Author Archives: 河南殷人

大略篇第二十七(5)

二十一
聖王の禹(う)は、農夫二人が並んで耕しているところを見たときには、式(しょく。馬車の横木のこと。転じて馬車に乗る者が横木によりかかって伏して拝する礼)の礼を行った。また十軒の村を通過するときには、必ず車を降りた。

禹は堯舜の家臣の時代、中華全土を駆け回って治水を行ったと伝えられている。労苦する聖人として、後世の墨家の尊崇するところとなった。荀子もまた、禹に言及することが多い。

二十二
狩猟を行う時期があまりに早すぎることと、朝廷に出勤することがあまりに遅すぎることは、礼ではない。人民を治めるときに礼によって行わないならば、何か行うたびに失敗するであろう。

二十三
ひざまづいて手を前で合わせて伏し、腰と頭の高さを等しくする拝礼を、「拝(はい)」と呼ぶ。これよりも頭を低くする拝礼を、「稽首(けいしゅ)」と呼ぶ。さらに頭を低くして地に付けて行う拝礼を、「稽顙(けいそう)」と呼ぶ。ところで大夫(たいふ。士より上で卿より下の貴族。あるいは貴族全般を指す)の家臣は、主人の大夫に対して拝の礼を行うが稽首の礼を行わない。それは、なにも家臣を尊んで軽い拝礼で済ませているのではない。大夫の上にある国君をはばかって、家臣に自分に対する過大な拝礼を行わせないまでのことなのである。

漢文大系は、原文読み下しの「大夫の臣」以下を別の章に分けて、これを二章としている。

二十四
公人として官に初任された士は、郷里において年齢順に従って席次を決める。二度目に任官された大夫は、同族の間においてのみ年齢順に従って席次を決め、一族でない他の郷里人に対しては上座を占める。三度目に任官された卿は、原則として年齢によらず上座に就く。だが、ただ一族の七十歳以上の者に限ってのみその下座に就く。上大夫すなわち卿、中大夫すなわち大夫、下大夫すなわち士は、、、(この後は原文にないが、おそらく欠文があると思われる

楊注は、この礼は郷飲酒礼(楽論篇を参照)の時のことである、と注するが、増注は郷飲酒礼に限ることではない、と注する。なおこの章には、欠文があると思われる。下の注4参照。

二十五
吉事の祭礼においては身分の高い者の順に上席となし、葬礼においては故人よりも近しい親族の順に上席となす。

《読み下し》
禹は耕す者の耦立(ぐうりつ)するを見て式(しょく)し、十室の邑(ゆう)を過ぐれば必ず下る。

殺する(注1)こと大(はなは)だ蚤(はや)く、朝すること大だ晚(おそ)きは、禮に非ざるなり。民を治むるに禮を以てせざれば、動けば斯(ここ)に陷る。

平衡を拜(はい)と曰い、下衡を稽首(けいしゅ)と曰い、地に至るを稽顙(けいそう)と曰う。大夫の臣、稽首して拜せざるは、家臣を尊ぶに非ざるなり、君を辟(さ)くる所以なり。

一命(注2)は鄉に齒(し)し、再命は族に齒し、三命は族人雖(ただ)七十にして敢て先んぜざるのみ(注3)。上大夫、中大夫、下大夫(注4)

吉事には尊を尚(とうと)び、喪事には親を尚ぶ。


(注1)楊注或説は礼記(王制篇)の「獺魚を祭り、然る後に虞人沢梁に入り、豺獣を祭り、然る後に田獵す」を引いて、此に先んじて蚤く為す、と言う。礼記月礼篇の記述と合わせて見れば、獺(かわうそ)が魚を取り始める陰暦一月になってから虞人(ぐじん。沼沢を管理する役人)は沢梁で漁を行うことを解禁し、また豺(やまいぬ)が獲物を捕り始める陰暦九月になってから田獵(でんりょう。狩猟)が解禁されるという。この解禁時期よりも早く狩猟をして獲物を殺すことが、「殺すること大(はなは)だ蚤」いの意味である。この説に従う。増注は、「殺」はおそらく「祭」の誤り、と言う。
(注2)楊注は、「一命は公侯の士、再命は大夫、三命は卿なり」と注する。言うは、公人として初任された官は、まず諸侯国の士、すなわち下級貴族の身分を得る。二度目に任ぜられた官は、士より昇格して大夫の身分を得る。三度目に任ぜられた官は、最上級の卿の身分を得る。
(注3)原文「三命族人雖七十不敢先」。このままに読めば、「三命は族人七十と雖(いえど)も敢て先んぜず」となって、意味は「三命された卿は一族の七十歳以上の者であってもその下座に就かない」となる。これに対して猪飼補注は、礼記三義篇の「三命不齒、族有七十者弗敢先(三命歯[齒]せず、族七十なる者有りて敢て先んぜず)」を引いて、「雖」は「唯」に作るべし、と言う。つまり、「三命された卿は原則として年齢によらず上座に就くが、ただ一族の七十歳以上の者に限ってのみその下座に就く」という礼が礼記と合致すると指摘する。猪飼補注に従いたい。
(注4)「上大夫、中大夫、下大夫」について、楊注は前文の三命・再命・一命のことと解する。すなわち士といえども身分的には大夫の末席であるために「下大夫」である、と言う。猪飼補注は、「上大夫、中大夫、下大夫」の上下に欠文があることを疑う。楊注の通りの意味であるかもしれないし、別の文の断片であるかもしれないが、ともかくこれだけで文が完結しているとは思えず猪飼補注の言う通り欠文があると考えるのが妥当であろう。

大略篇第二十七(6)

二十六
君臣といえども聖人の礼による秩序を得なければ尊ばれることはなく、同様に父子が親しみ合うこともなく、同様に弟が兄に従うこともなく、男女も喜び合うこともない。年少者が成長するのも、老年者が養われるのも、聖人の礼による秩序の中で行われるのである。ゆえに、古語に「天地之を生じ、聖人之を成す」と言うのである。

富国篇(2)に「父子得ざれば親しまず、兄弟得ざれば順ならず、男女得ざれば歡せず、少者は以て長じ、老者は以て養わる。故に曰く、天地之を生じ、聖人之を成す」の語があり、ほぼ同じ文である。なので、原文の意味は上のとおりとなるだろう。
なお集解の汪中は、上の(原文で)四十一字は錯簡であり、後の三十五章の下に置かれるべきである、と言う。直前二十五章の「尊を尚び」「親を尚ぶ」の文に惑わされてここに誤って置かれた、と言う見解である。

二十七
聘(へい)とは、大夫を使者として命じて、他国に訪問することである。享(きょう)とは、使者が他国に訪問した際に、礼物を進呈することである。私覿(してき)とは、享の礼が終わった後に、使者が私的に謁見することである。

古代の外交儀礼を述べている。それは、現代の外交儀礼と本質的には変わることがない。

二十八
朝廷においては、言語は外に出すには謹み深く内にひきしめるには厳しくあり、列席する家臣は多士済々で整然と揃っている。

二十九
人の臣下たるもの、主君に諫言はしても主君の誹謗中傷はなさず、主君を見限って逃亡することはしても主君を憎むことはなく、主君の仕打ちを心中で恨むことはあっても主君に正面から怒りを示すことはしない。

三十
君主は、大夫に対しては病気の見舞いならば三度行い、喪ならば三度弔問に赴く。士に対しては、病気の見舞いは一度、喪の弔問は一度赴く。諸侯たるもの、病気の見舞いか喪の弔問でなければ、家臣の私宅に訪問はしない。

君主と家臣の私的な付き合いを制限するのも、礼である。なぜならば両者ともに国家を担う公人だからである。礼の意義には、朝廷が私物化せずに公共の政治組織として機能するために、許されることと制限すべきことをルール化するという側面がある。
《読み下し》
君臣得ざれば尊からず、父子得ざれば親しまず、兄弟得ざれば順ならず、夫婦得ざれば驩(かん)せず、少者は以て長じ、老者は以て養わる。故(ゆえ)に天地之を生じ、聖人之を成す。

聘(へい)は問なり。享(きょう)は獻(けん)なり。私覿(してき)は私見なり。

言語は、美、穆穆皇皇(ぼくぼくこうこう)(注1)たり。朝廷の美は、濟濟鎗鎗(せいせいそうそう)(注2)たり。

人の臣下爲(た)る者は、諫むること有りて訕(そし)ること無く、亡(ぼう)する(注3)こと有りて疾(にく)むこと無く、怨むこと有りて怒ること無し。

君の大夫に於けるや、三たび其の疾(やまい)を問い、三たび其の喪に臨む。士に於けるや、一たび問い、一たび臨む。諸侯は疾を問い喪を弔するに非ざれば、臣の家に之(ゆ)かず。


