性悪篇第二十三(1)

By | 2015年5月31日
人間の「性」(注1)は悪であり、その善なるものは「偽(い)」(注1)である。人の「性」は、生まれた状態で利を好む性質を持っている。この性質のままに従えば、争奪が起こって謙譲の精神は滅んでしまう。また人の「性」は、生まれた状態で嫉み・憎悪を行う性質を持っている。この性質のままに従えば、他者への攻撃が起こって忠信の精神は滅んでしまう。人の「性」は、生まれた状態で耳目の欲を持ち、美しい音や映像を好む性質を持っている。この性質のままに従えば、淫乱放縦が起こって礼義は滅び、秩序は滅んでしまう。ならば人は「性」のままに従い「情」(注1)のままに従えば、必ず争奪を行うこととなり、分限を犯して秩序を乱し、暴力が世界にはびこることとなるであろう。ゆえに教導してこれを教化し、礼義がこれを導くことによって、はじめて人は謙譲を行い、秩序に自らを合わせて、治世が到来するのである。以上のことを見れば、人の「性」は悪であることは明らかであり、その善なるものは「偽」なのである。

曲がった木は、必ず器具で矯正したり熱を当てたりする作業を行うことによって、はじめて真っ直ぐとなる。なまくらな刀剣は、必ず砥石で研磨する作業を行うことによって、はじめて鋭利となる。人の悪である「性」もまた、教導を待ってはじめて正しくなり、礼義を身につけてはじめて治まるのである。教導がなければ、人間の行動は偏ってしまい正しくならない。礼義がなければ、人間の行動は叛き乱れて治まらない。いにしえの時代にわが文明を築いた聖王たちは、人間の「性」が悪であり、偏って正しくなく、叛き乱れて治まらないことを直視した。それがために彼らは礼義を起こし、法度を制定して、これらによって人間の「情」・「性」を矯正し装飾してこれを正し、人間の「情」・「性」を飼い馴らしてこれを導き、すべてがよく治まり正道に合致するようにしたのであった。現在において、教導によって教化され、文章と学問に励み、礼義に依拠する者は、君子と呼ばれている。いっぽう「性」・「情」をほしいままにし、勝手な行動をするところに開き直り、礼義から外れる者は、小人と呼ばれている。以上のことを見ても、やはり人の「性」は悪であることは明らかであり、その善なるものは「偽」なのである。


(注1)「性」・「偽」・「情」については、正名篇(1)の定義を参照。「偽」は、人為のことである。
《原文・読み下し》
人の性は惡、其の善なる者は僞(い)なり。今人の性、生れて利を好むこと有り、是に順う、故に爭奪生じて辭讓亡ぶ。生れて疾惡(しつお)すること有り、是に順う、故に殘賊生じて忠信亡ぶ。生れて耳目の欲有りて、聲色を好むこと有り(注2)、是に順う、故に淫亂生じて禮義・文理亡ぶ。然れば則ち人の性に從い、人の情に順えば、必ず爭奪に出(い)で、犯分・亂理に合して、暴に歸す。故に必ず將(まさ)に師法の化、禮義の道有りて、然る後に辭讓に出で、文理に合して、治に歸せんとす。此を用って之を觀れば、然れば則ち人の性惡なること明(あきら)かなりて、其の善なる者は偽なり。故に枸木(こうぼく)は必ず將に檃栝(いんかつ)・烝矯(じょうきょう)を待ちて、然る後に直ならんとす。鈍金は必ず將に礱厲(ろうれい)を待ちて、然る後に利ならんとす。今人の性の惡なるも、必ず將に師法を待ちて然る後に正しく、禮義を得て然る後に治まらんとす。今人師法無ければ、則ち偏險にして正しからず、禮義無ければ、則ち悖亂(はいらん)にして治まらず。古者(いにしえは)聖王人の性惡なるを以て、以て偏險にして正しからず、悖亂にして治まらずと爲す。是を以て之が爲めに禮義を起し、法度を制して、以て人の情性を矯飾して之を正し、以て人の情性を擾化(じょうか)して之を導き、皆治に出で、道に合せしむるなり。今の人師法に化し、文學を積み、禮義に道(よ)る(注3)者を君子と爲し、性情を縱(ほしいまま)にし、恣睢(しき)に安んじて、禮義に違う者を小人と爲す。此を用って之を觀れば、然れば則ち人の性の惡なること明かなり、其の善なる者は僞なり。


