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法行篇第三十(1)

公輸(こうゆ)(注1)であっても、縄(すみなわ)を越えた規準を作ることはできない。聖人であっても、礼を越えた規準を作ることはできない。礼というものは、一般人はこれに法(のっと)りながらその意味を知ることがないが、聖人はこれに法りながらその意味を理解しているのである。


曾子が言った、「親族をうとんじながら、他人と親しんではならない。己が不善でありながら、他人を怨んではならない。刑を受けることが決定してから、天に助けを求め叫んではならない。親族をうとんじながら他人と親しむのは、人との付き合い方があまりに回りくどすぎる。己が不善でありながら他人を怨むのは、あまりに道理に外れすぎる。刑を受けることが決定してから天に助けを求めて叫ぶのは、あまりに遅すぎる。詩に、この言葉がある。:

源の水、細かりしときに
雝(ふさ)がず塞(とど)めることもせず、
轂(こしき)が破れた、その後で
あわててその輻(や)を太くする
(逸詩。原詩は伝わらない)

(注2)。事がすでにしくじった後で後悔して溜息をついても、もはや何の足しにもなりはしないのだ」と。


曾子は、重病の床にあった。子の曾元(そうげん)(注3)が、父の足下に控えて座っていた。曾子が言った、「元(げん)よ、記しておけ。お前にこれを告げよう。そもそも魚や鼈(すっぽん)、黿(でかいすっぽん)や鼉(わに)は、深い淵の中にあってもこれを浅いとみなしてその底にさらに穴を掘る。鷹や鳶は、高い山の中にあってもこれを低いとみなしてその上に巣を作る。彼らはこれほどまでに用心しながらも、人間に捕らえられる。そのときには、必ず餌によって釣られるのである。ゆえに君子もまた、いやしくも利に釣られて義を損うことを行ってはならない。行わなければ、恥辱がそこから生じて我が身に降りかかることもないであろう」と。


子貢が、孔子に質問した。
子貢「君子が玉を貴んで珉(びん。玉に似た石)を賎しむのは、なぜでしょうか。玉は希少品で、珉はたくさんあるからでしょうか?」
孔子「ああ賜(し)よ(注4)、それはまた何という言葉を言うのか。そもそも君子がたくさんあるから賎しんで、希少だから貴ぶことなどをするであろうか?君子は、玉というものに徳をなぞらえるのである。すなわち、その温和に潤い輝く様は、仁のようである。その硬くて文様が整然とした様は、知のようである。その硬くて曲がらない様は、義のようである。その角立ちながら触れるものを傷つけない様は、正しき行動のようである。それがたとえポキリと折れたとしても曲がることはない様は、勇のようである。美しい輝きも醜い傷も一緒に表に見せてしまう様は、人の情のようである。これを叩けば清らかで高い音が遠くまで聞こえ、その音が止むときにはきっぱりと終わる様は、あるべき言葉のようである。ゆえに、たとえ珉に細やかな彫刻を施したとしても、玉のあきらかな美しさにはかなわないのだ。ゆえに、『詩経』にこの言葉があるのだ。:

言(われ)、君子を念(おも)う
温和なること、玉の如し
(秦風、小戎より)

と。」


(注1)公輸は、墨子(墨翟)と同時代の名匠。『孟子』離婁章句では公輸、『墨子』魯問篇・公輸篇においては公輸子または公輸盤として表れる。楊注は「魯の巧人で名は班」と注する。『墨子』では、墨子と技術を競って及ばなかった人物として描かれる。
(注2)これは逸詩であるので、詩の引用がどこまでであるのかには諸説ある。下の注7参照。轂(こしき)は、車輪の車軸を囲んで輻(や)を集めて支える部分。輻(や)は、放射状に並べた車輪内部の棒。大略篇(14)注7を参照。
(注3)曾元は曾子の子。大略篇五十一章にも表れるが、大略篇のエピソードは時代的に疑問がある。
(注4)賜は子貢の名。宥坐篇(4)注9参照。
《読み下し》
公輸も繩(じょう)に加うること能わず、聖人も禮に加うること莫し。禮なる者は衆人法(のっと)りて知らず、聖人法りて之を知る。

曾子曰く、內人を之れ疏んじて外人を之れ親しむこと無かれ。身不善にして人を怨むこと無かれ。刑己(すで)に至りて天を呼ぶこと無かれ。內人を之れ疏んじて、外人を之れ親しむ、亦遠(えん)ならずや。身不善にして人を怨む、亦反ならずや。刑己に至りて天を呼ぶ、亦晚(おそ)からずや。詩に曰く、涓涓(けんけん)たる(注5)源水、雝(よう)せず(注6)塞(そく)せず、轂(こく)已に破碎して、乃ち其の輻(ふく)を大にす、と(注7)。事已に敗れて、乃ち重大息(ちょうたいそく)するも、其れ云(ここ)に益あらんや、と。

(注8)曾子病(へい)なり(注9)。曾元足(そく)に持(じ)す(注10)。曾子曰く、元、之を志(しる)せ。吾汝に語(つ)げん。夫れ魚鼈(ぎょべつ)・黿鼉(げんた)は、猶お淵を以て淺しと爲して、其の中に堀し、鷹鳶(ようえん)は猶お山を以て卑(ひく)しと爲して、其の上に巢(そう)す(注11)。其の得らるるに及んでは、必ず餌を以てす。故に君子は苟(いやし)くも能く利を以て義を害すること無くんば、則ち恥辱も亦由りて至ること無し、と。

(注12)子貢孔子に問うて曰く、君子の玉を貴びて珉(びん)(注13)を賤しむ所以の者は何ぞや。夫の玉の少くして珉の多きが爲か、と。孔子の曰(のたま)わく、惡(ああ)賜(し)や、是れ何の言ぞや。夫れ君子は豈(あ)に多くして之を賤しみ、少くして之を貴ばんや。夫れ玉なる者は、君子德を焉(これ)に比す。溫潤にして澤なるは仁なり、栗(りつ)(注14)にして理なるは知なり、堅剛にして屈せざるは義なり、廉にして劌(けい)せざる(注15)は行なり、折れて撓(たわ)まざるは勇なり、瑕適(かてき)(注16)並び見(あらら)わるるは情なり、之を扣(たた)くに其の聲(せい)清揚して遠く聞こえ、其の止むや輟然(てつぜん)たるは辭なり。故に珉の雕雕(ちょうちょう)ある有りと雖も、玉の章章(しょうしょう)たるに若かず。詩に曰く、言(われ)君子を念(おも)う、溫として其れ玉の如し、とは、此を之れ謂うなり、と。