(注1)楊注は、「穆穆」は容儀謹敬、「皇皇」は自ら脩正するの貌、と注する。「穆穆皇皇」を増注は「賓客に与うる言の状」と注する。
(注2)楊注は、「済済(濟濟)」は多士の貌、「鎗」は「蹌」と同じで「蹌蹌」は行列有るの貌、と注する。「濟濟鎗鎗」を増注は「出入進退の儀を謂う」と注する。
(注3)楊注は、「亡は去るなり」と言う。逃亡すること。

大略篇第二十七(7)

三十一
喪礼において、埋葬が終わった後では君主あるいは父親の友人から食事をすすめられたときにはこれを食してもよい。だがその場合、梁(おおあわ。古代の穀類の中で上等であった)や肉は食べてもよいが、酒は辞退しなければならない。

楊注は、「尊者の前、以て美を食すは可なるも、顔色を変ずるは亦不可なり」と注する。つまり親の喪中であっても君主や父親の友人のような尊重すべき者から食事に誘われたときには、たとえ肉や梁といった美食であっても辞退せずありがたく頂くのが目上の者への礼である。しかしながら酒は酔って顔色を変えてしまい、親の喪中において君主や父親の友人といった他人に対して浮かれた様子を見せることは非礼だ、という趣旨である。

三十二
寝(しん。日常の居宅)は宗廟より豪華には作らず、日用の服装は祭礼用の服装より華麗に作らないのが、礼である。

『礼記』王制篇にも同じ表現が表れる。下の注1参照。

三十三
易(えき)の「咸(かん)」卦は、夫婦を象徴している。夫婦の道は、必ず正しくしなければならない。それは自然が作った区別である男女の関係に正しい道を取ることであって、より高次な社会関係である君臣・父子の関係の基礎をなすからである。「咸」とは「感」の意であり、高くあるべき艮(ごん。少男を象徴し、「とどまる」意を持つ)が低くあるべき兌(だ。少女を象徴し、「よろこぶ」意を持つ)より下にあり、男が女の下にあり、柔が昇って剛がへり下る姿を表している。すなわち柔剛の二気が互いに感応して、調和して止まり喜ぶ姿なのである。

劉向校讎叙録は「孫卿善く詩・禮・易・春秋を爲(おさ)む」と言う。すなわち荀子は易の大家でもあったと思われるが、『荀子』内で詩と礼に関する言及が圧倒的に多いことに比べると易に関する叙述はきわめて少ない。この章は後出する大略篇のいくつかの章と並んで『荀子』中で易について言及した数少ないパッセージの一つである。
「咸」は六十四卦の一で、兌上艮下の卦。『易経』の彖伝(たんでん。十翼と呼ばれる『易経』の伝すなわち解説文の一つ)には「咸は感なり、柔上(のぼ)りて剛下り、二気感応して以て相与するなり。止まりて説(よろこ)び、男は女に下る」と説明されていて、ここの荀子の言葉と一致している。上の訳は、彖伝および序卦伝(じょかでん。十翼の一つ)に従って補った。

三十四
聘士(へいし)の礼と親迎(しんげい)の礼の意義は、最初を重んじるところにある。礼というものは人が踏み行う道であり、踏み行うところを誤ったならば、必ずつまづき転んで落とし穴にはまり込んでしまうだろう。最初の踏み誤りがわずかでありながら、後に大きな乱れをもたらすものが、礼なのである。

聘士は、下の注3参照。親迎は、大略篇十三章を参照。士を招く最初と妻を迎える最初の礼が肝心である、という意味である。

三十五
礼が国家を正すその様は、あたかも権衡(はかり)が物の軽さと重さを明らかにし、縄墨(すみなわ)が材木の真っすぐさと曲がり具合を明らかにするようなものである。ゆえに人は礼がなければよく生きることはできず、事業は礼がなければ成功することはできず、国家もまた礼がなければ安泰となることはできない。

脩身篇(1)に「人は禮無ければ則ち生きず、事は禮無ければ則ち成らず、國家も禮無ければ則ち寧ならず」とあり、本章後半と同一である。
集解の汪中は、大略篇二十六章はこの章の末尾の後に置かれるべきであると主張している。
《読み下し》
旣に葬りて、君若(も)しくは父の友、之に食せしむれば則ち食す。梁肉(りょうにく)を辟(さ)けず、酒醴(しゅれい)有れば則ち辭す。

寢は廟を踰(こ)えず、設衣(えんい)(注1)は祭服を踰えざるは、禮なり。

易(えき)の咸(かん)は、夫婦を見(あら)わす。夫婦の道は、正しくせざる可からざるなり、君臣・父子の本なり(注2)。咸は、感なり、高を以て下(ひく)きに下り、男を以て女に下る、柔上(のぼ)りて剛下る。

聘士(へいし)(注3)の義と、親迎(しんげい)の道は、始を重んずるなり。禮なる者は人の履(ふ)む所なり、履む所を失すれば、必ず顛蹶(てんけつ)・陷溺(かんでき)す。失する所微にして、其の亂を爲すこと大なる者は、禮なり。

禮の國家を正すに於けるや、權衡(けんこう)の輕重に於けるが如く、繩墨の曲直に於けるが如きなり。故に人は禮無ければ生きず、事は禮無ければ成らず、國家は禮無ければ寧ならず。


(注1)増注・集解の王念孫は、「設」は似ている字の「讌」の誤り、と言う。増注・王念孫ともに礼記王制篇に「燕衣は祭服を踰えず、寝は廟を踰えず」とあることを引いて、その証拠とする。「讌」は「燕」と同義でくつろぐ意であり、「讌衣」は日用の服装のこと。
(注2)楊注は序卦伝の「天地有りて然る後に万物有り、万物有りて然る後に男女有り、男女有りて然る後に夫婦有り、夫婦有りて然る後に父子有り、父子有りて然る後に君臣有り」を引いて、「故に夫婦を以て本と為す」と解説する。ただし楊注はこの文を説卦伝(せつかでん)のものと注しているが、これは誤りで序卦伝が正しい。
(注3)楊注は「聘士とは安車(あんしゃ)・束帛(そくはく)して其の礼を重ぬるがごときを謂う」と注する。すなわち安楽な車と絹の束をもって士を手厚く招く礼。

大略篇第二十七(8)

三十六
和鸞(からん。車に付いた鈴)の音が鳴るとき、それが徐行するときには武象(ぶしょう。武も象も、古楽の曲名)の調子に合い、快走するときには韶護(しょうかく。韶も護も、古楽の曲名)の調子に合っているのは、宮廷に仕える君子たちが音楽を学び容姿の礼をきちんと習った上で外出するからこそ、ぴたりと調子を合わせることができるのである。

「和鸞の聲、步は武象に中り、趨は韶護に中るは、耳を養う所以なり」の語が、正論篇礼論篇に見える。

三十七
霜が降りる頃(旧暦九月)から妻を迎え、氷が解ける頃(旧暦二月)には嫁取りを差し控える。妻妾を枕席に侍らせて御することは、十日に一回の間隔とすべし。

冬の期間に婚礼を行うべき理由を『孔子家語』は、冬は化育の始まりの季節であって、次の生命を宿す時期であるので婚礼にふさわしく、氷が溶けて農事が始まる季節になれば、婚礼は農事を妨げるから控えるのであると言う。
礼は、家庭内の性交渉まで干渉するものである。荀子の礼は大は国家から小は家庭内の性交渉まで、徹底して人間の生活を規定しようとする。

三十八
子が父の前に座るときには、子の視線は父の膝に向けるべし。父が立てば、視線は父の足に向けるべし。しかし対話して言葉を発するときには、父の顔を見て行うべし。さて家臣が君主に対するときには、前方六尺(約1.3メートル)に視点を合わせるべし。遠方を視る場合においても、六六三十六で三丈六尺(8.1メートル)までにして、それより遠くを視ない。

親を敬う視線を持ちながら、対話するときにはきちんと親の顔を見て発言することが、礼である。親をただ敬遠するだけの行いは、荀子にとって礼ではない。「正道に従って君主に従わず、正義に従って親に従わないのが、人として偉大な行いというべきものなのだ」(子道篇)と荀子は言い、親であろうが君主であろうが正しくないことには諫める言を与えるのが荀子にとって正しいことなのである。

三十九
文飾を美しく飾ることと、実用を重んじることとの両者は、礼において内外表裏をなさなければならない。礼に妥当しながら思索を尽くすことを、よく熟慮する者と言うのである。礼というものは、根本の感情と展開された文飾とが相従い、簡素な最初とよろこばしい最後とが相応ずるものである。礼というものは、財物を用いて行い、文飾によって貴賤を区別し、分量の多い少ないによって格差を設けるものである。

本章の言葉は、礼論篇(2)に散らばって見ることができる。

四十
下臣は、人民から搾り取った財貨珍品を君主に献上することによって君主に仕える。中臣は、社稷を守るために一命をなげうつことによって君主に仕える。上臣は、国家をよく運営できる賢者を推挙することによって、君主に仕える。

