議兵篇第十五(4)

By | 2015年4月21日
弟子の陳囂(ちんごう)が荀子に質問した。
(陳囂)「先生は、兵について議論するときには、常に仁義を基本としております。しかし仁者は人を愛し、義者は理に従います。ならば、どうして兵を用いる必要があるのでしょうか?およそ兵を用いる者は、それすべて争奪のためではないですか。」
(荀子)「お前は、分かっていない。かの仁者は、人を愛する。人を愛するがゆえに、人を害する人を憎むのである。(『論語』里仁篇の「惟(ただ)仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む」を連想させる。)義者は、理に従う。理に従うがゆえに、これを乱す人を憎むのである。そもそも兵というものは、暴虐を禁じて害悪を除く手段なのだ。争奪のためにあるのではない。ゆえに、仁の人の兵は、駐屯している土地は治安よく、通過するところは教化されていくのである。まるで時にかなった雨が降るがごとくに、これを喜ばない者はいない。こうして、堯は驩兜(かんとう)を討伐した。舜は有苗(ゆうびょう)を討伐した。禹は共工を討伐した(注1)。湯王は夏の桀王を討伐した。文王は崇(すう)を討伐した。武王は殷の紂王を討伐した。この四帝両王(注2)は、みな仁義の兵を天下に送ったのである。ゆえに、帝王の近くにある者はこれに親しみ、帝王の遠くにある者はその徳を慕った。兵は刀を血に塗らせることもなく、遠方の地から人は来たりて服従し、徳は盛んにして四方の極地にまで及んだのであった。『詩経』に、この言葉があるだろう。:

親鳥は、君子のごとく
威儀礼儀、迷わず一つ
(迷わずに、一つであるゆえ
四方(よも)の国、正されるかな)
(曹風、鳲鳩より)

そういうわけなのだ(注3)。」

次に、弟子の李斯が荀子に質問した。
(李斯)「秦国は、四世に渡って勝利を続けました(議兵篇(2)参照)。兵は海内において強く、威は諸侯に行き渡っています。これは、仁義によって勝ったのではありません。ただ富国強兵の技術(注4)を用いて、それに従ったまでです。」
(荀子)「お前は、分かっていない。お前の言う技術は、真の技術ではない。私の言う仁義は、最も偉大な技術なのだ。かの仁義というものは、政治を治めるために拠って経つところなのだ。政治が治まれば、人民はその上の者に親しみ、その君主の下にあることを楽しみ、これのために軽々と死ねるようになるのだ。ゆえに、『そもそも大国の王にとっては、軍の統帥などは瑣末な事にすぎない』と言うのだ(同じく議兵篇(2)参照)。たしかに、秦国は四世に渡って勝利した。だがかの国は今や戦々恐々として、天下の諸国が一体となって自国を踏み潰すことを常時恐れているではないか。これは、いわば滅亡の前段階の兵なのだ。王者の本統には至っていない。ゆえに湯王が夏の桀王を亡ぼしたのは、鳴條(めいじょう)の決戦において初めて決まったのではなかった。また武王が殷の紂王を亡ぼしたのは、甲子(きのえ)の日の朝に牧野で決戦したことによって初めて成したのではなかった。彼らは皆、仁義の王としてずっと以前から平素の修養を積んでいた。それゆえの勝利であった。これが、いわゆる仁義の兵なのだ。今、お前は根本なる仁義によって勝利を求めずして、瑣末なる変詐の術によって勝利を求めている。これが、世の乱れる原因なのである。」


