだりの一つである。冒頭の雨乞いが装飾にすぎない、というくだりは、『韓詩外伝』にも引用されている。また猪飼彦博は、荀子が天論篇を著した理由を述べて、「当時天象に附託して五行を敷衍する荒唐迂闊の説が起こり、王公貴人がこれに眩惑されて人を措いて天を思う者が多く、政治を治めなかった。荀子はその事情を見て天論篇を著して、天を思うことの無益有害を説いて救世の論を立てた。そのため言葉は激切痛快であり、先王たちの敬天の旨がほとんどなくなるところまでいった。いわゆる『枉げるを矯めて直に過ぎる』ものである。その末流の弊害は言うに耐えないものがあり、韓非・李斯が荀子の門から出てしまったのもやむをえない。余は荀子のために、これを深く惜しむ」という趣旨の注をここで書いている。私は韓非・李斯を高く評価するところなので、むしろ彼らによって統一中華帝国のシステムが実現された踏み石として荀子があったことは、彦博とは違って惜しむことはない。ただ、天論篇が後世の儒者たちに対して、荀子が敬天の精神を持たない無神論者であると軽蔑される一端となったことは、彦博の言うとおりであろう。

天論篇の意図は、人間の力でコントロールできない自然現象に人間が期待することをやめよ、人間の力だけを信じろ、というものである。その儒家思想における孟子との連続性と相違点は、これまでに検討したところである。末尾に、諸子百家への批判が置かれている。富国篇では墨家への批判が展開されたが、天論篇では増注の久保愛も指摘するように、老子・荘子の道家への批判が主眼となっている。荀子が道家を批判する点は、その無為自然の政治思想・人生思想である。荀子は、礼法の知識を持つ官僚である君子が国家にとって絶対に必要不可欠な存在であると言う。そのような有能な君子は昇進させて国家の中枢に昇るのは当然であって、身分や地位を嘲笑する道家は荀子にとって許されるものではない。統治術としては、儒家と道家は見かけほどには大きな違いはない。荀子は礼法を整えることによって、簡潔な指示で大きな政策効果を出す統治を最上とした(彊国篇の秦国への評価を参照)。じつはこれは道家の統治術の理想とも一致しており、韓非子はその法家思想の根幹に、道家の無為自然の統治術を置いていた。ただ荀子はシステムの構築と同時に統治者の倫理もまた求めるのに対して、韓非子はシステムの構築だけに注目して統治者の倫理を求めない。

ところで『荀子』ではこうして道家が明確に敵として認識されているが、不思議なことに『孟子』においては道家への明確な批判が見えない。『孟子』においては荀子も批判する墨家とともに、楊朱(ようしゅ)が儒家の主要な敵としてあらわれる。楊朱は諸子百家の中では道家に分類されているが、その思想内容はいわゆる老荘思想とはかなり異なっている(楊朱の思想のレビューと孟子の楊朱批判は、こちらも参照)。荘子は孟子とほぼ同時代に活動した思想家であり、道家が諸子百家の明確な一勢力として自他ともに認識されるようになったのは、荘子以降の戦国時代後期のことだったのかもしれない。

以上で、天論篇は終わった。次に、正論篇第十八に進みたい。正論篇は、『孟子』の萬章章句に相当する議論である。

【次は、「正論篇第十八」を読みます。】

彊国篇第十六(1)

鋳型が正しく、溶かす銅と錫(すず)が優良で、工人の技術がよく、しかも火がよく調整されていれば、鋳型を開けば名刀の莫邪(ばくや)となるだろう(注1)。しかしながら、ここから鋳物のかすを取り去って研磨しなければ、縄を断つことすらできないだろう。しかし鋳物のかすを取り去って研磨すれば、盤盂(ばんう。古代の青銅器の一で、食物を盛る盆)を断ち切り牛馬の首を刎ねることは、簡単なことである。国家というものもまた、強国のもとを鋳型から開いたようなものである。教えず誨(さと)さず調整せず斉一にしなければ、国を守ることもできないし打って出て戦うこともできない。だがこれを教えて誨し、調整して斉一にするならば、兵は強くて城は固くなり、敵国はあえて干渉しようとはしなくなるだろう。国家というものもまた、研磨するものがある。礼義がそうであり、礼に従った各規則(注2)がそうである。ゆえに人の命は天にあり、国の命は礼にある。人君なるものは、礼を尊び賢人を尊べば、王者となる。法を重んじて人民を愛すれば、覇者となる。利を好んで詐りが多ければ、危険に陥る。権謀ばかりで人民をつき転ばして陰険な策略にふけっていたら、滅びる。

威には、三者がある。道徳の威、暴察の威、狂妄の威である。この三つの威については、必ず熟考しなければならない。礼楽が治まり、礼義に応じた身分の分別が明らかに行われ、事業を起こすときには適切な時を選び、人を愛して人を利用する政策は法(注3)に従う。このようであれば、人民は君主を尊ぶことが天帝のようとなり、これを仰ぐこと天を仰ぐがごとくとなるであろう。これに親しむことは父母のようであり、これを畏れることは神明のごとくとなるであろう。ゆえに、褒賞を用いずとも人民は励み、刑罰を用いずとも威が行われるのである。これが、道徳の威である。
礼楽は治まらず、身分の分別は不明確であり、事業は不適切な時に行われ、人を愛して人を利用する政策には法がない。なのに暴を禁じる手段は厳しく、不服者を懲罰するときには徹底的で、刑罰は重くて厳格に履行され、誅殺は必ず厳しく行われる。下の者たちはとつぜん雷撃に打たれたかのように怯え、壁が崩れ落ちて下敷きになったかのように苦しむ。このようであれば、人民は上から脅されれば畏れるが、上の締め付けが緩和されれば上を侮るであろう。拘束すれば集まるが、拘束がゆるめば散ってしまい、いざ敵軍が攻めてきたら戦意を喪失してしまうであろう(注4)。刑罰や権勢で脅かし、誅殺の恐怖によって進ませるのでなければ、下を支配することができない。これが、暴察の威である。
人を愛する心もなく、人を利する事業もなく、日々人を乱す道をなす。人民が騒動すれば、行ってこれを捕縛し、入れ墨・焼きごての刑を加える。人心を和する努力など、やりはしない。このようであれば、下は徒党を組んで脱走し、君主から去っていくであろう。もはや転覆滅亡は、時間の問題である。これが、狂妄の威である。この三つの威については、必ず熟考しなければならない。道徳の威は安泰で強く、暴察の威は危険で弱く、狂妄の威は滅亡する。

公孫子(注5)は、こう言った。
「楚の子發(しはつ)は将軍として蔡国を討伐し、勝利して蔡侯を捕らえた(注6)。本国に戻って復命して言った、『蔡候は、社稷を献上して楚に国を渡すと申しております。それがしは、配下の者たちに命じて蔡国を統治させています』と。楚国は、蔡討伐の論功行賞を発表した。だが子發はこれを辞退して、言った、『訓戒と法令だけで敵が撤退したのであれば、これは君主の威光の力がなした功績です。軍を転戦させて各地攻撃させた結果敵が撤退したのであれば、これは将軍の威力がなした功績です。合戦で兵が力戦した結果敵が撤退したのであれば、これは各人全員の力がなした功績です。今回の作戦は各人全員の力戦の結果、勝ちました。それがしは、各人全員の力がなした功績であるのに、褒賞を受けることをいさぎよしとしません』と。」
これに対して、荀子は厳しく反駁した。
「子發が君命をよく実行したのは、恭謙といえる。しかし子發が褒賞を辞退したのは、意固地であるにすぎない。そもそも賢人を尊び有能な者を用い、功ある者は賞し罪ある者は罰するのは、楚王が始めたことではない。それは、わが国の文明を建設した先王たちの正道なのである。それは、人間を斉一させるための基本法則なのである。善を善とし、悪を悪とする道であって、統治するには必ずこれに依拠すべきものなのであり、これは古今共通なのである。いにしえの頃、明君が大きな事業を行って大きな功績を挙げたときには、これら事業が成って功績が挙がったときには、明君はその成果をもらい受け、群臣はその功績をもらい受け、士大夫は爵位をもらい受け、庶民は禄を得たものである。これによって善をなす者は励み、不善をなす者は阻まれ、上下が心を一にして、総軍が力を一にした。こうして万事が成り、功名が大いに挙がったものである。今、子發だけがそうしない。先王の道に反し、楚国の法を乱し、功名を立てた他の家臣たちに傷を付け、褒賞を受けた他の者を辱め、一族に死刑となった者がいないにもかかわらず、彼の子孫たちが本来受けるべきであった祖先の功績を無にしてしまったのである。だから、私は子發のことを自分一人が清廉であるだけだ、とみなすのである。なんという甚だしい過ちであろうか。私が子發のことを君命をよく実行したのは恭謙といえるが、褒賞を辞退したのは意固地であるにすぎないと批判するのは、そのためである。」


