Author Archives: 河南殷人

大略篇第二十七(15)

七十一
子貢が孔子に言った、
子貢「賜(それがし)は、学問をすることに疲れました。主君の下に宮仕えして、一息つきたいです。」
孔子「『詩経』に、こうあるではないか。:

朝(あした)も夕も、温和に恭(つつし)み
ひたすら政事に、恪(つつし)まん
(商頌、那より)

朝廷は、朝も夕も精勤しなければならない。主君に仕えることは、難しいことであるぞ。主君に仕えたとて、なんで一息つけるだろうか?」
子貢「ならば、それがしは親に仕えて、一息つきたいです。」
孔子「『詩経』に、こうあるではないか。:

孝子は、匱(とぼ)しからず。
そなたに、永く福授けん。
(大雅、既酔より)

孝子は、親にいつも気前よく仕えなければならない。親に仕えることは、難しいことであるぞ。親に仕えたとて、なんで一息つけるだろうか?」
子貢「ならば、それがしは妻子のそばで、一息つきたいです。」
孔子「『詩経』に、こうあるではないか。:

わが妻に、掟を示し
その掟、兄弟に及ぼし
かくして家御(おさ)め、邦(くに)御(おさ)めん
(大雅、思斉より)

夫は、家庭を苦労して治めなければならない。妻子と共に暮らすことは、難しいことであるぞ。妻子と共にあったとて、なんで一息つけるだろうか?」
子貢「ならば、それがしは朋友とともに、一息つきたいです。」
孔子「『詩経』に、こうあるではないか。:

朋友、我を攝(たす)く
攝くるに、威儀を以てす
(大雅、既酔より)

朋友どうしは、厳しく助け合わなければならない。朋友とともにあることは、難しいことであるぞ。朋友と共にあったとて、なんで一息つけるだろうか?」
子貢「ならば、それがしは田畑でも耕して、一息つきたいです。」
孔子「『詩経』に、こうあるではないか。:

おまえは昼には茅(ちがや)刈れ、
おまえは夜には縄をなえ、
さっさと屋根を葺きかえんかい、
それが終わったら、また種を播け。
(豳風、七月より)

農夫は、辛い勤労の連続なのだ。田畑を耕すことは、難しいことであるぞ。田畑を耕したとて、なんで一息つけるだろうか?」
子貢「では、それがしはどこで一息つけるのでしょうか?」
孔子「あの丘を見るがよい。高々と作られて、土がかぶせられて、鬲(れき。煮炊きの器)を逆さにしたように丸く盛り上がっている。あれが、一息つけるところなのだ。」
子貢「ああ、、あの墓に入ることこそが、休息の場所というわけですか!なんと、死は大いなることでしょうか!君子はそこでようやく休息できて、小人もまた同じくそこで休息するのだ!」

本章の問答は、孔子家語困誓篇にも見える。
本章の問答は「死して後已む」(論語、泰伯篇)や「殀寿貮(たが)わず身を脩めてもってこれを俟(ま)つは命を立つるゆえんなり」(孟子、盡心章句上)といった君子の心がけを、詩経の引用を巡る問答によって展開させたものであろう。しかしながら、レトリックが過剰にすぎて、本来の意図である命尽きるまで努力せよ、という教えというよりも、人生は労苦にすぎないといった厭世思想にすら読めてしまう。この問答を製作した者の意図が、十分に成功しているようには思われない。

七十二
詩経国風にある娘を求める歌についての注釈には、「欲を満たしながら、礼によって自制することを怠らない」とある。その誠実さは金石のように固いので、この歌の音楽は宗廟の中で演奏されてもよい。詩経小雅の詩は、穢れた君主に用いられなかった者たちが、自ら身を引いて低い地位に下がり、今の時代の政治を嫌ってかつてのよき時代を懐かしんで作られたものである。その言葉は美しく文飾されているものの、その声の中には哀しみが込められている。

楊注は、「色を好むは關雎(かんしょ)の淑女を得るを楽しむを謂う」と注する。すなわち最初の詩は、周南關雎(かんしょ)を指すと解釈している。關雎は男女が互いを求める恋歌であり、しかし礼を守り通す心があるために厳粛な宗廟で演奏しても不適切ではない、と言いたいのである。小雅は詩経の一グループであり、言われているとおり今の時代を批判した歌が多い。

七十三
国が興隆しようとしているときには、必ず君主の師が貴ばれて、君主の傅(ふ。養育係)が貴ばれるものだ。君主の師と傅が貴ばれたならば、人民は我が身を慎むようになるだろう。人民が我が身を慎むようになれば、法度は守られるであろう。だが国が衰亡しようとしているときには、必ず君主の師と傅は軽んじられるものだ。君主の師と傅が軽んじられたならば、人民は己のしたいように行うようになるだろう。人民が己のしたいように行うようになれば、法度は破られるであろう。

猪飼補注の推測を取り上げて、補って訳した。下の注3参照。

七十四
いにしえの時代には、庶民は五十歳で選ばれて仕官し、天子・諸侯の子は十九歳で冠を着けた。冠を着けた後は政治に携わることになったが、それはこの歳になれば教育が十分行われたとみなされたからである。

兪樾の解釈に従い、五十歳のままで解釈する。下の注4参照。

七十五
(増注の解釈)
学問を好む君子は、人を教えるべき人材である。人を教えるべき人材でありながら教えることをしないのは、不幸なことである。だが君子でないのに学問を好む者は、人を教えてはいけない人物である。人を教えてはいけない人物なのに人を教えたならば、それは歪んだ知識を人に授けることによって、泥棒に食料をくれてやり、盗賊に武器を貸してやるような最悪の結果を産む。
(王念孫の解釈)
君子を愛する人は、教育を授けてあげるべき有望な人材である。このような人材に教育を授けないのは、不幸なことである。だが君子でない者どもを愛する人は、教育を授けてはならない人間の屑である。このような者に教育を授けるのは、泥棒に食料をくれてやり、盗賊に武器を貸してやるような最悪の結果を産む。

解釈には上の二説あり、訳を併記した。下の注6参照。
《読み下し》
子貢孔子に問うて曰く、賜は學に倦めり、願わくは君に事(つか)うるに息(いこ)わん、と。孔子の曰く、詩に云う、溫恭にして朝夕(ちょうせき)、事を執るに恪(つつし)むこと有り、と。君に事うること難し、君に事うるも焉(いずく)んぞ息う可けんや、と。然らば則ち、賜願わくは親に事うるに息わん、と。孔子の曰く、詩に云う、孝子匱(とぼ)しからず、永く爾(なんじ)に類を錫(たま)う、と。親に事うること難し、親に事うるも焉んぞ息う可けんや、と。然らば則ち賜願わくは妻子に息わん、と。孔子の曰く、詩に云う、寡妻に刑(のっと)り、兄弟に至り、以て家邦を御(おさ)む、と。妻子難し、妻子焉んぞ息う可けんや、と。然らば則ち賜願わくは朋友に息わん、と。孔子の曰く、詩に云う、朋友の攝(せつ)する所、攝するに威儀を以てす、と。朋友難し、朋友焉んぞ息う可けんや、と。然らば則ち賜願わくは耕に息わん、と。孔子の曰く、詩に云う、晝(ひる)は爾(なんじ)于(ゆ)きて茅(ちがや)かれ、宵は爾索(なわ)を綯(な)え、亟(すみやか)に其れ屋に乘(のぼ)れ、其れ始めて百穀を播(ま)け、と。耕難し、耕焉んぞ息う可けんや、と。然らば則ち賜は息うべき者無きか、と。孔子の曰く、其の壙(こう)(注1)を望めば、皋如(こうじょ)たり、嵮如(てんじょ)たり、鬲如(れきじょ)たり(注2)、此れ則ち息う所を知らん、と。子貢曰く、大なる哉死や。君子は焉(ここ)に息い、小人は焉(ここ)に休む、と。

國風(こくふう)の色を好むや、傳に曰く、其の欲を盈(みた)して而(しか)も其の止を愆(あやま)たず、と。其の誠は金石に比す可く、其の聲宗廟に內(い)る可し。小雅は汙上(おじょう)に以(もち)いられず、自ら引きて下に居り、今の政を疾(にく)んで、以て往者を思う。其の言は文有りて、其の聲は哀有り。

國の將(まさ)に興らんとすれば、必ず師を貴びて傅(ふ)を重んず。師を貴びて傅を重んずれば(注3)、則ち法度存す。國將に衰えんとすれば、必ず師を賤んで傅を輕んず。師を賤んで傅を輕んずれば、則ち人快(かい)有り、人快有らば則ち法度壞(やぶ)る。

古者(いにしえは)匹夫五十(注4)にして士(つか)え(注5)、天子・諸侯の子は十九にして冠す。冠して治を聽くは、其の敎至ればなり。

君子なる者にして之(注6)を好むは、其の人なり。其の人にして敎えざるは、不祥なり。君子に非ずして之(注6)を好むは、其の人に非ざるなり。其の人に非ずして之を敎うるは、盜に糧を齎(もた)らじ、賊に兵を借(か)すなり。


(注1)楊注は、壙は丘壠なり、と言う。ここでは、墓の丘のこと。
(注2)集解の郝懿行は、「皋はなお高きがごときなり。嵮は即ち顛字。鬲は鼎の属なり。此れ皆丘壠の形状を言う」と言う。皋如は丘の高い様子、嵮如は顛如のことであって丘に土が蔽いかぶさっている様子、鬲如は鬲(れき。煮炊きする釜)を伏せた形のように丸く盛り上がっている様子のこと。
(注3)猪飼補注、集解の兪樾ともに、ここに語句が脱落していることを疑う。猪飼補注は、「則人有憚、人有憚(則ち人憚る有り、人憚る有らば)」が脱落しているのではないかと言う。上の訳では猪飼補注の推測を取り上げて訳を補った。
(注4)楊注は、礼では「四十で仕える」とあるので、五十は四十の誤りであると言う。しかし集解の兪樾はこれを非として、いわゆる四十で仕えて五十で大夫となるのは卿・大夫の子であって、ここで「匹夫」と言っているのは、礼記王制篇に言う俊士・選士のようなものを指しているのだろう、と注する。俊士・選士とは、郷里の庶民の中から秀でた者を選んで仕官させる制度である。
(注5)増注・集解の郝懿行は、「士」はまさに「仕」に作るべしと言う。
(注6)増注は、「之を好むとは、学を好むを言うなり。其の人は、教うる可きの人を謂うなり」と注する。集解の王念孫は、「此れ能く君子を好まば、則ち教うる可きの人と為り、教うる可くして之を教えざるは是れ不祥なるも、若(も)し好む所君子に非ざれば、則ち教うる可からざるの人と為り、教うる可からずして之を教うるは則ち是れ盗に糧を齎し賊に兵を借すなるを言う」と注する。増注は二つの「之」を学問とみなし、王念孫は二つの「之」を君子・非君子とみなす。両説ともに通るので、二説に応じた訳を併記する。

大略篇第二十七(16)

七十六
「己の行いはまだまだ不足だ」と自ら考えない者は、行いに比べて言葉が多すぎるのである。いにしえの賢人は、たとえ一庶民の賤しさにあり、一貧民の貧しさにあって、食べる粥ですら不足し、着る賤服すらまともに得られなくとも、礼に合わなければ仕官することはなく、義に合わなければ財貨を受け取ることをしなかった。いにしえの賢人のようであるならば、なんで言葉ばかりが先行するようなことがありえるだろうか?