(注1)どの注釈者も指摘しているが、共工を流刑に処したと記録にあるのは堯である。これは誤り。
(注2)楊注は禹・湯王も帝に数えている、と言う。猪飼補注は、ここは伝写の誤りで二帝四王が正しい、と言う。
(注3)引用された詩のカッコ内は原文にはないが、言いたいことはここまで続けないと分からない。下の注も参照。
(注4)原文「便」。便宜、便利のことであるが、意味を取りやすくするために「技術」と意訳した。以下も同じ。
《原文・読み下し》
陳囂(ちんごう)孫卿子に問いて曰く、先生兵を議するに、常に仁義を以て本と爲す。仁者は人を愛し、義者は理に循(したが)う。然らば則ち又何ぞ兵を以て爲さんと。凡そ兵有ることを爲す所の者は、爭奪の爲なり。孫卿子曰く、女(なんじ)が知る所に非ざるなり。彼れ仁者は人を愛す、人を愛するが故に人の之を害するを惡むなり。義者は理に循う、理に循う故に人の之を亂るを惡むなり。彼れ兵なる者は暴を禁じ害を除く所以なり、爭奪に非ざるなり。故に仁人の兵は、存する所の者は神(おさ)まり、過ぐる所の者は化す(注5)、時雨の降るが若く、說喜せざること莫し、是れ以て堯は驩兜(かんとう)を伐ち、舜は有苗(ゆうびょう)を伐ち、禹は共工を伐ち、湯は有夏を伐ち、文王は崇を伐ち、武王は紂を伐つ。此の四帝兩王は、皆仁義の兵を以て、天下に行(や)るなり。故に近き者は其の善に親しみ、遠き方は其の德を慕い、兵刃に血ぬらずして、遠邇(えんじ)來服し、德此(ここ)に盛(さかん)にして、四極に施及す。詩に曰く、淑き人君子、其の儀忒(たが)わず(注6)、とは此れ之を謂うなりと。
李斯孫卿子に問いて曰く、秦は四世勝有り、兵は海內に强く、威は諸侯に行わる、仁義を以て之を爲すに非ざるなり、便を以て事に從うのみと。孫卿子曰く、女が知る所に非ざるなり。女が所謂(いわゆる)便なる者は、不便の便なり、吾が所謂(いわゆる)仁義なる者は、大便の便なり。彼の仁義なる者は、政を脩むる所以の者なり、政脩まれば則ち民其の上に親み、其の君を樂(たのし)みて、之が爲に死するを輕んず。故に曰く、凡そ軍に在りては、將率(しょうそつ)は末事なりと。秦の四世勝有るは、諰諰然(ししぜん)として常に天下の一合して己を軋(あつ)せんことを恐るるなり、此れ所謂(いわゆる)末世の兵にして、未だ本統有らざるものなり。故に湯の桀を放つや、其の之を鳴條に逐うの時に非ざるなり、武王の紂を誅するや、甲子の朝を以てして而(しか)る後に之に勝つに非ざるなり、皆前行素脩(そしゅう)によるなり、所謂(いわゆる)仁義の兵なり。今女之を本に求めずして、之を末に索(もと)む、此れ世の亂るる所以なりと。


(注5)『孟子』盡心章句上十三に同様のフレーズが出てくる。この「神」字をどう解釈するについて、論者は分かれている。趙岐は神のごとくに化す、と解し、朱子は神妙で測りがたい、と解している。『孟子を読む』サイトでは朱子の解釈を取った。だが『孟子』訳者の小林勝人氏、『荀子』訳者の藤井専英氏はともに、よく治まるという意味に解している。『孟子』『荀子』両者で表れるので、このフレーズは当時の慣用句であったのだろう。だから、どっちとも取れるダブルミーニングを持っていたはずである。おそらく荀子は「よく治まる」という解釈を取っていたであろうと想定して読み下した。
(注6)『詩経』曹風、鳲鳩の詩はこの後に「其の儀忒わざれば、是の四國を正す」と続く。要は帝王の諸国平定の様をここで表すために引用したのであって、後半は言わずとも知っているだろう、という様で省略していると思われる。

荀子の両名の弟子が、質問する。陳囂(ちんごう)は楊注に荀子の弟子、とあるのだが、詳しい経歴はよく分からない。しかし質問している内容から見ると、荀子学校の穏健派に属していたのであろう。孔子以来の儒家の正道を守って、君主や官僚は人徳ある仁義の人でなければならない、というスタンスである。ただ荀子学派は来るべき統一中華帝国のプランを具体的に考察していたのであり、前の時代の孟子よりも詳細に国家の有効な礼法について検討した結果、統治術がしだいに法家思想の主張と大差ないものになっていったことが、想像できる。

もう一人の弟子の李斯は、『史記』にも一列伝が置かれている歴史上の大人物である。彼の主張を見ると、荀子学校の急進派の論法が見えてくる。荀子の統一中華帝国のプランを大筋で承認した上で、もはや君主や官僚の人徳などは問題としない。国家はシステムであり権力である、という法家思想の悪い言葉で言えばニヒリズム、よい言葉で言えば価値観を捨象した国家像に接近している。

李斯は統一秦帝国の丞相に就任し、始皇帝と二人三脚で中華史上最初の帝国を運営した。両名は、後世の評判がすこぶる悪い。しかしながら両名が打ち立てた中央集権制・法治官僚国家のシステムは、その後の中国で基本を変えることなく2000年間継続された。中華帝国2000年の歴史で始皇帝と李斯が作ったシステムに後世が付け加えたものといえば、統治の秩序を正当化するためのイデオロギーである儒学を採用したことと、官僚を採用する筆記試験である科挙を採用したことぐらいである。始皇帝と李斯のシステムは法治官僚国家として完成されていたために、周辺国の日本や新羅にまで導入されることとなった(ただし日本は、鎌倉幕府の成立から江戸時代末までの武家政権の期間、このシステムを捨てた)。それは近代国家の法治官僚国家のシステムと本質的には変わりがないので、明治維新以降の日本政府にも、現代に至るまで影を落している。大陸の政府、半島の政府も同様である。彼ら悪名高い両名の後世に及ぼした影響は、非常に大きい。