(注1)古代の剣は青銅製で、鋳物である。古代中国では鍛造術より先に鋳造術が発達して、良質の青銅剣が作られた。
(注2)原文「節奏」。この語は礼義の下位概念として使われている。楊注は法度のことと言うが集解の王先謙は節奏は法度を含む概念であると言って楊注に反対している。
(注3)原文「愛利則形」。藤井専英氏は「形」を外に形としてあらわれる、と言う解釈を取るが、集解の郝懿行の「形」は「刑」すなわち法のことである、という解釈を取りたい。これに従って訳す。
(注4)原文「敵中則奪」。楊注は敵人が中道を得ればすなわちその国を奪われる、と言う。集解の兪樾は、「敵」を「適」と読む。しかし両者の解釈とも、釈然としない。猪飼補注は敵これを撃てばすなわち民その気を奪わる、と読む。これが一番もっともらしいので、猪飼補注を取る。
(注5)詳細不明。猪飼補注は公孫子とは人名ではなくて書名であり、漢書芸文志にある儒家の『公孫尼子』二十八篇のことであろう、と言う。ならば荀子は、ここで書中の主張に論駁したことになる。いちおう楊注以来の通説に従い、人の言葉に対して反論したことにする。
(注6)蔡国は周の武王の弟である蔡叔度(さいしゅくど)を始祖とする国。春秋時代中期にはすでに楚の侵略を受けていたが、春秋時代の末期、楚の恵王四十二年に楚国によって亡ぼされた。
《原文・読み下し》
刑范(けいはん)(注7)正しく、金錫(きんせき)美に、工冶巧に、火齊得れば、刑を剖(ひら)きて莫邪(ばくや)なり。然り而(しこう)して剝脫せず、砥厲(しれい)せざれば、則ち以て繩を斷つ可からず。之を剝脫し、之を砥厲せば、則ち盤盂(ばんう)を劙(れい)し、牛馬を刎ねるも忽然たるのみ。彼の國なる者は、亦强國の刑を剖きしものなり。然し而して教誨せず、調一せざれば、則ち入りては以て守る可らず、出でては以て戰う可からず。之を教誨し、之を調一すれば、則ち兵勁(つよ)く城固く、敵國敢えて嬰(ふ)れざるなり。彼の國なる者も亦砥厲有り、禮義・節奏是れなり。故人の命は天に在り、國の命は禮に在り、人君なる者は、禮を隆(とうと)び賢を尊びて王たり、法を重んじ民を愛して霸たり、好利・多詐にして危く、權謀・傾覆・幽險にして亡ぶ。
威に三有り、道德の威なる者有り、暴察の威なる者有り、狂妄の威なる者有り。此の三威なる者は、孰察(じゅくさつ)せざる可らざるなり。禮樂は則ち脩まり、分義は則ち明らかに、舉錯(きょそ)は則ち時にし、愛利は則ち形あり、是の如くなれば、百姓是を貴ぶこと帝の如く、之を高しとすること天の如く、之を親しむこと父母の如く、之を畏るること神明の如し。故に賞用いずして民勸み、罰用いずして威行われ、夫れ是を之れ道德の威を謂う。禮樂は則ち脩まらず、分義は則ち明らかならず、舉錯は則ち時ならず、愛利は則ち形ならず、然り而して其の暴を禁ずるや察、其の不服を誅するや審、其の刑罰重くして信あり、其の誅殺猛にして必し、黭然(あんぜん)として之を雷擊するが而(ごと)く(注8)、之を牆厭(しょうよう)するが如し。是の如くなれば、百姓劫(おびや)かさるれば則ち畏を致し、嬴すれば則ち上に敖(おご)り、執拘(しゅうこう)すれば則ち最(あつま)り(注9)、閒(けん)を得れば則ち散ず。敵中なれば則ち奪い、之を劫(おびやか)すに非ざれば形埶(けいせい)を以てせず、之を振わすに誅殺を以てするに非ざれば、則ち以て其下を有すること無し。夫れ是を之れ暴察の威と謂う。人を愛するの心無く、人を利するの事無くして、日に人を亂るの道を爲し、百姓讙敖(かんごう)すれば、則ち從いて之を執縛(しゅうばく)し、之を刑灼(げいしゃく)(注10)し、人心を和せず。是の如くなれば、下は比周・賁潰して、以て上を離る。傾覆・滅亡は、立ちどころにして待つ可きなり。夫れ是を之れ狂妄の威と謂う。此の三威なる者は、孰察せざる可らざるなり。道德の威は安强を成し、暴察の威は危弱を成し、狂妄の威は滅亡を成すなり。
公孫子曰く、子發は將として[西](注11)蔡を伐ち、蔡に克ちて蔡侯を獲らえ、歸りて命を致して曰く、蔡侯は其の社稷を奉じて、楚に歸す。舍(しゃ)(注12)二三子に屬して、其の地を治む、と。既にして、楚其の賞を發す。子發辭して曰く、誡を發し令を布きて敵退く、是れ主の威なり。徙舉(しきょ)相攻めて敵退く、是れ將の威なり。合戰力を用いて敵退く、是れ衆の威なり。臣舍宜しく衆威を以て賞を受くべからず、と。是を譏(そし)りて曰く、子發の命を致すや恭、其の賞を辭するや固。夫れ賢を尚び能を使い、有功を賞し、有罪を罰するは、獨り一人之を爲すに非ざるなり、彼は先王の道なり、人を一にするの本なり、善を善とし惡を惡とするの應なり、治必ず之に由る、古今一なり。古は明主の大事を舉げ、大功を立つるや、大事已に博く、大功已に立てば、則ち君は其の成を享けて、羣臣は其の功を享け、士大夫は爵を益し、官人は秩を益し、庶人は祿を益す。是を以て善を爲す者を勸み、不善を爲す者を沮(はば)み、上下心を一にし、三軍力を同じうす。是を以て百事成りて、功名大なり。今子發は獨り然らず、先王の道に反し楚國の法を亂し、興功の臣を墮(こぼ)ち、受賞の屬を恥(はずか)しめ、族黨に僇(りく)無くして、而も其の後世を抑卑す。案(すなわ)ち獨り以て私廉と爲す。豈に過つこと甚しからざるや。故に曰く、子發の命を致すや恭、其の賞を辭するや固、と。


(注7)「刑」は「形」のこと。刑范は鋳型のこと。
(注8)「而」は「如」と通じる。
(注9)『韓詩外伝』の引用では「最」が「聚」である。集解の郝懿行は、「最」は「冣」に作るべしと言う。冣(あつま)る。
(注10)増注は「形」は「黥」であろうかと言う。王制篇議兵篇では「灼黥」である。これに従う。
(注11)集解の王念孫は、蔡は楚の北にあるから西のはずがなく、この「西」字は「而」であろうと言う。これに従う。
(注12)子發の名。

【この篇は、「議兵篇第十五」の後に読んでいます。】

彊国篇は、興味深い篇である。
斉国と秦国の宰相との荀子の対話があって、歴史的証言としても貴重である。中でも荀子が秦を訪問して応候范雎(はんしょ)と対話した内容には、普段の儒家イデオロギーから出てくる秦国への厳しい批判とは違って、荀子が実際に秦国を見聞したときに印象した秦国の国情が垣間見られて、興味深い。荀子は実際に目で見た秦国が、儒家のイデオロギーから見た国とは違っていることを、告白せざるをえなかった。秦国が勝利した原因は、兵が強いとか人民を法で縛っているとか、そのような原因だけではない。そもそもが清潔な官僚制度を持ち、質朴な人民を持つ、中原地方にはない古きよき美俗を持っていた国であったからなのだ。秦国を実見したとき、荀子は秦国に中華を統一する王者を期待せざるをえなくなったろう、と私は考える。

しかしここに掲げる子發に対する荀子の批判は、いかがであろうか。

荀子も批判しているように、将軍ともあろうものが褒美を辞退しては、褒美をもらった同僚は気まずいであろうし、下の者は褒美を求めにくくなる。だから責任ある行為とはいえない。これは、正論であろう。加えて、ここで公孫子は子発のことを美談として伝えているはずである。だがそれが時の君主たちによって悪用されて、「子發のように恩賞を求めず働くのが、真の武将である。恩賞などとガツガツ言うのは見苦しい限りで、人間として外れている」とか言って恩賞を出さない言い訳にも使われかねない。だから荀子は躍起になって子発の美談をただの意固地であると批判した、とは言える。しかし先王の道に反し、楚国の法を乱して、子孫にも悪いことをした、という荀子の言葉は、レトリックとはいえ鼻白むものがある。このようなことを書くから、荀子は後世の人間たちに軽蔑されたのであろう。