(注5)増注は、「涓は小流なり」と言う。
(注6)楊注は、「雝は読んで壅となす」と言う。ふさぐ。
(注7)この詩は『詩経』に見えない逸詩であるので、どこまでが逸詩の引用であるのかについて各注釈者の意見が異なる。金谷治氏は、最後の「其れ云に益あらんや」まで逸詩の引用とみなす。新釈の藤井専英氏は、「事已に敗れて」以下を曾子の結語とみなすが、別に『荀子簡釈』の説を挙げて、韻から見て「乃ち重大息す」までを逸詩の引用であるという解釈も示す。上の訳は、藤井説に従う。
(注8)大戴礼記曾子疾病篇は、病床の曾子が子の曾元と曾華とに教訓を語った内容となっている。本章の語句は、その一部と重なっている。
(注9)増注は、「病は疾困なり」と言う。ここでの「病」字は、重病の状態にあることを指す。
(注10)原文「曾元持足」。増注はこの箇所の注で礼記壇弓上篇の「曾元・曾申足に坐す」を引く。これに従えば「持足」は二人の子が父の足元に控え座していることに解することができる。いっぽう大戴礼記曾子疾病篇は「曾元首を抑え、曾華足を抱う」に作る。つまり二人の子がそれぞれ父の首と足を介抱している様に描かれている。本章の「持足」は、どちらでも読むことができる。上の訳は、増注に従っておく。
(注11)原文「巢其上」。宋本には上に「增」字があり、増注の久保愛は元本に従ってこれを削っている。宋本に従えば、「其の上に巢を增(かさ)ぬ」と読み下せるだろう。
(注12)本章の孔子と子貢との問答は、礼記聘義篇および孔子家語問玉篇にも見える。ただし、玉の徳を挙げた項目が多少違う。また類似の文が、説苑雑言篇、管子水地篇にも見える。
(注13)楊注は、「珉は石の玉に似たる者」と注する。玉に似ている石。
(注14)楊注は「栗は堅き貌なり」と言う。増注は「栗」字の上に「縝(しん)」字を置くが、集解本は置かない。集解の王引之は、謝本・盧本は銭本および元本に従って「縝」字を置くが、これは礼記聘義篇に依って付加したものであり、楊注では栗・理の二字にしか注釈がなされていいないところから見て、楊注が参照した原文は「栗」字のみであったはずと考証する。確かに元本より古い宋本には、「縝」字がない。王引之に従い、「縝」字を置かないことにする。
(注15)楊注は、「劌は傷なり、廉稜ありといえども物を傷つけず」と注する。すなわち、角張っているが触れた物を傷つけないこと。
(注16)楊注は、「瑕は玉の病にして、適は玉の美なり」と言う。増注は、「適は読んで瓋となす。瓋はまた傷なり」と言う。集解の王念孫は、「適は読んで謫となし、謫はまた瑕なり」と言う。よって「瑕適」は楊注に従えば欠点と美点のこと、増注あるいは王念孫に従えば両者ともに欠点を指すことになるだろう。ここでの「情」は人間のありのままの情念という意味であって、ゆえに玉の美点の一つとして挙げられていて、荀子の他篇で見られるような「情」のネガティブな側面ばかりとは言えないであろう。よって楊注を取りたい。

法行篇も、孔子とその弟子たちのエピソード集である。法行篇の名は、冒頭の緒言から出たものであろう。緒言で公輸に言及しながら規準の重要性を述べるところは、『孟子』離婁章句の冒頭に似ている。本篇は緒言のとおり、礼に法(のっと)って行動する教訓を集めたと捉えるべきなのであろうか。だが、そこまで定まったテーマで固められているようにも見えない。この法行篇もまた、孔子家語などの他書に所収のエピソードと類似のものが見られる。

法行篇第三十(2)

曾子が言った、「一緒に遊んでいながら、相手から愛されない。それは、きっと自分の仁愛が足りないからだ。交友しながら、相手から尊敬されない。それは、きっと自分に長所がないからだ。財貨を取り扱いながら、相手から信用されない。それは、きっと自分に信用を重んずる心が足りないからだ。これら三つの欠点が自分にあるときには、どうして他人を怨むことができるだろうか?他人を怨む者は、やがて窮迫する。天を怨む者は、見識が足りない。自分のせいで失敗しながら、失敗の原因を他人に求めるのは、なんとも真の原因から遠ざかることだ」と。


南郭恵子(なんかくけいし)(注1)が、子貢に質問した、
南郭恵子「あなたの先生(つまり孔子)の門人は、どうしてあんなにも雑多な人間が集まっているのでしょうか?」
子貢「君子たるもの、己の身を正しくして人が来ることを待つものです。来ることを欲する者は拒まず、去ることを欲する者は止めません(注2)。また、良医の門には病人が多く来たり、檃栝(いんかつ。木を矯める器具)の側には曲がった木が多くあるものです。それゆえに、雑多なのです。」


孔子が言われた、「己の君主によく仕えることができないのに、己の家臣がよく使われることを求めるのは、恕(じょ)(注3)とは言えない。己の親によく尽くすことができないのに、己の子がよく孝行することを求めるのは、恕とはいえない。己の兄をよく敬愛することができないのに、己の弟がよく命令に従うことを求めるのは、恕とはいえない。士たるもの、この三恕を明らかに知るならば、これによって己の身をよく正すことができるだろう」と。