《読み下し》
和樂(からん)(注1)の聲の、步は武象(ぶしょう)に中(あた)り、趨(すう)は韶護(しょうかく)に中るは、君子の律を聽き容を習いて而(しこう)して後に士(い)づればなり(注2)

霜降りてより女(つま)を逆え、冰(こおり)泮(と)くれば殺(さい)す(注3)。內(ない)は十日に一たび御す。

坐すれば膝を視、立てば足を視、應對・言語には面(かお)を視る。前を視ること六尺、而(しこう)して之を大にするも、六六三十六にして、三丈六尺なり。

文貌・情用は、內外・表裏を相爲す。禮に之れ中(あた)りて能く思索する、之を能く慮(おもんぱか)ると謂う。禮なる者は、本末相順(したが)い、終始相應ず。禮なる者は、財物を以て用と爲し、貴賤を以て文と爲し、多少を以て異と爲す。

下臣は君に事(つか)うるに貨を以てし、中臣は君に事うるに身を以てし、上臣は君に事うるに人を以てす(注4)


(注1)正論篇・礼論篇は「和鸞」に作る。よって楊注或説・増注・集解の顧千里はいずれも「樂」を「鸞」に作るべきことを言う。
(注2)集解の王念孫・猪飼補注はともに礼記玉藻篇の「容を習い、玉声を観て、乃ち出づ」を引用して、「士」はまさに「出」に作るべきことを言う。これに従い改める。
(注3)原文「泮冰殺」。楊注は後字の「內(内)」と続けて「泮冰殺内(冰泮くれば内を殺す)」のように読む。しかし集解の郝懿行・王引之は、『詩経』孔頴達正義に荀子のこの言葉が引用されていることを指摘する(召南、摽有梅および陳風、東門之楊の注)。それらの引用では「泮冰殺止」に作ることを受けて、王引之は「殺」字の下の「止」字が脱落していると言い、「内」字は下文に属して句をなすべきことを言う。王引之に従い読み下す。
(注4)本章について楊注は、「貨は聚斂及び珍異を君に献ずるを謂い、身は死して社稷を衛(まも)るを謂い、人は賢を挙げるを謂う」と注する。

大略篇第二十七(9)

四十一
易の「小畜(しょうちく)」の爻辞(こうじ)に、「再び正道に戻れば、咎はないだろう」とある。『春秋経』において穆公(ぼくこう)を賢者であると称えているのは、過去の過ちをよく悔い改めたからである。

小畜は六十四卦の一で、巽上乾下。引用された文は、初九の爻辞(こうじ)の句である。爻辞とは、卦を構成する六本の爻(こう)のそれぞれの意味を解説したもので、爻辞を易占にどのように用いるかについては複雑な理論がある。いちばん下の爻が陽である場合には「初九」、陰である場合には「初六」と称する。小畜のいちばん下の爻は陽なので初九である。
言及されている穆公とは、春秋時代の秦国の君主である秦の穆公(繆公とも記録される)のことである。楊注は春秋公羊伝に「何が穆公を賢とするか。能く変ずるを為すを以てす」(文公十二年)とあることを指摘する。楊注はこれに続けて、「前に蹇叔・百里の言を用いず、崤函に敗る。而して自ら変じて悔い、秦誓を作り、茲に黄髪を詢すを謂う」と注する。楊注が指すエピソードは、以下のとおりである。すなわち穆公は家臣の百里奚(ひゃくりけい)と蹇叔(けんしゅく)の諫言を聴かずに鄭国を討って、崤(こう。または殽)に敗れた。公は帰国して大いに過ちを悔い、群臣に対して今後は家臣の進言を容れて善政を行うことを誓った。この誓言は、『書経』の秦誓(しんせい)篇であるという。百里奚と穆公については、成相篇(1)注1、あるいは孟子万章章句上、九も参照。

四十二
士たるもの、ねたむ友人がいると、賢明な人々はこれに近づかない。君主たるもの、ねたむ家臣がいると、賢人はこの下にやってこない。公明正大な道を覆い隠す者を、「昧(まい)」すなわち愚昧と言う。賢良の人材を覆い隠す者を、「妒(と)」すなわち嫉妬の逆恨みと言う。妒昧の愚人を重んじる者を、「狡譎(こうけつ)」すなわちずるくて詐ると言う。妒昧の人間と狡譎の家臣は、国家にとってけがらわしいわざわいである。

四十三
口でよい意見を出して、なおかつ行いでこれを実行する者は、国の宝というべきである。口は下手でよい意見を出すことができないが、行いではよく実行できる者は、国の役に立つ器というべきである。口が上手でよい意見を出すことができるが、行いは下手でよい成果を挙げることができない者もまた、国のために用途ある者というべきである。だが国でよい意見を出しながら、行いでは悪事をなす者は、国のわざわいといわなければならない。国を治める者は、国の宝を尊重し、国の器を愛し、国のために用途ある者を任用し、国のわざわいを除くべし。

四十四
人民が豊かでなければ、人民の「情」をよい方向に養うことができない。人民を教化しなければ、人民の「性」をよい方向に制御することができない。よって、家ごとに五畝(9.1アール)の宅地と百畝(1.82ヘクタール)の田畑を割り当て、それぞれの家で農事に励まさせ、農繁期に国が役務を徴発しないことによって、人民を豊かにするのである。それから教育機関として首都に大学(たいがく)、地方に庠序(しょうじょ)を置いて、ここにおいて六礼(りくれい。下注参照)を修めさせ、七教(しちきょう。下注参照)を明らかに学ばせることによって、人民を導くのである。『詩経』に、この言葉がある。:

飲食をば、これにたまいて
教誨をば、これに与えん。
(小雅、緜蛮より)

飲食を与えて、さらに教化することができれば、王の仕事は全て尽きるだろう。

増注および集解の王念孫によれば、六礼とは冠・昏(婚)・喪・祭・郷・相見のこと。郷とは郷飲酒礼(郷里で地方の学校を卒業した最優秀の生徒を中央に送り出す送別の酒宴の礼。楽論篇参照)および郷射礼(郷里で射術を競う競技を行う礼)であり、相見とは士相見礼(士が人と会見する礼)である。また七教とは父子・兄弟・夫婦・君臣・長幼・朋友・賓客を指す。
本章は、『孟子』梁恵王章句上、七の孟子の言葉にきわめて近い。いわば孟子の「恒産無ければ恒心無し」を、荀子流の言葉で言った章といえるだろうか。「情」「性」は荀子の性悪説のタームである。正名篇(1)の定義を参照。性悪篇ほかの叙述を繰り返せば、人間の生のままの「性」「情」は「偽(い)」すなわち人為によって矯正されなければならず、その「偽」とはとりもなおさず礼のことである。

四十五
武王が紂(ちゅう)を討ってはじめて殷の故地に入ったとき、商容(しょうよう)の閭(むら)に旗を立ててこれを称え、箕子(きし)の牢獄の前で式(しょく)の礼(大略篇二十一章参照)を行って敬意を示し、比干(ひかん)の墓の前で哭泣した。こうして、天下は善に向かったのであった。

商容は賢人で、殷最後の王である紂(ちゅう)に仕えて諫めたが退けられた。箕子・比干はの紂のおじ。箕子は紂によって幽閉され、比干は紂によって殺された。議兵篇(5)注8参照。
《読み下し》
易に曰く、復して道に自(よ)らば、何ぞ其れ咎あらん、と。春秋に穆公(ぼくこう)を賢とするは、能く變ずることを爲すを以てなり。

士に妒友(とゆう)有れば、則ち賢交親(ちか)づかず、君に妒臣有れば、則ち賢人至らず。公を蔽(おお)う者之を昧(まい)と謂い、良を隱す者之を妒と謂い、妒昧(とまい)を奉ずる者之を交譎(こうけつ)(注1)と謂う。交譎の人、妒昧の臣は、國の薉孽(わいげつ)(注2)なり。

口能く之を言い、身能く之を行うは、國の寶(たから)なり。口言うこと能わずして、身能く之を行うは、國の器なり。口能く之を言い、身行うこと能わざるは、國の用なり。口に善を言い、身に惡を行うは、國の妖なり。國を治むる者は、其の寶を敬し、其の器を愛し、其の用を任じ、其の妖を除く。

富まさざれば以て民情を養うこと無く、敎えざれば以て民の性を理(おさ)むること無し。故に家ごとに五畝(ほ)の宅、百畝の田ありて、其の業を務めしめて其の時を奪うこと勿(な)きは、之を富ます所以なり。大學(たいがく)を立て、庠序(しょうじょ)を設け、六禮(りくれい)を脩め、十敎(しちきょう)(注3)を明(あきら)かにするは、之を道(みち)びく所以なり。詩に曰く、之に飲ませ之に食わせ、之を敎え之を誨(おし)う、と。王事具(そな)わる。

武王始めて殷に入るや、商容(しょうよう)の閭(りょ)に表(ひょう)し(注4)、箕子(きし)の囚に宋本に従い改める:)式(しょく)し(注5)、比干(ひかん)の墓を哭して、天下善に鄉(むか)う。


