大略篇第二十七(14)

By | 2016年1月20日
六十六
自分の意見を表明する時にその学問を教わった師について言わないことを、「畔(はん。そむく)」と言う。弟子に学問を教える時にその学問を教わった師について言わないことを、「倍(ばい。そむく)」と言う。倍・畔を行うような恩知らずの者は、明君はこれを朝廷に迎えることはなく、士・大夫はこれと道で出合っても言葉をかけようとはしないのだ。

六十七
行動が不十分であるのは、言葉ばかりが多すぎるからである。心中の忠信さが不十分であるのは、言葉ばかりが誠実だからである。ゆえに『春秋経』で「互いに口で約言だけしてわざわざ盟の儀式を行わない」ということをよしとして、『詩経』で「何度も誓約する」ことを非難していることは、その趣旨は同一なのである。詩をよく修める者はむやみに詩について解説したりせず、易(えき)をよく修める者はむやみに占ったりせず、礼をよく修める者はむやみに儀式の介助役を引き受けたりしないが、これらの趣旨もまたすべて同一なのである。

言及されている『春秋経』と『詩経』の典拠については、下の注1および注2を参照。

六十八
曾子が言った、「孝子は、聞かれるに値する言葉だけを話し、見られるに値する行動だけを行うものだ。聞かれるに値する言葉だけを話すのは、遠く離れた人に伝わって喜ばれるためである。見られるに値する行動だけを行うのは、近くにある人に伝わって喜ばれるためである。近くにある人に喜ばれたならば、親しまれるであろう。遠く離れた人に喜ばれたならば、敬慕されるであろう。近くにある人に親しまれ、遠く離れた人に敬慕されることが、孝子の道である」と。
曾子が、斉国を去ろうとしていた。晏子(あんし)が、斉都の近郊まで付き従って言った、「それがしは、『君子は餞別として人によい言葉を贈り、庶民は餞別として人に財貨を贈る』と聞いています。だがそれがしは財貨を持ち合わせていないので、君子の真似事をしてあなたに言葉を贈りたい。車輪の輪は、もとは泰山で採れたまっすぐな木であったとしても、これを檃栝(いんかつ。木を矯める器具)にはめて三から五ヶ月ほど置いたならば、すっかり曲がってしまいます。曲がってしまったら、車輪が壊れてばらばらになったとしても、もとのまっすぐな姿に戻ることはありません。君子が用いる檃栝は、それゆえ慎重に選ばなければなりません。慎重でありなさい。

(以下、増注に沿った解釈)蘭・茞(し)・槀本(こうほん)は香草ですが、これを甘酒にひたしたならば、さらに価値が上がって佩(はい。玉器の一)一つと交換できるほどになるでしょう。正直なる君主もまた、香り高い酒にひたされたならば、讒言を信じて容れるようなこともなくなります。このように君子が自らをひたすところのものは、必ず謹んで選んでください」と。(正道とは、甘く香りの高い酒のようなものです。)

(以下、盧文弨・郝懿行に沿った解釈)蘭・茞・槀本は香草ですが、これをたとえ甘酒にひたしたとしても、佩一つと交換できるぐらいにはなるでしょうがしょせんは手放されてしまいます。正直なる君主ですら、香り高い酒にひたされて酔わされたならば、讒言を信じて容れるようになってしまいます。このように君子が自らをひたすところのものは、必ず謹んで選んでください」と。(君子は、甘く香りの高い酒のような安易な道を取ってはいけません。むしろ苦い道であっても、国を恒久的に支える正道を説きなさい。)

漢文大系は、「曾子行る。晏子郊に從いて曰く」以下を分けて、本章を二章となす。
晏子(晏嬰)は、孔子と同時代の斉国の宰相。大略篇四十九章参照。曾子(曾参)は孔子の弟子で、孔子より四十六歳年少の若い弟子であった。晏子の存命中に曾子はせいぜい幼年であり、この章のような会見があったはずがない。この章後半の会見のエピソードは、創作説話であるか、あるいは曾子が無名の別人と会見したエピソードを有名な晏子に入れ替えて曾子に箔を付ける操作を行った結果であろう。前半の曾子の言葉はべつだん孝の道というものではなくて、ここでの「孝子」はほとんど「君子」と同義である。
本章は、相対立する読み方が提出されている。二通りの訳を示す。下の注8および注9を参照。

六十九
文章・学問の人における意義は、玉における琢(こす)って磨くことに等しいだろう。『詩経』に、この言葉がある。:

切るがごとく、磋(うが)つがごとく、
琢(こす)るがごとく、磨くがごとく
(衛風、淇奥より)

この言葉は、人は学問すべし、ということを言っているのだ。和(か)氏の璧は、もとは村で門の敷居に使われていた。だが玉匠がこれをこすり上げて、ついに天下の宝となったのであった。かの子貢・子路は、もとは田舎者にすぎなかった。だが彼らは文章・学問を身に着け、礼義を体得したことによって、天下の名士に成長したのであった。学問を行って厭うことをせず、よき士を好んで飽きもしないことは、なんと天与の宝庫ではないか。

