天論篇第十七(2)

By | 2015年5月1日
地上の治乱は、天のなせるわざであろうか?太陽・月・星の巡ることは、禹(聖人で夏王朝の始祖)と桀(夏王朝滅亡時の悪王)とで同じことであった。しかし禹の代はよく治まり、桀の代は乱れたではないか。天は治乱とは関係がない。
では、時のなせるわざであろうか?春夏に作物が発芽繁茂し、秋冬に作物を借り入れて収蔵するのは、禹と桀とで同じことであった。しかし禹の代はよく治まり、桀の代は乱れたではないか。時は治乱とは関係がない。
では、地のなせるわざであろうか?よい土地得れば生を得て、悪い土地を得れば死を得ることは、禹と桀とで同じことであった。しかし禹の代はよく治まり、桀の代は乱れたではないか。地は治乱とは関係がない。
『詩経』にこの言葉がある。:

天は、岐山を作り出し
大王、ここにて治めたまい
民草、ここに集いしは
文王これを、安んじたまうゆえ
(周頌、天作より)

つまり、地上の治乱は人のなせるわざであり、それ以外の原因はない。

天は人が寒さを嫌がるからといって、冬をやめないであろう?地は人が目的地まで遠いことを嫌がるからといって、狭くなったりしないだろう?それと同様に、君子は小人がいちいち騒ぎ立てるからといって、正しい行いをやめることはないのだ。天には、天の常の運行がある。地には、地の常の法則がある。君子には、君子の常の正道があるのだ。君子は常の正道を行って統治し、小人は統治された下で功利を計算する、それが自然の姿なのである(注1)。詩に「(礼義を誤らず行うならば、)何を恐れることがあろうか」(注2)と言うのは、このことなのである。

楚王が巡幸すると、後ろには千台の車が付き従う。しかし楚王は、智者ではない。君子は豆のスープをすすって水を飲んでも、愚者ではない。両者の開きは、偶然のめぐり合わせのせいである。だが心中の意志を修めること、徳行を厚くすること、思慮を明らかにすること、現代に生まれながらいにしえの時代以来の正道を志すこと、これらは全て己の内に持っている宝である(注3)。ゆえに、君子は己の中にあるものを謹んで、天にあるものを慕わない。だが小人は己の中にあるものを放っておいて、天にあるものを慕う。君子は己の中にあるものを敬って、天にあるものに憧れない。だから、日ごとに進歩する。だが小人は己の中にあるものを放っておいて、天にあるものに憧れる。だから、日ごとに停滞する。ゆえに、君子が日ごとに進歩する理由と、小人が日ごとに停滞する理由は、同じなのである。君子と小人が大きく差がつくのは、ただここだけにある。

星が堕ちて木が鳴る(注4)と、国人たちはみな恐れて「これはどうしたことか」と問うであろう。その答えは、何も大したことではない、これは天地の変化、陰陽の変化であり、まれに起こる現象であるにすぎない。これを不思議がるのはよいが、恐れるのは間違いである。日蝕・月蝕が起こったり、異常な風雨が襲ったり、妖しい星がまれに出現したりするのは(注5)、いつの時代にも常に起こったことなのである。いま君主が明察であり政治が公正に行われているならば、一代のうちに何度もこのような天の異常が起こったとしても、国が傷つくことはありえない。だがいま君主が暗愚であり政治が不公正に行われているならば、天の異常が何一つ起こらなくても、国が栄えることはありえない。星が堕ちたり木が鳴ったりすることは天地の変化、陰陽の変化であり、まれに起こる現象であるにすぎない。これを不思議がるのはよいが、恐れるのは間違いである。田畑をまずく耕したならば、作物の生育を損なうであろう。草を十分に刈らなかったら、収穫を失うであろう。政治が不公正であるならな、民心を失うであろう。田畑は荒れて作物は育たず、穀物の価格は高騰して人民は飢え、やがて道路には死人が転がる。これが、人妖である。法令はルールがなく、農民の徴発は時期を外し、農業政策はおざなりで、農民の力を用いる時期が分かっていない。こうなると牛馬でさえも奇形の仔を産み、家畜にすら異常な行動が起こる。これが、人妖である。礼義が修まらず、秩序の区別が崩れて、男女が淫乱をなす。こうなると父子が互いに疑い、上下は心が離れて、外国の侵略が次々に起こる国難となる。これが、人妖である。妖事とは、人間社会の乱れから生じるのである。これら三つの人妖が同時に起こったならば、安泰な国などありえない。人の妖事は天の妖事に比べたらずっと人の間近で起こることであるが、その惨害はずっと大きいのである。これこそ、不思議がるべきである。かつ、恐れるべきである。伝承に、「万物の怪異については記録するが、これについて原因を述べることはしない」とある。天の妖事についての無用の弁論、不急の考察は、これを棄てなければならず、探求してはならない。むしろ人の正道である君臣の義、父子の親、夫婦の別(注6)は、日々に精進するべきであって棄ててはならない。