(注1)「交譎」を楊注は、譎詐の人と交通するの人、と言う。増注および集解の兪樾は、「交」は読んで「狡」となす、と言う。増注・兪樾の説を取る。「狡譎」は、ずるくて詐ること。
(注2)楊注は、「薉」は「穢」と同じ、と言う。「孽」は妖孽でわざわいのこと。すなわち薉孽とは、けがらわしいわざわい。
(注3)楊注は「十は或は七となす」と言う。増注および集解の王念孫は礼記王制篇(「司徒は六礼を脩め、、、七教を明かにす」)に言及して、楊注或説を是とする。これに従う。
(注4)楊注は、「表築して之を旌す」と注する。「表」とは旌表(せいひょう)のことで、忠孝節義の人の家の門に旗を立て、顕彰すること。後の時代の旌表は、皇帝あるいは地方長官が忠孝節義の人の家に扁額(へんがく。吉字を書いた額)を贈る習慣となった。
(注5)宋本は「式」に作るが、集解本に従う底本の漢文大系は「釋(釈)」字に作る。通説では、「釈」字が有力である。礼記楽記篇に同じく武王と商容・箕子・比干を列挙したくだりがあり、「封王子比干之墓、釋箕子之囚、使之行商容而復其位(王子比干の墓を封じ、箕子の囚を釈[ゆる]し、之をして商容に行き其の位に復せしむ)」とある。確かに武王は箕子を「釈」すなわち許して釈放したのであろうが、新釈の藤井専英氏も指摘するように、まずは箕子に敬意を表して「式」すなわち式(しょく)の礼(大略篇二十一章参照)を行った、としてもあながち間違いではないと思われる。より古い宋本のテキストにあえて従いたい。

大略篇第二十七(10)

四十六
天下には、どこの国でも俊秀の士がいるし、どんな時代でも賢人がいるものだ。だが道に迷う者は正しい道を問おうとせず、水に溺れる者は渡るべき径路を問おうとしない。亡国の君主は、自分一人の力を過信して独断専行しようとするものだ。『詩経』に、この言葉がある。:

我が言は、服すべき言
笑って済ます、ことなかれ
いにしえの人、言える有り
芻(くさかり)、蕘(きこり)の言すら聞けと
(大雅、板より)

この言葉は、君主は広く意見を聞かなければならない、という戒めなのである。

四十七
法律が存在している事項については法を適用して判定し、法律が存在していない事項については法の原理による判断によって判定する。根本をよく把握することによって、末節のことを知り尽くす。左にあるものから、右にあるものを理解する。およそ万事のことは、筋道を別にしていても、己が守る根本の原理はどれも同じである。褒賞と刑罰は、功罪の原理による判断をよく会得して、はじめて適切な判定を行うことができる。政治、教化、習俗政策もまた、人心の赴くところに従ってはじめてよく行われることができる。

王制篇(1)に本章と同じ「其の法有る者は法を以て行い、法無き者は類を以て舉す」の句がある。原文の「類」は王制篇(1)注2に準じて「法(功罪)の原理による判断」と訳した。

四十八
八十歳の者については、その子の一人は力役を免除する。九十歳の者については、一家全ての力役を免除する。廃疾者で他人の介護がなければ生活できない者については、一人の力役を免除する。父母の喪に当たっては、三年間力役を免除する。斉衰(しさい。一年の喪の喪服)あるいは大功(たいこう。九ヶ月の喪の喪服)を着る喪に当たっては、三月間力役を免除する。諸侯に従って移住した臣民と、新婚の者は、一年間力役を免除する。

本章は、『礼記』王制篇にほぼ同じ文が見える。

四十九
孔子が、子家駒(しかく)について言われた、「彼は剛直不屈ではあったが、晏子(あんし)には及ばなかった。晏子は功績ゆたかな家臣であったが、子産(しさん)には及ばなかった。子産は恵み深い政治家であったが、管仲には及ばなかった。その管仲の人となりとは、功績を挙げることに努めたが正義を興すことには努めなかった。知略を尽くすことに努めたが、仁政を尽くすことに努めなかった。よって、しょせんは野人である。天下を治める王者を補佐する大夫となすことはできない」と。

大略篇には、本章以下三章のような荀子の言葉ではない断章もいくつか含まれている。この孔子の言葉などは、有力な為政者たちを列挙した批評としてよくまとまり過ぎている感を与える。晏子以下のくだりは、後世に付加されたのかもしれない。
子家駒(しかく)は、楊注によると魯国の大夫であるという。晏子は晏嬰(あんえい)のことで、春秋時代後期の斉国の宰相。斉の景公を補佐してよく政治を行い、管仲とともに斉国の名宰相として名を残した。子産は、春秋時代後期の鄭国の宰相。孔子の一時代前の政治家で、孔子に大きな影響を及ぼした。孔子が彼を「恵人」と批評したことは論語憲問篇にも見える。管仲は、春秋時代中期の斉国の宰相。管仲に対する荀子の評価は、仲尼篇王覇篇臣道篇に表れている。それは、歴史上の家臣たちの中では次点の高い評価を与えながらも、最高ランクである王者を補佐すべき家臣には足りない、というところである。

五十
孟子は三度斉の宣王(せんおう)に会見したが、国の政治について一言も言わなかった。門人が質問した、「どうして斉王に三度も会見しながら、一言も政治について言われないのですか?」と。孟子は答えた、「私は、まず最初に王のまがった邪心を正すことから始めているのだ。政治について語るのは、それから後だ」と。

荀子は、孟子を非十二子篇・性悪篇で批判する。この章は、孟子のエピソードを肯定的に取り上げた珍しい章である。斉の宣王は『孟子』梁恵王章句および公孫丑章句において、孟子の主要な問答相手として表れる。孟子は大国斉の王に説得を試みたが、成果なく撤退した。
《読み下し》
天下國ごとに俊士有り、世ごとに賢人有り。迷う者は路を問わず、溺るる者は遂(すい)(注1)を問わず、亡人は獨を好めばなり。詩に曰く、我が言は維(こ)れ服(ふく)なり、用(もっ)て笑いと爲す勿(なか)れ、先民言えること有り、芻蕘(すうじょう)に詢(はか)る、とは、博く問うことを言うなり。

法有る者は法を以て行い、法無き者は類を以て舉(きょ)す。其の本を以て其の末を知り、其の左を以て其の右を知り、凡百の事理を異にして相守るなり。慶賞・刑罰は、類に通じて而(しか)る後に應じ、政敎・習俗は、相順(したが)いて而る後に行わる。

八十の者は一子は事(し)せず(注2)、九十の者は家を舉(こぞ)って事(し)せず、廢疾にして人に非ざれば養われざる者は、一人は事せず、父母の喪には、三年事せず、齊衰(しさい)・大功(たいこう)には三月事せず、諸侯に從いて不(きた)る(注3)と、新(あらた)に昏(こん)有るとは、朞(き)(注4)事せず。

(注5)、子家駒(しかく)を謂う(注6)、續然(ぞくぜん)(注7)として大夫なるも、晏子に如(し)かず。晏子は功用の臣なるも、子產(しさん)に如かず。子產は惠人(けいじん)なるも、管仲に如かず。管仲の人と爲りや、功を力(つと)めて義を力めず、知を力めて仁を力めず、野人なり、以て天子の大夫と爲る可からず、と。

孟子三たび宣王に見(まみ)えて、事(こと)(注8)を言わず。門人曰く、曷爲(なんす)れぞ三たび齊王に遇いて事を言わざる、と。孟子曰く、我先ず其の邪心を攻(おさ)む、と。


(注1)楊注は、「遂は徑隧を謂う、水中渉る可きの徑なり」と言う。大略篇十章と同じく、水を渉ることができる径路のことを言う。
(注2)原文「不事」。礼記王制篇では「不從政(政に従わしめず)」に作る。「事」は力役のことで、「政」は征・税と同じでやはり力役税のことである。
(注3)楊注は、「不」はまさに「來(来)」となすべし、と言う。
(注4)「朞」は「期」と同じで、一年のこと。
(注5)楊注は、「子は孔子」と注する。その通りであろう。
(注6)原文「子謂子家駒」。金谷治氏は、「子謂う、子家駒は、、」と読んで、この章は子家駒、晏子、子産、管仲の四者を並列して比較した言葉であると捉えている。増注ほかの通説は上の読み下しのように読んで、孔子が子家駒について批評し、その後にその批評を明確化するために晏子以下の人物について続けて言った、という捉え方となる。通説に従う。
(注7)集解の郝懿行は、「續(続)然」は「庚然」であって、剛強不屈の貌、と言う。
(注8)「事」について、漢文大系、金谷治氏、新釈のいずれも「政治」あるいは「国事」と解している。

大略篇第二十七(11)