個人の美談はシステムにとって害悪である、という醒めた視点は、荀子の弟子である韓非子を見ているかのようである。韓非子は法による社会の統制を主張する立場から、法のシステムに従わない人間の行動はそれが善意からなる行為であっても罰するべきであると言い、韓の昭公のエピソードを挙げた。

昔、韓の昭候が酔って寝入っていた。典冠(てんかん。君主の冠を管理する役人)が、君主が寒がっているのを見て、衣をその上に掛けてあげた。候が目覚めて喜び、誰が衣を掛けたのか、と左右の者に問うた。典冠である、と左右の者は答えた。候は、典衣(てんい。君主の威服を管理する役人)と典冠の両名を罰した。典衣を罰したのは、なすべき職務を行わなかったからであった。典冠を罰したのは、なすべき職務を越えたからであった。寒さを嫌わなかった、わけではない。官が職務を侵すのは寒さよりも深刻な問題であると考えての措置であった。
(『韓非子』二柄篇より)


師の荀子のここでの批判と、弟子の韓非子の昭候を称える論理は、非常に接近している。やはり両者は、子弟である。荀子も韓非子も間違いなく国家運営のための真理を言っているのであり、その点では有益な指摘である。両者は、人間よりもシステムを優先する視点を持つのである。

だがその視点に立つことによって、人間の持つ自発性は、むしろ見えなくなってしまう。日本の武士たちは、子發のような謙譲の精神を美徳としていたのではなかっただろうか。古代ローマ人たちもまた、独裁官を辞して農民に帰ったキンキナトゥスの謙虚な武勇を、美談として称えていた。子發のエピソードは、おそらく古代中国でも人気があったのであろう。荀子は人々が子發の行為に胸のすく思いをしていたところに危険を感じて、こうして批判したのであろう。その意図は、よく分かる。しかしながら子發やキンキナトゥスを美しいとして称える精神が死んでしまったら、おそらくその社会は四分五裂してしまうであろう。礼法が強い国を作るのではない、その逆なのである。むしろ強い社会が礼法を採用したとき強い国にもなれる、と言うべきではないだろうか。

彊国篇第十六(2)

荀子が、斉国の宰相に説いて言った。
「人に勝つ権勢を持ち、人に勝つ道を行って、しかも天下がこれを怒らなかったといえば、湯王・武王がそうです。人に勝つ権勢を持ちながら人に勝つ道を用いず、天下を保有する権勢を厚く持ちながら庶民として生きることを望んでもかなえられない(注1)のは、桀王と紂王です。ならば、人に勝つ権勢を持っていることは、人に勝つ道を行うことに遠く及ばないというものです。君主・宰相とは、人に勝つために権勢を使われるものですが、しかしながら、是を是とし、非を非とし、能を能とし、不能を不能とし、おのれの私欲を斥けて、必ずや万民が共有できる正道と正義に従うことこそが、人に勝つ道なのです。今、宰相閣下は上は主君を思い通りに動かすことができて、下は斉国を思い通りに動かすことができます。まことに閣下は、人に勝つ権勢を持っておられます。ならば、どうしてお持ちの人に勝つ権勢を用いられて、人に勝つ道を行かれないのですか?仁に厚く諸事に明るい君子を求めて王を補佐せしめ、これらとともに国政を執り、是非を正されたならば、国の者で義をなさない者はありえないでしょう。君も臣も、上も下も、貴人も賎者も、年長も年少も、庶民に至るまでみな義を必ず行うようになれば、天下すべてが斉国の義に合流することを望むでしょう。賢明の士は閣下の朝廷に参ることを願い、有能の士は閣下の官となることを願い、利を好む人民ですらも斉国の住民となりたいと必ず願うようになるでしょう。しかしながら、閣下はこの道を捨てて顧みない。ただただ、世俗の行う方策を取られるだけだ。王の妃妾どもは、後宮で国政を乱している。詐臣どもは、朝廷を乱している。貪欲な官吏どもは、官庁を乱している。人民どもは、皆利を貪りこれを争奪することを日常としている。こんなことで、国を維持していけましょうや?いま、巨大な楚国が面前に広がっているではありませんか。燕国が、背後から迫っているではありませんか。強力な魏国が、右翼(注2)から噛み付いて来ているではありませんか。西の国境は、今や細い縄のようなもので、いつ破られるか分かりません。また楚人は襄賁(じょうひ)・開陽(注3)を持ってわが左翼に対峙しています。これは、このうち一国がはかりごとを用いたならば、三国は必ずこぞって斉国の隙に乗じてくるでしょう。こうなってしまえば、斉国は必ず四分五裂してしまうことでしょう。斉国が、にわか仕立ての城のように崩れ去ってしまうしかありません。必ずや、天下の物笑いとなるでしょう。閣下、人に勝つ道と世俗の行う方策と、いったいどちらを選ばれるのでございますか?」

そもそも桀王と紂王は、聖王である禹と湯王の子孫であり、天下を保有する家の末裔であり、勢威ある地位にあった天下の宗室であった。その土地は千里四方もあり、臣民の数は億万をもって数えた(注4)。なのに、あっという間に天下は目が覚めたかのように桀・紂の下を去って湯・武の下に走り、手の平を返すように桀・王を憎んで湯・武を貴んだ。これは、どうしてであろうか?かの桀・紂は何を失って、湯・武は何を得たのであろうか?
これは、他でもない。桀・紂は、人が憎むことをさせれば名人であった。湯・武は、人が好むことをさせれば名人であった。人の憎むこととは、何であろうか?それは、人を誹謗することであり、人と争って奪うことであり、利をむさぼることである。人の好むこととは、何であろうか?それは、礼義であり、謙譲の精神であり、忠信の心である。いまどき、人の君主たるものは、己をたとえるときには湯・武と並び立つことを望んでいる。しかしその統治のしかたは、桀・紂と何ら変わりはない。それなのに、湯・武の功名を立てたいと望んで、それが許されるであろうか。ゆえに、およそ勝利する者とは、必ず人民とともに歩むものなのである。およそ人民の支持を得る者は、必ず正道とともに歩むものなのである。正道とは、何であろうか?それは、礼義、謙譲の精神、忠信の心なのである。ゆえに、人口は四、五万程度いれば必ず勝てるのである。人口の力が興隆の道なのではなくて、興隆の道は信頼にあるのだ。領地は、百里程度あれば必ず安泰なのである。領地の大きさが興隆の道なのではなくて、興隆の道は誠実にあるのだ。いま人口数万を持っていながら他人を誹謗したり他人にへつらったりする姑息な策で勢力を拡大しようと争い、また領地は数百里ありながら誹謗や抜け駆けの姑息な策を用いて土地を拡大しようと争うならば、これはいわば自分が強くて安泰となるべき道を自分で放棄して、自分が危険で弱くなるべき道を争って選び、自分が足りずに増していかなければならない信頼と誠実を減らして、自分があり余るほどに持っている人口と領地を増やしているようなものである。これほどまでに、間違っている。なのに湯・武の功名など、許されるだろうか。たとえるならば、うつぶせで空を舐めようとするようなものであり、首吊りから助けようとして足を引っ張るようなものである。絶対にうまくいかないだろう。努力すればするほど、湯・武の功名から遠ざかっていくだろう。人の家臣となった者が、己の理想の政策が行われないことを憂うこともせず、いやしくも利を得るのみであるならば、これはいわば、落とし穴に落ちた車で仕事をさせようとするようなものである(どんなに優秀な機械でも、状況が悪くては前にも後ろにも進まない)(注5)。これは、仁の人ならば恥じてなさないことである。人は生きながらえるよりも尊きはなく、安泰であることよりも楽しいことはない。命を永らえ、安泰を楽しむためには、礼義を選ぶより効果の大きなものは、ないのである。人が命を永らえ、安泰を楽しみたいと思うにも関わらず礼義を捨てるならば、これをたとえるならば長寿を欲しながら喉を切って自害するようなものである。これほどまでに、愚かなことはない。ゆえに人の君主たる者は人民を愛することによって安泰となり、士を好んで栄え、そしてこの両者がなければ滅ぶのである。『詩経』に、この言葉がある。:

よき民は、み国の藩(まがき)
天子の師は、み国の垣(かきね)
(大雅、板より)