(注1)君子が支配者として制度の枠組みを作り、小人が被支配者として制度の下で功利を追求するという役割分担は、論語里仁篇の「君子は徳を懐(おも)い、小人は土を懐う」、または「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」を想起させる。
(注2)これは逸詩、つまりすでに散逸した詩の引用である。下の注8参照。
(注3)楚王と君子の対比は、『孟子』公孫丑章句下、二の曾子の言葉を想起させる。
(注4)集解の兪樾らの引用によると、古代には社木が鳴るのは不思議な現象が起こる前兆であるという信仰があったらしい。注釈者たちは風によって木が鳴ること、と説明しているが、そのようなことは嵐の日には普通に起こるはずで、別に珍しいことではない。もっと違う現象を言っているのではないだろうか。
(注5)原文読み下し「怪星の黨(たまたま)見(あらわ)るる」。増注・集解の王念孫ともに「黨」は「儻」であると言う。たまたま。面白いのは、天論篇は『韓詩外伝』にも引用されているのであるが、そこでは「黨」が「晝(昼)」となっている。王念孫は「晝」字はおそらく後人の改むる所と注しているが、実際に地球に近い超新星爆発は、昼間でも見えるほど明るいのである。中国で最も古い超新星の記録は紀元2世紀であるが、それよりも以前の時代にあった超新星爆発が、昼間に星が突然現れた記憶として伝承されていたのかもしれない。なので、『韓詩外伝』の「晝」字でもあながち間違いとはいえない。
(注6)君臣は義によって結ばれるべきであり、親子は親しみの情愛によって結ばれるべきであり、夫婦は家の秩序に従い区別されるべきである。『孟子』滕文公章句上、四ではこれに長幼の序、朋友の信を加えて、儒家の社会倫理の基本である「五倫」が説かれる。
《原文・読み下し》
治亂は天なるか。曰く、日月・星辰の瑞厤(ずいれき)(注7)するは、是れ禹・桀の同じき所なり。禹は以て治まり、桀は以て亂る。治亂は天に非ざるなり。時なるか。曰く、春夏に繁啓・蕃長し、秋冬に畜積・收臧す、是れ禹・桀の同じき所なり。禹は以て治まり、桀は以て亂る。治亂は時に非ざるなり。地なるか。曰く、地を得れば則ち生じ、地を失えば則ち死す、是れ又禹・桀の同じき所なり。禹は以て治まり、桀は以て亂る。治亂は地に非ざるなり。詩に曰く、天高山を作り、大王之を荒(おお)いにす、彼作り、文王之を康(やす)んず、とは、此を之れ謂うなり。
天は人の寒を惡(にく)むが爲に冬を輟(や)めず、地は人の遼遠を惡むが爲に廣(ひろ)きを輟めず、君子は小人の匈匈(きょうきょう)たるが爲めに行を輟めず。天に常道有り、地に常數有り、君子に常體有り。君子は其の常に道(よ)りて、小人は其の功を計る。詩に曰く(注8)、何ぞ人の言を恤(うれ)えん、とは、此を之れ謂うなり。
楚王は後車千乘なるも、知に非ざるなり。君子は菽(まめ)を啜り水を飲むも、愚に非ざるなり。是れ節然るなり。若(も)し夫れ志意脩まり、德行厚く、知慮明かに、今に生じて古に志す、則ち是れ其の我に在る者なり。故に君子は其の己に在る者を敬して、其の天に在る者を慕わず。小人は其の己に在る者を錯(お)きて、其の天に在る者を慕う。君子は其の己に在る者を敬して、其の天に在る者を慕わず、是を以て日に進むなり。小人は其の己に在る者を錯きて、其の天に在る者を慕う、是を以て日に退くなり。故に君子の日に進む所以と、小人の日に退く所以とは、一なり。君子・小人の相縣(けん)する所以の者は、此に在るのみ。
星隊ち木鳴れば、國人皆恐る。曰く、是れ何ぞや。曰く、何も無きなり。是れ天地の變、陰陽の化、物の罕(まれ)に至る者なり。之を怪むは可なるも、之を畏るるは非なり。夫の日月の蝕有り、風雨の時ならず、怪星の黨(たまたま)見(あらわ)るるは、是れ世として常に之有らざること無し。上明にして政平かなれば、則ち是れ並世にして起ると雖も、傷(いた)むこと無きなり。上闇にして政險ねれば、則ち是れ一の至る者無しと雖も、益無きなり。夫の星の隊ち、木の鳴るは、是れ天地の變、陰陽の化、物の罕に至る者なり。之を怪しむは可なるも、之を畏るるは非なり。物の已(はなはだ)至る者は、人祅則ち畏る可きなり。楛耕(ここう)は稼を傷(そこな)い、耘耨(こうん)は薉(とし)を失い(注9)、政險にして民を失し、田薉(あ)れて稼惡しく、糴(てき)貴(たか)くして民飢え、道路に死人有り、夫れ是を之れ人祅と謂う。政令明ならず,舉錯(きょそ)時ならず、本事理(おさ)まらず、勉力時ならざれば、則ち牛馬相生し、六畜(りくきく)祅を作(な)す(注10)、夫れ是を之れ人祅と謂う。禮義脩まらず、內外別無く、男女淫亂なれば、則ち父子相疑い、上下乖離し、寇難(こうなん)並び至る、夫れ是を之れ人祅と謂う。祅は是れ亂に生ず。三者錯(まじ)われば安國無し。其の說甚だ邇(ちか)くして、其の菑(わざわい)甚だ慘なり。怪しむ可きなり。而(しか)も不(また)(注11)畏る可きなり。傳に曰く、萬物の怪は書するも說(と)かず、と(注12)。無用の辯、不急の察は棄てて治めず。若し夫れ君臣の義、父子の親、夫婦の別は、則ち日に切瑳して舍かざるなり。


