正論篇第十八(5)

By | 2015年5月14日
世俗の説をなす者は、「堯帝は舜帝に禅譲した」と言う。だがこれは、まちがっている。そもそも天子というものは、その勢位は尊いことこのうえもなく、天下に敵はいない。なのに、いったいその最高の勢位を誰に譲ることができるだろうか。天子の道徳は完全に備わっていて、その智恵はきわめて明らかであり、南面して天下の訴えを聞き、人民のたぐいは震え畏れて服従し、教化され従順とならない者とていない。天下には、隠れた士も残された善人もいなくなるほど残らず登用される。天子に同調するものは正しいが、天子と意見を異にするものは不正である。それほどまでの完全無欠の君主が、なんで譲位する必要があるだろうか?

説をなす者は、「死後に天下を譲渡したのだ」と言う。だがこれも、まちがっている。聖王が上に立てば、臣下の徳を考査してこれの位階序列を定め、臣下の能力を考量してこれの官職を与え、全ての人民にそれぞれの仕事を割り振って各自が相応の地位を得るように仕向け、義によって利を制することができない劣った者も、学習によって利己的な本性を矯正することができない劣った者も(注1)、ひっくるめて己の人民として君臨するのである。その聖王が死没して、残された天下に聖人がいなければ、(天下は分裂するのみであって、)もとより天下を譲渡することなどできはしない。だが残された天下に先君の子で聖人の資質を持った者がいるならば、朝廷は百官の位を替えることもなく、国家は制度を改めることもなく、天下はなにごともなかったかのように安心して以前と異なったことは何もなく次代の聖王に引き継がれることであろう(注2)。いわば堯帝の後に堯帝が継承するのであるから、何の変化も起こるはずがない。しかし残された天下に先君の子で聖人の資質を持った者がおらず、三公(さんこう)(注3)に聖人の資質を持った者がいれば、天下がここに赴いて帰することは、いわば聖王の死後の混乱から復帰して再度奮起するようなものである。やはり天下はなにごともなかったかのように安心して、次代の聖王に引き継がれることであろう。これもまた堯帝の後に堯帝が継承するようなものであるから、何の変化も起こるはずがない。ただ、朝廷の人事が交替して国家の制度が変わるので、多少の困難はあるだろう。ゆえに、天子が存命中は天下の礼義は斉一となり、国内は従順を極めてよく治まり、臣下の徳を論考して位階を定めるまでである。だがこれが死去すれば、天下の君主に任ずるに足る者が、必然的に後を継ぐのである。ここに礼義の本分は尽きているのであって、なんで禅譲という行為が必要であろうか?(民心が帰趨するところが、後継の君主となるのである。)