五十一
公行子(こうこうし)が燕国に行こうとするとき、途中で曾元(そうげん)と遇ったので、公行子は彼に「燕国の君主は、どんな人であるか?」と聞いた。曾元は答えた、「志が低いですね。志が低い者は、ものごとを軽んじます。ものごとを軽んずる者は、他人の助けを求めようとしません。いやしくも人の助けを求めようとしない者が、なんで賢者を登用することに思いを馳せるでしょうか?」と。

楊注は、公行子は『孟子』に表れる斉の大夫と言う(離婁章句下、二十八)。そして曾元は、孔子の弟子曾参(そうしん、曾子)の子と言う。しかし、公行子が『孟子』の登場人物と同一人物であるならば、それは孟子の同時代人であり、曾参の子とは時代が合いそうにない。あるいはここの曾元とは、曾参の一族の別人物なのであろうか。

五十二
氐(てい)・羌(きょう)の者たちは、捕虜となっても縛り上げられる痛みを気にすることなく、死後に火葬とされないことを憂慮する。彼ら蛮族はこのようにささいな利益を気にかけて大きな害を気にしないのであるが、それと同様に、ささいな利益が得られるだけで国家を衰亡させる大害があるようなことをあえて行う者たちは、どうして利害得失を知る知者といえるだろうか。いま、針を失って一日中探して見つからなかった者がいるとする。この者が他日にようやくこれを見つけたならば、それは目の視力が増したから見つかったのであろうか?そうではなくて、もっと目をこらして注意深く探した結果であろう。心と思慮との関係もまた同じであって、心のはたらきが自然に増すことなどありえないのであって、ただただ思慮を注意深く重ねることによってよき知を得ることができるのだ。

氐・羌は中華世界の西方、チベット高原付近に居住する民である。中華世界からは西戎(せいじゅう)と言われて、蛮族視されていた。増注は『列子』を引用して、秦国の西方に住んだ儀渠(ぎきょ)という国の民が火葬を行う習俗を持っていたことを指摘する。古代の中華世界は土葬していたので、この章のような荀子の発言となった。しかしこのような発言は、エスノセントリズム(自民族中心主義)として批判されなければならない。彼らにとって火葬されることは宗教的文化的に極めて重要なことであったはずであり、荀子が言うような秋毫(しゅうごう。ささいなこと)なことでは決してなかったはずである。

五十三
義と利の二つは、人がともに本来有しているものである。たとえ聖王の堯・舜といえども、人民が利を欲することを取り除くことはできない。そうではなくて、人民が利を欲する心が義を欲する心より上回らないように制御して治めたのであった。逆に悪王の桀・紂といえども、人民が義を欲することを取り除くことはできない。そうではなくて、人民が義を欲する心が利を欲する心より上回らないように仕向けたので世が乱れたのであった。ゆえに、義が利に勝つことが治世であり、利が義に勝つことが乱世である。人の上に立つ者が利を重んずれば、すなわち利が義に勝ってしまう。ゆえに天子は、貨財が多い少ないといったことを口に出すことをしない。その下の諸侯は、利益があるか害があるかといったことを口にしない。その下の大夫は、得があるか損失があるかといったことを口にしない。その下の士は、貨財の取引商売などを行わない。国を有する君主は、牛や羊を育てたりしない。いったん君主に仕えることを決めた家臣は、鶏や豚を育てたりしない。上卿は、家屋の修繕といったことは行わない。大夫は、農場の耕作といったことは行わない。そもそも士より上の朝廷人は、すべて利を恥じて人民と家業を争ったりしないのであり、貨財を人々に分け与えることを楽しんでこれを蓄蔵することを恥じるのである。このゆえに人民も貨財に窮乏することなく、貧しき者でさえ手に職を得て生計を立てることができるのだ。

論語里仁篇の「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」の語を、荀子の言葉で発展させた章というべきであろう。

五十四
文王は四国を誅伐しただけであった。その後を継いだ武王は、二者を誅伐しただけであった。その後を継いだ成王の摂政となった周公の時代になって天下平定の業は完成し、成王およびさらに次代の康王(こうおう)の時代には、とうとう誅伐は行われなかった。

仲尼篇の句とほぼ同じ。仲尼篇では「成康」を「成王」に作る。四国・二者の解釈については、仲尼篇を参照。

五十五
国庫に貨財を積んでそれが足りないことを恥じ、人民の任務を重視して任務に耐えられない者を処罰することは、人民の中に悪事がわき起こる原因であり、よって刑罰が多く行われる原因である。

《読み下し》
公行子の燕に之(ゆ)くや、曾元(そうげん)に塗(みち)に遇いて曰く、燕君は何如(いかん)、と。曾元曰く、志卑(ひく)し。志卑き者は物を輕んじ、物を輕んずる者は助を求めず。苟(いやし)くも助を求めざれば、何ぞ能く擧(あ)げん、と。

氐(てい)・羌(きょう)の虜となるや、其の係壘(けいるい)を憂えず、其の焚せられざるを憂うなり。夫(か)の秋毫(しゅうごう)を利して、害國家を靡(び)す(注1)、然も且つ之を爲すは、幾(あ)に計を知ると爲さん。今夫れ箴(はり)を亡う者、終日之を求めて得ず、其の之を得るは、目の明を益すに非ざるなり、眸(ぽう)して(注2)之を見ればなり。心の慮に於けるも亦然り。

義と利とは、人の兩(ふた)つながら有する所なり。堯・舜と雖も、民の利を欲するを去ること能わず。然り而して能く其の利を欲するをして、其の義を好むに克たざらしむるなり。桀・紂と雖も、亦民の義を好むを去ること能わず。然り而して能く其の義を好むをして、其の利を欲するに勝たざらしむるなり。故に義の利に勝つ者を治世と爲し、利の義に克つ者を亂世と爲す。上(かみ)義を重んずれば則ち義利に克ち、上利を重んずれば則ち利義に克つ。故に天子は多少を言わず、諸侯は利害を言わず、大夫は得喪を言わず、士は貨財を通ぜず。國を有つの君は、牛羊を息せず、質(し)を錯(お)く(注3)の臣は、雞豚(けいとん)を息せず、冢卿(ちょうけい)(注4)は幣(へい)を脩めず(注5)、大夫は場園を爲(おさ)めず、士從(よ)り以上は、皆利を羞(は)じて民と業を爭わず、分施を樂みて積藏を恥ず。然(こ)の故に(注6)民も財に困(くる)しまず、貧窶(ひんく)なる者も其の手を竄(い)るる所有り(注7)

文王四を誅し、武王二を誅し、周公業を卒(お)え、成・康に至りては、則案(すなわち)誅する無きのみ。

多く財を積みて、有ること無きを羞じ、民の任を重んじて能(た)えざるを誅す。此れ邪行の起る所以にして、刑罰の多き所以なり。


(注1)増注は、「靡は靡弊」と言う。靡弊とは、国力がおとろえること。
(注2)楊注は、「眸は眸(ひとみ)を以て之を審かに視る」と言う。
(注3)楊注は、「錯は置なり、質は読んで贄となす」と言う。贄(し)を錯(お)くとは、礼で君主に仕えるときに家臣が捧げ物を持参することを指す。よって、君主に家臣として仕えること。
(注4)楊注は、冢卿は上卿と言う。最上級の家臣。
(注5)楊注は、財幣を脩めて之を販息せざるを言う、と注する。すなわち、商売をしないという意に取る。集解の兪樾は『韓詩外伝』では本章の文を「冢卿は幣施を脩めず」に作ることを引いて、「幣」は「弊」の誤りであり、また「施」はまさに「杝」に作るべきであって「杝」は後世の「籬」字である、と言う。すなわち本章の「幣を脩めず」は『外伝』の「幣施を脩めず」の一字脱落であり、『外伝』の「幣施を脩めず」は「弊杝(籬)を脩めず」と読むべきである、と考証する。ならば、弊籬は破れた籬(まがき)のことであって、家屋の垣根が壊れたものを修繕するようなことはしない、という意味となるだろう。兪樾説を採用しておく。
(注6)集解の王念孫は、「然故はなお是故のごときなり」と言う。これに従い、「このゆえに」と読み下す。
(注7)集解の王先謙は、「其の手を竄るる所有りとは、なお手を措く所有るを言うがごときなり」と注する。手に就ける何らかの職があることを指す。

大略篇第二十七(12)

五十六
上の者が義を好めば、下の者は目立たないところで己を美しく飾るであろう。だが上の者が富を好めば、下の者は利を求めて命まで賭けるであろう。この二者は、治世と乱世の分かれ道なのである。民衆の俗諺に、「そんなに富が欲しいのか、ならば恥を捨てるがよい、必死に富だけ求めるがよい、旧友たちとも別れるがよい、義とはおさらばすればよい」とある。上の者が富を好めば、すなわち人民の行いはこの言葉のようになるのだ。これで世が乱れないわけがあるだろうか?