漢文大系は、「古の賢人は」以下を分けて本章を二章とする。

七十七
子夏(しか)は貧しくて、衣服が破れ果てて短くなってしまったほどであった。ある人が彼に、「君はどうして仕官しないのか?」と聞いた。子夏は答えた、「私に対して驕る諸侯には、私は家臣とならない。私に対して驕る大夫には、私は二度と会見しない。かつて、柳下恵(りゅうかけい)は城門の閉門に遅れてしまった婦人を哀れんで、彼女を自分と一つの衣にくるんで一夜を過ごした。だが、彼はそうしたとしても婦人との不倫を疑われることはなかった。これは、彼の仁人としての名声が以前から著名であったためなのだ。私も柳下恵のように正道を積み上げることを志す者であって、いやしくもいま爪の先ほどの小さな利益を求めて争えば、いずれ掌(てのひら)すべてを失う災厄となるだろう」と。

集解の盧文弨は、「柳下惠は門に後るる者」以下は上の子夏の言葉と続けるべきでない、と言う。漢文大系は「柳下惠は門に後るる者」以下を分けて二章とする。上の訳は、すべて子夏の言葉とみなした。
子夏は孔子門下の秀才の一人で姓は卜、名は商。孔子の死後、新興の魏国に赴いて重用された。孔子の弟子の中でも、子思・孟子に続く学派を開いた曾子と並んで、戦国時代の儒家に及ぼした影響が大きかった。だが荀子は非十二子篇において、子夏学派を「賤儒」と切って捨てた。
柳下恵とは、展禽(てんきん)のこと。成相篇(1)注1参照。本章で言及されている柳下恵と一婦人とのエピソードについて、盧文弨は詩経小雅巷伯毛伝に、増注は孔子家語好生篇の記事に言及する。

七十八
君主は、家臣を採用するときに慎重でなければならない。庶民は、友人を選ぶときに慎重でなければならない。友人というものは栄辱を共有するものだからであって、もし行く道を異にすれば、どうして栄辱を共にできるだろうか?薪(たきぎ)を一律に並べて火をつけたら、乾いた側に燃え広がっていく。地面を一面の水平にしてみたら、水は湿った箇所に溜まっていく。およそ同類が相集まることは、火や水のように明らかなことなのだ。友人をもって人を見れば、その人となりは疑いもなく分かるものである。友人は、慎重に善人を選ばなければならない。これは、自らの徳を作る基本なのである。『詩経』に、この言葉がある。:

大車(たいしゃ)をば、ゆめ将(たす)くまじ
塵浴びて、目も開けられぬ
(小雅、無将大車より)

この言葉は、小人を大車にたとえて、これと共に従っては自らが汚れるのでしてはいけない、という戒めなのである。

勧学篇に「薪を施くこと一の若くなれば、火は燥に就く、地を平にすること一の若くなれば、水は溼に就く」の句があり、本章の句と同義である。

七十九
藍苴路作(らんしょろさく。意義未詳)なことは、知のようだが知ではない。惰弱ですぐに人の意見に負けることは、心優しくて仁のようだが決して仁ではない。凶暴頑迷で争いを好むことは、気が強くて勇のようだが決して勇ではない。

藍苴路作は各解釈者の説が乱立していて、定説があるとはいえない。楊注本説の言うとおり意義未詳としておく。下の注4参照。

八十
仁・義・礼・善の人におけるや、これをたとえるならば財貨や粟米の家におけることに等しい。両者ともに、これを多く持つ者は富み、これを少なく持つ者は貧しく、これが全くない者は困窮するだろう。ゆえに、仁・義・礼・善のうちで偉大な行いをなすことができず、それらの小さなことですらやろうとしないのは、国を滅ぼし身を滅ぼす道である。

《読み下し》
自ら其の行に嗛(けん)(注1)たらざる者は、言濫過(らんか)す。古(いにしえ)の賢人は、賤しきこと布衣(ふい)爲(た)り、貧しきこと匹夫爲り、食は則ち饘粥(せんしゅく)も足らず、衣は則ち豎褐(じゅかつ)(注2)も完からず。然し而(しこう)して禮に非ざれば進まず、義に非ざれば受けず。安(いずく)んぞ此に取らん。

子夏貧にして、衣縣鶉(けんじゅん)(注3)の如し。人曰く、子は何ぞ仕えざる、と。曰く、諸侯の我に驕る者には、吾臣と爲らず、大夫の我に驕る者は、吾復(ま)た見(まみ)えず。柳下惠は門に後るる者と衣を同じうして、而(しか)も疑わ見(れ)ざるは、一日の聞に非ざればなり。利を爭うこと蚤甲(そうこう)の如くにして、而も其の掌を喪う、と。

人に君たる者は以て臣を取ることを愼まざる可からず、匹夫は友を取ることを愼まざる可からず。友なる者は、相有する所以なり。道同じからざれば、何を以て相有せんや。薪(たきぎ)を均にして火を施(し)けば、火は燥に就く、地を平にして水を注げば、水は溼(しつ)に流る。夫れ類の相從うや、此の如きの著しきなり、友を以て人を觀ば、焉(いずく)んぞ疑う所ならん。友を取ること善人をすべし、愼まざる可からず、是れ德の基なり。詩に曰く、大車を將(たす)くること無し、維(こ)れ塵冥冥たり、とは、小人と處(お)ること無からんを言うなり。

藍苴路作(らんしょろさく)(注4)は、知に似て而(しか)も非なり。偄弱(だじゃく)(注5)奪い易きは、仁に似て而も非なり。悍戇(かんこう)(注6)鬭(とう)を好むは、勇に似て而も非なり。

仁・義・禮・善の人に於けるや、之を辟(たと)うるに貨財・粟米の家に於けるが如きなり、多く之を有する者は富み、少く之を有する者は貧しく、有ること無き者に至りては窮す。故に大なる者は能くせず、小なる者も爲さざるは、是れ國を弃(す)て身を捐(す)つるの道なり。


(注1)集解の郝懿行は、「嗛は足らざるなり」と言う。栄辱篇(3)注8および仲尼篇(2)注3における楊注の解釈を参照。だが大略篇のこの章における楊注は、「嗛は足りるなり」と注している。すなわち、ここに限っては「嗛(きょう)」と読んで反対の意味の解釈を取っている。楊注説を取らず、郝説を取る。
(注2)楊注は、「豎褐は僮竪の褐、亦は短褐なり」と言う。少年の下僕に着せるような、尺の短い粗末な服。
(注3)増注は、「鶉の尾は特に禿なりて、衣の短結なるがごとし。故に凡そ敝衣を懸鶉の若きと曰う」と注する。鶉(うずら)は尾が非常に短いので、破れて短くなってしまったぼろ服のことを懸鶉(けんじゅん)のごとし、と言うのである。
(注4)猪飼補注・藤原栗所・劉師培・于省吾のいずれも、異なる説を挙げている。漢文大系および金谷治氏は、藤原栗所の「濫狙露作」説に引き寄せて読む。金谷氏は「藍苴(濫漫)にして露(あらわ)に作(な)す」と読み下し、「放漫であけひろげた行為をする」と訳している。新釈漢文大系は于省吾の「監狙楽詐」説に引き寄せて読む。すなわち「監狙(かんしょ)詐(さ)を楽(この)む」と解して読み下し、「細かに様子を伺い調べて相手の意表をつくことに興味を持つ」と訳している。楊注本説は「其の義未詳」とする。上の訳においては、意義未詳としておく。
(注5)集解の盧文弨は、「偄」は「懦」と同じと言う。
(注6)楊注は、「悍は兇戻、戇は愚なり」と言う。

大略篇第二十七(17)

八十一
およそ、物事は原因となることがあって起こるものである。己の身から出たものは、己にいずれ戻ってくるのだ。君子は、怪しげな流言を絶たなければならない。そして、財貨や女色を遠ざけなければならない。わざわいが起こる原因は、ほんのささいなことにあるのだ。それゆえに、君子はわざわいのささいな原因すらすみやかに絶つのである。信頼できる言葉とは、知らないことや確信がまだ持てないことについて行ったり来たり思案するところから出てくるのである。よって君子は疑わしいことは言葉に出さず、質問されなければ言葉を発することはない。

漢文大系は、「凡そ物は乘ずること有りて來る」~「是れ其の反る者なり」、「流言は之を滅し」~「是の故に君子は蚤く之を絕つ」、「言の信なる者は」~「未だ問わざれば則ち立(い)わず」の三章に区切る。

八十二
知者は、万事に明察であって、万事の成り行きの道を見通している。なので、これに対して不誠実に付き合うことはできないのだ。古語に、「君子を喜ばせることは難しい。なぜならば、君子は正道をもって喜ばせようと努めなければ、決して喜ばないからである」とある。また、ことわざに「転がる玉は窪地に入れば止まり、流言は知者に至れば止まる」とある。このゆえに、勝手な家言を作り邪説を主張する諸子百家どもは、知者である儒者を憎むのである。正しいか正しくないかが疑わしければ、遠い聖賢や先王の事績と比較して考え、身近な事例と比較して検証し、公平な心をもって考察すればよい。このようにする知者の前ではついに流言も止まり、邪説も死に絶えるであろう。

古語として引用されている言葉は、論語子路篇の「子の曰わく、君子は事(つか)え易くして説(よろこ)ばしめ難し、之を説ばしむるに道を以てせざれば説ばざるなり」の句と同一である。論語において孔子の言葉とみなされているこの語を、荀子は古語とみなしている。宮崎市定氏が言うに、論語における孔子の言葉は古語を引用してそれに自らの見解・補足を付言したものが多い。子路篇の言葉は、上の部分が古語からの引用であって、そこに孔子の補足説明を加えたものなのかもしれない。

八十三
曾子は魚を得て、食べたが余りがあった。そこで門人に「これを煮ておけ」と言った。すると門人は、「煮ては、すぐに腐ってしまい、食べると人の害となります。燻製にする(または酒・塩に漬ける)のがよいでしょう」と言った。曾子はこれを聞いたとき、涙を流した。そして言った、「悪い気で、そう言ったわけではなかったのだ!」と。曾子は、このことを聞くのが遅かったことが、悲しかったのである。

楊注は、曾子が泣いた理由を、人の害となる処理法について知らなかった自らの過ちを悔いて門人に謝った、と解している。しかしながら、そのようなことで泣くのは不可解である。そこで集解の王先謙は、これは孝子で著名な曾子がかつて親に同じ処理法の魚を勧めたことを、親の死後になって初めてそれが誤りであると聞いたのだ、と解している。王説は憶測にすぎないが、解釈としては一理あると考える。
曾子の父の名は、曾晳(そうせき)である。曾晳は、論語先進篇の末章、あるいは孟子離婁章句盡心章句に表れる。これらに引用される曾晳のプロフィールはさして問題のある人物ではないが、孔子家語六本篇に引用されるエピソードでは、曾晳は子の曾子に暴力を振るう悪親として表れる。父から杖で気絶するほどに殴られる暴力を甘んじて受けた曾子に対して孔子は、逃げなかった曾子の行為は父に子殺しの不義を行わせるものでありかえって不孝である、と叱責している。

八十四
自分の苦手な短所によって、他人の得意とする長所と競うな。むしろ、自分の短所は覆い隠して出さないように控え、自分が得意とする分野にひたすら従事せよ。だがよく通ずる知がありながら法がない者や、明察な弁論をしながら正道から外れた理屈を操る者や、果断な勇気があるが礼義を行わない者は、たとえ己の長所には優れていても君子が憎悪するところなのである。

非十二子篇に「知にして法無く、勇にして憚ること無く、察辯にして操僻」の句があり、本章の句と類似する。

八十五
多言でありながらその言葉が正しい分類法に従っているのは、聖人である。少言であってもその数少ない言葉が礼法に従っているのは、君子である。多言であるが言葉に法がなくて口から出任せであれば、それが賢明ぶって弁論をしたところでしょせんは小人である。