(注2)原文「有好聲色」。増注はこの四字は注の文が正文に誤入するに似たり、と言う。漢文大系は増注に従ってこの四字を読まない。王先謙は「有」字を衍と言い、猪飼補注は「有」は「而」に作るべしと言う。
(注3)増注は「道」はなお「由」のごとし、と言う。

【この篇は、「正名篇第二十二」の後に読んでいます。】

底本の漢文大系は続く孟子への批判のくだりも合わせて一章としているのであるが、最初に冒頭だけを訳した。学校の教科書などでも、上の部分だけ抜き出して掲載していることが多いようである。しかしながら、この部分だけを読んで荀子の性悪説を理解してはならない。これまでにも読んだように、荀子の性悪説は背後にある統治思想と不可分の関係にあるのであり、なおかつ前の正名篇において行われた「性」「情」「偽」その他の単語への厳密な定義を前提として、この性悪篇の議論が行われているのである。これを『論語』や『孟子』などのような、ふわっとした印象で読ませる、語の意味があいまいな漢文と同一の読み方で読んではいけない。むしろ西洋のphilosophyのように論理を追って読まなければならないのである。

先回りして性悪篇の荀子の主張を整理すると、荀子は性悪説において二つのテーゼを掲げる。すなわち、

  1. 人間の「性」すなわち生物学的な本能は、悪すなわち利己的動機しかない。人間が善になるためには、「偽(い)」すなわち人為的な矯正を選択して身につけなければならない。
  2. 「偽」は(現実的には)聖人しか作成することができず、君子しか身に付けることができない。

以上である。この二つのテーゼは、富国篇で展開された社会契約説と表裏一体の関係にある。

まず、正名篇の定義を再録しよう。

人間が生得的に持っているものは、これを「性」と名付けよ。その人間が生得的に持っているものから何らの人為も加えずに自然発生する、陰陽の調和による身体の形成・外物と絶妙に対応する五官の形成・身体が外物の刺激に反応する感覚の形成、これらもまた「性」と名付けよ。

この人間の「性」から好き・嫌い・うれしい・腹が立つ・哀しい・楽しいといった衝動が沸き起こる。これを、「情」と名付けよ。この「情」が沸き起こった後で、心がこれを取捨選択する。この理性の作用を、「慮」と名付けよ。心が「慮」して、その結果人間の能力が発動して何ごとかを行う。これを、「偽(い)」と名付けよ。「慮」を積み重ね、人間の能力を用いて習得を行い、その結果成し遂げるもの。これもまた、「偽」と名付けよ。

性悪篇の議論は、上の定義に則っているのである。これを前提として読めば、荀子の上の主張は人間の生物学的本能には秩序を作る能力が存在せず、人間の理性判断だけが秩序を作る能力がある、ということを論じていることが分かる。

この視点は、富国篇に表れた荀子の社会契約説と整合性がある。なぜならば、荀子の社会契約説によれば、人間は動物的本能に任せた自然状態では万人の万人に対する戦争があるだけであり、人間がその生存と富を確保するためには、理性による国家秩序の建設が不可欠なのである。その理性による国家を創設するのが王者であり、その理性による国家を正道に従って運営する運営者が君子なのである。ゆえに人間は自己の生存と富を確保するために、自発的に王者と君子の国家が定める秩序に従うことを選ぶのである。

このように、人間は生物学的本能としての「性」には一切秩序を作る能力がなく、必ず「偽」の制度によって制御されなければ秩序を作ることができない。これが、荀子の統治論の根本テーゼである。それに加えて、「偽」を制定して運営することは聖人と君子だけしかできない、というテーゼを加えたならば、聖人と君子が国家において必要不可欠なエリートである、という儒家の主張を理論的に裏付けることとなるだろう。その理由は、後の(5)で行われることになるだろう。

だから荀子を批判するためには、人間は自然状態で秩序を作る能力が本当に存在しないのか、という点を問わなければならないだろう。荀子の定義で言い換えるならば、人間の「性」には秩序を作る本能があるのかないのか?という問いである。荀子への私の批判としては、人間の生得的な秩序形成原理として互酬(reciprocity)があり、それが具体化した交換活動が国家なしでも人間社会の秩序を形成する力を持っているのではないか。国家とは、人間の始原的秩序の後から覆いかぶさって、合法的に略取―再分配を行うシステムなのではないか、という点をもってしたい。以下、荀子の孟子への批判を読みながら、検討していきたい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です