五十七
殷の湯王は日照りのときに天に祈ってこう言った、「天よ、わが政治が不適切なのでしょうか?どうしてわが人民を苦しめるのでしょうか?どうしてここまで雨を降らせないのでしょうか?宮殿が豪華に過ぎるのでしょうか?婦人の言葉が用いられて表の政治が歪められているのでしょうか?どうしてここまで雨を降らせないのでしょうか?賄賂が行われているのでしょうか?讒言の者がはびこっているのでしょうか?どうしてここまで雨を降らせないのでしょうか?」と。

天論篇において、荀子は自然現象は人間の行為と無関係に変動すると断言した。なので、ここで湯王の言葉を取り上げているものの、「善政ならば天が恵んで天候が順調となり、悪政ならば天が怒って天候が不順となる」というような後世の天人相関論的な考えを肯定しているはずがない。

五十八
天が人民を生じさせたのは、君主のためにしたのではない。しかし天が君主を位に就けたのは、人民のためにそうしたのである。ゆえに、いにしえの時代において土地を分けて諸国を建てたのは、諸侯を貴ぶことだけが理由なのではなかったのだ。また官職を連ねて爵禄に差分を付けたのは、大夫を尊ぶことだけが理由なのではなかったのだ。

孟子の「民を貴しとなし、社稷これに次ぎ、君を軽しとなす」(盡心章句下、十四)を彷彿とさせる。民本主義(民主主義ではない)は、孟子にも荀子にも通底している。

五十九
君主の道とは、補佐する人材を知りぬいてこれを登用するところにある。家臣の道は、担当する職務を知り抜いてこれを実行するところにある。ゆえに舜帝が天下を統治したやり方は、いちいち事務の詳細を配下に告げることをせずして、天下の万物は見事に制御されたのであった。

君道篇などに見える、君主の道である。なお「舜の天下を治むるや、事を以て詔げずして萬物成る」の句は、解蔽篇(4)の句と同じである。

六十
農夫は農業については詳しいが、治田(ちでん)などの農政官僚になることはできない。工人・商人もまた、同様にそれぞれの生業については詳しいが、それを監督する官僚の仕事はできない。

解蔽篇(4)に「農は田に精しくして、以て田師爲る可からず。賈は市に精しくして、以て賈師爲る可からず。工は器に精しくして、以て器師爲る可からず」の句があり、この章と同じである。
《読み下し》
上羞(ぎ)(注1)を好めば、則ち民闇に飾り、上富を好めば、則ち民利に死す。二者は亂の衢(く)なり。民の語に曰く、富を欲するか、恥を忍べ、傾絕(けいぜつ)(注2)せよ、故舊(こきゅう)を絕て、義と分背(ふんはい)せよ、と。上富を好めば、則ち人民の行い此(かく)の如し、安(いずく)んぞ亂れざるを得んや。

湯は旱(ひでり)にして禱(いの)りて曰く、政節ならざるか。民をして疾(や)ましむるか。何を以て雨(あめふ)らざること斯(こ)の極に至るや。宮室榮(さか)んなるか、婦謁(ふえつ)(注3)盛んなるか。何を以て雨らざること斯の極に至るや。苞苴(ほうしょ)(注4)行わるるか、讒夫(ざんぷ)興るか。何を以て雨らざること斯の極に至るや。

天の民を生ずるは、君の爲に非ざるなり。天の君を立つるは、以て民の爲にするなり。故に古者(いにしえは)地を列(つら)ねて國を建つるは、以て諸侯を貴ぶのみに非ず、官職を列して爵祿を差(わか)つは、以て大夫を尊ぶのみに非ず。

主の道は人を知り、臣の道は事を知るに。故に舜の天下を治むるや、事を以て詔(つ)げずして萬物成る。

農は田に精しくして、以て田師(でんし)爲(た)る可からず。工・賈(こ)も亦然り。


(注1)増注および集解の王念孫は、「羞」はまさに「義」に作るべしと言う。これらに従う。なお猪飼補注は楊注のとおり「羞」を「貧を羞じる」意と取って、なおかつ後の「闇」字は「閹(えん。おおう)」に作るべしと注し、ここを「上羞(は)じることを好めば、則ち民閹飾(えんしょく)す」と読む説を出している。その場合の訳は、「上の者が貧乏を恥じることに傾けば、下の人民は貧乏を虚飾して無理に華美となるだろう」のようになるであろう。猪飼説に従う場合、後の「二者は亂の衢(く)なり」の句は、両者ともに乱世への道筋である、という意味となる。
(注2)楊注は、「傾絕(絶)は、身を傾け命を絶ちて求めるを謂う」と注する。
(注3)楊注は、「婦謁は婦言是れ用いらるるを謂う」と注する。
(注4)苞苴とは、わらの包み(苞)としきもの(苴)。転じて、それらに包んで載せる贈り物のこと。

大略篇第二十七(13)

六十一
賢者を愚者と取り替えることが必ず吉であることは、占ってみたら吉が出たといった幸運の結果ではない。治世の国が乱れた国を討てば必ず勝つことは、戦ってみたら勝利を得たといった幸運の結果ではない。

六十二
斉人が魯国を討伐しようとしたとき、卞莊子(べんそうし)と遇うことを嫌って卞の邑を通らなかった。晋人が衛国を討伐しようとしたとき、子路と遇うことを恐れて蒲(ほ)の邑を通らなかった。

楊注によると、卞莊子は魯国の卞の邑の大夫であって、勇者であったという。孔子の弟子の子路は衛国に仕え、蒲の邑の宰(さい。長官)であった。子路の勇敢さは、当時著名であった。

六十三
知らないことがあれば、堯・舜に問うがよい。手元になければ、天然の宝庫から取り出すがよい。先王の道とは、すなわち堯・舜の道なのである。六芸(六経)の該博さは、すなわち天然の宝庫なのである。

盧文弨の説に従って原文の「六貳」を「六経」とみなすならば、詩・書・春秋・易・礼・楽を指して、それを天府すなわち天然の宝庫と呼んでいるのであろうか。そう読めば一応は理解できるが、いずれの研究者の解釈もどうも私には完全に納得がいかない。

六十四
君子の学問は、蝉の抜けがらのようなものである。蝉が脱皮して新しくなるように、君子もまた新しく学んだことによってたちまち移り変わっていくものでなければならない。ゆえに君子は行くときにも、立つときにも、座るときにも、顔色を整えるときにも、言葉を用いるときにも、いにしえの聖賢を見習って日々進歩していくのである。善いことは置いておかずにすぐ実行し、疑問に思うことは心に置かずにすぐ質問しなければならない。よく学ぶ者は物事の道理を究め尽し、よく行為する者は今述べたような難事ですら究め尽すのである。君子は志をいったん立てたならば、常に困窮にある心構えを持たなければならない。だから天子や三公の前であっても是を是と言い非を非と答えるのであって、へつらって栄達するようなことはしないのである。君子は窮迫していても、己の志を失ってはならない。君子は疲れ果てていても、一時の休息を求めてはならない。君子は困難に直面しても、日常心に誓っている言葉を忘れてはならない。寒い季節にならなければ松や柏(このてがしわ)が葉を落とさず立派に繁っている姿に心を留めることはなく、困難な事に当たらなければ君子がくじけずうろたえず立派に立っている姿に心を留めることはない。君子は、一日たりとも己の正道から外れてはならないのだ。

漢文大系は、本章を「君子の學は~其の難きを究む」、「君子志を立つるや~是非を以て對う」、「君子は隘窮すとも~細席の言を忘れず」、「歳寒からざば~是に在らざること無し」の四章に区切る。
三公は周代の官職で、太師(たいし)・太傅(たいふ)・太保(たいほ)のこと。君子の側近である。本章は勧学篇以下の章と同じく君子が守るべき心掛けを説いた言葉の集成であり、勧学篇のように人に勧める忠告のように訳した。

六十五
雨粒は小さいが、それでも漢水(かんすい)を深くすることができる。そもそも小を尽す者はやがて大きくなり、微細を積み上げる者はやがて名声あらわれ、徳を究める者はやがて体もみずみずしくなり、よい行いを尽くす者は遠くまで名声が伝わるものだ。だが小人は、己の心中において誠を尽くすことをなさずして、外界からの評価を求めようとする。

「雨は小なるも、漢は故に潛し」の句は、金谷治氏の解釈に従う。漢水とは、華中を流れる大河。
《読み下し》
賢を以て不肖に易(か)うれば、卜を待って而(しか)る後に吉を知るにあらず、治を以て亂を伐たば、戰を待って後に克つを知るにあらず。