引用された詩は成語「切磋琢磨」の出典としてつとに有名で、論語学而篇で孔子と子貢がこの詩について問答している。和氏の璧とは、楚人の卞和(べんか)が発見したという璧すなわち円盤状の玉器であった。戦国時代には、天下の至宝として名を轟かせていた。趙の藺相如(りんしょうじょ)が秦王に使いして、この璧を奪われることなく帰国したエピソードは、「完璧」の故事として名を遺す。

七十
君子は、疑わしいことは言葉に出さない。また君子は、質問されなければ言葉を発することはない。完成までの道は遠いが、日々向上していくのみである。だが知り合いは多いのに師や友人たちと親しくもなく、博学であるのに学問の方向が立たず、多くのことを好みながら定見がない者は、君子の与するところではない。年少の頃に詩書を習い唱えることをせず、壮年になって議論をしないならば、それでもそこそこの水準には達することはできたとしても、完成にまでは至ることはない。君子は人を教えることに心を一にして、弟子は学問を行うことに心を一にすることだ。こうすれば、速やかに完成することができるだろう。君子は進んで仕官すれば、上には君主の栄光を増し加え、下には人民の憂いを減らすことができる。だが無能でありながら高い地位に就く者は、人々を誣(だま)す者である。役に立っていないのに厚い俸禄を受け取る者は、地位を竊(ぬす)む者である。学問とは、必ずしも仕官するために行うものではない。だが、ひとたび仕官した者は、必ず学んだ学問が指し示す道に沿って行動しなければならない。

漢文大系は本章を「君子疑わしければ則ち言わず~道遠くして日に益す」、「多知なれども親無く~君子は與せず」、「少にして諷せず~亟に成る」、「君子進めば則ち能く上の譽を益して~而も仕うる者は必ず學の如くす」の四章に区切る。
本章の語句は、『大戴礼記』曾子立事篇および曾子制言中篇において同一語句が散見される。
《読み下し》
言いて師を稱(しょう)せざる、之を畔(はん)と謂い、敎えて師を稱せざる、之を倍(ばい)と謂う。倍畔(ばいはん)の人は、明君は朝に內(い)れず、士大夫諸(これ)に塗(みち)に遇えば與(とも)に言わず。

行に足らざる者は、說過ぐればなり。信に足らざる者は、言を誠にすればなり。故に春秋に胥(あい)命ずるを善しとして(注1)、詩に屢(しばしば)盟(ちか)うを非とするは(注2)、其の心一なり。善く詩を爲(おさ)むる者は說かず、善く易(えき)を爲むる者は占せず、善く禮を爲むる者は相(しょう)せざるは(注3)、其の心は同じなり。

曾子(そうし)曰く、孝子は言は聞く可きを爲し、行は見る可きを爲す。言の聞く可きを爲すは、遠きを說(よろこ)ばしむる所以にして、行見る可きを爲すは、近きを說ばしむる所以なり。近き者說べば則ち親しみ、遠き者說べば則ち附く。近きを親しみて遠きを附くるは、孝子の道なり、と。曾子行(さ)る(注4)。晏子(あんし)郊(こう)に從いて曰く、嬰之を聞けり。君子は人に贈るに言を以てし、庶人は人に贈るに財を以てす、と。嬰は貧にして財無し、請う君子に假(か)りて、吾子に贈るに言を以てせん。乘輿(じょうよ)の輪は、大山(たいざん)の木なるも、諸(これ)を檃栝(いんかつ)(注5)に示(お)くこと(注6)三月五月なれば、幬菜(ちゅうさい)(注7)敝(やぶ)るることを爲すも、而(しか)も其の常に反らず。君子の檃栝は、謹しまざる可からざるなり。之を愼めよ。蘭茞(らんし)・槀本(こうほん)、蜜醴(みつれい)に漸(ひた)せば、一佩(いっぱい)之に易(か)う(注8)。正君香酒に漸さるれば、讒(ざん)して得可けんや(注9)。君子の漸す所は、愼まざる可からざるなり、と。

人の文學に於るや、猶お玉の琢磨(たくま)に於るがごときなり。詩に曰く、切するが如く磋(さ)するが如く、琢するが如く磨するが如し、とは、學問を謂うなり。和(か)の璧は、井里の厥(けつ)(注10)なるにも、玉人(きゅうじん)之を琢(うが)ちて、天子(てんか)(注11)の寶と爲る。子贛(しこう)・季路(きろ)(注12)は故(もと)鄙人なるも、文學を被り、禮義を服して、天下の列士と爲る。學問厭わず、士を好んで倦まざるは、是れ天府なり。