孔子が言われた、「君子には三思があって、これらを思わなければならない。年少のときに学ばなければ、年長となって能力が得られない。年老いて後進に教えなければ、死後に思い出されることがない。富んでいるときに施さなければ、窮迫したときに与えられることがない。このゆえに君子は、年少のときには年長となったときのことを思って学び、年老いたときには死後のことを思って教え、富んでいるときには窮迫したときのことを思って施すのである」と。


(注1)楊注は、南郭恵子はその姓名未詳と言う。
(注2)『孟子』盡心章句にも、「往(さ)る者は追わず、来る者は距(こば)まず」の言葉がある。
(注3)「恕」は「夫子の道は、忠恕のみ」(論語里仁篇)という言葉があるように、孔子の倫理の基本を示す概念である。おおむね「仁」と重なった意味として解釈される。ここでは、他人を思いやる精神として用いられているようである。
《読み下し》
曾子曰く、同遊して愛せ見(ら)れざる者は、吾必ず不仁なればなり。交りて敬せ見れざる者は、吾必ず不長なればなり。財に臨みて信ぜ見れざる者は、吾必ず不信なればなり。三者身に在れば、曷(な)んぞ人を怨まん。人を怨む者は窮し、天を怨む者は識無し。之を己に失いて諸(これ)を人に反す、豈(あ)に亦迂ならずや、と。

(注4)南郭惠子(なんかくけいし)子貢に問うて曰く、夫子の門は何ぞ其れ雜なるや、と。子貢曰く、君子身を正しくして以て俟(ま)つ。來らんと欲する者は距(こば)まず、去らんと欲する者は止めず。且つ夫れ良醫(りょうい)の門には病人(へいじん)多く、檃栝(いんかつ)の側には枉木(おうぼく)多し。是を以て雜なり、と。

(注5)孔子の曰(のたま)わく、君子に三恕有り。君有るも事(つか)うること能わざるに、臣有りて其の使(し)せらるるを求むるは、恕に非ざるなり。親有るも報ゆること能わざるに、子有りて其の孝を求むるは、恕に非ざるなり。兄有るも敬すること能わざるに、弟有りて其の令を聽かんことを求むるは、恕に非ざるなり。士は此の三恕に明(あきら)かなれば、則ち以て身を端(ただ)す可し、と。

(注6)孔子の曰わく、君子に三思有りて、思わざる可からざるなり。少にして學ばざれば、長じて能無きなり。老にして敎えざれば、死して思わるること無きなり。有りて施せざれば、窮して與(あた)えらるること無きなり。是の故に君子は、少にして長を思えば則ち學び、老にして死を思えば則ち敎え、窮を思えば則ち施す、と。


(注4)説苑雑言篇に、類似の文が見える。雑言篇では東郭恵子に作る。
(注5)孔子家語三恕篇に、ほぼ同じ文がある。
(注6)同じく孔子家語三恕篇に、ほぼ同じ文がある。

法行篇は、以上である。末尾に置かれた三恕・三思のごとき同型の語句を複数列挙した格言は、論語季氏篇に類似のバリエーションが多数収録されている。こういった格言について貝塚茂樹氏は、「孔子の学園で、孔子のことばがしだいに教条化され、教訓を箇条書きにして暗記する学習方法がとられてきたあらわれである。孔子とその弟子たちとの人格的な接触から生まれる会話の生き生きした味はなくなってくる」と評している(貝塚訳注『論語』中公文庫)。

宥坐篇第二十八(1)

孔子が魯の桓公(かんこう)(注1)を祀る廟に参詣したとき、欹器(きき。傾いた器)があるのを見た。孔子は、廟の守衛に質問された、「これは何という器でしょうか?」と。廟の守衛は答えた、「たぶん、宥坐(ゆうざ)の器と言うと思います」と(宥坐の意味は、下の注6参照)。孔子が言われた、「私は、『宥坐の器というものは、空っぽであるときには傾き、中くらいに水を入れたときには正しく立ち、満杯に水を入れたときにはひっくり返る』と聞いている」と。孔子は振り向いて弟子に「水を注いでみよ」と命じられた。弟子は水を汲んで、器に注いだ。果たして、中くらいに水を入れたときには立ったが、満杯になるとひっくり返り、空っぽになると傾いた。孔子は慨嘆して、「ああ!この世に満ち満ちて、覆らないものがあるだろうか!」と。弟子の子路が質問した、「あえて質問いたします。満ちながらそれを維持する道はあるでしょうか?」と。孔子は言われた、「聡明にして聖知なる者は、この知を守り通すためにあえて愚にふるまえ。天下に行き渡る功績を挙げる者は、この功績を守り通すためにあえて人に譲れ。世を覆いつくすほどの勇力がある者は、この力を守り通すためにあえて臆病にふるまえ。天下を保有する富者(すなわち天下の王)は、この富を守り通すために謙遜にふるまえ。これが、いわゆる自制して自ら減らす道であり、抑えることによって覆らずに永らえる道というものなのだ」と。


孔子は、魯国の宰相を補佐する司寇(しこう)の地位に就いた。朝廷に出仕して七日目に、少正卯(しょうせいぼう)(注2)を誅殺した。孔子の門人(注3)が進み出て言った、「あの少正卯は、魯では名の聞こえた人物です。先生が政治を執り始めてから、最初にこれを誅殺しました。これは失敗だったのではないですか?」と。孔子は言われた、「座れ、今よりお前にその理由を語ろう。人間には、最も悪とみなすべき五つのことがある。だが、盗みなどはその中に入っていない。その五つとは、一に心が気が回り過ぎて陰険であること。二に行動が偏っていて頑固なこと。三に言葉が飾り過ぎで弁が立ちすぎること。四に覚えていることが醜いことばかりで博覧すぎること。五に非なることに従って表面を綺麗につくろうことだ。この五つの悪は、人間がその一つだけでも持っていたならば、君子の誅罰を免れない。だが少正卯は、これら全てを持っていたのだ。なのであやつは、住まう所では衆徒を動かして徒党を組む力を持ち、語れば邪悪を綺麗な言葉で飾り立てて大衆を惑わす力を持ち、その頑強さは正しいことに反対して非道を貫き通す力を持っていた。これは、小人の英雄というものであって、誅殺せずにはいられなかったのだ。このゆえに湯は尹諧(いんかい)を誅し、文王は潘止(はんし)を誅し、周公は管叔(かんしゅく)を誅し、太公は華仕(かし)を誅し、管仲は付里乙(ふりいつ)を誅し、子産は鄧析(とうせき)・史付(しふ)を誅したのだ(注4)。これら七名の者は、すべて時代を異にしながら同じ邪心を持っていたので、誅殺せずにはいられなかったのだ。『詩経』に、この言葉がある。:

憂いは、つのるばかりなり
群小どもに、慍(いきどお)る
(邶風、柏舟より)

もしあのまま少正卯を生かしておいて小人が群れ集ったならば、これはまさに憂慮すべきことであろう」と。


(注1)桓公は、開祖である周公から数えて十五代の魯公で、春秋時代中期の君主。この桓公の三人の庶子から孟孫氏・叔孫氏・季孫氏の三桓氏が分かれた。春秋時代後期の孔子の時代になると、三桓氏は宗家の魯公の権勢を上回る実力を持って魯国の政治を左右するようになった。
(注2)孔子家語では、「政を乱す大夫少正卯を誅す」と書かれている。孔子は、大夫つまり高位の貴族を誅殺したのである。
(注3)孔子家語では、弟子の子貢が質問したことにされている。
(注4)以下、言及されている人物について。管叔は管叔鮮(かんしゅくせん)のことで、周の武王の弟で周公の兄。周公に反乱を起こして鎮圧された。儒效篇(1)注1参照。太公は太公望呂尚のことで、周の文王・武王の重臣。華仕は、エピソードが『韓非子』外儲説右上篇に見える。それによると、太公望が周王朝から斉国に封建されたとき、東海に住む狂矞(きよういつ)・華仕の兄弟が仕えず自活する道を宣言した。太公望はこれらを捕らえて、誅殺した。賢者を殺したことに驚いた周公に対して、太公望は爵禄でも刑罰でも動かない人間は国家が用いることができないので誅殺するしかない、と弁明した。鄧析は高名な詭弁家で、鄭の子産に誅殺された。不苟篇(1)注3参照。尹諧・潘止・付里乙・史付について、楊注は未詳と言う。
《読み下し》
(注5)孔子魯の桓公(かんこう)の廟を觀るに、欹器(きき)有り。孔子廟を守る者に問うて曰(のたま)わく、此を何の器と爲すや、と。廟を守る者曰く、此れ蓋し宥坐(ゆうざ)(注6)の器と爲す、と。孔子の曰わく、吾聞く、宥坐の器なる者は、虛なれば則ち欹(かたむ)き、中なれば則ち正しく、滿つれば則ち覆る、と。孔子顧みて弟子に謂いて曰わく、水を注げ、と。弟子水を挹(く)みて(注7)之に注ぐ。中にして正しく、滿ちて覆えり、虛にして欹く。孔子喟然(きぜん)として歎じて曰く、吁(ああ)、惡(いずく)んぞ滿ちて覆えらざる者有らんや、と。子路曰く、敢て問う、滿を持するに道有りや、と。孔子の曰わく、聰明・聖知なるは、之を守るに愚を以てし、功天下に被るは、之を守るに讓を以てし、勇力世を撫(おお)うは、之を守るに怯を以てし、富四海を有つは、之を守るに謙を以てす。此れ所謂挹(おさ)えて(注8)之を損するの道なり、と。

(注9)孔子魯の攝相(せっしょう)(注10)と爲り、朝すること七日にして少正卯(しょうせいぼう)を誅す。門人進み問うて曰く、夫(か)の少正卯は魯の聞人(ぶんじん)なり、夫子政を爲して始めに之に誅す、失無きことを得んや、と。孔子の曰く、居れ、吾れ汝に其の故を語(つ)げん。人惡なる者五有りて、盜竊(とうせつ)は與(あずか)らず。一に曰く、心達にして險、二に曰く、行辟(へき)にして堅、三に曰く、言僞(い)にして辯、四に曰く、記醜(しゅう)にして博、五に曰く、非に順(したが)いて澤。此の五者は人に一有れば、則ち君子の誅を免るることを得ず、而(しか)るに少正卯は之を兼有す。故に居處は以て徒を聚(あつ)め羣(ぐん)を成すに足り、言談は以て邪を飾り衆を營(まど)わすに足り、强は以て是(ぜ)に反して獨立するに足る、此れ小人の桀雄(けつゆう)なり、誅せざる可からざるなり。是を以て湯は尹諧(いんかい)を誅し、文王は潘止(はんし)を誅し、周公は管叔(かんしゅく)を誅し、太公は華仕(かし)を誅し、管仲は付里乙(ふりいつ)を誅し、子產は鄧析(とうせき)・史付(しふ)を誅す。此の七子なる者は、皆世を異にして心を同じくす。誅せざる可からざるなり。詩に曰く、憂心悄悄(しょうしょう)、羣小に慍(いきどお)る、と。小人羣を成せば、斯(こ)れ憂うるに足れり、と。


(注5)以下の文は、孔子家語三恕篇にほぼ同一のものがある。ほかに、韓詩外伝、淮南子、説苑の各書にも見える。
(注6)「宥坐」の意味について、楊注は(1)人君が坐右(座右)に置いて戒めとなすべき器(2)「宥」は「侑」と同じで勧める意であり勧戒の器、の二通りの説を挙げる。
(注7)楊注は、「挹は酌」と言う。くむ。
(注8)楊注は、「挹は亦退くなり」と言う。こちらの「挹」字は抑制する意。
(注9)以下の文は、孔子家語始誅篇のエピソードと大部分一致している。ただし、家語には冒頭に以下のような内容のくだりがある、「孔子は、魯国の司寇となり宰相を補佐する地位に就くことになって、喜びの顔色を示していた。弟子の子路は問うた、『それがしが聞くに、”禍のときには畏れず、福のときには喜ばない”と。だが先生はいま高位を得て喜んでおられるように見えますが、どうしたことですか?』と。孔子は答えた、『確かに、そのような言葉はある。だが、”高貴となって人にへりくだることを楽しむ”という言葉もありはしないだろうか?』と。」宥坐篇では、このくだりはカットされている。荀子は、孔子の君子らしからぬ浮わついた言行を記載することをはばかったのであろうか。しかしながら、私が思うに、このような理想化された孔子にそぐわない都合の悪いエピソードほど、真実に近い生の孔子像が隠されているのではないだろうか。
(注10)楊注は、「司寇となり相を摂す」と注する。史記孔子世家によれば、このとき孔子は大司寇(だいしこう。司法大臣)の位にあった。「相を摂する」ということは大臣として宰相を補佐するという意味である。