(注7)増注は「瑞」字は未詳という。猪飼補注は「環」に作るべし、と言い、新釈漢文大系は一応これに従っている。
(注8)増注は、これは逸詩すなわち散逸した詩の引用であると言う。集解の兪樾は、『文選』の中に荀子のこの箇所の引用があり、そこでは「何ぞ人の言を恤(うれ)えん」の前に「禮義之不愆」の五字があり、李善の注がこれらが皆孫卿子(荀子)の言であると言及していること。同じ逸詩と思われる引用が正名篇にもあり、そこでも「禮義之不愆」の五字があること。これらを証拠として、ここには「禮義之不愆」五字が本来ある、と言う。その通りであろうが、ここでは上の句が省略されたのであろう。
(注9)原文「耘耨失薉」について、集解の郝懿行らは『韓詩外伝』の引用では「枯耘傷歳」となっていることを指摘して、これが正しいであろうと言う。集解に従う。
(注10)『漢文大系』は楊注に従う形で、アンダーラインを「其の菑(わざわい)甚だ慘なり」の下に置いている。『新釈漢文大系』は集解の王念孫に従ってアンダーラインをここに置く。今は新釈に従う。
(注11)集解の王念孫は「不」は「亦」に作るべし、と言う。
(注12)楊注は「書」は六経と言い、万物の怪を広説するに務めず、と言う。猪飼補注は六経の一である『春秋』に隕石落下のことなどが記載されている例を出して、ここの意味は「記録に書いても、(その現象の人間の行いとの対応関係を)説明しない」、と言う意味であると言う。あるいはこの「書」の下に字が脱けているのではないか、と言う。補注も指摘するように『春秋』には天変地異の記録が多数あるわけで、董仲舒などはここから災異説を展開するわけであり、楊注の説明は事実に反しているだろう。