君子疑わしければ則ち言わず、未だ問われざれば則ち立(い)わず(注13)。道遠くして日(ひび)に益す。多知なれども親(しん)無く(注14)、博學なれども方無く、好多くして定まること無き者は、君子は與(くみ)せず。少にして諷(ふう)せず(注15)、壯にして論議せざれば、可なりと雖も未だ成ならざるなり。君子敎に壹にして、弟子學に壹なれば、亟(すみやか)に成る。君子進めば則ち能く上の譽(ほまれ)を益して、下の憂を損ず。不能にして之に居るは、誣(ぶ)なり。無益にして厚く之を受くるは、竊(せつ)なり。學なる者は必ずしも仕うるが爲に非ざるも、而(しか)も仕うる者は必ず學の如くす。


(注1)楊注はここで『春秋』魯桓公三年「斉侯と衛侯、蒲に胥(あい)命ず」の記事とその公羊伝を引いて、「古(いにしえ)は盟(めい)せず、言を結びて退く」と注する。言うは、いにしえの時代に諸侯が約束を行うときには、合って言葉で誓約するだけで終わって退いたのであって、後世のような盟(めい)の儀式すなわち血をすすり合って盟約する儀式を行わなかった、ということである。
(注2)楊注はここで『詩経』小雅巧言(こうげん)の句「君子屡(しばしば)盟(ちか)う、乱是(ここ)を用(もっ)て長ず」を引く。句の意味は、「君主が(本気で誓約を守る気がないために)何度も誓約するので、乱がますます増長するのだ」というものである。
(注3)楊注は、「相は人のために賛相するを謂う」と注する。賛相(さんしょう)とは、儀式において人を介助して礼を進行させる役目。
(注4)金谷治氏、新釈ともに「行」を「さる」と読み下す。文意から言って、それが適当であろう。
(注5)檃栝は非相篇性悪篇に表れる。木を矯める器具。
(注6)楊注は、「示」は読んで「寘(し)」となす、と言う。おく。
(注7)楊注或説は「幬菜」について、「菜は読んで菑となし、轂(こしき)と輻(や)とを謂うなり」と言う。すなわち「幬」は周礼孝工記鄭注に「轂を冒(おお)う革なり」とあり、轂(こしき。車輪の車軸を囲んで輻(や)を集めて支える部分)を覆う革のことであるという。また「菑」は同じ孝工記鄭注に「輻の轂中に入る者を謂う」とあり、輻(や。放射状に並べた車輪内部の棒)が轂に入った部分のことであるという。これに従い、「幬菜」を車輪の轂の部分とみなす。
(注8)「蘭茞・槀本」以下の文は、正反対の解釈に分かれている。楊注は、「漸す所の者は美にして、貴を加うるなり」と言う。すなわち蜜禮(あまざけ)に香草をひたせば、玉佩一つと交換できるまでに価値が高まることを肯定的に解釈する。いっぽう集解の盧文弨は、「酒に漸すと滫中に漸す(勧学篇の句)とは、皆其の久しかる可からざるを謂う」と注する。すなわち甘い蜜禮に香草をひたしても、しょせんは売り飛ばされる末路であり、君子は口に甘い安易な道を選ばず恒久的な苦い道を選ばなければならない、という否定的な解釈を取る。
(注9)原文「正君漸香酒、可讒而得也」。増注は、この語を反語文として捉える。すなわち「香酒は美酒なりて賢者に比す」と言い、「可讒而得也はなお可得讒耶と言うがごとし」と注する。しかし集解の郝懿行は、「讒言甘くして入り易く、醇醪を飲むがごとし。人をして自ら酔わしむ。故に香酒に漸さるることを以て之を警況す」と注する。すなわちこの語を通常文と捉えた解釈であり、この場合読み下しは「正君も香酒に漸さるれば、讒(ざん)して得可し」のようになるであろう。上の読み下しは、増注の解釈に沿った。訳は、注8・注9の対立する解釈を並べて置いた。
(注10)集解の盧文弨および増注は、「厥」は「橛」と同じ、と言う。橛とは、戸の下に置くしきいのこと。
(注11)増注および集解の王念孫は「子」は「下」の誤りと言う。これに従う。
(注12)増注は、「贛は貢と同じ」と言う。すなわち、子贛とは孔子の弟子の子貢(しこう)のことである。季路は子路と同じ。
(注13)増注・集解の王念孫ともに、大戴礼記曾子立事篇の同句を引いて、「立」は「言」となすべしと言う。これらに従う。
(注14)楊注は「師に親しまず」と解する。増注は「親友無し」と解する。猪飼補注は「親は疑うはまさに新に作るべく、言うは多く故事を知りて新得無きなり」と解する。漢文大系および金谷治氏は、楊注あるいは増注に沿った解釈を取っている。新釈の藤井専英氏は猪飼補注に沿った解釈を取る。楊注・増注を折衷して取ることにする。
(注15)楊注は「学に就きて詩書を諷するなり」と言う。詩・書を習い唱えること。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です