非十二子篇にほぼ同一の句がある。
《読み下し》
凡そ物は乘ずること有りて來る、[乘](注1)其の出づる者は、是れ其の反(かえ)る者なり。流言は之を滅し、貨色は之を遠ざく。禍の由りて生ずる所は、纖纖(せんせん)自(よ)より生ずるなり。是の故に君子は蚤(はや)く之を絕つ。言の信なる者は、區蓋(くがい)(注2)の閒(かん)に在り。疑わしければ則ち言わず、未だ問わざれば則ち立(い)わず(注3)

知者は事に明(あきら)かにして、數に達す、不誠を以て事(つか)う可からざるなり。故(こ)に曰く、君子は說(よろこ)ばしめ難し、之を說ばしむるに道を以てせざれば說ばざるなり、と。語に曰く、流丸(りゅうがん)は甌臾(おうゆ)(注4)に止まり、流言は知者に止まる、と。此れ家言・邪學の儒者を惡(にく)む所以なり。是非疑わしければ、則ち之を度(はか)るに遠事を以てし、之を驗するに近物を以てし、之を參するに平心を以てすれば、流言は焉(ここ)に止まり、惡言も焉に死す。

曾子魚を食いて餘(あまり)有り。曰く、之を泔(かん)せよ(注5)、と。門人曰く、之を泔すれば人を傷(そこな)う、之を奧(いく)する(注6)に若(し)かず、と。曾子泣涕して曰く、異心有らんや、と、其の聞くことの晚(おそ)きを傷(いた)む。

吾の短なる所を用(もっ)て、人の長ぜる所に遇(あた)ること無かれ。故に塞いで短なる所を避け、移りて仕(し)する(注7)所に從え。疏知(そち)なるも法あらず、察辯(さつべん)なるも操僻(そうへき)し、勇果(か)なるも禮亡きは、君子の憎惡する所なり。

多言にして類なるは、聖人なり。少言にして法あるは、君子なり。多言法無くして流(りゅう)すれば、喆然(てつぜん)(注8)として辯(べん)ずと雖も小人なり。


(注1)集解の王念孫は、「下の乘字は衍」と言う。これに従い削る。
(注2)「區蓋」について集解の郝懿行は、漢書儒林伝に見える「丘蓋」の語の同音を借りたものであり、「丘」は斉国の俗語で知らないことを指し「蓋」は疑わしくていまだ定まらないことを指す、と考える。金谷治氏は、郝説に従うがやや不安である、と言っている。一応郝説に従っておく。
(注3)大略篇七十章の注13を参照。これと同じく、「立」を「言」と読む。
(注4)楊注は、「甌臾は地の坳坎にして甌臾の如くなる者を謂う」と言う。すなわち、甌臾(かめのような器)のように丸く窪んでいる地のこと。
(注5)「泔」字は、米のとぎ汁、あるいは煮ることを指す。集解の盧文弨および増注の久保愛は、ここの「泔」を米汁に漬すこととみなす。集解の王念孫はこれに対し、「泔」は「洎」となすべきと考える。「洎」とは多めの水で煮ること。いずれにしても、保存が効かない調理法を指すのであろう。何らかの方法で煮ること程度に考えておく。
(注6)「奧」について久保愛は、「燠」となすべしと言う。あぶること。集解の盧文弨は「鬱」の意であると言う。酒か塩で漬けること。つまり燻製にするか、酒・塩に漬けるかという解釈であり、どちらでも保存法としては通る。
(注7)楊注は、「移は就なり、仕は事と同じ」と言う。得意とする事に従事すること。
(注8)非十二子篇の句では、「喆然」を「湎然」に作る。楊注はこの大略篇も「湎然」に作るべしと言うが、増注は「喆は哲と同じ」と注してこれを改めない。増注に従う。喆然は、賢明ぶった様子。

大略篇第二十七(18)

八十六
国法において拾ったものを横領することが禁止されているのは、本来得る権利がないものを得ることを許せば、人民がこれを模倣することを嫌うゆえである。身分による分配の義が貫かれていれば、天下の統治を与えられたとしてもよく治めることができるだろう。しかし分配の義がなければ、一人の妻と一人の妾ですら制御できずに、家中はカオスに陥ることであろう。

原文の「分」・「分義」は、身分秩序に応じて定められた、富貴を得る権限のことである。君主が「分」を定めることによって社会がカオスから秩序に向かう、という荀子のビジョンは、富国篇で詳しく展開されている。上の訳は、通りよいように意訳した。本章のたとえは、庶民以外は妻の他に妾を身分に定められた数だけ保有することができる、という古代社会の家族制度を前提としているのである。

八十七
天下の人は、それぞれ意見を異にするとはいえ、共通して認める存在があるものだ。美味について言う者は、易牙(えきが)の料理を認める。音楽について言う者は、師曠(しこう)の音楽を認める。そして治世の術について言う者は、三王(夏の禹、殷の湯王、周の文王・武王)の統治を認めるのだ。三王は過去に法度を定め、礼楽を制定して、後世に伝承した。これを採用せずに改めて自分で作るとすれば、それは易牙の味付けを変えて師曠の調律を変えることに異ならないではないか。三王の法が無ければ、天下は待つことなくして滅び、国家もまた待つことなくして死滅するであろう。飲むだけで食べないのは、蝉である。飲むことも食べることもしないのは、浮蝣(かげろう)である。天下国家もまた、三王の法と礼楽を得なければ、浮蝣や蝉のように時を待たず死んでしまうであろう。

上の訳は、猪飼補注に沿って末尾を補った。下の注5参照。
易牙・師曠はいずれも春秋時代の人物で、孟子告子章句上、七でも料理人と音楽家の第一人者として表れる。易牙は斉の桓公の佞臣で、自分の子を料理して主君に勧めた。師曠は晋の音楽家。
カゲロウの成虫は摂食せず、セミの成虫は樹液を飲むだけであるのは正しい観察であるが、共に長い幼虫時代がある。

八十八
舜と孝己(こうき)は親に孝なる人物であったが、親から愛されなかった。比干(ひかん)と子胥(ししょ)は主君に忠なる事物であったが、君主はその諫言を用いなかった。仲尼と顔淵は大いなる知者であったが、世の中で窮迫させられた。暴君が君臨する暴国に脅迫されて、もはやこれを避けることができないのであれば、その暴君の善事を尊び、その暴君の美点を持ち上げ、その暴君の長所を言うが、その暴君の短所は称えたりしない。このように振る舞うしかないだろう。だが何事もうなずいて従っているのに滅亡するならば、それは誹謗中傷をどこかで行っているためである。豊富な知識を援用するのに窮地に陥るならば、それもまた誹謗中傷をどこかで行っているためである。そして清廉になろうとしているのに己がますます濁ってくるのは、口から出た言葉が悪いためである。

臣道篇に「亂時に迫脅せられ、暴國に窮居して、之を避くる所無ければ、則ち其の美を崇び、其の善を揚げ、其の惡を違(さ)け、其の敗を隠し、其の長ずる所を言い、其の短なる所を稱せず」とあり、本章の句と大筋同じである。また栄辱篇に「博にして窮する者は訾(し)なり、之を清くして俞濁す者は口なり」の句が見える。
人物を解説する。舜はいにしえの聖王で、父親の瞽瞍(こそう)に孝を尽くしたが、瞽瞍はかえって舜を憎んで殺害を企てた。孝己は殷の高宗武丁の太子で、賢明で孝行な人物であったが父王から疎まれて死んだ。比干は殷の紂王のおじで、暴君の紂を諫めたが、聞き入れられずに胸を割かれて殺された。子胥は伍子胥(ごししょ)のことで、呉王夫差(ふさ)の重臣。越国の脅威を夫差に進言したが、聞き入れられずに自害を求められた。仲尼は、孔子の字(あざな)。顔淵は顔回のことで、孔子の高弟であったが窮迫のうちに死んだ。

八十九
君子は他人を貴ぶことはできるが、必ずしも他人に自らを貴ばせることはできない。君子は他人を用いることはできるが、必ずしも他人に自らを用いさせることはできない。

出版されている漢文大系は、八十九章と九十章を合わせて一章に作っている。しかしながら、両章は明らかに別の章にするべきである。
本章の句は、非十二子篇にも見える。そちらを参照したほうが、句の意味がわかりやすい。

九十
誥誓(こうせい)は、五帝の時代には見られなかった。盟詛(めいそ)は、三王の時代には見られなかった。人質を互いに差し出すことは、五覇の時代には見られなかった。

本章の句は、『春秋穀梁伝』隠公八年にも見える。穀梁伝では、「五伯」を「二伯」に作る。二伯とは、斉桓公・晋文公のことである。
語句を解説する。誥誓(こうせい)とは、言葉で誓言して約束すること。盟詛(めいそ)とは、盟の儀式を行って盟約すること。大略篇六十七章注1を参照。五帝は、堯・舜を含むいにしえの五人の聖王たち。非相篇(4)注3参照。三王は、上の八十七章を参照。五覇は、春秋五覇のこと。議兵篇(2)のコメントを参照。五帝、三王、五覇の順番に時代が下り、その後に孟子や荀子の生きた戦国時代となる。なので、この言葉は孟子告子章句下、七と同じく、戦国時代を批判したものである。
《読み下し》
國法拾遺を禁ずるは、民の分無きを以て得るに串(なら)うを惡(にく)めばなり。(注1)分義有れば、則ち天下を容(う)けて(注2)治まり、分義無ければ、則ち一妻一妾にして亂る。

天下の人、各(おのおの)意を特(こと)にすと唯(いえど)も(注3)、然り而(しこう)して共に予(ゆる)す(注4)所有り。味を言う者は易牙(えきが)に予し、音を言う者は師曠(しこう)に予し、治を言う者は三王に予す。三王旣に已(すで)に法度を定め、禮樂を制して之を傳(つた)う。用いずして改めて自ら作る有るは、何を以て易牙の和を變じて、師曠の律を更(か)うるに異ならん。三王の法無くんば、天下は亡ぶるを待たず、國も死するを待たず。飲んで食わざる者は蟬なり、飲まずして食わざる者は浮蝣(ふゆう)なり(注5)

虞舜(ぐしゅん)・孝己(こうき)は孝なるも親愛せず、比干(ひかん)・子胥(ししょ)は忠なるも君用いず、仲尼・顏淵は知なるも世に窮す。暴國に劫迫(きょうはく)せられて、之を辟(さ)くる所無ければ、則ち其の善を崇び、其の美を揚げ、其の長ずる所を言いて、其の短なる所を稱(しょう)せざれ。惟惟(いい)として亡ぶ者は誹(ひ)なり、博にして窮する者は訾(し)なり、之を清くして俞(いよいよ)濁す者は口なり。

君子は能く貴ぶ可きを爲すも、人をして必ず己を貴ばしむること能わず。能く用う可きことを爲すも、人をして必ず己を用いしむること能わず。

誥誓(こうせい)は五帝に及ばず、盟詛(めいそ)は三王に及ばず、質子(ちし)を交うるは五伯(ごは)に及ばず。


(注1)集解本にはここに「夫(かの)」の一字があるが、増注本には欠けている。
(注2)集解の王先謙は、「案ずるに容は受なり」と言う。これに従う。
(注3)集解の王念孫は、「唯は即ち雖なり」と言う。元刻および増注本は「唯」を「雖」に作る。
(注4)増注は、「予はなお許のごときなり」と言う。ゆるす。
(注5)集解の盧文弨は、末尾の一句は意味が完結していないので、後文が欠落していることを疑う。汪中は、末尾の一句は別の一義があって上文を受けないと考える。猪飼補注は、「蝉と浮蝣とは死亡の速やかなるを喩うなり」と言う。上の訳は、猪飼補注に沿って補う。