この言葉が、理想なのである。


(注1)古代中国での独特の言い回し。天子は王朝の天命が尽きれば社稷を返上し、王朝を終わらせてその一族は庶民に帰る。そうするから許してくれ、と言っても許してくれない、という意味。天皇家が交替したことがない日本人には分かりにくい。
(注2)原文「右」。王は南を向いて座るので、右は西方のこと。
(注3)楊注は、東海郡にある楚の二都市と言う。本ページ下の地図で、斉の南部の楚領のあたり。
(注4)この数はさすがに荀子の時代においては誇張しすぎであるが、前漢代末期に当たる紀元2年の帝国総人口は59,594,978人であり、以降明代まで中華帝国の人口数は各王朝のピーク時において、国家が把捉している人口数おおよそ6000万人前後で推移した。ここに戸籍外の人間を足したならば、中華帝国の最大人口数は1億弱であったと総括してもあながちまちがいではない。この人口の天井は、清代になって新大陸から能率の高い作物が導入されたときに突破された。
(注5)原文を意訳した。下の注14参照。
《原文・読み下し》
荀卿子齊相に說いて曰く(注6)、人に勝つの埶(せい)に處(お)り、人に勝つの道を行いて、天下忿(いか)ること莫きは、湯・武是れなり。人に勝つの埶に處り、人に勝つの道を以(もち)いず(注7)、天下を有するの埶に厚くして、匹夫爲(た)らんことを索(もと)むるも得可からざるなり、桀・紂是れなり。然らば則ち人に勝つの埶を得る者は、其の人に勝つの道に如かざること遠し。夫(か)の主相なる者は、人に勝つに埶を以てするなり。是を是と爲し、非を非と爲し、能を能と爲し、不能を不能と爲し、己の私欲を併(しりぞ)けて、必ず以て夫の公道・通義の以て相兼容(けんよう)す可き者に道(よ)る、是れ人に勝つの道なり。今相國上は則ち主を專(もっぱら)にすることを得、下は則ち國を專にすることを得、相國の人に勝つの埶に於ける、亶(まこと)に之有り。然らば則ち胡(なん)ぞ此の人に勝つの埶を敺(か)りて、人に勝つの道に赴き、仁厚・通明の君子を求めて王を託し、之と國政に參し、是非を正さざるか。是の如くなれば、則ち國孰(たれ)か敢て義を爲さざらん。君臣・上下、貴賤・長少、庶人に至るまで、義を爲さざること莫くんば、則ち天下孰(たれ)か義に合するを欲せざらん。賢士は相國の朝を願い、能士は相國の官を願い、好利の民は齊を以て歸と爲すことを願わざること莫けん、是れ天下を一にするなり。相國是を舍(す)てて爲さず、安(すなわ)ち直に為是の世俗の爲す所以を爲さば、則ち女主之が宮に亂り、詐臣之が朝に亂り、貪吏之が宮に亂り、衆庶・百姓は皆貪利・爭奪を以て俗と爲す、曷(なん)ぞ是の若くにして以て國を持す可けんや。今巨楚は吾が前に縣り、大燕は吾が後に鰌(せま)り、勁魏(けいぎ)は吾が右を鉤(こう)し、西壤の絕えざること繩の若し。楚人は則ち乃(また)(注8)襄賁(じょうひ)・開陽を有(たも)ちて以て吾が左に臨む、是れ一國謀を作(な)せば、則ち三國必ず起りて我に乘ず。是の如くなれば、則ち齊必ず斷たれて四三と爲り、國は假城(かじょう)の若く然る(注9)のみ、必ず天下の爲に大笑せられん[曷若](注10)。兩者孰(いず)れか爲すに足るや。
夫の桀紂は、聖王の後子孫なり、天下を有する者の世なり、埶籍(せいせき)(注11)の存ずる所なり、天下の宗室なり。土地の大は、封內千里あり。人の衆は、數うるに億萬を以てす。俄(にわか)にして天下倜然(てきぜん)として舉(みな)桀紂を去りて湯武に犇(はし)り、反然として舉(みな)桀紂を惡(にく)んで湯武を貴ぶ。是れ何ぞや。夫(か)の桀紂は何を失いて、湯武は何を得るや。曰く、是れ它の故無し、桀紂なる者は善く人の惡む所を爲すなり、湯武なる者は人の好む所を爲すなり。人の惡む所は何ぞや。曰く、汙漫(おまん)・爭奪・貪利是れなり。人の好む所は何ぞや。曰く、禮義・辭讓・忠信是れなり。今人に君たる者、譬稱(ひしょう)・比方(ひほう)せば則ち自ら湯武に並ばんことを欲す。其の之を統(す)ぶる所以の若きは、則ち以て桀紂に異なること無くして、湯武の功名有らんことを求む。可ならんや。故に凡そ勝を得る者は、必ず人と與(とも)にするなり、凡そ人を得る者は、必ず道と與にするなり。道なる者は、何ぞや。曰く、禮義・辭讓・忠信是れなり。故に四五萬自(よ)りして而往(じおう)なる者は强勝なり、衆の力に非ざるなり、隆は信に在り。數百里自(よ)りして而往なる者は安固なり、大の力に非ざるなり、隆は脩政(しゅうせい)(注12)に在り。今已に數萬の衆を有する者や、陶誕(ようたん)(注13)・比周して以て與(よ)を爭う。已に數百里の國を有する者や、汙漫・突盜して以て地を爭う。然らば則ち是れ己の安强なる所以(注14)を弃(す)てて、己の危弱なる所以を爭い、己の足らざる所以(注14)を損じて、以て己の餘有る所以(注14)を重ぬ。是の若くに其れ悖繆(はいびゅう)なり、而(しこう)して湯武の功名有らんことを求む、可ならんや。之を辟(たと)うるに、是れ猶伏して天を咶(ねぶ)り、經(くびくく)られるを救いて其の足を引くがごときなり。說必ず行われず、愈(いよいよ)務めて愈遠し。人臣爲る者は、己が行の行われざるを恤(うれ)えず、苟(いやし)くも利を得るのみなるは、是れ渠衝(きょしょう)穴に入りて利を求むる(注15)なり、是れ仁人の羞じて爲さざる所なり。故に人生より貴きは莫く、安より樂しきは莫く、生を養い安を樂しむ所以の者は、禮義より大なきは莫し。人生を貴び安を樂しむことを知りて禮義を弃つるは、之を辟うるに、是れ猶壽を欲して歾頸(ふんけい)するがごときなり、愚焉(これ)より大なるは莫し。故に人に君たる者は、民を愛して安く、士を好んで榮え、兩者一無くして亡ぶ。詩に曰く、价人維れ藩、大師維れ垣、とは、此を之れ謂うなり。


(注6)「荀卿子說齊相曰」の七字は宋本にあって元本にない。猪飼補注は、ここだけが「荀卿」であって『荀子』の他の箇所では「孫卿」と言及されているところから、これは宋人の追加であろうと言う。増注は、もしこの七字がなければ、前の文が公孫子に対する荀子の言葉であったのに、ここ以降の文もまた斉相への荀子の言葉なのに冒頭に何もないと前の文の末尾から切れた流れにならないので宋本どおりにする、というような意味のことを言っている。
(注7)楊注は、「以」は「用」であると言う。
(注8)集解の兪樾は、「乃」は「又」の誤りであろうと言う。
(注9)増注には「然」字がない。
(注10)集解の王念孫は、この二字は衍字と言う。
(注11)「埶籍」について集解の王念孫は、籍は位に同じと言う。勢威ある地位。
(注12)集解の王念孫は「政」は「正」である、と言う。富国篇(4)の「脩正」と同じ。
(注12)栄辱篇において集解の郝懿行は、「陶誕」はすなわち「謠誕(ようたん)」であり毀謗誇誕、と言う。栄辱篇(2)注7参照。
(注14)増注は宋本によって三箇所に「以」字を加える。
(注15)渠衝(きょしょう)は城攻め用の大車。「渠衝穴に入りて利を求む」を直訳すれば、「大きな車が穴の中に入ってなお利を求める」ということであるが、意味は各注釈者で微妙に異なるも大筋は、使えない状態にありながら利を求めることはできない、という意味に取っているようである。現代的に言うならば、落とし穴に落ちた車はどんなに速度を出すことができても走れない、とでもいうべきであろうか。それっぽく意訳した。

いま底本としている『漢文大系』では、上のくだりで一節としている。ここは斉国の宰相への言葉であるが、もとよりそれがそのまま収録されたわけではなくて、後世に編集したものである。金谷治氏は全てが宰相への言葉、というように訳してある。ここから後に秦の応候范雎(はんしょ)との問答があるのだが、その前にイントロとして秦を批判する文章がある。上のくだりもそうではないか、と考えて、前半は斉の宰相への言葉、後半はアウトロとして斉を批判する文章、とみなして現代語訳とした。

ではこの問答は、いつ行われたのであろうか?