齊人(せいひと)魯を伐たんと欲し、卞莊子(べんそうし)を忌みて、敢て卞を過ぎず。晉人(しんひと)衛を伐たんと欲し、子路を畏れて、敢て蒲(ほ)を過ぎず。

知らざれば堯舜に問い、有ること無ければ天府(てんぷ)に求む。(注1)先王の道は、則ち堯舜のみ、六貳(りくげい)(注2)の博きは、則ち天府のみ。

君子の學は蛻(ぜい)の如し、幡然として之に遷る。故に其の行くや效(なら)い、其の立つや效い、其の坐すや效い、其の顏色を置き、辭氣を出すや效う。善を留むること無く、問を宿すこと無し。善く學ぶ者は其の理を盡(つく)し、善く行う者は其の難きを究む。君子志を立つるや窮するが如し(注3)、天子・三公の問と雖も、正に是非を以て對(こた)う。君子は隘窮(あいきゅう)すとも失わず、勞倦(ろうけん)すとも苟(いやし)くもせず、患難に臨んでも細席(いんせき)(注4)の言を忘れず。歲寒からざれば、以て松柏を知ることい無く、事難からざれば、以て君子を知ること無く、日として是(ここ)に在らざること無し。

雨は小なるも、漢(かん)は故に潛(ふか)し(注5)。夫れ小を盡す者は大に、微を積む者は著れ、德至(きわ)まれる者は色澤(しきたく)洽(あまね)く(注6)、行盡(つ)くれば而(すなわ)ち(注7)聲問遠し。小人は內に誠ならずして之を外に求む。


(注1)集解本にはここに「曰」の一字があり、増注本にはない。
(注2)集解の盧文弨は、「貳」はまさに「蓺」に作るべく、「即ち六経なり」と言う。増注もまた、六貳を六経と解釈する。いちおうこれに従っておく。
(注3)「窮するが如し」について。楊注は、「変を通ずること能わざるに似たり」と注する。いっぽう集解の王先謙は、「君子窮達を以て心を易えず、故に志を立つるや常に窮時の如し」と言う。「窮するが如し」の解釈は、楊注に従えば、「君子は貴人に対してすら是を是と言い非を非と言って相手と調子を合わせることはしないので、結果相手と意思を疎通させることができない」といった意味となるだろう。王先謙に従えば、「君子は常に困窮にある心がけを持ち、貴人の前でも是を是と言い非を非と言って栄達を望まない」といった意味となるだろう。どちらとも決め難い。新釈漢文大系の藤井専英氏を楊注説を取り、漢文大系・金谷治氏は王先謙説を取る。上の訳では、王先謙説を採用しておく。
(注4)集解の郝懿行は、「細」は恐らくは「絪(いん)」の誤りであって、「絪」は「茵(いん)」の仮写、と言う。茵は草で編んだ敷物のことで、絪席(いんせき)で敷物とむしろ。絪席の言とは、日常の言葉を意味する。郝説に従う。
(注5)原文「雨小漢故潛」。楊注は未詳と言い、集解の郝懿行もこの語には誤りがあるので読むべからず、と言う。兪樾は「漢」を衍字とみなし、「潛(潜)」は「深」と言う。よって、「雨は小なるも故に潜(ふか)し」と読む。猪飼補注は、「雨は集まりて漢に潜(せん)有り」となすべきで、潜は川の名前で漢水の別流と言う。金谷治氏は「雨は小なるも漢は故に潜(ふか)し」と読み下し、梁啓雄(『荀子簡釈』)の読み方に従って「雨は少しづつでもそれによって漢水も深くなる」と訳す。金谷氏に従っておく。
(注6)楊注は、「色澤洽きは、徳身を潤すを謂う」と言う。
(注7)集解の王先謙は「而はけだし者の誤り」と注して、前後と形式を整えようとする。新釈は「而」を「則」とみなす『荀子簡釈』の意見を採用する。新釈に従いたい。

大略篇第二十七(14)

六十六
自分の意見を表明する時にその学問を教わった師について言わないことを、「畔(はん。そむく)」と言う。弟子に学問を教える時にその学問を教わった師について言わないことを、「倍(ばい。そむく)」と言う。倍・畔を行うような恩知らずの者は、明君はこれを朝廷に迎えることはなく、士・大夫はこれと道で出合っても言葉をかけようとはしないのだ。

六十七
行動が不十分であるのは、言葉ばかりが多すぎるからである。心中の忠信さが不十分であるのは、言葉ばかりが誠実だからである。ゆえに『春秋経』で「互いに口で約言だけしてわざわざ盟の儀式を行わない」ということをよしとして、『詩経』で「何度も誓約する」ことを非難していることは、その趣旨は同一なのである。詩をよく修める者はむやみに詩について解説したりせず、易(えき)をよく修める者はむやみに占ったりせず、礼をよく修める者はむやみに儀式の介助役を引き受けたりしないが、これらの趣旨もまたすべて同一なのである。

言及されている『春秋経』と『詩経』の典拠については、下の注1および注2を参照。

六十八
曾子が言った、「孝子は、聞かれるに値する言葉だけを話し、見られるに値する行動だけを行うものだ。聞かれるに値する言葉だけを話すのは、遠く離れた人に伝わって喜ばれるためである。見られるに値する行動だけを行うのは、近くにある人に伝わって喜ばれるためである。近くにある人に喜ばれたならば、親しまれるであろう。遠く離れた人に喜ばれたならば、敬慕されるであろう。近くにある人に親しまれ、遠く離れた人に敬慕されることが、孝子の道である」と。
曾子が、斉国を去ろうとしていた。晏子(あんし)が、斉都の近郊まで付き従って言った、「それがしは、『君子は餞別として人によい言葉を贈り、庶民は餞別として人に財貨を贈る』と聞いています。だがそれがしは財貨を持ち合わせていないので、君子の真似事をしてあなたに言葉を贈りたい。車輪の輪は、もとは泰山で採れたまっすぐな木であったとしても、これを檃栝(いんかつ。木を矯める器具)にはめて三から五ヶ月ほど置いたならば、すっかり曲がってしまいます。曲がってしまったら、車輪が壊れてばらばらになったとしても、もとのまっすぐな姿に戻ることはありません。君子が用いる檃栝は、それゆえ慎重に選ばなければなりません。慎重でありなさい。

(以下、増注に沿った解釈)蘭・茞(し)・槀本(こうほん)は香草ですが、これを甘酒にひたしたならば、さらに価値が上がって佩(はい。玉器の一)一つと交換できるほどになるでしょう。正直なる君主もまた、香り高い酒にひたされたならば、讒言を信じて容れるようなこともなくなります。このように君子が自らをひたすところのものは、必ず謹んで選んでください」と。(正道とは、甘く香りの高い酒のようなものです。)

(以下、盧文弨・郝懿行に沿った解釈)蘭・茞・槀本は香草ですが、これをたとえ甘酒にひたしたとしても、佩一つと交換できるぐらいにはなるでしょうがしょせんは手放されてしまいます。正直なる君主ですら、香り高い酒にひたされて酔わされたならば、讒言を信じて容れるようになってしまいます。このように君子が自らをひたすところのものは、必ず謹んで選んでください」と。(君子は、甘く香りの高い酒のような安易な道を取ってはいけません。むしろ苦い道であっても、国を恒久的に支える正道を説きなさい。)

漢文大系は、「曾子行る。晏子郊に從いて曰く」以下を分けて、本章を二章となす。
晏子(晏嬰)は、孔子と同時代の斉国の宰相。大略篇四十九章参照。曾子(曾参)は孔子の弟子で、孔子より四十六歳年少の若い弟子であった。晏子の存命中に曾子はせいぜい幼年であり、この章のような会見があったはずがない。この章後半の会見のエピソードは、創作説話であるか、あるいは曾子が無名の別人と会見したエピソードを有名な晏子に入れ替えて曾子に箔を付ける操作を行った結果であろう。前半の曾子の言葉はべつだん孝の道というものではなくて、ここでの「孝子」はほとんど「君子」と同義である。
本章は、相対立する読み方が提出されている。二通りの訳を示す。下の注8および注9を参照。

六十九
文章・学問の人における意義は、玉における琢(こす)って磨くことに等しいだろう。『詩経』に、この言葉がある。:

切るがごとく、磋(うが)つがごとく、
琢(こす)るがごとく、磨くがごとく
(衛風、淇奥より)

この言葉は、人は学問すべし、ということを言っているのだ。和(か)氏の璧は、もとは村で門の敷居に使われていた。だが玉匠がこれをこすり上げて、ついに天下の宝となったのであった。かの子貢・子路は、もとは田舎者にすぎなかった。だが彼らは文章・学問を身に着け、礼義を体得したことによって、天下の名士に成長したのであった。学問を行って厭うことをせず、よき士を好んで飽きもしないことは、なんと天与の宝庫ではないか。

引用された詩は成語「切磋琢磨」の出典としてつとに有名で、論語学而篇で孔子と子貢がこの詩について問答している。和氏の璧とは、楚人の卞和(べんか)が発見したという璧すなわち円盤状の玉器であった。戦国時代には、天下の至宝として名を轟かせていた。趙の藺相如(りんしょうじょ)が秦王に使いして、この璧を奪われることなく帰国したエピソードは、「完璧」の故事として名を遺す。

