正論篇第十八(8)

By | 2015年5月17日
子宋子は、「人の情は、本来寡欲なのである。なのに世の人はみな己の情を多欲であると考える。これは、まちがいである」と言う。それで子宋子の信奉者ども(注1)は、その信徒を率いて自説を説き、たとえ話を操って相手にはっきりと分からせようとする。こうやって世の人に人間の情は寡欲であると啓蒙しようとするのである。彼らに対して、「ならば人の情は、目は美しい色をとことん見たいと望まず、耳は美しい音色をとことん聞きたいと望まず、口は美味をとことん究めたいと望まず、鼻は麗しい香りをとことん味わいたいと望まず、身体は安楽をとことん究めたいと望まないということになる。こういった五官の快楽を望むのも、人の情ではないか。あなたがたはそれでも、人の情は快楽を欲しないと言うのであるか?」と問えば、彼らは「いや、人の情は確かにこれら五官の快楽を欲する」と答える。それならば、彼らの主張は絶対に行われないだろう。人の情が五官の快楽を欲することを認めて、しかもそれを欲することが少ない、と言うのであるか?それはたとえるならば、人が情として富貴を望みながら財貨を得ることを欲せず、また情として美を望みながら西施(せいし)(注2)を憎むと言っているようなものだ。いにしえの人が人の情を扱うやり方は、違っていた。彼らは人の情とは多欲であり、少なくしか欲が満たされないことを欲しないと考えた。ゆえに、褒賞には厚く富をもって報い、刑罰には持てるものを剥奪することによって応じたのであった。これは、わが国の歴史上の王(注3)が全て同じく取っていた政策であった。最も賢明な人材は王となって天下全体を禄として保有し、次に賢明な人材は諸侯となって一国を禄として保有し、それに劣る賢明な人材は領地の田畑や村落を禄として保有し、下々の誠実な庶民は衣食を十分に得ることができる。いま子宋子の輩は、人の情は寡欲であって多くを欲しない、と言う。ならば、わが国の文明の建設者であるいにしえの先王たちは、人が望まないことをもって褒賞とし、人が望むことをもって刑罰としたとでもいうのであるか?そんなことを行ったら、社会は大混乱となるであろう。いま子宋子の輩はいかめしい態度で好んで説教を行い、生徒を集め、学派を立てて、信徒内の規則を定めたりしている。しかしそうしたところで、彼らの主張はこれぞ統治の究極策であると言いながら、実際には究極の混乱をもたらすだけなのである。なんというひどい過ちであろうか。ゆえに子宋子の説をなす者は、不吉な末路となるだろう。子宋子の説を学ぶ者は、その咎を受けるであろう。だが子宋子を批判するものは、吉であろう。『詩経』に、この言葉がある。:

下々の民の孽(わざわい)は
天より降(くだ)るものでなし
噂(たみ)どうしで沓(むだばなし)、陰に回れば憎みあい
そんなこんなにいそしめば、咎が来るのは当たり前
(小雅、十月之交より)

彼らの末路は、こうなるに決まっているのだ。


(注1)原文では「其」が三度続いていて、「子宋子」の言い換えである。しかし子宋子すなわち宋鈃は孟子の同時代人であって荀子の前の時代の人間である。よって荀子の時代に活動していたのはその後継の信徒たちであるから、ここでは「其」をこのように訳した。
(注2)西施は、春秋時代、越国の美女。越王勾踐(こうせん)が呉王夫差を堕落させるためにこれを贈り、夫差は西施に傾倒して越国への備えを忘れ、勾踐に攻められて滅亡したという。『史記』には見えず、『呉越春秋』には記載される。孟子も荘子も西施のことを美人の代名詞として言及しており、西施の伝説は戦国時代にはすでに普及していた。
(注3)原文「百王」。天論篇(3)注3と同じ。
《原文・読み下し》
子宋子曰く、人の情は欲寡(すくな)し、而(しか)るに皆己の情を以て、欲多しと為す、是れ過なりと。故に其の羣徒(ぐんと)を率い、其の談說を辨(べん)じ、其の譬稱(ひしょう)を明(あきら)かにし、將(まさ)に人をして情は欲之れ寡き(注4)を知らしめんとするなり。之に應じて曰く、然れば則ち亦人の情を以て[欲](注5)、目は色を綦(きわ)むることを欲せず、耳は聲を綦むることを欲せず,口は味を綦むることを欲せず、鼻は臭を綦むることを欲せず、形は佚(いつ)を綦むることを欲せずと爲すなり。此の五綦(ごき)の者も、亦人の情を以て欲あらずと為すか。曰く、人の情是を欲するのみ、と。曰く、是の若くんば則ち說必ず行われず。人の情を以て、此の五綦の者を欲して、而も欲多からずと爲すは、之を譬うるに、是れ猶お人の情を以て、富貴を欲して而も貨を欲せず、美を好んで而も西施を惡(にく)むと爲すがごときなり。古(いにしえ)の人之を爲すは然らず、人の情を以て、欲多くして欲寡からずと爲す。故に賞するに富厚を以てして、罰するに殺損(さいそん)を以てするなり。是れ百王の同じき所なり。故に上賢は天下を祿し、次賢は一國を祿し、下賢は田邑を祿し、愿愨(げんかく)の民は衣食を完くす。今子宋子は是(ひと)(注6)の情を以て、欲寡くして欲多からずと爲す。然らば則ち先王は人の欲せざる所の者を以て賞し、人の欲する所の者を以て罰するか。亂焉(これ)より大なるは莫し。今子宋子は嚴然として說を好み、人徒を聚(あつ)め、師學を立て、文曲(ぶんてん)(注7)を成す。然り而(しこう)して說至治を以て至亂と爲すを免れざるなり。豈(あ)に過つこと甚しからずや。(猪飼補注が錯簡とみなす箇所:)故に作(な)す者は不祥にして、學ぶ者は其の殃(おう)を受け、非とする者は慶有り。詩に曰く、下民の孽(げつ)は、天より降るに匪(あら)ず、噂沓(そんとう)して背けば憎む、職として競うは人に由る、とは、此を之れ謂うなり。(注8)