荀子の生年は、不明である。『史記』において、荀子が「五十歳になって、はじめて斉にやって来て遊学した」「斉の襄王(じょうおう)の時には荀卿は最年長の老師となっていた」と記載されている情報が鍵である。斉の襄王は、BC280年からBC264年まで在位した。もし荀子が襄王の最後の年に初めて斉国に遊学し、そのとき五十歳であった、と考えたならば、荀子の生年はBC314年前後ということになるであろう。荀子はその後斉国を去って、楚国の春申君の下で蘭陵という地の令(れい、長官)となった。その春申君はBC238年に暗殺され、荀子は令を解任されたが、その後も蘭陵に留まった(『史記』)。したがって、荀子は少なくともBC238年には活動していた。いまもし荀子の生年をBC314年とするならば、荀子はこの時点で七十六歳ぐらいである。『史記』の書きぶりから見ると荀子はその後もしばらくは蘭陵に居住していたようであるから、八十代ぐらいまで生きていた、と考えたならば常識的な長寿の範囲となるだろう。これがどうやらもっとも流布している荀子の生没年説のようである。

しかしながら、以上は荀子が襄王の最後の年に初めて斉国に遊学した、ということを前提にした考証である。襄王の在位期間の中途の頃に荀子が斉国で活動していた、ということにすれば、荀子の生年はより早くにずれるだろう。『史記』の記述を読むと、むしろそう取ったほうがよいと私は考える。五十歳で初めて来訪した荀子がその年のうちに斉国の最長老の老師(史記原文「最爲老師」)となった、というのは少々無理がある。もっと前から斉国の学者サークルで活動していた、と考えたほうがよいだろう。この考えと整合性を持たせる説としては、『史記』の「五十歳」という記述を「十五歳」の誤りであるとみなすものがある。荀子関係の一部の書籍には、荀子の経歴について斉国に初めて遊学したのが「十五歳」と書かれていることを根拠とする。しかし重澤俊郎氏も指摘するように、これは疑わしい。「十五歳」は『史記』のオリジナルの記述を後世の者が転記したものに違いなく、その時過失かあるいは意図的に書き換えたものであると思われる。

そして、ここでの荀子の斉国に対する発言の内容である。これはいつの時代のことであるか、文中では明言されていない。
しかしながら、これは襄王の前の代である湣王(閔王)末年の頃の斉国を取り巻く国際情勢を指している可能性がある。一応当時の情勢を、説明したい。

この頃の斉国は、周囲をとりまく諸国の対斉連合軍によって攻撃される寸前であった。BC288年斉は南にある宋国へ侵攻し、BC286年に宋の偃王を殺した。宋国は領地は大きくなかったが、領内に豊富な藪沢を保有して富裕な国であった。斉の野望は宋を併合してさらに楚国の淮水以北を征服し、国力を拡大することであった。当時活動していた縦横家の蘇代(そだい)は、斉のこの作戦が成功したら斉の領土は倍となると警告して、諸国連合で斉を潰そうと遊説したものである。

このとき燕国の王は昭王であり、王は楽毅(がくき)を亜卿(あけい)に任じて軍事と外交を担当させていた。楽毅は斉が強大で周辺諸国から憎まれているのを見て、これらを合従させて対斉連合軍を作ることに成功した。BC285年、燕・魏・楚・秦・趙・韓の連合軍が楽毅の指揮のもとで斉軍を破った。楽毅の燕軍はさらに進んで斉国の都を陥落させ、五年の間に斉国の七十余城を降してこれを燕に併合させたのであった。斉国は、莒(きょ)・即墨(そくぼく)の二城を除く全ての城を楽毅に奪われてしまった。斉の湣王は敗走して、逃げ込んだ莒で殺された。ここで斉国は滅亡の瀬戸際に追い込まれたのである。

これは、かつて斉国が燕国に侵攻して併合を試みた仇への、昭王の意趣返しであった。かつて斉国は、燕の王が家臣に国を譲るという事件に続いた燕国の内乱に乗じて、侵攻したのであった(BC314年)。このとき斉王に燕への侵攻を提議したのは、儒家の孟子であった。その経過は、『孟子』梁恵王章句下および公孫丑章句下に詳しく書かれている。ただしこれらは孟子の側が書いた言い訳の文章であり、一貫して孟子は悪くない、悪いのは斉王とその家臣たちである、ということにしている。併合の目論見は大失敗に終わり、斉国は撤退し、抵抗軍を率いた昭王が新たな燕王に即位した(BC313年)。孟子は斉国にいられなくなったのであろう、斉国の客卿の位を捨てて本国の魯国に帰った。

昭王は侵略者である斉国への復讐を誓い、賢人を招くために身を屈して士にへりくだった。このときに魏国からやって来たのが、楽毅であった。昭王と楽毅は、斉国に攻め込む機会を長々と待った。ついに斉国が宋を滅ぼし、楚からも領地を奪う作戦に出たときが、機会であった。斉王は南方の作戦に気を取られすぎて、背後から襲撃される危険をおろそかにした。この機会に乗じて、楽毅は斉国に侵攻したのであった。斉王は単独で諸国全てを相手にするだけの国力がないにも関わらず、諸国から土地を奪って力を示すばかりであり、天下全てを敵としてしまったのであった。さきほどの王制篇における偽りの「強者」であり、「覇者」として諸国に信用を与えることができなかった。というよりも戦国時代になるとかつての「覇者」はすでに時代遅れとなっていて、各国はひたすら他国を併合して領地を拡大するばかりの弱肉強食の時代に移っていた。斉王は時代のとおりに行っただけであったが、ただ後の秦国ほどの圧倒的な国力がなかった。斉国と秦国を分けたのは単に国力の差にすぎず、仁義の有無ではない。

しかし、斉国は滅びなかった。即墨の城を死守していた将軍の田単が、反撃に出た。『史記』によると彼は城内から千余頭の牛を集めさせて、これらの角には刀を付け尾には火の付いた葦束をくくり付けて、夜陰に乗じて城内の穴から燕軍に向けて放った。火を嫌って逃げる牛の群れは燕軍を斬り付け、その後に斉軍が打って出た。燕軍は壊走し、燕の将軍は捕らえ殺された。いわゆる火牛の計により、即墨の戦は斉軍の大勝利となった。田単は逃げる燕軍を追撃して斉国の都市を回復し、斉都も奪回して旧の領土を取り戻した。BC280年には襄王が後を継いで即位し、斉国は復興したのであった。即墨の戦のとき、すでに楽毅は昭王の死後に替わった恵王によって将軍を解任され、王に誅罰されることを恐れて趙国に亡命していた。即位したばかりの恵王は、楽毅が即墨を陥落させずいまだに斉国に留まっているのは、自らが斉で自立して斉王となろうとしているからだ、という流言を信じた。それゆえの楽毅の解任であったが、この流言は楽毅を除くために田単が燕国に流した策略であった。先代より度量が落ちた恵王は、まんまと踊らされたのであった。こうして斉国は復興したが、かつて東帝を名乗って覇者の気概を見せていた斉国の力が元に戻ることは二度となく、以降は鳴かず飛ばずで秦国が他の国を亡ぼすのを傍観しながら、BC221年に始皇帝によって最後に併合された国となった。

説明を終えて荀子に戻るが、上に訳出した箇所で荀子が述べている斉国の情勢は、BC285年の直前の時期のものと考える必要がある、と私は考えたい。

  • 荀子が斉国の政策を厳しく批判していること。これは湣王の時代の政策への批判、と考えたほうがよい。
  • 力任せに領地を拡張しようとする政策が、湯王・武王の道から遠いと指摘していること。これは湣王の路線であり、襄王の時代にはすでにこのような力は斉国にはなかった。
  • 楚国と燕国の脅威を強調していること。湣王の末年、楚国は斉国と交戦状態であり、燕国は対斉包囲網の中心である。
  • 漢代の書物である『塩鉄論』にも、斉が湣王の末年に斉を去った、という言及があること(注)。
(注)鹽鐵論、巻二、論儒「湣王に及びて…南は楚・淮を舉(あ)げ、北は巨宋を并(あわ)せ…功を矜りて休まず、百姓堪えず。諸儒諫めるも從わず、各(おのおの)分散す。慎到・捷子亡去し、田駢薛に如(ゆ)き、孫卿楚に適(ゆ)く」(原文:及湣王…南舉楚・淮、北并巨宋…矜功不休、百姓不堪。諸儒諫不從、各分散、慎到・捷子亡去、田駢如薛、而孫卿適楚)。『塩鉄論』において、湣王が楚に侵攻して宋を併合するなど功を矜って休まず百姓が堪えず、諸儒が王を諫めたが王は従わなかったので各人は斉を去った、とある。その去った者の中に、慎到・田駢たちいわゆる稷下先生(史記孟子荀卿列伝を参照)とともに荀子(孫卿)が挙げられている。



以上によって、これは湣王末年の時代において荀子が斉国で行った発言ではないか、と考えたい。だとすれば荀子の生年はそれよりも50年前、すなわちBC335年より前ということになってしまう。重澤俊郎氏はこの彊国篇の記述と『塩鉄論』の記述を合わせて、荀子の生年を通説よりもずっと早くに繰り上げている。もしそれが本当であるならば、荀子は最低でも九十七歳ごろまで生きていて、おそらく百歳以上の異例の長寿であったということになるだろう。ちょっと信じがたいが、そう結論づけるしかない。