楊注は、宥坐篇の冒頭に「此より下は、皆荀卿及び弟子が引く所の記伝雑事なり、故に總(そう)じて之を末に推(おしさ)ぐ」と言う。この言葉は楊倞の編集意図を表したもので、言うは、宥坐・子道・法行・哀公・堯問の各篇は荀子とその弟子たちが収集引用した記伝雑事であり、ゆえに楊倞はこれらをまとめて『荀子』の末尾に置いたというものである。劉向編纂の『荀卿新書』の配列は、いささか異なっていた(各篇概要のページを参照)。

宥坐篇の大部分は、孔子家語、韓詩外伝、史記、大戴礼記などの他書で見られる孔子のエピソードと一致する内容の記事で占められている。上に訳した第二のエピソードは孔子が魯国の大司寇に就いた直後に魯臣の少正卯(しょうせいぼう)を誅殺した事件についての孔子の言葉である。史記孔子世家ではあっさりと一行記録されているだけの粛清事件が、荀子(および同一の内容を収録した家語)においては粛清の理由についての孔子の説明が記されている。孔子の言葉を信じるならば、少正卯は国家の重臣としてふさわしからぬ行いをする人物であったので、孔子はあえて極刑に処したということであろう。朝廷人の罪は人民の罪と違った規準により裁かれるべきであるという考えは、古代中国では一般的な法刑思想であった。孔子は魯国を出奔して放浪する前に、魯の定公に抜擢されて国政を執った時代があった。その時代の孔子は、この少正卯誅殺事件や、三桓氏(上の注1参照)の居城を破却する作戦を試みるなど、魯公の支配力を復興させるために強権を用いた力の政策を行っていた。政治家としての孔子の一面である。

宥坐篇第二十八(2)

孔子が、魯国の司寇となったときのことである。
ある父とその子が、互いに争って訴えてきた。孔子は両名を拘置して、三ヶ月間裁判を行わなかった。その後父のほうから訴えを取り下げることを願い出てきたので、孔子は両名を放免した。
季孫(きそん)(注1)がこのことを聞いて、不快に思って言った、「あの老先生(孔子のこと)は、私に嘘をつきましたな!かつて老先生は、私に言われたものだ、『国家を治めるときには、必ず孝道をもって行わなければならない』と。ならばこういう事例においては、子を死罪に処して父を訴える不孝に対して厳罰を下さなければならないでしょうが。なのに、老先生は父子ともに放免するとは!」と。
冉子(ぜんし)(注2)が、この言葉を孔子に告げた。孔子は深く嘆いて、こう言われた。すなわち、「ああ!上の者が正しい政治を失いながら、下の者を殺す。それが、許されるというのだろうか?己の人民を教化する仕事を行わずに、いきなり裁判を行えば、罪なき民を殺すことにならないだろうか。たとえ三軍が大敗したとしても、兵を斬罪に処してはならない。たとえ裁判がうまく進行しなかったとしても、人民を刑に処してはならない。なぜならば、それらは人民に罪あるがゆえの失態ではなくて、軍の指揮者と裁判の官吏の罪なのだから。法令が疎漏でありながら誅罰をきっちり行うのは、人民を傷つけることである。農作物の生育には時期があるのに時期を考えずに税を取るのは、暴政である。人民を教化することなくして人民がよく働かないことを責め立てるのは、虐政である。これら三者を取り除いて、しかる後にはじめて罪ある者に刑を課さなければならない。『書経』には、この言葉がある。:

たとえ義刑・義殺であっても、直ちに執行してはならない。「私は順番にまだ従っていない」と言おう。
(周書、康誥より)

この言葉は、教化をまず行え、と言っているのである(注3)。ゆえにいにしえの先王は、この政治の正道を明らかに述べて、上の者が率先して正道を行い、それでもうまく行かなければ、次には賢者を尊んで登用して賢者による政治を尽し、それでもうまく行かなければ、無能者を罷免してこれを一掃することに努めたのだ。三年間こうした努力を行った後に、人民は上の者によく従うこととなった。それでも従わない邪民については、刑罰をもってこれに臨んだ。こうすることによって、人民は何をすれば罪であるかを知ったのであった。『詩経』には、この言葉がある。:

尹(いん)氏は大師(たいし)、周のいしずえ
平らかに治め、四方(よも)を維(つな)ぎて
天子を庳(たす)けて、民を迷わせぬ
(小雅、南山より)

(注4)。「威は厳格であって、しかもそれを行うことはない。刑は定めて、しかもそれを用いることはない」(注5)という言葉は、このような先王の統治を言うのである。しかしながら、今の世はそうでない。人民の教化はでたらめで、人民への刑罰はこと細かで、人民が進む道に迷って罪に堕ちたときには、飛んで行ってこれを刑に処す。こうして刑罰はますます煩雑となり、しかも姦邪の行いはそれ以上に増えるのである。わずか段差三尺(67.5㎝)の崖であっても、空の車は乗り越えることができない。しかし、高さ百仞(157m)の山であっても、荷物を載せた車は登ることができる。それは、坂の勾配がゆるやかだからだ。高さ数仞(10m程度)の垣根であっても、人は乗り越えることができない。しかし、高さ百仞の山であっても、子供は登って遊ぶことができる。それは、坂の勾配がゆるやかだからだ。今の世は、先王の正道がだらけてゆるやかになってしまってからずいぶんと長い年月が経ってしまっている。これでは、人民がやってはいけないことを自ずから乗り越えないように仕向けることが、果たしてそんな簡単にできるだろうか?『詩経』には、この言葉がある。:

周朝の道、平らなりしこと砥石の如し
周朝の道、真直ぐなりしこと矢の如し
これぞ君子の履(ふ)み行く所、小人も見習う所
去りし往時を顧みるれば、涕(なみだ)はらはらと流る
(小雅、大東より)

と。周朝の道は、今や遠くに去ってしまっている。なんと哀しいことではないか!」と。


『詩経』に、この言葉がある。:

日と月の、うつるを瞻(み)れば
そなた去りし、時から幾年(いくとせ)
そなたまでの道、あまりに遠し
いつの日に、ここに帰らん
(邶風、雄雉より)

孔子が言われた、「だが進む道を同じくしていれば、必ず帰り来るだろうよ」と。


(注1)季孫氏は、魯の三桓氏の一。宥坐篇(1)注1参照。本章に表れる「季孫」とは季孫氏の誰なのかは不明。孔子が魯の大司寇であったときの季孫氏の当主は、季桓子(きかんし)であった。季孫氏は三桓氏の中で最大の権勢を誇り、『論語』においてもしばしばその一族が登場する。
(注2)冉子とは孔子の弟子、冉求(ぜんきゅう)のこと。姓は冉、名は求、字は子有。論語では冉有(ぜんゆう)で表れる。政事に優れていると評され、季孫氏の家宰となった。論語では、季孫氏のために尽くし過ぎることを孔子が批判した言葉もある。
(注3)この書経からの引用と続く言葉は、致士篇(2)にも見える。ただし、書経の言葉が少し違う。
(注4)詩の原文は、国を治めるべき尹氏が姦悪であるので国が乱れていることを批判したものである。なので、引用の句の後は、尹氏はこのような政治を行っていない、と続く。この引用も、一種の断章取義であると言えるだろう。
(注5)原文の「威厲にして而も試みず、刑錯きて而も用いず」は、議兵篇では伝すなわち言い伝えの言葉として引用されている。
《読み下し》
(注6)孔子魯の司寇と爲る。父子訟うる者有り、孔子之を拘し、三月別(わか)たず(注7)。其の父止めんことを請い、孔子之を舍(ゆる)す。季孫之を聞き、說(よろこ)ばずして曰く、是の老や予(われ)を欺く。予に語りて曰く、國家を爲(おさ)むるには必ず孝を以てす、と。今一人を殺し以て不孝を戮(りく)すべきに、又之を舍す、と。冉子(ぜんし)以て告ぐ。孔子慨然として歎じて曰く、嗚呼(ああ)、上之を失いて下之を殺さば、其れ可かならんや。其の民を敎えずして其の獄(うったえ)を聽くは、不辜(ふこ)を殺すなり。三軍大いに敗るるは、斬る可からざるなり。獄犴(ごくかん)(注8)治まらざるは、刑す可からざるなり。罪民に在らざるが故なり。令を嫚(まん)にして(注9)誅を謹むは、賊(そこな)うなり。今生ずるや時有るに、歛(おさ)むるや時無きは、暴なり。敎えずして成功を責むるは、虐なり。此の三者を已(しりぞ)けて(注10)、然る後に刑卽(つ)く可きなり。書に曰く、義刑義殺も、庸(もち)うるに卽を以てすること勿(なか)れ、予は維(ただ)未だ事に順うこと有らずと曰う、とは、敎を先にするを言うなり。故に先王旣に之を陳(つら)ぬるに道を以てし、上先ず之を服(おこな)い(注11)、若(も)し可ならざれば、賢を尚(とうと)びて以て之を綦(きわ)め、若し可ならざれば、不能を廢して以て之を單(つく)す(注12)。三年を綦(きわ)めて百姓往(したが)う(注13)。邪民從わずして、然る後に之を俟(ま)つに刑を以てすれば、則ち民罪を知る。詩に曰く、尹氏(いんし)は大師、維れ周の氐(てい)、國の均を秉(と)り、四方是れ維(つな)ぎ、天子是れ庳(たす)け、民をして迷わざら卑(し)む、と。是を以て、威厲(れい)にして而(しか)も試みず、刑錯(お)きて而も用いず、とは此を之れ謂うなり。今の世は則ち然らず。其の敎を亂り、其の刑を繁くし、其の民迷惑して焉(ここ)に墮つれば、則ち從いて之を制す。是を以て刑彌(いよいよ)繁くして邪に勝(た)えず。三尺の岸にして、而(しか)も虛車登ること能わざるに、百仞(ひゃくじん)の山にして、任負車も焉(ここ)に登る。何となれば則ち陵遲(りょうち)(注14)なるが故なり。數仞(すうじん)の牆(しょう)にして、而も民踰(こ)えざるに、百仞の山にして、豎子も馮(のぼ)りて(注15)焉(ここ)に游ぶは、陵遲なるが故なり。今夫れ陵遲なること亦久し。而(しこう)して能く民をして踰ゆること勿らしめんか。詩に曰く、周道は砥の如く、其の直きこと矢の如し、君子の履(ふ)む所、小人の視る所、眷焉(けんえん)として之を顧み、潸焉(さんえん)として涕を出す、と。豈に哀しからずや、と(注16)

(注17)詩に曰く、彼の日月を瞻(み)れば、悠悠として我思う、道の云(ここ)に遠き、曷(なん)ぞ云に能く來らん、と。子の曰わく、伊(かれ)首(みち)を稽(おな)じくすれば(注18)、其れ來ること有らざらんや、と。