七十
君子は、疑わしいことは言葉に出さない。また君子は、質問されなければ言葉を発することはない。完成までの道は遠いが、日々向上していくのみである。だが知り合いは多いのに師や友人たちと親しくもなく、博学であるのに学問の方向が立たず、多くのことを好みながら定見がない者は、君子の与するところではない。年少の頃に詩書を習い唱えることをせず、壮年になって議論をしないならば、それでもそこそこの水準には達することはできたとしても、完成にまでは至ることはない。君子は人を教えることに心を一にして、弟子は学問を行うことに心を一にすることだ。こうすれば、速やかに完成することができるだろう。君子は進んで仕官すれば、上には君主の栄光を増し加え、下には人民の憂いを減らすことができる。だが無能でありながら高い地位に就く者は、人々を誣(だま)す者である。役に立っていないのに厚い俸禄を受け取る者は、地位を竊(ぬす)む者である。学問とは、必ずしも仕官するために行うものではない。だが、ひとたび仕官した者は、必ず学んだ学問が指し示す道に沿って行動しなければならない。

漢文大系は本章を「君子疑わしければ則ち言わず~道遠くして日に益す」、「多知なれども親無く~君子は與せず」、「少にして諷せず~亟に成る」、「君子進めば則ち能く上の譽を益して~而も仕うる者は必ず學の如くす」の四章に区切る。
本章の語句は、『大戴礼記』曾子立事篇および曾子制言中篇において同一語句が散見される。
《読み下し》
言いて師を稱(しょう)せざる、之を畔(はん)と謂い、敎えて師を稱せざる、之を倍(ばい)と謂う。倍畔(ばいはん)の人は、明君は朝に內(い)れず、士大夫諸(これ)に塗(みち)に遇えば與(とも)に言わず。

行に足らざる者は、說過ぐればなり。信に足らざる者は、言を誠にすればなり。故に春秋に胥(あい)命ずるを善しとして(注1)、詩に屢(しばしば)盟(ちか)うを非とするは(注2)、其の心一なり。善く詩を爲(おさ)むる者は說かず、善く易(えき)を爲むる者は占せず、善く禮を爲むる者は相(しょう)せざるは(注3)、其の心は同じなり。

曾子(そうし)曰く、孝子は言は聞く可きを爲し、行は見る可きを爲す。言の聞く可きを爲すは、遠きを說(よろこ)ばしむる所以にして、行見る可きを爲すは、近きを說ばしむる所以なり。近き者說べば則ち親しみ、遠き者說べば則ち附く。近きを親しみて遠きを附くるは、孝子の道なり、と。曾子行(さ)る(注4)。晏子(あんし)郊(こう)に從いて曰く、嬰之を聞けり。君子は人に贈るに言を以てし、庶人は人に贈るに財を以てす、と。嬰は貧にして財無し、請う君子に假(か)りて、吾子に贈るに言を以てせん。乘輿(じょうよ)の輪は、大山(たいざん)の木なるも、諸(これ)を檃栝(いんかつ)(注5)に示(お)くこと(注6)三月五月なれば、幬菜(ちゅうさい)(注7)敝(やぶ)るることを爲すも、而(しか)も其の常に反らず。君子の檃栝は、謹しまざる可からざるなり。之を愼めよ。蘭茞(らんし)・槀本(こうほん)、蜜醴(みつれい)に漸(ひた)せば、一佩(いっぱい)之に易(か)う(注8)。正君香酒に漸さるれば、讒(ざん)して得可けんや(注9)。君子の漸す所は、愼まざる可からざるなり、と。

人の文學に於るや、猶お玉の琢磨(たくま)に於るがごときなり。詩に曰く、切するが如く磋(さ)するが如く、琢するが如く磨するが如し、とは、學問を謂うなり。和(か)の璧は、井里の厥(けつ)(注10)なるにも、玉人(きゅうじん)之を琢(うが)ちて、天子(てんか)(注11)の寶と爲る。子贛(しこう)・季路(きろ)(注12)は故(もと)鄙人なるも、文學を被り、禮義を服して、天下の列士と爲る。學問厭わず、士を好んで倦まざるは、是れ天府なり。

君子疑わしければ則ち言わず、未だ問われざれば則ち立(い)わず(注13)。道遠くして日(ひび)に益す。多知なれども親(しん)無く(注14)、博學なれども方無く、好多くして定まること無き者は、君子は與(くみ)せず。少にして諷(ふう)せず(注15)、壯にして論議せざれば、可なりと雖も未だ成ならざるなり。君子敎に壹にして、弟子學に壹なれば、亟(すみやか)に成る。君子進めば則ち能く上の譽(ほまれ)を益して、下の憂を損ず。不能にして之に居るは、誣(ぶ)なり。無益にして厚く之を受くるは、竊(せつ)なり。學なる者は必ずしも仕うるが爲に非ざるも、而(しか)も仕うる者は必ず學の如くす。


(注1)楊注はここで『春秋』魯桓公三年「斉侯と衛侯、蒲に胥(あい)命ず」の記事とその公羊伝を引いて、「古(いにしえ)は盟(めい)せず、言を結びて退く」と注する。言うは、いにしえの時代に諸侯が約束を行うときには、合って言葉で誓約するだけで終わって退いたのであって、後世のような盟(めい)の儀式すなわち血をすすり合って盟約する儀式を行わなかった、ということである。
(注2)楊注はここで『詩経』小雅巧言(こうげん)の句「君子屡(しばしば)盟(ちか)う、乱是(ここ)を用(もっ)て長ず」を引く。句の意味は、「君主が(本気で誓約を守る気がないために)何度も誓約するので、乱がますます増長するのだ」というものである。
(注3)楊注は、「相は人のために賛相するを謂う」と注する。賛相(さんしょう)とは、儀式において人を介助して礼を進行させる役目。
(注4)金谷治氏、新釈ともに「行」を「さる」と読み下す。文意から言って、それが適当であろう。
(注5)檃栝は非相篇性悪篇に表れる。木を矯める器具。
(注6)楊注は、「示」は読んで「寘(し)」となす、と言う。おく。
(注7)楊注或説は「幬菜」について、「菜は読んで菑となし、轂(こしき)と輻(や)とを謂うなり」と言う。すなわち「幬」は周礼孝工記鄭注に「轂を冒(おお)う革なり」とあり、轂(こしき。車輪の車軸を囲んで輻(や)を集めて支える部分)を覆う革のことであるという。また「菑」は同じ孝工記鄭注に「輻の轂中に入る者を謂う」とあり、輻(や。放射状に並べた車輪内部の棒)が轂に入った部分のことであるという。これに従い、「幬菜」を車輪の轂の部分とみなす。
(注8)「蘭茞・槀本」以下の文は、正反対の解釈に分かれている。楊注は、「漸す所の者は美にして、貴を加うるなり」と言う。すなわち蜜禮(あまざけ)に香草をひたせば、玉佩一つと交換できるまでに価値が高まることを肯定的に解釈する。いっぽう集解の盧文弨は、「酒に漸すと滫中に漸す(勧学篇の句)とは、皆其の久しかる可からざるを謂う」と注する。すなわち甘い蜜禮に香草をひたしても、しょせんは売り飛ばされる末路であり、君子は口に甘い安易な道を選ばず恒久的な苦い道を選ばなければならない、という否定的な解釈を取る。
(注9)原文「正君漸香酒、可讒而得也」。増注は、この語を反語文として捉える。すなわち「香酒は美酒なりて賢者に比す」と言い、「可讒而得也はなお可得讒耶と言うがごとし」と注する。しかし集解の郝懿行は、「讒言甘くして入り易く、醇醪を飲むがごとし。人をして自ら酔わしむ。故に香酒に漸さるることを以て之を警況す」と注する。すなわちこの語を通常文と捉えた解釈であり、この場合読み下しは「正君も香酒に漸さるれば、讒(ざん)して得可し」のようになるであろう。上の読み下しは、増注の解釈に沿った。訳は、注8・注9の対立する解釈を並べて置いた。
(注10)集解の盧文弨および増注は、「厥」は「橛」と同じ、と言う。橛とは、戸の下に置くしきいのこと。
(注11)増注および集解の王念孫は「子」は「下」の誤りと言う。これに従う。
(注12)増注は、「贛は貢と同じ」と言う。すなわち、子贛とは孔子の弟子の子貢(しこう)のことである。季路は子路と同じ。
(注13)増注・集解の王念孫ともに、大戴礼記曾子立事篇の同句を引いて、「立」は「言」となすべしと言う。これらに従う。
(注14)楊注は「師に親しまず」と解する。増注は「親友無し」と解する。猪飼補注は「親は疑うはまさに新に作るべく、言うは多く故事を知りて新得無きなり」と解する。漢文大系および金谷治氏は、楊注あるいは増注に沿った解釈を取っている。新釈の藤井専英氏は猪飼補注に沿った解釈を取る。楊注・増注を折衷して取ることにする。
(注15)楊注は「学に就きて詩書を諷するなり」と言う。詩・書を習い唱えること。