もっともこれは『史記』の記述が正しい、ということを前提とした考証であって、『史記』の記述が誤伝であった可能性は否定できない。荀子が五十歳で斉に遊学したのは実は最初ではなく、若い頃に最初に斉国に現れて湣王の末年に宰相に謁見したがここを去り、襄王の代となって再度斉国に現れて本格的に学究活動を行った、というのが真実であったとすれば、荀子の生没年はもっと常識的なものとなるであろう。しかしながら、そのための証拠はない。

荀子は、(証拠はないが、おそらく若い頃のことであろうと私は思う)斉国が征服戦を成功させたその直後に諸国から袋叩きに合って滅亡寸前に陥った様を、つぶさに見ていた。その実体験から、王制篇に見える「強者」「覇者」「王者」の三者の論が発展したのだろう、と私は考える。斉王は、偽の「強者」であった。ゆえに諸国を敵として、一転直下殺される末路となった。そこから荀子は、斉のような偽の「強者」は天下を取れない、ということを確信したのであろう。斉王は数百年前に自国を「覇者」に押し立てた桓公・管仲のようになることを、夢見ていたはずである。しかし、桓公・管仲は斉王よりももっと上手であったゆえに、「覇者」として成功したのであった。荀子の「強者」と「覇者」の比較は、斉王と桓公・管仲とを比較して、前者が失敗して後者が成功した、その原因を考察するところから練られたのであろう、と私は考える。その分析は、これまで見たように非常に的確である。

さらに荀子は、自らの「強者」論を、彼の晩年の秦国にも当てはめた。この彊国篇の斉国批判の後には、秦国批判が続いている。これは秦国もまた斉国と同じく偽りの「強者」である、と位置づけて、秦国はこのままでは斉国と同様に滅亡するであろう、と言いたいのである。だが、彼の予想は外れることとなった。秦国の国力は斉国を大きく上回っていて、もはや単独で天下統一が可能であった。なおかつ秦国には、斉国にはない官吏と人民の美風があって、それが国の基礎的な強さを供給していた。荀子は秦国を実際に見聞したときに、おそらく秦国は斉国とは違うことに気づいたであろう、と私は考える。しかしかといって、彼の築いた歴史観を捨て去るわけにはいかなったことであろう。偽の「強者」は滅び、「覇者」は諸国を安定させ、「王者」は天下を統一する、というのが荀子の歴史観であった。その歴史観を維持するために残された道は、秦国が偽の「強者」から「王者」に生まれ変わるのを期待することであった。

彊国篇第十六(3)

力の統治術は行き詰まるが、義の統治術はうまく行く。これは、どういう意味であるか。それは、秦国のことを言うのである。いま秦国は、勢威は湯王・武王よりも強く、領地の広さは禹・舜をも上回っている。なのにかの国は憂慮することが後を絶たず、戦々恐々として、天下の諸国が一体となって自国を踏み潰すことを常時恐れているではないか。これが、力の統治術は行き詰る、ということなのだ。

どうして、秦国の勢威は湯王・武王よりも強いと言うか。湯王・武王は、自らを喜んでくれる者だけを使役することができた。だが秦国は違う。いまの楚王(頃襄王)の先代であった父王(懐王)は秦のために死に、国土は秦のために奪われた。いまの楚王は、秦軍によって奪われた地から父祖三代の位牌を持ち運び、陳(ちん)・蔡(さい)地方に避難したのであった(注1)。楚王は機会を見て隙をうかがい、いつか起ち上がって秦国の腹を足で踏みつけてやろうと願っているのだ。にもかかわらず、楚王は秦国が左を向けと言えば左を向き、右を向けと言えば右を向く体たらくに陥っている。これは、己をかたきとする者を手の内で使っているようなものである。ゆえに、秦国の勢威は湯王・武王よりも強いと言う。

どうして、秦国の領地の広さは禹・舜をも上回っていると言うか。いにしえの王たちは、天下を統一して諸侯を家臣としたときでも、千里(400km)四方以上の直轄領を持った者はいなかった。だが秦国は違う。いまの秦国は、南は沙羨(さい。湖北省)を領有して、これを併合した。つまり、江南地方である。北は胡(こ。北方の遊牧民)・貊(ばく。同)と隣接し、西は巴(は。四川省。現在の重慶近辺。)・戎(じゅう。チベット高原の民)を従え、東では楚国から占領した土地をもって斉国と境界を接し(注2)、韓国からは常山(じょうざん。不明)を越えて臨慮(りんりょ。河南省)まで占領し、魏には圍津(いしん。河南省)に拠点を築いて、魏都の大梁(たいりょう。河南省。後世の開封。)からわずか百二十里(48km)にまで迫り、趙国への侵略は苓(れい。不明)を占領して趙国の松柏の塞(注3)に陣取り、西海(さいかい。不明。ゴビ砂漠であろうか?)を背に常山(じょうざん。藤井専英氏は所在地不明と言う。)の地を固めている。このように、秦の領地は天下にあまねく広がっていて、勢威は海内を動かし強さは中国全体を脅かしている。ゆえに、秦国の領地の広さは禹・舜をも上回っていると言う。なのにかの国は憂慮することが後を絶たず、戦々恐々として、天下の諸国が一体となって自国を踏み潰すことを常時恐れているではないか。

では、どうすればよいのか。それは、勢威を抑えて、礼義の正道に帰ることである。すなわち誠実で忠信な君子を登用して天下を治め、これらとともに国政を執り、是非を正して曲直を裁き、秦都の咸陽(かんよう。陝西省)で政事を聴くのである。従順なる者はそのままに、不従順なる者にして初めて罰するのである。このようであれば、その兵を国外に繰り出すことなくして、君主の命令は天下で行われるであろう。ここまで来れば、この君主のために明堂(めいどう。天子が諸侯を朝参させる堂)を築いて諸侯を朝参させてもよいだろう。今の時代においては、領地を増やすよりは信頼を増やすことに努めたほうがよいのである。


(注1)楚の懐王は騙されて秦国に抑留軟禁され、そこで死んだ。BC278年、秦国は楚の都郢(えい)を陥落させ、祖先の楚王の墓所であった夷陵(いりょう)を焼いた。楚の頃襄王は、陳(ちん)に退いた。その後は陳が楚国の都となったが、次の孝烈王のときに寿春(じゅしゅん)に遷都した。
(注2)楚から奪った領地で秦国と斉国が境界を接したのは、始皇帝の代になって楚国を亡ぼしたときのように思われて、この説明がなされている時代と合わない。秦国と斉国とが最初に境界を接したのは、おそらくBC242年に秦国が魏国から東方の領地を奪ってここに東郡を置いたときではないだろうか。これも戦国時代末年であり、時代が合わない。それ以前の時代となると、秦の宰相の魏冄(ぎぜん)が陶(とう。山東省)に封地を得ていて、これは斉国と接していたと思われるが、これは秦国の本領とはいえない。あるいは、ここあたりの文には何か脱文があるのかもしれない。または私が把握できていない、領地の変遷があるかもしれない。
(注3)楊注によると、趙国は秦国の境界線に松と柏(このてがしわ)を植えていたという。これを松柏の塞と言うらしい。
《原文・読み下し》
力術は止み、義術は行わるとは、曷(なん)の謂(いい)ぞや。曰く、秦の謂なり(注4)。威は湯・武より强く、廣は舜・禹より大なり、然り而して憂患勝(あ)げて校(かぞ)う可からざるなり、諰諰然(ししぜん)として常に天下の一合して己を軋(あつ)せんことを恐るるなり、此れ所謂(いわゆる)力術止むなり。曷(なに)をか威は湯・武より强しと謂うか。湯・武なる者は、乃ち能く己を說(よろこ)ぶ者をして使せしむるのみ。今楚は父死し、國舉(あ)げられ、三王の廟を負いて、陳・蔡の間に辟(さ)く、可を視、間を伺いて、安(すなわ)ち其の脛を剡(あ)げて以て秦の腹を蹈(ふ)まんと欲す。然り而して秦左せしむれば案(すなわ)ち左し、右せしむれば案ち右す、是れ乃ち讎人(しゅうじん)をして役せしむるなり。此れ所謂(いわゆる)威湯・武より强なるなり。曷(なに)をか廣舜・禹より大なりと謂うか。曰く、古は百王の天下を一にし、諸侯を臣にするや、未だ封內千里に過ぐる者有らざるなり。今秦南は乃ち沙羨(さい)を有して與(とも)に俱(とも)にす、是れ乃ち江南なり。北は胡(こ)・貊(ばく)と鄰を爲し、西は巴(は)・戎(じゅう)を有し、東楚に在る者は乃ち齊に界(さかい)し、韓に在る者は常山(じょうざん)を踰(こ)え乃ち臨慮(りんりょ)を有し、魏に在る者は乃ち圉津(いしん)(注5)に據(よ)り、即ち大梁(たいりょう)を去ること百有二十里のみ、其の趙に在る者は剡然(えんぜん)として苓(れい)を有して松柏(しょうはく)の塞に據り、西海を負いて常山を固とす、是れ地天下に遍(あまね)きなり。威は海內を動かし、强は中國を殆うくす。此れ所謂舜・禹より廣大なるなり。(注6)然り而して憂患勝げて校る可からざるなり、諰諰然として常に天下の一合して己を軋せんことを恐るるなり。然らば則ち奈何(いかん)。曰く、威を節して文に反る。案(すなわ)ち夫(か)の端誠・信全の君子を用いて天下を治め、因って之と國政に參し、是非を正し、曲直を治め、咸陽(かんよう)に聽き、順なる者は之を錯(お)き、不順なる者にして而して後に之を誅す。是の若くなれば、則ち復た塞外に出でずして、令天下に行われん。是の若くなれば、則ち之が爲に明堂を築きて[於塞外](注7)諸侯を朝すと雖も、殆(ほと)んど可なり。今の世に假(いた)りて、地を益すは信を益すの務(つとめ)に如かざるなり。