以上で、大略篇は終わる。『荀子』において荀子の言葉を中心として編集された篇は、ここで終わる。残る宥坐篇以下の五篇は、荀子以外の人物の言葉やエピソードを収録する体裁を取っている。だが、それらの説話もまた荀子やその弟子が手を入れて改変したものである可能性は否定できないであろう。

賦篇第二十六(1)

問:「ここに、偉大なものがあります。
絹糸でもなく絹布でもないのに、美しい文様を成しています。太陽でも月でもないのに、天下に燦然と輝いています。生きている者はこれによって祝い、死去した者はこれによって葬ります。城郭はこれによって固くなり、総軍はこれによって強くなります。これを純粋に行えば王者となり、これをまだらに用いれば覇者となり、これを一つも用いなければ滅亡します。それがしは愚かにして、これが何かを知りません。王よ、どうかお聞かせ願います。」
王が言った(注1)、「それは、文様をなすが華美に走ることなきものであろうか。それは、簡潔で分かりやすいがきわめて理にかなうものであろうか。それは、君子が謹んで行うものであるが小人は否定するものであろうか。それは、人間の性に加えられないならば禽獣(ケダモノ)となり、人間の性に加えられたならばきわめて典雅となるものであろうか。匹夫がこれを貴べば聖人にも化し、諸侯がこれを貴べば四海を保つものであろうか。きわめて明らかでありながら簡潔であり、はなはだ自然で行いやすい。それは、『礼』というものであろう。」

答え:礼。


(注1)楊注は、「先王礼意の解をなす」と注する。つまり、いにしえの聖王との仮想問答である。
《読み下し》
爰(ここ)に大物有り、絲(し)に非ず帛(はく)に非ざるも、文理章を成し、日に非ず月に非ざるも、天下の明と爲る。生者は以て壽(ことほ)ぎ、死者は以て葬り、城郭は以て固く、三軍は以て强(つよ)し。粹にして王たり、駁(ばく)にして伯(は)たり、一無くして亡ぶ。臣愚にして識らず、敢て之を王に請う。王曰く、此れ夫れ文にして采(さい)(注2)ならざる者か。簡然として知り易くして、致(きわ)めて理有る者か。君子の敬(つつし)む所にして、小人の不(しかせざ)る所の者か。性得ざれば則ち禽獸の若く、性之を得れば則ち甚だ雅似(がし)(注3)なる者か。匹夫之を隆べば則ち聖人と爲り、諸侯之を隆べば則ち四海を有つ者か。致めて明にして約、甚だ順にして體(たい)すべし(注4)。請う之を禮に歸せん。禮。


(注2)楊注は、「華采に至らざる者」と注する。華美に走らないこと。
(注3)楊注は、「雅正なり」と注する。
(注4)「甚だ順にして體すべし」について、楊注は「行い易きを言うなり」と注する。

賦篇は、荀子作の賦(ふ)五篇および佹詩(きし)一篇、合わせて六篇を収録している。賦とは古代中国の詩歌の一形式であり、漢代以降盛んに作られた。賦は押韻を施すが一行の長さは可変的であることが許されて、多くは区切りごとに韻を変える換韻(かんいん)が行われる。その淵源は、楚地方の作品を集めたアンソロジー『楚辞』にあると言われる。荀子は斉国を讒言で追われた後、戦国四君子の一人で楚国の実力者であった春申君に庇護されて、亡くなるまで楚国の蘭陵(らんりょう)に居住していた。荀子は楚国との関わりが深く、その地の文学に影響されて自らも賦を作ったのであろうか。

しかし『楚辞』収録の作品は、著名な「離騒」に見られるように感情を表出した抒情詩であるが、荀子の作った賦は抒情詩ではない。一種の謎解きのスタイルを取っていて、謎として表現を重ねていって、最後にそれらの答えを示している。二千年前はこの技巧でも斬新だったのかもしれないが、現代人の目から見ると、どう評価してよいのか困ってしまう。荀子の思想は時代を超える内容を持っていると私は考えるが、荀子の芸術作品は残念ながら時代を超える力を持っていそうにない。仔細に検討する価値を感じないので、ほとんど訳するだけにとどめたい。

本篇の作品も押韻がなされているのであるが、原文を掲載することは割愛した。また賦は散文詩に近い形式であるので、訳はリズムを特に考慮に入れることなく通常どおり行うことにしたい。

賦篇第二十六(2)

問:「偉大なる天はある物を降して、地上の人民に示しました。それは厚かったり薄かったりで、必ずしも均一ではありません。たとえば桀(けつ。夏王朝最後の悪王)・紂(ちゅう。殷王朝最後の悪王)はこれによって乱れ、湯(とう。殷王朝開祖の聖王、湯王のこと)・武(ぶ。殷王朝を倒した聖王、周の武王のこと)はこれによって賢明となりました。これはあるときには混乱して窮迫するが、あるときには大らかで美しくなります。その伝播する速度は、四海を経めぐるのに一日とかかりません。君子はこれによって身を脩め、盗跖(とうせき。伝説の大盗賊)はこれによって部屋に穴を開けて侵入します。その大きさは天と並ぶが、その細かさはきわめて精密であって、一定の形がありません。これによれば行いは正しくなり、これによれば事業は成功します。これによれば暴乱なる者を禁圧して、窮乏する者を助けることができます。人民はこれを与えられて、しかるのちに安泰となります。それがしは愚かにして、これが何かを知りません。どうか、その名をお聞かせ願います。」
(王が)言った(注1)、「それは、ひろびろとしたおだやかさに安心して留まるが、危険でけわしいものは危うんで避けるものであろうか。清らかで純粋なものを近づけるが、乱雑で汚れたものを遠ざけるものであろうか。心中にはなはだ深く収めて、外界では敵に勝つものであろうか。禹(う)・舜(しゅん。いずれもいにしえの聖王)にのっとって、その後を受け継ぐことができるものであろうか。行いも、進退も、これに従ってはじめて適切であるものであろうか。血気は精妙となり、意思は盛んとなり、人民はこれを与えられてしかるのちに安泰となり、天下はこれを与えられてしかるのちに平安となる。明達純粋であり、疵もない。それは、君子の『知』というものであろう。」

答え:知。


問:「ここに、偉大なものがあります。
留まっていれば静かにたたずんできわめて低く、動けばはるか高くにあって壮大であります。丸いものは規(コンパス)で描いたようであり、四角いものは矩(ものさし)で描いたようであります。その大きさは天地に匹敵し、その徳は堯(ぎょう。やはりいにしえの聖王)・禹よりも厚く、毛先よりも細やかで、しかも天空に満ちています。たちまちの間に遠くにまで走り去ったかと思うと、ちぎれて追い掛けあうかのように戻ってきます。とても高くて、天下全てがこの恩恵を得ます。その徳は厚くて、すべてを受け容れて棄てることをしません。その色は五彩を備えて、文飾はなやかです。行ったり来たりして定まった形がなく、自然の精妙なはたらきに通じています(注2)。出たり入ったりすることははなはだ速やかで、出入の門を誰も知りません。天下はこれを失えばすなわち滅び、これを得ればすなわち存続するでしょう。それがし(注3)は愚かなので、どうかこれをご説明いただきたい。君子がお言葉を発してくだされば、それがしは当てることができるでしょう。」
君子が言った、「それは、巨大であるが空間を満たし尽くすことがないものであろうか。天空に充満して隙間を残さないが、かといって小さな隙間に入り込んでも窮屈とならないものであろうか。遠きに行くことが迅速であるが、これに書簡を託すことができないものであろうか。行ったり来たりして定まった形がなく、固定させることができないものであろうか。突然人を殺傷する猛威をなすことがあるが、これを疑い嫌うことはできないものであろうか。その功績を天下が受けながら、それを己の徳とみなさないものであろうか。大地に身を寄せて天空に遊び、風を友として雨を子として、冬の日には寒さを招き、夏の日には暑さを招く。広大であって精密巧妙な存在。それは、『雲』というものであろう。」

答え:雲。


(注1)原文「曰」。誰が言ったか明言されていないが、問答の形式は賦篇第一篇と同型であって、二篇は連続でこれも先王の仮想的な返答とみなすべきであろう。
(注2)原文読み下し「大神に通ず」。荀子は「神」の字に超自然的な存在の意味を与えず、「大神」とは自然あるいは人間の精妙な作用を指す、あくまでも地上的存在のなす偉大な力のことである。
(注3)原文「弟子」。楊注に、「弟子は荀卿自らを謂う」とある。これに従い、作者自身のことを指すとみなす。問いかけた「君子」は、当然仮想の君子である。
《読み下し》
皇天物を隆(くだ)して(注4)、以て下民に示す、或は厚く或は薄く、帝(つね)に(注5)齊均ならず。桀(けつ)・紂(ちゅう)は以て亂れ、湯・武は以て賢なり。涽涽(こんこん)淑淑(しゅくしゅく)、皇皇(こうこう)穆穆(ぼくぼく)として(注6)、四海に周流するに、曾(かつ)て日を崇(お)えず(注7)。君子は以て脩め、,跖(せき)は以て室を穿(うが)つ。大は天に參し、精微にして形無し。行義以て正しく、事業以て成る。以て暴を禁じ窮を足す可く、百姓之を待ちて而(しか)る後に寧泰(ねいたい)なり(注8)。臣愚にして識らず、願わくは其の名を問わん。曰く、此れ夫れ寬平に安んじて險隘(けんあい)を危ぶむ者か。脩潔を之れ親(ちか)づくることを爲し、襍汙(しゅうお)を之れ狄(とお)ざくる(注9)ことを爲す者か。甚だ深く藏して外敵に勝つ者か。禹・舜に法(のっと)りて能く迹(あと)を揜(おお)う者か。行爲・動靜之を待ちて而る後に適する者か。血氣之れ精、志意之れ榮、百姓之を待ちて而る後に寧(やす)く、天下之を待ちて而る後に平(たいら)かなり。明達・純粹にして疵(し)無きなり(注10)。夫れ是を之れ君子の知と謂う。知。

此に物有り、居れば則ち周靜にして下(ひく)きを致(きわ)む、動けば則ち高きを綦(きわ)めて以て鉅(おお)いなり。圓(えん)なる者は規に中(あた)り、方なる者は矩(く)に中る。大は天地に參し、德は堯・禹より厚く、毫毛(ごうもう)より精微にして、大㝢(だいう)(注11)に大盈(だいえい)す。忽(こつ)として其れ極(いた)る(注12)こと之れ遠く、攭(れい)(注13)として其れ相逐(お)いて反(かえ)る。卬卬(ごうごう)として天下之れ咸(みな)蹇(と)る(注14)なり。德厚くして捐(す)てず、五采備りて文を成す。往來・惛憊(こんまい)にして(注15)、大神(たいしん)に通じ、出入甚だ極(すみや)か(注16)にして、其の門を知ること莫し。天下之を失えば則ち滅び、之を得れば則ち存す。弟子不敏にして、此を之れ陳ぜんと願う。君子辭を設けよ、請う之を測意せん。曰く、此れ夫れ大にして塞(みた)さざる者か。大宇に充盈(じゅうえい)して窕(ちょう)ならず(注17)、郄穴(げきけつ)に入りて偪(せま)らざる者か。遠きに行くこと疾速なるも、訊(しん)を託す可らざる者か。往來・惛憊にして、固塞と爲す可からざる者か。暴(にわか)に殺傷に至るも、億忌(おくき)(注18)せざる者か。功天下に被りて、私置(しち)(注19)せざる者か。地に託して宇に游び、風を友として雨を子とし、冬日は寒を作し、夏日は暑を作す。廣大にして精神なり。請う之を雲に歸せん。雲。