説をなす者は、「老衰したから天下を譲渡したのだ」とも言う。だがこれも、まちがっている。血気や筋力は、確かに衰えるかもしれない。しかしながら知慮や分別は決して衰えることはない。また、「老いた君主は、その任務の労苦に耐えられないので休むことを望むのだ」とも言う。しかしこれは、仕事をなすことを恐れ厭う者の議論である。天子というものは、その権勢は最も重く、その肉体は最も安楽で、その心は最も楽しく、その意志は決して曲げられることはなく、その肉体は労苦をなさず、尊いことこの上もない存在である。服装は五采(ごさい。赤青黄白黒)の彩りにその間色を交えた装束を着け、これに刺繍して文様を重ね、珠玉を飾り加える。飲食は大牢(たいろう。牛・羊・豚の肉)を重ね食して珍味を備え、料理の味と香りはこのうえもなく、楽隊の演奏付きで膳を勧めて皋(おおつづみ)を打って食事し、雍(よう)の音楽とともに膳をかまどに下げ、膳を運ぶ係は百人が西房(せいぼう。回廊の西)に待機するのである。君主の御座所には帳(とばり)を下ろして屏風を立て、衝立(ついたて)を背にして座り、諸侯は君主のいます堂の下で小走りに走って君命を受ける(注4)。宮中の内門を出れば巫覡(ふげき。祈り男と祈り女)が健康を祈り、都門を出るときには大宗伯(たいそうはく)と大祝(たいしゅく)が道中の祝賀を祈り、大路(たいろ。天子の乗車)に乗って越席(かつせき。蒲のむしろ)を敷いて安楽に過ごし、横には睪(たく)と芷(し。いずれも香草)を置いて鼻を安らげ、前には錯衡(さくこう。乗車の手すりのことと思われる)があって目を安らげ、和鸞(からん。車に付いた鈴)の音が鳴り、徐行するときは武象(ぶしょう。武も象も、古楽の曲名)の調子に合わせ、快走するときには韶護(しょうかく。韶も護も、古楽の曲名)の調子に合わせ、これらの音声で耳を安らげる。三公は天子の車の軶(やく。くびき)と納(どう。うちたずな)を捧げ持ち、諸侯のある者は車輪を護衛し、またある者は車の両側をはさんで護衛し、大侯(たいこう)が列に加わり、大夫(たいふ)がその後に続き、小侯(しょうこう)・元士(げんし)がこれに続き、庶士は武装して天子の車が通る道の両側を守り、庶民は天子を畏れて身を隠し、あえてこれを見る者はいない。このように天子は居るときには神妙そのものであり、動くときは天帝のように豪勢である。老いた体を保持して衰えを養うのに、これ以上よいものはあるだろうか?君主は、老いたから休むのではない。もちろん休むことはするが、このように安楽で快適に休むのだ。ゆえに、「諸侯は老衰するが、天子は老衰しない。国を譲ることはあるが、天下を譲ることはない。それは、古今通用の法則である」と言うのである。あの「堯舜は禅譲した」という説は、虚言にすぎない。これは浅薄な者の伝聞にすぎず、固陋な者の説にすぎない。このような説を言う者は、順逆の理を知らず、小大の差を知らず、至高のものと至高にあらざるものの差を知らない者であって、天下の大理に及ぶ者からは程遠いのである。