(注6)以下の文は、孔子家語始誅篇のエピソードと重なっている。ただし、この宥坐篇に比べて家語は詩経の引用句が少なく、その他の語句にも違いがある。
(注7)楊注は、「別はなお決するがごときなり」と言う。判決を下すこと。
(注8)楊注は、「犴もまた獄なり」と言う。獄も犴も、訴えをさばくこと。
(注9)楊注は、「嫚は慢と同じ」と言う。怠慢すること。
(注10)楊注は、「已は止」と言う。読み下しは、新釈に従う。
(注11)楊注は、「服は行なり」と言う。おこなう。
(注12)楊注は、「單(単)は尽にして、尽は黜削を謂う」と言う。黜(しりぞ)けて一人もいなくすること。
(注13)集解の盧文弨は、「往」は「従」の誤り、と言う。これに従う。
(注14)楊注は、「陵遅(遲)は丘陵の勢漸漫なるを言う」と言う。勾配がゆるやかなこと。
(注15)集解の王念孫は、「馮は登なり」と言う。のぼる。
(注16)家語には、この末尾の詩経の引用が欠けている。
(注17)集解の盧文弨は「旧本は上文と連ねるも、今案ずるにまさに段を分かつべし」と注する。猪飼補注は、「此れ孔子詩を説くの辞にして、疑うに脱誤有り」と注する。漢文大系、新釈ともに上文と章を分けている。
(注18)原文「伊稽首」。「伊」について、増注は発語の辞と言う。「稽首」について、楊注は「もし徳化を施せば、下人をして稽首して帰向せしむ」と注する。すなわち上の者がひとたび徳化を下に施せば、下の人民は稽首すなわち首を垂れて上に帰服する、と解する。集解の兪樾はこれを非となし、「首」はまさに「道」となすべく、「稽」は「同」の意と解する。すなわち「道を稽(同)じくする」と読む。この文自体が言葉不足で解釈困難であるが、いまは兪樾に従って読むことにしたい。

上の一番目のエピソードも、孔子家語と重なっている。刑罰の濫用よりも人民の教化を先行させる、孔子の法刑政策が開陳されている。

「教えざる民を以て戦わしむる、是之を棄つと謂う」(子路篇)
「之を導くに政を以てし、之を斉(ととの)うるに刑を以てせば、民免れて恥無し。之を導くに徳を以てし、之を斉うるに礼を以てせば、恥有りて且つ格(ただ)し」(為政篇)

たとえば、上のような『論語』の言葉の精神を具体化したのが、本章のエピソードであろう。
孔子が実際に政治を行った期間は、魯国で高位にあった短い間でしかなかった。上の記録は、孔子の統治術が現実の政治で実施された、数少ない具体例の一つである。

二番目の句は、猪飼補注も言う通り脱誤があるに違いなく、この孔子の言葉だけでエピソードが終わっているようには思われない。訳は置いたが、本来の含意は不明である。

宥坐篇第二十八(3)

孔子は、東流する川の水をじっくりと眺めていた。弟子の子貢が孔子に質問した、「君子が大河に出くわすと必ずじっくりと眺めるのは、どうしてでしょうか?」と。孔子は言われた、「水というものは、偉大である。あまねく生命を育んで、しかも自らは何もしない。その様は、徳の偉大な姿に似ている。それが流れ下ると、低く卑下して折れたり曲がったりしながら、しかし必ず自然の道理に従って外れない。その様は、義が進んで貫かれる姿に似ている。その湧き出て輝き尽きることがない様は、正道が決して涸れず尽きない姿に似ている。もし堤を破ってこれを決壊させたならば、その反応の迅速さが響きが声に応ずるがごとくであり、深さ百仞の谷に突き進んでも懼れることがない様は、勇者の姿に似ている。穴に注がれたならば必ず水平となる様は、法が必ず万人に公平である姿に似ている。満ち満ちても、概(ますかき)も要らずに水平となる様は、正義の人の姿に似ている。柔弱でありながら微細な隙間まで達するのは、明察な知の姿に似ている。出たり入ったりして対象を新鮮清潔に洗い流す様は、人民を善に教化する姿に似ている。無数に折れ曲がりながらも結局は東に流れていく様は、志の貫徹される姿に似ている(注1)。このゆえに、君子は大河に出くわすと、これを必ずじっくりと眺めるのである」と。


孔子が言われた、「私には恥じること、卑しむこと、危ぶむことがある。幼年期に学ぶことに努めることができず、年老いて後進に教えることが何もないならば、私はこれを恥じる。故郷を離れて主君に仕えて栄達した後、にわかに故郷の旧知に遇ったとき、それと昔のことを懐かしんで話をすることすらしないならば、私はこれを卑しむ。小人といっしょにいる者は、私はこれを危ぶむ」と。


孔子が言われた、「垤(ありづか)のごとき小さなものであっても少しずつ大きくなろうとするならば、私はこれに味方したい。だが丘のごとき大きなものであってもさらに高みを目指すことを止めるならば、私はもはや手を差し伸べることはない。今どきの学者たちは、その学問が体の肬(いぼ)か贅(こぶ)よりもちっぽけであるにもかかわらず、もう得意顔で人の師となろうとしている」と。


(注1)中国中原地方の大河は、全て西部の高原から東の海に向けて東流する。満州地方や広東省には東流しない大河があるが、孔子の時代にはこれらの地方は非中華世界であった。
《読み下し》
(注2)孔子東流の水を觀(かん)す。子貢孔子に問うて曰く、君子の大水を見れば必ず觀する所以の者は、是れ何ぞや、と。孔子の曰(のたま)わく、夫れ水は大なり(注3)。遍(あまね)く諸(これ)に生を與(あた)えて而(しか)も爲すこと無きは、德に似たり。其の流るるや、埤下(ひか)(注4)して裾拘(きょこう)(注5)し、必ず其の理に循(したが)うは、義に似たり。其の洸洸乎(こうこうこ)(注6)として淈盡(こつじん)(注7)せざるは、道に似たり。若(も)し決して之を行かしむる有れば、其の應の佚(はや)きこと聲響の若く、其の百仞の谷に赴きて懼れざるは、勇に似たり。量(りょう)(注8)に主(そそ)ぎて(注9)必ず平(たいら)かなるは、法に似たり。盈(み)ちて概(かい)(注10)を求めざるは、正に似たり。淖約(しゃくやく)(注11)として微達するは、察に似たり。以て出で以て入り、以て就きて鮮絜(せんけつ)なるは、善化に似たり。其の萬折(ばんせつ)するも必ず東するは、志に似たり。是の故に君子は大水を見れば必ず焉(これ)を觀す、と。