李斯は、荀子学校に在学していたときに、中華帝国の統治システムについて研究したことであろう。しかし李斯が秦帝国で導入した制度の中で、荀子のプランにはなかったものがある。それは、皇帝の下に封建諸侯を置かず、地方は全て中央から派遣した官僚によって統一支配する郡県制であった。しかし師の荀子は、諸侯を置くことを提唱していた(王制篇)。
秦帝国が倒れた後、漢帝国をはじめ歴代の中華帝国は、国家建設の初期においては建国の功労者や皇帝の親族を封建諸侯として置く制度を取ったこともあった。しかしながら、どの帝国も時代が進行するにつれて皇族以外の諸侯を取り潰し、皇族の諸侯は権力を奪って有名無実化し、結果的には郡県制を採用した。封建諸侯のような地方の自治政府は反乱の火種となり、かつ中央の税収を減らす。そのために、中央にとってはこれらを潰すことが利益であり、結局中華帝国は郡県制によって安定するのが常であった。李斯の見通しが、師の荀子に勝ったのであった。もちろん、郡県制が地方の自治能力を奪って中央に依存する体質を作り、安定と引き換えにどれだけ社会の多様性を削いだか、かつ広すぎる範囲を支配する中央政府がどれだけ統治の能率と細やかさを失ったか、の問題は考えなければならない。

李斯は秦国の強さはシステムにある、と己の正論を言った。これを荀子は斥け、魂のないシステムはやがて滅亡するだろう、と予言した。総論としては、李斯のほうが正しかった。だが、その李斯は後世の嘲りを受けた。

秦国は荀子が予言するのとは違って、始皇帝により天下を統一して完全勝利した。これは、中華は統一されることがもはや時代の趨勢であって、最強であった秦国がそれを成し遂げたまでであった。李斯は、それみたことかと師を凌駕したことに勝ち誇ったであろう。システムが、全てである。

しかし秦帝国は、始皇帝が生きている間しか続かなかった。司馬遷は秦帝国が滅んだ理由は、天下が統一国家により平和な時代が訪れることを期待していたのに、始皇帝はそれを裏切って人民を過酷に支配した、そのところに求めた。それもまた、一見解であろう。だが私の意見としては、始皇帝と李斯はあまりに短期間で矢継ぎ早に改革を行いすぎて、それを力に頼って強行しすぎたところに秦帝国の滅亡の原因を見たい。全国一律の法、文字・度量衡・貨幣の統一、郡県制、道路網の整備、巨大首都の造成、皇帝の儀式としての全国巡幸と封禅、これら始皇帝の時代に行われた事業は、皇帝の全国巡幸を除けばすべて後の中華帝国が継承した制度であった。李斯らによって帝国の青写真が出来上がっていたから、短期間で実施されたことであろう。しかしながら、その急激すぎる改革が、権力に抑え付けられている者たちの怒りを買ったようであった。とりわけ、中原諸国とは習俗が違っていた楚国の遺民たちの怒りは、激しかった。始皇帝の死後、楚は陳勝、項羽、劉邦らが率いる反乱軍を連続して輩出し、ついに秦帝国を亡ぼしてしまった。その秦が滅んだ焼け跡の上に、楚人の劉邦が漢帝国を建てた。漢帝国は、始皇帝の行った改革の成果を、ほぼ全て継承した。それは結局は、利益のある制度だったからであった。始皇帝の巡幸だけは、後世の皇帝たちに継承されなかった。好んで中華全土を回るようなエネルギーを持った皇帝は、以降には現れなかった。

李斯は秦帝国が滅亡する直前に、宦官の趙高によって惨殺された。その経緯は、史記の李斯列伝にある。天下の知性であった李斯が、たかが始皇帝の宮廷奴隷にすぎない趙高に翻弄されるとは。李斯列伝にある李斯と秦帝国の最後は、宮廷の密室政治というものがここまで醜いものだという活劇を示して、古今無双である。そして彼は偉大な改革者であったのに後世唾を吐きかけられることとなったのは、哀れである。システムは勝ち残り、システムを作った者は嘲られた。

私は李斯と始皇帝は、後世にまで継承される内容を持った合理的なシステムを作った個人として、近代のナポレオンに対比するべきであろう、と考える。李斯と始皇帝は、東アジアの法治官僚国家システムを作り上げた。ナポレオンは近代法と国民軍を作って、近代国民国家システムを作り上げた。私は彼らのシステムを手放しで称えることはしないが、時代と国を超えて採用されるべき理がそれらの中にあったことは、否定しない。

議兵篇のここから後は、本篇の総括となる。長大な文章であるが、儒家の論理で兵を語って、それ以上の見るべきものはない。なので、訳だけを一挙に置いて、終わりとしたい。

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