(注4)集解の盧文弨は、楊注が『新序』に李斯の質問に対する荀子の返答として「力術は止み、義術は行わる。秦の謂なり」とあることを指摘している。しかしながら現存している『新序』には、楊注が指摘している部分が見えない。
(注5)楊注は「圉」字は「圍」とするべきと言う。
(注6)アンダーラインについて、原文はこの下の「己を軋せんことを恐るるなり」の後にある。しかし多くの注釈者たちはこれを今の箇所に持ってくるべき、と言う。ひとり兪樾は、「是れ地天下に遍(あまね)きなり」の後に持ってくるべき、と言う。その言にも一理あるが、ここは多数説を取る。
(注7)楊注はこの三字を衍字と言う。

上の注4にも書いておいたが、楊注によればこの問答は李斯と荀子の問答であったのかもしれない。ならば、議兵篇(4)の問答に続いて、荀子が李斯に反論して秦国の将来は暗い、と説いたということになる。これを問答形式と読んでもよいし、荀子のモノローグと読んでもよい。上の訳は、モノローグ形式にした。

この叙述は、続く秦国の宰相范雎(はんしょ)との問答の導入部となっている。荀子はほかに儒效篇において、秦の昭襄王(しょうじょうおう)とも問答している。劉向は校讎叙録でそのいきさつをこう書いている。

孫卿(荀子)が諸侯の招聘に応じたことを述べると、まず秦国の昭襄王に謁見した。昭襄王は戦争・征伐を喜ぶ人であったが、孫卿は夏・殷・周三代の法をもって王に説いた。だが秦の宰相応候(范雎)が彼の建策を全く用いようとしないので、趙国に向かった。
《原文・読み下し》
孫卿の聘(へい)に諸侯に應(おう)ずるや、秦の昭王に見(まみ)ゆ。昭王方(まさ)に戰伐を喜ぶ、而(しか)るに孫卿三王の法を以て之に說く。秦の相應候(おうこう)皆用うること能わざるに及んで、趙に至る。

荀子もまた孟子と同じく、自らの建策が戦国諸侯たちによって用いられることはなかった。

今回のくだりで出てくる楚の懐王が秦国に抑留軟禁されて死んだエピソードは『史記』楚世家に書かれているのであるが、確かに秦国のやり方はひどい。懐王が死んだとき楚国の国人は王の死を哀れみ、諸侯はこのことによって秦国を信じなくなった、と書かれている。しかしながら秦国の力は他国に比べて圧倒的であり、斉国のように諸国が連合してこれを潰したようにはならなかった。秦国は地理的にも斉国より有利であり、本拠地である関中盆地は堅い函谷関に守られて攻められにくく、かつ西の辺境に位置していたので背後からの攻撃を気にすることも必要がなかった。この関中盆地から秦国は兵を繰り出して、占領した土地を着々と自国の法と官吏の支配下に置いたのであった。関中盆地の戦略的な有利性は、続く前漢王朝と隋唐王朝もまたここに長安城を築いて都を置いたことから理解できる。ただし後の時代では中国の農業生産は長江流域が担うようになり、関中盆地は遠すぎて都には選ばれなくなった。宋以降の統一王朝は、大運河を通じて穀倉地帯との水運が確保できる地点に都が置かれるようになった。

荀子は上に訳出した叙述においても秦国を批判して、力の統治術では行き詰る、と言う。しかし歴史は、秦国を行き詰らせなかった。これは、どうしてであろうか。この後に続く范雎との問答においては、秦国の統治は素晴らしい、と荀子は言う。だがその後に、しかし儒家の術が行われていないので、王者の功名に遠く及ばない、と付け加える。荀子は、自らのイデオロギーによる秦国への厳しい視点と、実際に目で見て耳で聞いた秦国の実態とが、整合しないことに苦慮していたのではないだろうか。秦国は、前のくだりで批判された斉国の乱れた国情とは、明らかに違っていた。

彊国篇第十六(4)

応候が、荀子に質問した。
(応候)「この秦国に入国されて、何を見られましたか?」
(荀子)「お国のとりでは堅固に守られ、お国の地勢は万事に至便で、お国の山林・川谷は美しく、豊富な物資を利用できます。これは美しい国土というものです(注1)。国境を入ってお国の風俗を見ますと、人民は朴訥であり、音楽・歌謡は下品に落ちておらず、服装は奇怪に流れておりません。役人を大いに畏れて従順であるのは、さながらいにしえの人民です。各都市の官庁を見ますと、お国の官吏たちは粛然として、恭倹・敦敬・忠信にして浮ついたところがありません。これは、さながらいにしえの官吏です。首都に入ってお国の士大夫たちを見ると、皆が自宅の門を出たら朝廷の門に直行し、仕事が終わって朝廷の門を出たら自宅にすぐ帰ります。いささかも、私事を行うことがありません。不正なことに媚びへつらうこともなく、仲間うちで私党を組むこともなく、気高い風で諸事によく通じて公正である。これは、さながらいにしえの士大夫です。お国の朝廷を見ると、朝廷の仕事は多忙さがまるで見えず、百事をてきぱきと聴聞・決裁して仕事を後に残したりしません。じつに余裕があって、拍子抜けするほどに政治のやることがないのは、さながらいにしえの朝廷です。まことに秦国が四世にわたって勝ち続けたのは、偶然ではありませんでした。必然でありました。これが、それがしが見たものであります。『楽に統治し、簡単な指図で細かい政治も行われ、複雑なことを行わずに功績を挙げるのは、統治の極地である』と言いますが、秦国はこれに当たるでしょう。
そうではありますが、それがしにはお国のために非常に憂慮することがあります。お国はここまでの美質を完璧に兼ね備えていて、それなのに真の王者の功名に比べたならば、その及ばないことがあまりに遠すぎるということです。これは、どうしたことであろうか。それはおそらく、儒家の統治術がほとんど用いられていないからです。『正道に純粋ならば、王者となる。正道と邪道を混ぜて用いると、覇者となる。正道が一つもなければ、滅亡する』と言います。これが、秦国の短所なのです。」


(注1)秦は堅固な函谷関に守られ、そこから先には豊かな関中盆地が広がっていた。南の秦嶺山脈は、中国では珍しい鬱蒼とした森林に覆われている。荀子の本拠地である斉国はというと、一時代前の孟子が斉国にある牛山(ぎゅうざん)が伐採と羊の放牧ではげ山になってしまってることを言及している。すでに中原地方は戦国時代において過開発の様相を示していた。荀子は斉国に比べた秦国の土地の美しさに、さぞ驚いたことであろう。
《原文・読み下し》
應侯(おうこう)孫卿子(注2)に問うて曰く、秦に入りて何をか見る。孫卿子(注2)曰く、其の固塞は險に、形勢は便に、山林・川谷は美に、天材の利は多し、是れ形勝なり。境に入りて其の風俗を觀るに、其の百姓は樸(ぼく)に、其の聲樂は流汙(りゅうお)ならず、其の服は挑(よう)(注3)ならず、甚だ有司を畏れて順なるは、古の民なり。都邑・官府に及ぶまで、其の百吏は肅然として、恭儉・敦敬・忠信にして不楛(ふこ)ならざること莫きは、,古の吏なり。其の國に入りて、其の士大夫を觀るに、其の門を出ずれば公門に入り、公門を出ずれば、其の家に歸り、私事有ること無きなり。比周せず、朋黨せず、倜然(てきぜん)として、明通して公ならざる莫きは、古の士大夫なり。其の朝廷を觀るに、其(はなはだ)(注4)朝は(注5)間にして、百事を聽決して留めず、恬然として治無き者の如きは、古の朝なり。故に四世勝有るは、幸に非ざるなり、數なり。是れ見る所なり。故に曰く、佚にして治し、約にして詳に、煩ならずして功あるは、治の至なり、と。秦之に類す。然りと雖も、則ち甚だ其れ諰(し)すること有るなり。數具の者を兼ねて盡(ことごと)く之有り、然り而して之を縣(はか)るに(注6)王者の功名を以てすれば、則ち倜倜然(てきてきぜん)として其の及ばざることに遠し。是れ何ぞや、則ち其の殆(ほと)んど儒無ければなるか。故に曰く、粹にして王たり、駮(ばく)にして霸たり、一無くして亡ぶと。此れ亦秦の短なる所なり。