(注1)原文読み下し「僞(い)を以て性を飾ること能わざれば」。性悪篇における性悪説を下敷きにしている。人間の本性は利己的であり、偽(い)によって本性を矯正しなければ善人とはなれない。
(注2)いうまでもなく、禹→啓の継承を想定している。孟子萬章章句上、六参照。
(注3)三公は周代の官職で、太師(たいし)・太傅(たいふ)・太保(たいほ)のこと。あわせて師傅(しふ)と言う。楊注は、「三公は宰相なり」と言う。要は天子の最側近にして、臣下の最高位の者。
(注4)原文「趨走」。古代宮廷の礼において、家臣は君主の前では小走りで動かなければならない。屈従の演出である。
《原文・読み下し》
世俗の說を爲す者曰く、堯・舜は擅讓(ぜんじょう)すと。是れ然らず。天子なる者は、埶位(せいい)至尊にして、天下に敵無し、夫れ有(また)誰と與(とも)に讓らん。道德は純備し、智惠は甚だ明かに、南面して天下を聽き、生民の屬、震動・從服して以て之に化順せざること莫く、天下に隱士無く遺善無く、焉(これ)に同する者は是(ぜ)にして、焉に異なる者は非なり、夫れ有(また)惡(いずく)んぞ天下を擅(ゆず)らん。曰く、死して之を擅ると。是れ又然らず。聖王上に在れば、德を圖(はか)りて次を定め、能を量りて官を授く、皆民をして其の事を載(おこな)いて(注5)各(おのおの)其の宜しきを得しめ、義を以て利を制すること能わず、僞(い)を以て性を飾ること能わざれば、則ち兼ねて以て民と爲す。聖王已に沒し、天下聖無ければ、則ち固(もと)より以て天下を擅るに足ること莫し。天下に聖にして(集解・兪樾に従い補填)後子(こうし)(注6)に在る者有らば、則ち天下離れず、朝は位を易えず、國は制を更(あらため)ず、天下厭然(えんぜん)(注7)として、鄉(さき)と以て異なること無きなり。堯を以て堯に繼ぐ、夫れ又何の變ずることか之れ有らん。聖、後子に在らずして三公に在れば、則ち天下如(ゆ)き(注8)歸すること、猶お復(ふく)して之を振うがごとし。天下厭然(えんぜん)(注7)として、鄉(さき)と以て異なること無きなり。堯を以て堯にぐ、夫れ又何の變ずることか之れ有らん。唯(ただ)其れ朝を徙(うつ)し制を改むるを難しと爲すのみ。故に天子生ずれば則ち天下隆を一にし、順を致して治め、德を論じて次を定め、死すれば則ち能く天下に任ずる者必ず之を有す。夫の禮義の分盡(つく)せり、擅讓惡(いずく)んぞ用いんや。曰く、老衰して擅ると。是れ又然らず。血氣・筋力は則ち衰うること有り、夫の智慮・取舍(しゅしゃ)の若きは則ち衰うること無し。曰く、老者は其の勞に堪えずして休す、と。是れ又事を畏る者の議なり。天子なる者は埶(せい)は至重にして形は至佚(しいつ)、心は至愉(しゆ)にして志は詘(くつ)する所無し、形は勞を爲さず、尊は無上なり。衣被(いひ)は則ち五采を服して、間色を雜(まじ)え、文繡を重ね、之に加飾するに珠玉を以てす。食飲は則ち大牢(たいろう)を重ねて珍怪を備え、臭味を期(きわ)め(注9)、曼(まん)して(注10)饋(き)し、睪(こう)を代(う)ちて(注11)食し、五祀(ごし)に雍(よう)して徹(てつ)す、薦(せん)を執る者は百餘人、西房(せいぼう)に侍す。居れば則ち張容(ちょうよう)(注12)を設け、依(い)(注13)を負いて坐り、諸侯は堂下に趨走(すうそう)す。戶を出でて巫覡(ふげき)事有り、門を出でて宗祀(そうしゅく)(注14)事有り、大路に乘じ[趨](注15)越席(かつせき)して以て安を養う、側に睪芷(たくし)を載(いだ)きて以て鼻を養う、前に錯衡(さくこう)有りて以て目を養う、和鸞(からん)の聲ありて、步(ほ)は武象(ぶしょう)に中(あた)り、騶(すう)(注16)は韶護(しょうかく)に中りて以て耳を養う、三公は軶(やく)を奉じて納(どう)を持し、諸侯は輪を持し、輿(よ)を挾み、馬を先(みちび)き、大侯は後に編し、大夫は之に次ぎ、小侯・元士は之に次ぐ。庶士は介して道を夾(はさ)み、庶人は隱竄(いんざん)して、敢て望視すること莫し。居は大神の如く、動は天帝の如し。老を持し衰(すい)を養うこと、猶お是より善き者有りや。老なる者は休すとするに不(あら)ざるなり(注17)。休するも猶お安樂・恬愉(てんゆ)是(かく)の如くなる者有らんや。故に曰く、諸侯は老有れども、天子は老無し、國を擅ること有れども、天下を擅ること無きは、古今一なり、と。夫の堯・舜は擅讓すと曰うは、是れ虛言なり。是れ淺者の傳(でん)、陋者(ろうじゃ)の說なり。逆順の理、小大・至不至(しふし)の變を知らざる者なり、未だ與(とも)に天下の大理に及ぶ可からざる者なり。