今回の部分は、天変地異が人間の行為とは無関係に起こる現象であり、これを恐れるのは間違いである、と宣言したものである。そして、前回にも書いたとおり、その宣言を行う理由は、君子の主体的な行為がもたらす結果だけに注目せよ、と言うためである。

楚王と君子を比較するくだりは、これを孟子の言葉だとみなしても、何ら違和感はないだろう。孟子には、荀子のような自然現象に注目した「天人の分」思想はない。しかしながら、孟子はいわば別の側面での「天人の分」思想を持っている。それは、天の幸運と君子の努力を区別する思想である。

自らの心を伸ばし尽くす者は、自らの本性を知る者だ。自らの本性を知る者は、天から降された意味を知る者だ。よき心を保ち、本性を養うことこそ、天に仕える道である。寿命の長い短いなど気にするな。ひたすら自分自身を修めて命尽きるのを待て。それが、天命を損なわずにまっとうするということなのだ。
盡心章句上、一


ここで孟子は、天から与えられた命を自己を研鑽することにひたむきに費やし、結果の良し悪しは気にしないのが君子である、と言うのである。人間には、幸運不運がある。それによって得られる、富と地位がある。しかしながら孟子は君子の本質は心中の善にあり、外界の快楽にはないと言うのである。

広大な土地と多数の人民を治めるのは、君子もまた願うところである。だが、君子の楽しみはそこにはない。天下の真ん中に立って四海の民を安んじることは、君子の楽しみである。だが、君子の本性はそこにはない。君子の本性はどんなに大きく道を行ったといえども加わらないものであるし、またどんなにせまい所に窮居していたとしても減らないものである。なぜならば、天の与えたる天分は決まっているからだ。君子の本性とは、仁・義・礼・智が心にしっかりと根ざされているところにあるのだ。
同、二十一


上の句に限らず、『孟子』の中では偶然の結果である富貴・栄達は君子にとって関心を持つべき対象ではなく、むしろ己の内の徳を高めるべきことだけに関心を集中するべきことが説かれている。孟子はいわば、「運」という人間がコントロールできない対象を君子の関心から追放せよ、と説くのである。こうして位置づけると、孟子と荀子の共通点が浮かび上がっては来ないだろうか。両者は同じ儒家であり、先行者とその批判的継承者の関係である。両者の間に共通して流れている思想があるのは、当然の事だ。

孟子と荀子は、両者に共通する意図を別の側面において展開する。共通する意図とは、君子の努力を外界から自律させる、というものである。両者は、君子が社会のエリートとしてふさわしい徳を積むべきであり、エリートであるゆえに国家を指導する立場に立つのがふさわしいと考える点については、全く一致している。しかし両者の違いは、孟子はエリートたちの内面の自律性を最も重視することに対して、荀子は君子がエリートたちの政策の自律性を最も重視することにある。両者が否定すべき外界を表にすると、共通点と相違点が見えてくるだろう。

君子が否定すべき外界 君子の外界への対処
孟 子 人間の運命 君子の徳は外界の快楽に影響を及ぼされない
荀 子 自然現象 君子の政策は外界の自然現象によって妨げられない

  
両者の違いは、個人的な思想傾向のためでもあっただろうし、また置かれた時代の要請の違いでもあっただろう。孟子はまだ統一帝国のシステムを構想するには時代が早く、孔子の古い時代の君子像を継承して、諸国に対して実力で雇われるプロフェッショナルな君子を想定していた。いっぽう荀子はもはや統一帝国が見えていた時代においてそれを具体的に構想することが課題であり、統一帝国の下で政策判断を行う官僚としての君子を想定していた。しかしながら、両者ともに君子の外界からの自律性を確保するために、人間の力ではコントロールできない外界を君子の関心の対象から外せ、と主張した点では同じであった。両者は儒家思想家として、人間の力だけを信じるに値すると主張するのである。

One thought on “天論篇第十七(2)

  1. 伊藤 和男

    まだ、読んでいませんが、ありがとうございます。荀子について、ほとんど知りませんですしたが、
    荀子の天人韓に興味があります。キリスト教の自然神学派の神との違い、同じか興味があります。

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