(注2)増注には二箇所に「子」字がない。
(注3)増注は「挑」は「姚」であると言う。
(注4)増注の荻生徂徠は「其」は「甚」たるべし、と言う。
(注5)増注は宋本に従い「朝」字を補う。
(注6)集解の王先謙は「縣」は「衡」のごとしと言う。「はかる」。

荀子は、劉向も記載しているように秦国に招かれて訪問した。そのときの王は昭襄王(在位BC306-BC251。『史記』では昭襄王、昭王の両方の記載がある)であり、宰相は范雎(はんしょ。?-BC255)であった。范雎は応(應)の地に封じられたので、応候(應候)とも呼ばれる。また故国の魏で命を狙われていたために、張禄(ちょうろく)という偽名を用いていた。その後彼は秦に渡って昭襄王に認められ、宰相に就任した。秦では偽名の張禄で呼ばれていたと『史記』にはあり、それを裏付けるように二十世紀に出土した雲夢秦簡では、「張禄」の名で現れる。昭襄王は戦国時代後期の半世紀間以上も秦のトップとして君臨し、その治世の期間で秦は中華世界の超大国に成長した。昭襄王の治世の中盤までを支えた宰相は秦の王族の魏冄(ぎぜん)であったが、それに代わって治世の末年を支えたのが、范雎であった。

秦国が強大化する過程は、その強い兵を用いた度重なる戦争での勝利によるものであった。そして、この軍事力を背景として、諸国を秦にひれ伏させた。まず楚国は、東方で越国と激戦していて斉国とも事を構えていた隙を付かれる形で、西方から侵攻されて都を奪われた(彊国篇(2)および(3)も参照)。次に魏国は、度重なる侵攻を受けて大量の兵を失い、領地を大きく削られて弱体化した。趙国は、長平の戦で惨敗したことによって、もはや秦の支配に刃向かう術を失った。かつての大国たちは、秦国の兵の前に屈服していったのであった。

荀子がその目で実際に見た秦国は、素晴らしいものであった。美しい国土、質朴な人民、清潔な官吏、能率的な政治。どれもこれも、荀子たち儒家がいにしえの王者たちの治世として観念的に描写していた政治が、秦国では実現されていた。荀子は、彼が活動の拠点としていた斉国との大きな格差を、どのように思ったであろうか。そして周辺諸国から虎狼の国と陰口を叩かれ、信用できない好戦的な国として忌み嫌われていたこの超大国がここまで儒家の理想に近い国であったことを見て、彼の理論はどうなってしまうのであろうか。藤井専英氏は、荀子は秦国がいささかも儒を重視しようとしない点において既に亡国の相が表れていると判じた、と、この節の解説で書いておられるが、私は荀子はそこまで己のイデオロギーでしか物が見えない論者であったとは思えない。むしろ荀子は、秦国の王と宰相に初めて謁見したとき、この国を王者の国とすれば天下は安泰となる、と期待したのではないか、と思うところである。そのための、儒の導入である。私は、謁見の時から荀子が秦国を儒が採用されていないから亡国だ、と突き放していたとは、ここでの彼の秦国への素直な評価を見るとにわかに信じられない。

秦国を実見したとき、荀子には下の孟子の言葉が思い起こされたかもしれない。

覇者の下に住まう人民は、いかにも嬉しそうである。しかし王者の下に住まう人民は、つかみどころがないほど悠然としている。君主が人民を殺しても、怨むことはない。君主が人民を利しても、わざわざ称えることはない。人民は日に日に善に移り、誰がそれを誘導しているのかすら気付かない。君子が通り過ぎる土地は教化され、留まっている土地はよく治められる(*)。上下の秩序は、天地の秩序と同じように悠然と運営されるのである。
盡心章句上、十三。議兵篇(4)注5に応じて、(*)の訳を変えた。)


平常体で静かに治まっている国が、王者の国である。秦国は、どうしてこのように見事に治まっているのであろうか。秦国のような力による統治を行っている国の人民はさぞや苦しんでいるはずだ、というのが儒家のイデオロギーから来る推測であった。しかし、実際の秦国は、まるで違うではないか?

私は、こう思う。遅れた地域には、先進地域にはない剛毅朴訥さがある。それは、経済人類学的に言うならば、水平的な互酬の交換様式が豊かに残っている社会ということである。人民がただの徴発された兵でなく、戦士としての気風を持つことができる社会である。このような社会は、国家として合理的な組織を与えられたとき、強くなる。兵が強いばかりでなく、彼らが官僚になれば規律あって公共心に富む集団を生み出すことができるであろう。また遅れた国であるゆえに、文化の進んだ地域から先進的な文化を選んで吸収し、かつ外国から有能な人材を招聘して働かせる融通性も持つことができるであろう。遅れた地域が先進地域から刺激を受けて短期間で強大となるケースは、古今東西でいくつも例が見られる。

京都の公家たちは戦争を好む関東武士を野蛮と忌み嫌ったが、楠正成は日本中の軍をもってしても武蔵・相模の両国の武士には合戦で勝てそうにない、と評した。その関東武士が拓いた鎌倉幕府は、中国から輸入した中国法による法治官僚国家のシステムを壊して、より日本の国情に合わせた封建国家の統治システムを作りあげた。彼らは合戦に強いだけではなくて、政治システムにおける融通性・独創性も持ち合わせていたのであった。また幕末から明治時代の日本を動かしたのは、薩摩や土佐といった辺境の地からやってきた志士たちであった。彼らは蛮勇において、気概において、さらに智恵においても日本の維新をリードする存在であった。また古代ローマは地中海世界の辺境に位置して、その建国は地中海世界の中ではいちばん遅れたものであったが、それゆえに衰えていく古代文明の中で唯一質朴な気風を発揮して、古代文明を総合した最後の大帝国を打ち立てたのであった。

私は秦国もまた、中華世界の辺境であったゆえに、爛熟した文化を持つが人間も政治も混乱していた中原諸国を圧倒することができたのではないだろうか、と考える。秦国が始皇帝の統一まで終始武断により諸国と対したのは、秦国の強さが質朴な人民が作る兵の力にあったことを、時の為政者たちは分かっていたからではなかっただろうか。秦国は、まことに荀子の言ういにしえの民、いにしえの官吏、いにしえの士大夫の姿だったのである。よって、おそらく儒家が賞賛する湯王や武王の朝廷や兵もまた、実際は秦国のように質朴にしてかつ戦場においては勇猛非情であったに違いない、と私は思うところである。

ただ、荀子の秦国に対する言葉は、全くの的外れというわけではない。あの最強の兵を誇ったローマ人であっても、周辺諸国を征服して帝国を建設したときには、武断を薄めて平和な時代にふさわしい統治形態に移っていった。すなわち文化としては先進地域のギリシャ文化を尊び、統治としては法による支配と交通網の整備によって経済的な繁栄に心を砕いた。秦国より前に中華世界の支配者となった湯王や武王もまた、そうであったことだろう。伝説的な記録ではあるが、武王は殷を倒して征服戦争が成った後、兵を解散して今後は戦争を行わないことを宣言した。その死後に摂政として政治を執った周公は、親族である管叔鮮と蔡叔度の反乱を力で平定したものの、国の運営方針としては武王の意志を継承して武断ではなくて礼楽によって国を治めようとした。周公の作と伝承される『詩経』の賛歌には、このようにある。:

載(すなわ)ち干戈を戢(おさ)め、
載(すなわ)ち弓矢を嚢(ふくろ)にしまう
(周頌、時遭より)

あくまで伝説とはいえ、儒家が武王・周公の事業を統治の正道として称えることには、確かに一面の真理がある。たとえ武断によって帝国が成立したとしても、その広域的な支配は帝国のシステムが傘下にある各共同体に利益をもたらさなければ、継続されないだろう。前にも言ったとおり、世界帝国は武力を用いた支配というよりも、むしろ帝国のシステムが周辺の国家や共同体に安全保障と経済的利益を提供するゆえに、自発的に成立するものなのである。
荀子は、秦国の国風はいにしえの風であるから勝利するのが当たり前であることを確信し、ゆえにこれから中華を統一する王者に進むときには、これまでのような武断の風であっては諸国を統治できない、と范雎に言いたかったのであろう。そう私は、思うところである。