(注5)増注は、「載」はなお「行」のごとし、と言う。
(注6)原文「天下有聖而在後者」。このまま読めば、「天下聖にして後に在る者有らば」となる。集解の兪樾は、後ろの三公のくだりと同じく「後」の下に「子」字があるべし、と言う。兪樾に従って「子」字を補っておく。
(注7)猪飼補注は「如」は「往」なり、と言う。
(注8)楊注は「厭然」を順服の貌と言う。この場合は「ゆうぜん」と読む。新釈の藤井専英氏は儒效篇に合わせてこれを「えんぜん」と読み、平静安楽の貌と見る。藤井説を取る。
(注9)楊注は、「期」は「綦」たるべし、と言う。きわめる。
(注10)増注は、「曼」は「縵」と読むべし、と言う。縵楽は雑声の楽を和すもの、つまりさまざまな楽器がアンサンブルを奏でること。
(注11)原文「代睪」。集解の劉台拱は、「代睪」は「伐皋」たるべしと言う。「皋」は古字で「鼛」と通じる。「おおつづみをたたく」。
(注12)増注は「張」は「帳」に通ず、と言い、楊注の郭璞説は「容」は牀頭の小曲屏風と言う。幔幕と屏風。
(注13)楊注は「依」は「扆」と同じ、と言う。戸や窓の間に立てる衝立(ついたて)。
(注14)楊注は、「祀」は「祝」たるべし、と言う。「宗祝」で大宗伯と大祝、祭礼を行い、福祥を祈る官。
(注15)漢文大系は増注本に従って「趨」字を削る。新釈の藤井専英氏は「越席」の上に用言が欲しいが、「趨」の意が考え付かないので一応衍字として解釈する、と言う。
(注16)楊注は、「騶」は「趨」たるべし、と言う。
(注17)前の文の終わりから原文を書くと、「猶有善於是者與、不老者休也」。読み方には諸説ある。(1)楊注の或説、増注、集解の王念孫は、「不」を衍字とする。金谷治氏はこれに従っている。《これ以上よいものはあるだろうか?老人もまた休息するのであるが、、》(2)集解の郝懿行は、「不老」は「不衰老」である、と言う。《これ以上よいものはあるだろうか?聖人は決して老衰しない。それでも休息するのであるが、、》(3)集解の兪樾は「不」字は「否」の誤りであり、前の文に続けるべしと言う。それならば「不」を「與」の上に出して「者不與、不老者、、、」となるであろう。漢文体系はこれに従っている。《これ以上よいものはあるか否か?老人もまた休息するのであるが、、》(4)新釈の藤井専英氏は、「不」は「非」であると解する。藤井説がもっとも明快であるので、訳はこれに従う。

ついで、堯舜禅譲説への荀子の反論である。伝えられるところによると、堯帝は後継者を探していたところ舜を庶民から見出した。堯帝はその徳を試すために、まずこれに自らの二人の娘と九人の皇子を仕えさせた。舜はこれらをよく感化することができたので、堯帝は登用して二十八年間摂政をさせた。二十八年の後に、堯帝は崩御した。三年の喪の後に人民は堯帝の皇子の丹朱(たんしゅ)を慕わず、舜を帝位に推戴した。舜はこれを受け、帝位に即位したという。この一連のストーリーは、『孟子』萬章章句において詳細に述べられている。孟子は舜帝が後を継いだのは堯帝が崩御した後に人民が堯帝の息子を選ばず舜帝を選んだからだと言い、天子は後継者を天に推薦することはできるが自ら天下を譲渡することはできず、天の意志は人民が選択する意志に反映されるのだ、と言う(正論篇(2)の引用を参照)。孟子は同様の論理をもって禹(う)の死後に息子の啓(けい)が人民の支持を得て即位したことを挙げて、聖王の後を家臣が継ぐか子孫が継ぐかは人民の支持によって分かれるだけであり、両者の優劣はない、と説明した。

ここでの荀子の説明は孟子の説明を受け継いで、それに付け加えて堯帝が老衰したから舜帝に帝位を禅譲した、という説をも却下しようという狙いがある。さきに検討したように、荀子は孟子からさらに進んで、天の意志を抜き取ってしまう。残るのは、人民の意志だけである。天子の地位は国家の最高官職として、その最高責任者の職務にふさわしい人物だけが就くことができる。現代的な用語を用いるならば、天子の地位は即位時に人民の附託を受けて就任しているのであり、これを個人の意志で譲渡することはできない、と荀子は言いたいのである。