(注4)集解の王念孫は、「隆は降と同じ」と言う。くだす。
(注5)集解の王念孫は、「帝」は「常」字の誤りと言う。これに従う。
(注6)原文「涽涽淑淑、皇皇穆穆」。多様な解釈が提出されている。楊注は「或は愚、或は智を言うなり」と注して、すなわち前半は桀・紂の愚を示し後半は湯・武の智を示す形容詞とみなしている。集解の兪樾は、「淑」はまさに読んで「踧(しゅく)」となすべしと言う。踧は、せまる、ちぢこまるの意。いっぽう増注は「淑」を清湛の意と解し、「涽涽淑淑」は濁るが如く清むが如くの貌、と言う。新釈は「涽涽淑淑」を「透徹した智の静止状態をいう」と注し、「皇皇穆穆」を「明美な智の発動状態をいう」と注している。金谷治氏は「涽涽淑淑」を楊注・兪樾にのっとって解し「混乱し急迫する」と訳し、「皇皇穆穆」を「大らかで美々しい」と訳している。「涽涽淑淑」と「皇皇穆穆」を対立する対句とみなす、金谷治氏のオーソドックスな解釈に従いたい。
(注7)増注は物茂卿(荻生徂徠)を引いて、「祟は終なり」と言う。おえる。
(注8)「寧泰」について、楊注はまさに「泰寧」となすべし、と言う。新釈の解説を引けば、「寧」は前句末字の「形」「成」および後句末字の「名」と同じ上古耕部の韻に属する。
(注9)増注および集解の王念孫は、「狄」は読んで「逖」となす、と言う。とおざける。
(注10)原文「無疵也」。集解の王引之は、「也」は衍と言う。次の句末字の「知」と韻を踏むのは「疵」字であるべきで、「也」字は上句に引きずられた衍字であり『芸文類集』にはこれがないことを理由とする。
(注11)楊注に「㝢」は「宇」と同じ、と言う。「㝢」はCJK統合漢字拡張Aにしかない。
(注12)増注は、「極」はなお「至」のごとし、と言う。いたる。
(注13)楊注は、「攭は「劙(れい)」と同じで分判の貌と言う。集解の王念孫は、「攭は雲気旋転の貌」と言う。楊説を取れば雲がちぎれる様、王説を取れば雲がめぐって戻ってくる様と取れる。楊説を取る。
(注14)集解の兪樾は、「蹇」はまさに読んで「攓」となすべく、方言にして「取」なり、と言う。雲の恩徳を天下が取ることを言うと解する。
(注15)「惛憊」について、楊注は「なお晦暝のごとし」と言う。増注は荻生徂徠を引いて「惛は昏にして憊は昧なり」と言う。これらの解釈に従えば、惛憊は昏昧(こんまい)であり、(形が)はっきりせずつかみようがない様となるであろう。新釈の藤井専英氏はこの通説を採らず、「惛」は専黙精誠の意、「憊」はヘイと読んで困・疲の意と解し、「惛憊(こんへい)」を「(雲が哲人のように)深く思索に耽っている姿」と訳している。藤井説にも一理あるが、昏昧の意で訳すことにしたい。
(注16)楊注は、「極」は読んで「亟」となす、と言う。すみやか。
(注17)集解の王念孫は、「窕」は間隙の称、と言う。すきまのこと。
(注18)集解の王念孫は、「億は読んで意となし、意は疑なり」と言う。億忌は、疑って嫌うこと。
(注19)王念孫は、「置」は読んで「徳」となす、と言う。

残る四篇の賦も、同工異曲の謎解き詩の形式である。二篇まとめて訳して掲載した。第三篇は、初め荀子の儒学と関係があるような言葉を並べておいて、そのオチとしては人間ではない自然現象の雲を答えとする趣向を取っている。人間を超えた力を持つ天地自然にも大いなる徳がある、ということを言いたかったのであろうか。

賦篇第二十六(3)

問:「ここに、ある物があります。
その形状は毛が生えておらず、たびたび変化する巧妙さは見事であります。その効能は天下が受け取るものであって、万世にわたって美しい文様を作ります。礼楽(れいがく)はこれによって成り立ち、貴賤はこれによって分かれます(注1)。老者を養い幼者を育てることも、これを用いてはじめて可能です。なのにそれを指す用語は美しくなく、「暴」に近い(注2)。それは功績を挙げたならば我が身を殺し、事業を成したならばその家は壊されます(注3)。その老年時代は棄てられて、その子孫だけを集めます。人類はこれを利用し、飛ぶ鳥はこれを食害します。それがしは愚かにして、これが何かを知りません。五帝(注4)よ、どうかこのものが何であるのか、ご推測願います。」
五帝が言った、「それは、身体柔らかであり、頭部の形状は馬の首に似たものであろうか。たびたび変化するが、長生きできないものであろうか。成長期には大切にされるが、成長しきったら粗末に扱われるものであろうか。親はあるが、雄・雌の区別はないものであろうか(注5)。冬には籠っていて、夏には活動し、桑を食って糸を吐き、初めは乱れているが後には整う(注6)。夏に発生するが暑さを嫌い、湿り気を好むが雨を嫌う(注7)。蛹(さなぎ)を母となし、蛾を父となす。寝起きを何度か繰り返したら、その仕事は全て終わってしまう。それは、『蠶(蚕。かいこ)』の道理というものであろう。」

答え:蠶。


問:「ここに、ある物があります。
山から生まれて、部屋に住まいます。知力も技巧も持っていませんが、衣装をよく整えます。盗賊でもコソ泥でもありませんが、穴を開けて前に進みます。日夜離れたものをつなぎ合わせて、美しい文様を作ります。縦によくつなぎ、横によく連ね、下は人民の体を覆い、上は帝王の身を飾ります。その功績ははなはだ多大でありながら、賢良とはみなされません。用いられるときには出てきますが、用いられないときにはしまわれてしまいます。それがしは愚かにして、これが何かを知りません。王よ、どうかお聞かせ願います。」
王が言った、「それは、最初に掘り出されたときは大きいが、その物が完成したときには小さいものであろうか(注8)。その尾は長く、その先端は鋭いものであろうか。頭部は鋭く突き刺して、尾は長くてまとい付くものであろうか。行ったり来たりして、尾を結ぶことによって仕事をなす。羽も翼もないが、きわめて速やかに往来する。尾が垂れたとき仕事は始まり、尾が往来を終えたとき仕事は終わる。釘を父として作られて、針入れを母として収められる。表を縫った後は、裏をまた連ねる。それは、『箴(はり)』の道理というものであろう。」

答え:箴。


(注1)絹布で礼装が作られて、琴瑟のような弦楽器は絹糸を張る。絹は礼楽に不可欠の繊維である。
(注2)楊注は、「蠶食(蚕食)」の語が派生することを挙げる。集解の王引之は、「蠶(蚕。さん)」が「惨」と発音が近いことを言っていると考える。猪飼補注は、「残」と音が近いことを挙げる。いずれの注においても、それらが「暴」を連想させる言葉というわけである。
(注3)蚕が繭をはぎ取られて、絹糸を作ったら殺されることを指す。
(注4)五帝は、堯・舜を含むいにしえの五人の聖王たち。非相篇(4)注3参照。当然、この問いかけも五帝との仮想問答である。
(注5)蚕に雄・雌はある。だから、荀子の時代の知見である。
(注6)楊注は、「繭乱れて糸治まる」と注する。繭のときには糸が乱雑に絡み合っているが絹糸になるとよく揃う、という意味に解しているようである。
(注7)原文読み下し「夏に生じて暑を惡み、溼を喜びて雨を惡む」。楊注、王念孫、久保愛、藤井専英氏と各自解説を加えているが、よくわからない。
(注8)鉄鉱石として掘り出されたときは大きいが、針に加工されたときには小さくなることを指す。中国では鉄鉱石から鉄を作ることが行われたが、日本では砂鉄から鉄を作ることが主流であった。なので、このたとえは日本の伝統的製鉄には当てはまらない。
《読み下し》
此に物有り、㒩㒩(らら)たる(注9)其の狀(じょう)、屢(しばしば)化すること神の如し。功天下に被りて、萬世の文を爲す。禮樂以て成り、貴賤以て分る、老を養い幼を長ずるは、之を待ちて而(しか)る後に存す。名號(めいごう)美ならず、暴と鄰(りん)を爲す。功立ちて身廢し、事成りて家敗る。其の耆老(きろう)を弃(す)て、其の後世を収む。人屬の利する所にして、飛鳥の害する所なり。臣愚にして識らず、請う之を五泰(ごてい)(注10)に占せん。帝之を占して曰く、此れ夫れ身は女好(じょこう)(注11)にして、頭は馬首なる者か。屢(しばしば)化して壽ならざる者か。壯に善にして老に拙なる者か。父母有りて牝牡(ひんぼ)無き者か。冬伏して夏游び、桑を食いて絲を吐き、前に亂れて後に治まる。夏に生じて暑を惡(にく)み、溼(しつ)を喜びて雨を惡む。蛹(よう)以て母と爲し、蛾以て父と爲し、三俯三起(さんふさんき)して、事乃(すなわ)ち大(みな)已(お)わる。夫れ是を之れ蠶理(さんり)と謂う。蠶(さん)(注12)

此に物有り、山阜に生じて、室堂に處(お)り、知無く巧無きも、善く衣裳を治め、盜せず竊(せつ)せざるも、穿窬(せんゆ)して行き、日夜離(り)を合して、以て文章を成す。以(すで)に(注13)能く從(たて)を合わせ、又善く衡(よく)を連ね、下は百姓を覆い、上は帝王を飾る。功業甚だ博くして、賢良とせ見(ら)れず。時用うれば則ち存し、用いざれば則ち亡ぶ。臣愚にして識らず、敢て之を王に請う。王曰く、此れ夫れ始め生ずること鉅(きょ)に、其の成功するや小なる者か。其の尾を長くして其の剽(ひょう)(注14)を銳にする者か。頭は銛達(せんたつ)にして、尾は趙繚(ちょうりょう)なる者か(注15)。一往一來し、尾に結んで以て事を爲す。羽無く翼無きも、反覆甚だ極(すみやか)なり(注16)。尾生じて事起り、尾邅(めぐ)りて事已(おわ)る。簪(しん)以て父と爲し、管(かん)(注17)以て母と爲し。旣(すで)に以て表を縫い。又以て裏を連ぬ。夫れ是を之れ箴理(しんり)と謂う。箴(しん)(注18)


(注9)楊注は、「㒩」は「倮」のことと言う。毛羽がないこと。蚕の幼虫には毛がない。
(注10)楊注は、「五泰は五帝なり」と言う。
(注11)楊注は、「女好は柔婉なり」と言う。やわらかい様。
(注12)本篇の賦の末尾に、楊注は言う。「蠶の功は至大なるも、時人基本を知ること鮮(すくな)し。詩に曰く、婦公事無く、其の蠶織を忘る、と。戦国時、此の俗尤も甚だし。故に荀卿感じて之を賦す。」楊注が引用する詩は、『詩経』大雅瞻卬(せんぎょう)にある。楊注は荀子がこの賦を作った意図を、絹布作りを侮る戦国時代の風潮を批判するためであったと解している。
(注13)増注は、「以」と「已」は通用す、と言う。すでに。
(注14)楊注は、「剽」は末なり、と言う。
(注15)楊注は、「趙」は読んで「掉」となし、掉繚は長き貌と言う。
(注16)賦篇(2)注16参照。すみやか。
(注17)「簪」と「管」について、楊注は「簪は形箴に似て大なり」と言い、「管は箴を盛る」と言う。したがって、簪(かんざし)と針を収める針入れのことと解している。しかし新釈の藤井専英氏はこれを取らず、「簪」と「管」を箴の発生源或いは制作過程の状態をいうものであると解し、「簪」は猪飼補注・兪樾の説を取って「鐕(しん)」に通じて釘と解し、「管」は針の目(穴)と解する。つまり、素材の釘を伸ばしてそこに穴を開けて針を作る、と解して、前作の賦の蛹を母とし蛾を父として蚕が生まれる過程と対比させた解釈を試みている。「簪」の解釈は猪飼補注・兪樾説を取りたい。「管」の解釈については、藤井説はややひねり過ぎの感がする。こちらは楊注のままに捉えたい。
(注18)本篇の賦の末尾にも楊注は解説を加え、「末世皆婦功を脩めず。故に辞を箴に託して其の物と為り微なるも用至重なるを明かにし、以て当世を譏(そし)る」と言う。すなわち、いにしえの時代の婦人と違って当世の婦人たちが裁縫仕事をおろそかにしていることを批判した作品、と解している。