(注4)原文「情欲之寡」。楊注は、あるいは「情の欲寡き」であるかと言い、集解の王念孫はこの説が正しいと言う。新釈の藤井専英氏に従って読み下す。
(注5)原文「然則亦以人之情、爲欲目不欲綦色、、」。集解の盧文弨は、後の句の最初の「欲」は衍字であると言う。
(注6)増注は、「是」は「人」に作るべし、と言う。
(注7)増注・集解の王念孫は、「曲」は「典」に作るべし、と言う。
(注8)正論篇(6)において、猪飼補注が錯簡とみなす箇所を、私はここに置くことにする。

つづいて、宋鈃の寡欲説への荀子の攻撃である。趣旨は明快であって、説明は不要であろう。

ただ人間の物欲というものは、少ないとは言えなくても無限ではない。無限の欲は、権力欲と金銭欲である。君主の権力欲は古代から常に発動していたものであり、いっぽう人間の金銭欲は近代になって産業資本主義が全面的に展開されたときになって、社会を動かす主要動因となった。人間の経済を物欲レベルでのみ考えて、市場メカニズムによる自動調節が全てを解決する、と楽観的に考えるのは、現代の経済学で最主流の新古典派経済学である。だがいったん人間の経済を金銭欲レベルで考えるならば、資本の無限蓄積の欲望が経済を一方で成長させるが、他方で利潤率の架空のかさ上げに依存したバブル経済を生み出し、バブルが弾けた後に利潤率が劇的に低下して大不況をもたらし、国家がてこ入れしなければ経済が回復しない、という茶番劇のような経済システムが見えてくるだろう。こちらに正しく着目したのは、マルクスとケインズであった。人間の権力欲と同じく、人間の金銭欲は荀子が楽観するほどに国家がうまく制御できるものではないだろう。

これで、正論篇は終わった。
続く礼論篇第十九、および楽論篇第二十は、儒家が最も重視する「礼楽(れいがく)」についてのエッセイである。荀子にとって礼法は国家の秩序を制定する要の制度であり、音楽はその間にあって上下の関係を感覚によって調和させる文化的装置である。両者ともに安定した国家を運営するために必要不可欠であると儒家は考えるのであって、よって荀子はこの両者について詳細な説明を行う。しかしながら、それが現代の社会に説得力を持つ論題となるのは、難しい。荀子の時代において国家中枢のエリートたる君子は、いわば現代に置き換えるならば高級官僚・弁護士・大学教授を兼ねた政治面および文化面において国家をリードする存在であった。後世の中華帝国において科挙に及第した士大夫官僚たちもまた、政治的エリートかつ文化的エリートとしての矜持(きょうじ)を持っていた。華麗な詩文を遺した蘇軾(そしょく)や黄庭堅(こうていけん)も、思想面で大きな仕事をした朱熹(しゅき)や王陽明(おうようめい)も、いずれも科挙に及第した中華帝国のエリートたちであった。よって歴史的には荀子の言わんとすることは説得力を持った時代もあったのであるが、現代においては政治はともかく文化においては市井の人民の創作力が国家の力のすべてであって、試験エリートたちに文化の創造力がないことは、人民の側でとっくにお見通しである。なので、荀子たち儒家の言うような上から降りてくるエリート文化についてのエッセイは、今の時代には何の価値も持たない。私はそのように捉えるので、礼論篇・楽論篇は検討せずに今は読み飛ばすことにしたい。

続く解蔽篇第二十一、および正名篇二十二は、正しい概念についてのエッセイである。荀子たち儒家は真理は実在すると考えるプラトニストであり、なおかつ荀子は正義や公正といった人間の正しい価値は国家がこれを定義して異論を禁止しなければならない、と主張する。荀子の説は儒家の国家偏重の思想を露骨に表したものであり、これは批判的に読まなければならないと私は考える。よって、解蔽篇および正名篇は荀子を批判する立場から読むことにしたい。

【次は、「解蔽篇第二十一」を読みます。】

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