そのために、聖人の死後に聖人がいなければ、もはや天下の統一はおしまい、とまで言ってしまうことになった。聖人の子孫が聖人であることは滅多にないはずだから、天下の統一を終わらせないためには他の聖人を生前のうちに三公にまで上せておかなければならない、という結論に達するより他はない。孟子は禹から啓への継承が人民の意志であった、ということを盾にして、ちゃっかり禹→啓から始る夏王朝を肯定してしまった(萬章章句上、六)。孟子は、殷のような王朝は「長い間統治していたならば、いきなり衰えたりはしないものだ」(公孫丑章句上、一)と言って、長期的に続いた王朝はそれまでの積み重ねがあるから多少の危機があっても世襲は続くのだ、と言った。このように孟子は仁義の人が君主であるべきだ、と一方で主張しながらも、世襲王朝に対して妥協的な意見を述べた。しかしながら、荀子は孟子のように聖王でなくても遺風で続く、というようなあいまいな態度を取らない。荀子は、聖人の君主の後は聖人でなければ天下に支持されない、と言い切り、孟子と違って世襲王朝を続ける道を封殺するのである。

ただ、中華世界には聖人を選挙で選ぶ、という制度がない。そのために、後半の荀子の説明は現代の我々が読むとなんともグロテスクかつ滑稽なものとなっている。聖人は至れり尽せりの贅沢な暮らしを許されるのだから、たとえ老衰しても心労することはないから統治力は衰えないのだ、などと言う。こんな言葉は、まるで信用できない。荀子の言うようないわば無菌状態に置かれた君主が、なんで国家の重大事を採決できるだろうか。老衰しても知力や分別が衰えない、という点もまた大いに疑問である。荀子の論で言えば君主の代替わりは死没しかありえないのであるから、耄碌した聖人が上に立っていることの弊害を、どうして想定しないのか。「麒麟も老ゆれば駑馬にも劣る」という格言を、どうして無視するのか。ここで荀子は完全な詭弁に陥っていて、説得力はゼロである。どうして、このような無理な説明をするのだろうか?

荀子は、堯帝・舜帝をモデルケースとして、現行の君主は必ず自らの後継となる聖人を天下から見つけ出して三公の位に上げ、死後に天下を継がせなければならない、と言う理想をここで言おうとしているのだと私は考える。聖人が後に聖人を選び、その聖人がまた聖人を選ぶ、、、を続けるならば、継続して聖人の治世が続いて天下は安泰となるだろう。荀子にとっては、選挙による君主の選任は想定の外であった。よって、君主は聖人が聖人を代々選ぶことによって継続的に法治官僚国家が安定して運営されることを期待していたはずである。荀子の法治官僚国家は、君主の世襲を想定せず、トップが天下の中から次の有能な者を選抜して交替していく、選挙を伴わない首長交替制を理想としていると思われる。これもまた、孟子よりもさらに先鋭化した荀子の民本主義の帰結であった。

だが聖人は衰えるのではないか?という問題はどうするのか。これを技術的にクリアできる制度を作るならば、理念としては統一中華国家は継続して聖人が治めることができるだろう。荀子はおそらく、最高位には君臨すれども統治せず、下の宰相を信認する君主を置き、その宰相は血筋にこだわらず有能な者を抜擢して政治を執らせるシステムを想定していたと思われる。堯帝が舜に二十八年間政治を執らせたように、である。王制篇の官職表では、最高位の君主(官職表では天王)は実質上統治は行わず、近代的用語で言えば「君臨すれども統治せず」のシンボル的君主である。実際の職務は、宰相(官職表では冢宰)以下が行うのである。選挙による首長選定を想定しない限り、荀子としては聖人が聖人を継承して統治するシステムはこのようであったのだろう。最高君主はシンボル的存在で統治は行わず、宰相以下の官僚は礼法に基づいて能率的な統治を行う。荀子は彊国篇で秦国の能率的な官僚制を絶賛していたが、彼の想定していた法治官僚国家はこのようなものであったと私は思うところである。

もっとも、私個人としては、荀子のシステムが古代中国において最も先鋭的な案であったことは認めるが、これを現代の世界において推奨する気はない。それはすでにある法治官僚国家の現実であり、あえて推奨するようなものではないからである。

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