本篇に収められた荀子作の賦五篇は、以上である。最後の二篇のテーマについて、楊注は解説を加えている。荀子の時代、人々が絹布作りを侮り、婦人たちが裁縫仕事をおろそかにしていたので、これを戒めるために作られたという。しかしながら、大きな効能を人間に提供しながらも、その身は無残に捨て去られる蚕を憐れんだ賦と取ってもよいのかもしれない。つづく針を描いた賦も、荀子なりのユーモア詩であったのかもしれない。

残る一篇は佹詩(きし)であって、形式を異にする。

賦篇第二十六(4)

天下が治まらないので、一つの佹詩(きし)(注1)を述べよう。
天と地が上下を替え、四季の順番が逆となり、星々が墜落し、朝も夕も真っ暗である。暗愚の小人は昇進し、日月のごとき君子は草莽に隠れる。公正で無私なことを行えば、かえって人は勝手でほしいままな振る舞いをすると誹る。心は公利を愛するのに、なぜか高楼を築いて快適な部屋に住まう贅沢者とそしられる。私的に人を罪することはしないのに、なぜか武具を備えて兵乱の準備をしていると疑われる。道徳を純粋に備えているのに、讒言の口がやかましく起こる。仁の人はちぢこんで困窮し、傲慢で暴虐な者が権勢をほしいままにする。天下は暗くて険悪で、こんなことではおそらく時代の英傑も失われることであろう。螭龍(ちりょう。竜)を蝘蜓(えんてい。とかげ)とみなし、鴟梟(しきょう。ふくろう)(注2)を鳳凰とみなすのが、今の時代なのだ。比干(ひかん)(注3)もまた胸を割かれ、孔子もまた匡(きょう)(注4)で囚われの身となった。彼らの知は明らかに輝いてあったのに、巡り合った時が良くなかった。彼らは礼義を美しく大いに行おうと望んだのに、当の天下は暗黒時代であった。明朗な天は再び戻らず、我が憂いは限りがない。しかし万事は千年の後にまた巡り戻るのが、いにしえの世からの常であった。弟子諸君、学を勉めたまえ。天は、勉める者を忘れないであろう。こんな世では、聖人もまた手をこまねいて見守るしかない。だが、時はほとんど乱の極みに至ろうとしているはずであり、反転はもうすぐのはずなのだ。
「この弟子は愚かであり、おっしゃることがよく分かりません。どうか、反辞(はんじ)(注5)を示していただけるでしょうか?」
ならば、反辞としてこの小歌を示そう。「かの遠き、未来を思う。なんという、出口なき世よ。仁人は、縮んで窮す。暴人は、のさばり栄う。忠臣は、身すら危うし。讒人は、官職を得る」

琁(けい)・玉・瑤(よう)・珠(注6)を、帯びることを知らない。布と錦とを交ぜても、見分けることができない。閭娵(りょしゅ。いにしえの美女)と子奢(ししゃ。有名な美男子である子都のことであるという)とを、仲立ちすることもしない(注7)。醜女と悪父とを、喜んでいる。盲人のことをよく目が見えると言い、聾人のことをよく耳が聞こえると言い、危険なことを安全であると言い、吉事を凶事と言う。ああ上天よ!こんな世の者と、共にいることがどうしてできるだろうか?


(注1)楊注は、「荀卿佹異激切の詩を陳ぶ」と注する。佹は危のことであり、警世の意を持った変体の詩である。
(注2)中国文化では、鴟梟(ふくろう)は子が親を食う鳥と信じられて(事実ではない)、不孝の悪鳥として不吉とされた。梟雄(きょうゆう)という語が悪党を指す語としてあるゆえんである。そこは、ふくろうを女神アテナの眷属として吉鳥とみなす西洋文化とは異なっている。
(注3)比干は、殷の紂王のおじ。紂を諌めて聞かれず胸を割かれて殺された。
(注4)孔子は、遊説旅行中に匡(きょう)という都市を通過しようとしたとき、匡人は彼を陽虎(ようこ)と間違えてこれを捕らえた。陽虎は魯の家臣で一時権勢を誇り、匡人に狼藉を働いたことがあったという。孔子は、陽虎に容貌が似ていた。囚われの孔子は衛国に救援を求めて、ようやく解放された。
(注5)「反辞」について楊注は、「なお楚詞の乱のごとし」と言う。『楚辞』に収録される詞には、本文の後に詞の大意を縮約した乱(らん)という小詞が置かれる。ここから後の小歌が本篇の大意を示した詞、というわけである。なお、梁啓雄は末尾の句が反辞とみなすべきであると言う。下の注13参照。
(注6)琁(けい)は赤玉(せきぎょく)のことで、瑤(よう)は美しい玉のこと。琁・玉・瑤・珠は、いずれも宝石の玉のこと。
(注7)美女と美男子は、当然ながら君主と君子のことを指している。
《読み下し》
天下治らず、請う佹詩(きし)を陳(の)べん。天地位を易(か)え、四時鄉(きょう)を易え、列星殞墜(いんつい)し、旦暮晦盲(かいもう)す。幽晦は登昭し、日月は下藏し、公正無私なるに、反(かえ)って從橫(しょうこう)と見(注8)、志は公利を愛すに、重樓(ちょうろう)・疏堂(そどう)とし、私に人を罪すること無きも、革を憼(そな)え兵を貳(いまし)む(注9)とし、道德純備なるも、讒口(ざんこう)將將たり。仁人は絀約(くつやく)し、敖暴は擅强(せんきょう)す。天下幽險にして、恐らくは世英を失わん。螭龍(ちりょう)を蝘蜓(えんてい)と爲し、鴟梟(しきょう)を鳳凰と爲す。比干は刳(さ)か見(れ)、孔子は匡(きょう)に拘(とら)わる。昭昭乎(しょうしょうこ)として其れ知之れ明かなるも、(楊注に従い改める:)拂乎(ふつこ)として(注10)其れ時の不祥に遇う。郁郁乎(いくいくこ)として(注10)其れ禮義の大いに行われんことを欲するも、闇乎(あんこ)として天下の晦盲なり。皓天(こうてん)復(かえ)らず、憂(うれい)疆(かぎ)り無きなり。千歲必ず反するは、古(いにしえ)の常なり。弟子學を勉めよ、天忘れざるなり。聖人手を共(きょう)するも、時幾(ほと)んど將(しょう)せんとす(注11)。與(われ)の愚なるを以て疑う(注12)、願わくば反辭(はんじ)を聞かん(注13)。其の小歌に曰く、彼の遠方を念(おも)うに、何ぞ其れ塞(そく)(注14)なる、仁人は絀約(くつやく)し、暴人は衍(えん)す、忠臣は危殆にして、讒人は服(ふく)す(注15)
(注16)琁(けい)・玉・瑤(よう)・珠は、佩(お)ぶることを知らざるなり、布と錦とを雜(まじ)うるも、異(わ)くるを知らざるなり。閭娵(りょしゅ)・子奢(ししゃ)は、之を媒すること莫きなり。嫫母(ばいぼ)(注17)・力父(りきふ)(注18)は、是を之れ喜ぶなり。盲を以て明と爲し、聾を以て聰と爲し、危を以て安と爲し、吉を以て凶と爲す。嗚呼(ああ)上天よ、曷(なん)ぞ維(そ)れ其れ同せん。


(注8)原文「反見從橫」。集解の王念孫は、これを「見謂從橫」となすべきと言う。言うは、後人は楊注の「反見謂從橫反覆之志」の意を解せずに本文を改作したのであり、芸文類集聚人部八において「見謂從橫」に作られているのがその傍証であると言う。「見謂從橫」は「從橫と謂わ見(れ)る」と読んで、従横すなわち勝手ほしいままと誹謗される、という意味となる。しかしながら、ここを受身文と取らずに解しても意味としては差支えないので、王説を取らずに原文を尊重したい。
(注9)原文「貳兵」。「貳」は宋本では「二」字に作る。「貳(二)」について楊注は、増益の意と解する。集解の王念孫は「戒」字の誤りとみなす。新釈の藤井専英氏は儒效篇八(9)注13の于省吾説を適用させて、古文では「上(あるいは(下)」字は「二」字と誤りやすいので、ここの「貳(二)」も「上」字の誤りと解して「とうとぶ」と読み下している。王説を取ることにしたい。
(注10)原文では前句に「拂乎」があり、後句に「郁郁乎」がある。楊注は、「此れ蓋し誤のみ」と言う。これに従い、両者を入れ替える。「拂」は楊注に「違」と言う。さからう。「郁郁乎」は論語にも表れる語で、楊注は「文章有る貌」と言う。文様がいきいきと美しい様。
(注11)増注は、「将は行なり」と言う。時代が行き着くところまで行き着こうとしている、という意。
(注12)原文「與愚以疑」。増注は、「與(与)は予なり」と言い、一人称の「予」に取る。新釈の藤井専英氏は梁啓雄『荀子簡釈』が「与」を「同」、「疑」を「定」と解して、「愚に与(くみ)するも以て疑(ぎょう)す」の意に取っている説を挙げる。しかし藤井氏は「与」を経伝釈詞一に従って「謂」の意に解して、「愚以て疑うと与(い)わば」と読み下している。梁啓雄に従うならば、ここは「(末世ゆえに、やむなく)世の愚か者どもに同調するが、心中は正道に固めるのだ」といった訳となるだろうか。藤井氏は、「諸君は、もし自ら愚鈍で理解し難いと言うならば、(この反辞を聞き給え)」と訳している。上の読み下しと訳は、増注説を取る。
(注13)梁啓雄『簡釈』は、この後に下文の「琁・玉・瑤・珠、、」以下の句を挿入するべきと言う。
(注14)「塞」について、集解の盧文弨は、「或は蹇(けん)字の誤」と言う。蹇は、困難なこと。猪飼補注は、「塞はまさに騫(けん)となすべし」と言う。騫は、懼れること。いずれも、次の注15に示す「服」字を「般」の誤りとみなす説に沿って、「衍(えん)」「般」と韻を成すために示された解釈である。ここでは、底本から字を変えないでおく。したがって「塞」「服」は韻を成すが「衍」は韻を成さないと解しておく。
(注15)楊注は、「服」は用なり、と言う。登用されること。楊注或説は「服」を「般」に作る、と言い、般楽すなわち楽しむ意に解する説を並行して挙げる。この説も有力である。
(注16)ここから後の文章について。集解の盧文弨は、これが『戦国策』楚策に表れる、荀子が春申君に遺(おく)った賦と一致することを指摘する。『戦国策』に表れる荀子と春申君とのエピソードは、また漢代の先行する逸話集である『韓詩外伝』からの引用である。しかし王先謙は、このエピソードが事実であったことを疑う。劉向校讎叙録の本文およびコメントを参照。
(注17)楊注は、「嫫母は醜女、黄帝時の人」と言う。いにしえの黄帝時代の醜女のことという。
(注18)宋本は「刁父(ちょうふ)」に作る。増注は、「刁父は醜男」と言う。嫫母と対の醜男なのであろうか。「刁」字はわるがしこいという意味があるので、一般名詞と考えるならば、刁父は悪賢い男を指すのであろう。

賦篇の最後には、佹詩(きし)すなわち警世の詩が収録されている。末尾の「琁(けい)・玉・瑤(よう)・珠は、、」以下の数句は単独の賦と解釈することもできるが、新釈の藤井専英氏は『荀子簡釈』の見解を紹介して、簡釈いわくこれらの句は「其の小歌に曰く、、」の前に置かれるべきであって、これらの句が佹詩における「反辞」の内容をなす、という。なお注にも示したが、末尾の数句は劉向『戦国策』楚策にある荀子と春申君とのエピソードにおいて、ほぼ同文が荀子が春申君に贈った自作の賦として掲載されている。その内容の考証については、劉向校讎叙録の本文およびコメントを参照いただきたい。

成相篇第二十五(1)

「お国作りの、労働歌。
およそ世の中のわざわいは、愚かな世間の者どもが、賢良の人を堕(お)とすこと、
君に賢者のなき様は、盲人(めしうど)に付き添いなきに似たるかな、ただ惑うのみ。
「国の基盤の、突き固め。
よっく聞け、愚かなくせに、自分でなんでもやる君主、こりゃ治まらぬ。
賢者もなしに勝つつもり、家臣の諌め聞こうとせぬは、こりゃ滅亡だ。
「家臣の功を、論ずには、
我が身から身を正すべし、賢者を尊び用いるは、我と国とが栄う道。
諌めを拒んで非難を避けて、雷同の愚者を重んじるならば、これこそ滅ぶ道ならん。
「これを、無能の臣と呼ぶ。
国中に私多く、談合して君を惑わし、己の党の利をはかる。
賢人阻んで讒言近づけ、真の忠臣縮こまり、君をないがしろ。
「これを、賢明の臣と呼ぶ。
君臣の義明らかにし、上に主君を尊んで、下に愛民の政をなす。
この臣、まことに用いれば、天下統一まちがいなし、王者となって諸侯従う。
「およそ、君主のわざわいは、
小人栄えて賢能逃げて、国が傾くことである。
愚かの上に愚を重ね、阿呆の上に阿呆重ねて、ついに桀(けつ)となることよ(注1)
「およそ、世の中のわざわいは、
賢者能者がねたまれて、飛廉(ひれん)・悪来(あくらい)栄えることよ。
心根卑しく低いのに、狩場ばかりが大きくて、楼台ばかりが高いこと。
「武王が、怒りの軍を挙げ、
牧野(ぼくや)に兵を進めたら、紂(ちゅう)の率いる兵卒どもは、あっという間に皆降伏。
微子啓(びしけい)紂を見限って、周に降れば武王許して、これに宋国を賜った。
「およそ、末世にあることは、
小人どもが集まることで、比干(ひかん)は胸を割かれて死んで、箕子(きし)は囚われの身に落ちた。
武王は悪人を一掃し、呂尚(ろしょう)が指揮して治めたら、殷人(いんひと)懐いて治まれり。
「およそ、世の中のわざわいは、
賢士を憎むことであり、伍子胥(ごししょ)はために殺された。
百里奚(ひゃくりけい)は虞(ぐ)を去って、穆公(ぼくこう)これを拾ったら、五覇に並んで六卿立てた。
「およそ、世の中の愚劣とは、
大儒を憎むことであり、斥け用いぬことである。
孔子はために留め置かれ(注2)、展禽(てんきん)三たび退けられて、春申君(しゅんしんくん)は殺されて、国の基盤も消え失せた。
「国の基盤の、置きどころ、
それは賢者を慕うこと。堯(ぎょう)の教えは万世不滅も、世に小人の種は尽きまじ。
奴らが傾け、ひっくり返せば、堯の道すら疑わす。
「国の基盤を、固める道は、
賢者と無能を見分けなさい。文王・武王の取った道は、伏戲(ふくぎ)の昔からみな一つ。
取れば治まり、捨てれば乱る、なんぞ疑うことあらん。」


(注1)以下、歌中の登場人物について。桀は夏王朝最後の君主で、暴君であったと伝えられる。飛廉・悪来は親子で、紂の寵臣。紂は殷王朝最後の君主で、暴君であったと伝えられる。武王は周王朝の開祖とみなされる文王の子で、紂を牧野で討ってこれを殺し、殷を滅ぼした。微子啓は紂の庶兄で、紂から逃げて武王に降り宋国に封じられた。比干は紂のおじで、紂を諌めて聞かれず胸を割かれて殺された。箕子は紂のおじで、紂の猜疑を受けて幽閉された。呂尚は太公望のことで、文王・武王に仕えて周王朝建設に貢献し、斉国に封じられた。伍子胥は春秋時代の呉国の家臣で、呉王夫差の嫌疑を受けて自害した。百里奚はもと虞国の家臣であったが献言を容れられずに去り、秦の穆公に才を見出されてこれに仕えた。穆公は春秋時代の秦国の君主で、晋国を破って名声を挙げ、周王から西方の蛮族の支配者として認められた。ただし荀子は秦の穆公を春秋の五覇に数えていない(春秋五覇の荀子説は、議兵篇(2)を参照)。展禽は春秋時代の魯国の家臣で、孔子・孟子は柳下恵(りゅうかけい)の称号で呼ぶ。柳下恵は孔子・孟子に高く評価された。春申君は戦国時代末期の楚の王族で、戦国四君子の一に数えられて権勢を誇ったが、暗殺された。荀子は斉国を追われた後、春申君に庇護されて楚国に居住した(荀子年表を参照)。堯は五帝の一に数えられる、伝説の聖王。伏戲はその五帝よりも前に在位したと伝えられる、伝説上の三皇の一人。
(注2)原文読み下し「孔子も拘われ」。孔子が遊説旅行中に陳・蔡の間で抑留されたことを言う。
《読み下し》
請う相(そう)を成さん(注3)、世の殃(わざわい)は、愚闇愚闇の賢良を墜(おとし)むるによる、人主賢無ければ、瞽(こ)の相(そう)(注4)無きが如く、何ぞ倀倀(ちょうちょう)たる。
請う基(き)を布(し)かん、愼んで人(これ)を聖(き)け(注5)、愚にして自ら專らにすれば事治らず、主忌みて苟(いやしく)も勝たんとすれば、羣臣(ぐんしん)諫むること莫く、必ず災(し)(注6)に逢わん。
臣の過を論ぜんには、其の施に反(かえ)れ、主を尊くし國を安んぜんには賢義を尚(とうと)べ、諫を拒み非を飾り、愚にして同を上(とうと)べば、國必ず禍あり。
曷(なに)をか罷(ひ)と謂う、國に私多く、比周して主を還(まど)わし(注7)黨與(とうよ)を施す、賢を遠ざけ讒(ざん)を近づけ、忠臣蔽塞(へいそく)すれば、主の埶(せい)移る。
曷をか賢と謂う、君臣を明(あきら)かにし、上は能く主を尊び(久保愛に従い改める:)下は民を愛するなり(注8)、主誠に之に聽けば、天下一と爲りて海內賓(ひん)す(注9)
主の孽(わざわい)は、讒人(ざんじん)達し、賢能遁逃(とんとう)し國乃ち蹙(つまづ)く(注10)、愚以て愚を重ね、闇以て闇を重ね、成(つい)に(注11)桀(けつ)と爲るなり。
世の災は、賢能を妬み、飛廉(ひれん)政を知り惡來(あくらい)に任じ、其の志意を卑しくし、其の園囿(えんゆう)を大にし、其の臺(だい)を高くするなり。
武王怒りて、牧野に師すれば、紂(ちゅう)の卒鄉(むか)うところを易(か)えて啓(けい)乃ち下る、武王之を善しとして、之を宋に封じて其の祖を立てたり。
世の衰うるは、讒人(ざんじん)歸すればなり、比干(ひかん)は刳(さ)か見(れ)箕子(きし)は累せらる、武王之を誅し、呂尚(ろしょう)招麾(しょうき)して(注12)殷民懷(なつ)きぬ。
世の禍は、賢士を惡(にく)めばなり、子胥(ししょ)は殺さ見(れ)百里(ひゃくり)は徙(うつ)る、穆公(ぼくこう)之を得て、强きこと五伯(ごは)に配(あた)り、六卿(ろくけい)(注13)を施(もう)けり。
世の愚は、大儒を惡み、逆斥(げきせき)して通ぜしめず孔子も拘(とら)われ、展禽(てんきん)三たび絀(しりぞ)けられ、春申(しゅんしん)道綴(や)みて、基畢(ことごとく)輸(こぼ)たる。
請う基を牧(おさ)めん、賢者を思え、堯は萬世に在るも之を見るが如きも、讒人は極まり罔(な)く(注14)、險陂(けんひ)(注15)・傾側して、此を之れ疑う。
基必ず施(もう)けんには、賢・罷を辨(べん)ぜよ、文・武の道伏戲(ふくぎ)に同じ、之に由る者は治り、由らざる者は亂る、何ぞ疑うことを爲さん。

《原文》
請成相、世之殃、愚闇愚闇墮賢良、人主無賢、如瞽無相、何倀倀。
請布基、愼聖人、愚而自專事不治、主忌苟勝、羣臣莫諫、必逢災。
論臣過、反其施、尊主安國尚賢義、拒諫飾非、愚而上同、國必禍。
曷謂罷、國多私、比周還主黨與施、遠賢近讒、忠臣蔽塞、主埶移。
曷謂賢、明君臣、上能尊主愛下民、主誠聽之、天下爲一、海內賓。
主之孽、讒人達、賢能遁逃國乃蹙、愚以重愚、闇以重闇、成爲桀。
世之災、妬賢能、飛廉知政任惡來、卑其志意、大其園囿、高其臺。
武王怒、師牧野、紂卒易鄉啓乃下、武王善之、封之於宋、立其祖。
世之衰、讒人歸、比干見刳箕子累、武王誅之、呂尚招麾、殷民懷。
世之禍、惡賢士、子胥見殺百里徙、穆公得之、强配五伯、六卿施。
世之愚、惡大儒、逆斥不通孔子拘、展禽三絀、春申道綴、基畢輸。
請牧基、賢者思、堯在萬世如見之、讒人罔極、險陂傾側、此之疑。
基必施、辨賢罷、文武之道同伏戲、由之者治、不由者亂、何疑爲。


(注3)「相」字の解釈については、集解の兪樾がこれを両義とみなしている指摘が、最も適切であると思われる。すなわち礼記鄭注において「相は杵を送るの声を謂う」とあり、すなわち杵で臼を舂(つ)く時に歌う一種の労働歌である。これが一つ目の「相」の意味。他方の意味は王引之が指摘する、「相は治むるなり」の意である。「相を成す」とは、労働歌の相を歌う意味と、君主を補佐して治世をもたらす道を説く意味の、両義を含んでいるはずである。
(注4)こちらの「相」は、盲人の付き添い役の意味である。「相」字は一般的に補佐人の意味を持ち、フレーズ冒頭に置かれた歌謡の意味の「相」とひっかけて技巧を行っている。
(注5)集解の兪樾は楊注・郝懿行の説を斥けて、「聖人」は「聴之」に作るべし、と言う。その理由として、「人」字のままでは韻として成立せず、「聖」字は「聴」字と音が近いためにまず「聴」字が誤って「聖」字に作られ、後人が意味を付会するために「聖人」に改めたのではないか、と注する。これに従い、「聖人」を「之を聴く」の意味に取ることにする。
(注6)新釈の藤井専英氏は、「災」は「菑(し)」に通じる、と注する。これに従う。菑は枯れ木のことで、転じて災禍のこと。「災(し)」と読んで韻を揃える。
(注7)集解の王念孫は、「還」は読んで「営」ととなす、と言う。君道篇(5)注8と同じ。
(注8)原文「愛下民」。増注の久保愛は、「愛下はまさに地を易(か)うべし」と言う。これに従い、「下愛民」に替えて読み下す。
(注9)増注は、「賓は賓服なり」と言う。服従すること。
(注10)楊注は、「蹙は顚覆なり」と言う。つまづくこと。
(注11)新釈は、楊注が「遂に桀に至るなり」と注していることを引いて、「成」を「ついに」と読み下す。これに従う。
(注12)楊注は、「招麾は指揮なり」と言う。
(注13)楊注は、「六卿は天子の制なるも、春秋の時、大国また六卿を僭置す」と言う。
(注14)原文「讒人罔極」。二通りの解釈が可能で、「讒人罔極」を単独で解釈すれば、讒言する小人が尽きずに現れる、という意味に取れる。つづく「險陂傾側」とつなげて解釈すれば、讒言する小人が正道をゆがめてひっくり返す行為を尽きずに行う、という意味にとれる。上の訳では、前者に取った。
(注15)増注は、「不平を險(険)と曰い、不正を陂と曰う」と注する。

成相篇は相(そう)という形式の歌謡に則って、完全に同一リズムを反復して末尾に押韻を施した美文である。成相篇には五作の歌が収録されている。

兪樾ほかの学者たちの言うところをまとめれば、「相」は両義を含み、一つは杵で臼をつくときの歌である。もう一つは、治世の道である。つまりここに収録された荀子作の相は、労働歌の形式を取りながら治世の道を説いた教訓歌でもある。相は杵で臼をつく労働歌ということだから、農民の脱穀作業の際に歌われるのが本来の意味であろう。だが古代の農民が杵を用いる労働は、米麦作りのときだけではなかった。古代中国の城壁は、並べて立てた二枚の板の間に土を入れて、杵で突き固める工法であった。これを版築(はんちく)と称し、少しずつ積み上げていけば高く堅固な城壁を作ることもできて、版築による城壁作りは諸侯が人民を動員して行わせる重要な役務の一つであった。きっとこの城壁作りの際にも、農民たちは相を歌っていたのではないだろうか。相は農村生活のための労働歌であるとともに、国防のための城壁作りに歌われるべき労働歌でもあったのではないか。ならば、荀子作の歌の内容が国力強化の策を説いていることも、自然であろう。

古代の漢文が押韻を施した形式で書かれることは珍しくなく、『論語』所収の文にも例が見られ、『老子』はより完成された押韻つきの美文であり、『韓非子』にも押韻された文章が見られる。現代日本人の常識に照らし合わせるならば、真面目な思想を節を付けて歌にするなどふざけているのか、と憤慨するか、あるいは歌で固い思想を表現するなど無粋でダサすぎる、と鼻白むことであろう。だがかつては日本人もまた仏教思想を念仏のリズムを通じて体感することをよしとしたのであり、近代に入っては自由民権思想をオッペケペー節などの俗歌の形式によって普及させようとしたものだ。歌謡によって思想を普及させる運動は、古今東西において珍しいものではない。荀子もまた、自作の相が人民の労役で歌われてヒットソングとなれば自説の普及に役立つと、ひそかに期待していたのかもしれない。

面白いことに、劉向『荀卿新書』では、この成相篇は前半の第八篇に置かれていた。漢代の劉向は、この成相篇を冒頭の勧学篇に始まる修身論を受けて、儒效篇以下に続く荀子の巨大な統治論につなぐ間奏曲的な一篇として位置づけていたのかもしれない。それが唐代の楊倞の再編集においては後尾の第二十五篇に移し変えられて、雑篇的な位置づけが与えられた。思想書に対する認識が、漢代と唐代とでは変化したようである。漢代では思想書と芸術作品との区別があいまいで詩歌形式でも思想書として位置づけられる余地があったが、唐代に下れば芸術的文学が確立して思想書は文学とは別世界の散文的作品でなければならない、という認識が普及するようになったと推測される。

原文が歌謡のための美文であることを示すために、あえて原文も掲載した。文章の内容は、他篇で主張されていることと何ら違わない。忠実に訳してしまうと原文の音韻とリズムが失われて、まことに退屈な説教となってしまう。なので、なるたけリズムを与えて意訳し、原文に深くこだわらずに行った。

成相篇第二十五(2)

「お国づくりの、労働歌。
正しき道をいざ言わん、見習うべきは後王(注1)の、治世の極みにあると知れ。
慎(しん)・墨(ぼく)・季(き)・恵(けい)(注2)の吹聴す、百家の邪説に従えば、不祥事滅亡待ったなし。
「これが、心を修む術。
心をいつでも一にせよ、さすれば吉となるだろう。
君子はこれを成すものの、衆人はこれを信じずに、讒夫はこれを捨て去って、刑術にのみ頼るなり。
「水が、鏡のようならば、
波立つことがないように、心もかくのごとくなら、これ聖人と言うべきか。
己を厳しく自制して、人は優しく教化して、天をも御することだろう。
「この世に、王者がいなければ、
賢良の者が窮乏し、暴人あちらで美食して、仁人こなたで糟糠(ぬか)を食う。
礼楽ついに滅び去り、聖人はどこにも見つからず、墨術ばかりが横行す。
「治世の要は、礼と刑。
君子がこれを修めれば、民の暮らしは寧んじる。
徳ある者を顕彰し、罰は慎重に行えば、国家四海は泰平だ。
「政治をするの、心がけ。
富と権勢は置いておけ。ただ心中を誠にし、政務にひたすら励むべし。
着実精励に仕事して、心に深く思慮をして、遠きことまで熟慮せよ。
「思慮を精しく、するならば、
心の中は安定す。好んで心を一にせば、完全な知を得るだろう。
精しく全き知を持って、心を揺るがさないならば、もはや聖人となるだろう。
「心と現世を、治む道、
それは美しきものにして、常に新たなものである。
君子はこれに拠り好み、下人民を教誨し、上は祖先に仕うなり。
「さあさあこれをもちまして、歌は終わりでございます。
言いたいことは言いました。君子諸君はこれに拠れ、さすれば道は開かれよう。
賢良の人を尊んで、わざわいもたらす小人と、見分ける道はこれにあり。」


(注1)「後王」は「先王」の対義語。その指す意味については、非相篇(3)のコメント参照。
(注2)「慎」は慎到(しんとう)、「墨」は墨翟(ぼくてき)、「恵」は恵施(けいし)。これら諸子百家については、非十二子篇(1)などを参照。「季」については決定的な説がない。下の注4参照。
《読み下し》
凡(こ)う(注3)相を成して、法方を辨(べん)ぜん、至治の極は後王に復す、愼(しん)・墨(ぼく)・季(き)(注4)・惠(けい)、百家の說は、誠に不詳(ふしょう)(注5)なり。
治は一に復す、之を脩むるは吉なり、君子之を執(と)りて心結ぶが如し、衆人は之を貳(うたが)い、讒夫(ざんぷ)は之を弃(す)て、形(けい)(注6)を是れ詰(おさ)む(注7)
水至平なれば、端として傾かず、心術此(かく)の如くなれば聖人に象(に)たり、(郝懿行に従い補う:)人にして(注8)埶(せい)有り、直にして抴(えい)(注9)を用うれば、必ず天に參(さん)せん。
世に王無ければ、賢良を窮せしめ、暴人は芻豢(すうけん)にして仁[人](じん)は(注10)糟糠(そうこう)にす、禮樂滅息して、聖人隱伏し、墨術行わる。
治の經は、禮と刑なり、君子以て脩め百姓寧(やす)んず、德を明(あきら)かにし罰を愼めば、國家既に治まり、四海平(たいら)かなり。
治の志(こころ)は、埶富(せいふう)を後にす、君子之を誠にし好んで以て待つ、之に處(しょ)すること敦固(とんこ)にして、有(また)深く之を藏し、能く遠く思うなり。
思(おもい)乃ち精なれば、志(こころ)之れ榮(えい)なり、好んで之を壹(いつ)にすれば神(しん)にして以て成る、精・神相(あい)反(およ)び(注11)、一にして二ならざれば、聖人と爲る。
治の道は、美にして老いず、君子之に由りて佼(こう)にして以て好、下は以て子弟を敎誨し、上は以て祖考に事(つか)う。
相を成すこと竭(つ)き、辭(じ)蹙(つまづ)かず、君子之に道(よ)れば順にして以て達し、其の賢良を宗として、其の殃孽(おうげつ)を辨ぜん(注12)

《原文》
凡成相、辨法方、至治之極復後王、愼墨季惠、百家之說、誠不詳。
治復一、脩之吉、君子執之心如結、衆人貳之、讒夫弃之、形是詰。
水至平、端不傾、心術如此象聖人、而有埶、直而用抴、必參天。
世無王、窮賢良、暴人芻豢仁[人]糟糠、禮樂息滅、聖人隱伏、墨術行。
治之經、禮與刑、君子以脩百姓寧、明德慎罰、國家既治、四海平。
治之志、後埶富、君子誠之好以待、處之敦固、有深藏之、能遠思。
思乃精、志之榮、好而壹之神以成、精神相反、一而不二、爲聖人。
治之道、美不老、君子由之佼以好、下以敎誨子弟、上以事祖考。
成相竭、辭不蹙、君子道之順以達、宗其賢良、辨其殃孽。

※下線は原文にない字を補い、[]内は原文にある字を削る。


(注3)原文通りに読み下せば、「凡そ相を成して」となるであろう。漢文大系・金谷治氏・および新釈の藤井専英氏は、いずれも藤原栗所の「凡は請の字の誤」の説に賛同して改める。すなわちここも「請成相」の起句に始まる荀子の相の通例に従うとみなすのである。これらに従っておく。
(注4)「季」とは、諸子百家の誰を指すのであろうか?荘子(楊注本説)、楊朱の友人である季梁(楊注或説)、季は「李」の誤りで老子のこと(猪飼補注、老子の姓は李姓である)、季は「宋」の誤りで宋鈃のこと(藤井専英氏)。諸説分かれており、明らかに決定し難い。
(注5)集解の王念孫は、「祥」「詳」は古字通ず、と言う。
(注6)楊注或説は、「形」はまさに「刑」となすべしと言う。これを取る。なお新釈は「形」を(人間の)外形の意味に解釈している。
(注7)集解の郝懿行は、「詰」は「治」なりと言う。
(注8)原文「而有埶」。四字の形式にするためには一字が脱していると見なさなければならない。集解の郝懿行は、「而」の前に「人」字が脱していると解釈する。直前の「聖人」と字が重複するために一字脱落したという解釈である。これに従って補う。
(注9)この箇所は、非相篇(5)の「人に接するには則ち抴を以てす。己を度るに繩を以てす」を参照するべきである。そこでの王念孫説と同じく、「抴」を「枻」とみなして弓を矯正する道具の意に解釈する。
(注10)原文「暴人芻豢仁人糟糠」。一字余分であり、集解の王引之は下の「人」字は衍と言う。これに従い削る。
(注11)集解の王引之は、「反はまさに及たるべし、字の誤なり」と言う。これに従う。
(注12)荻生徂徠、集解の顧千里は、ともに末尾に三字が脱落していることを指摘する。復元は不可能なので、これを欠いたままで読むしかない。

上の第二歌は、第一歌の続きとしてみなす版もある。漢文大系および新釈漢文体系はこれを別の章に分けている。上の訳の末尾は歌全体の締めの言葉となっているので、第一歌と第二歌が続きであるという解釈でも通るだろう。