孔子の曰わく、吾恥ずること有るなり、吾鄙(いやし)むこと有るなり、吾殆(あやぶ)むこと有るなり。幼にして强(つと)めて學ぶ能わず、老にして以て之を敎うること無きは、吾之を恥ず。其の故鄉を去り、君に事(つか)えて達し、卒(にわか)に故人に遇い、曾(かつ)て舊言(きゅうげん)無きは、吾之を鄙む。小人と處る者は、吾之を殆む、と。

(注12)孔子の曰わく、垤(てつ)の如くにして進まば、吾之に與(くみ)せん。丘の如くにして止まらば、吾已(や)まん。今の學は曾て未だ肬贅(ゆうぜい)にも如かざるに、則ち具然(ぐぜん)として(注13)人の師と爲らんと欲す。


(注2)この孔子が大河の水を論じたエピソードは、孔子家語三恕篇、大戴礼記勧学篇、説苑雑言篇などにも見える。ただし、それぞれにおいて水の徳として挙げる言葉に相違がある。
(注3)原文「夫水大」。集解の王念孫は、楊注の説明に「大」字が欠けていること、および初学記・大戴礼記・説苑・家語の同文に「大」字がないことを挙げて、これを衍字とみなす。しかしながら、新釈の藤井専英氏は、「大」字を衍字とみなさずに解釈している。衍字とみなさずとも解釈は通るので、新釈に従って削らない。「夫水大」は、水の偉大さを述べる前置きの起句とみなす。
(注4)楊注は、「埤」は読んで「卑」となす、と言う。
(注5)楊注は、「裾は倨と同じく方なり、拘は読んで鉤となして曲なり」と言う。流れが折れたり曲がったりする様子。
(注6)集解の王念孫は、家語に従い「浩浩乎」となすべしと言う。王先謙は、説文で「洸は水の涌き光るなり」とあることを受けて、「洸洸」で義は通るので必ずしも「浩浩」に改作するする必要はない、と言う。王先謙に従い、「洸洸乎」を水の涌き出て光る様子とみなす。
(注7)楊注は、「淈は読んで屈となし、竭(つ)きるなり」と言う。淈盡は、尽き果てること。
(注8)楊注は、「量は坑の水を受けるの処なり」と言う。坑(あな)のこと。
(注9)楊注は、「主」は読んで「注」となす、と言う。
(注10)「概」は「ますかき」のこと。枡(ます)に盛った穀物から上にはみ出た分をかき切ってならし、分量を正確に量るために用いる棒。君道篇(1)注8を参照。
(注11)楊注は、「淖はまさに綽となすべくして、約は弱なり。綽約は柔弱なり」と言う。
(注12)集解の盧文弨は、旧版においては上の文から始まって宥坐篇の末尾まで続けて一章とされていたが、これを段落を分けて四章とするべきことを言う。漢文大系・新釈ともに盧文弨に倣い、この章および次の宥坐篇(4)の二章に分ける。
(注13)楊注は、「具然は自ら満足するの貌」と言う。

上の最初のエピソードも、孔子家語ほかの他書で重ねて取り上げられているものである。大戴礼記勧学篇はその大部分が荀子勧学篇の前半部とほぼ同一の文で埋められているが、末尾の部分では孔子の言葉が引用されて、その一つがこの水の徳を語った言葉である(ただし、宥坐篇の言葉とは語句がかなり違う)。しかしながら、孔子の言葉は勧学篇の論旨にはそぐわず、大戴礼記の引用はやや唐突に見える。それに比べて荀子勧学篇は最初から最後まで一貫したテーマの論文を成していて、文章の完成度ははるかに優れている。

続く二つの格言は、これらが『論語』や『孟子』に入っていたとしても、違和感がないだろう。

宥坐篇第二十八(4)

各国を流浪中の孔子は、南の楚国に行こうとした。しかしそのとき、陳・蔡両国の間で進退窮まってしまった(注1)。七日の間火を通した食事もなく、野草の藜(あかざ)のスープには入れる米の粉もなく、弟子たちには皆飢えた顔色があった。子路が進み出て、この窮状について孔子に質問した。
子路「由(それがし)(注2)は、こう聞いています。『善をなす者に天は福をもって報い、不善をなす者には天はわざわいをもって報いる』と。これまで先生は徳を重ね義を積み、美行することを心に懐いて、長年に至ります。なのに、どうして今こんなひどい目に会っているのでしょうか?」
孔子「由よ、分からないのか。ならば、お前に語って聞かせよう。お前は、知者であれば必ず君主に登用されると言うのか?だが、王子比干(おうじひかん)は胸を割かれたのではないか?お前は、忠義の者であれば必ず君主に登用されると言うのか?だが、關龍逢(かんりゅうほう)は処刑されたのではないか?お前は、主君を諫める者であれば必ず君主に登用されると言うのか?だが、伍子胥(ごししょ)は姑蘇(こそ。呉国の都。現在の蘇州)の東門の外で磔(はりつけ)の刑を受けたのではないか?(注3)そもそも、よき君主に遇えるか、それとも不遇であるかは、生きた時のめぐり遇わせなのだ。しかし賢明であるか愚かであるかは、その人の力量というものだ。君子は、たとい博学で深謀であったとしても、よき時にめぐり遇わない者も多い。だから、世に遇わず容れられない者は多いのであって、何もこの丘(わたし)(注4)だけではない。香草の芷蘭(しらん)は深い林の中に生えるが、人がいないからといって麗しい香りを出さないことはない。君子の学問は、栄達するために修めるのではない。窮迫しても苦しまず、憂えても意志を衰えさせず、禍福の分かれ目と物事の始まりと終わりがどこにあるのかを知って、心を惑わせないがために修めるのだ。そもそも、賢明であるか愚かであるかは、その人の力量である。行動を起こすか起こさないかは、その人の意志である。よき君主に遇えるか、それとも不遇であるかは、生きた時のめぐり遇わせである。死を得るか生きながらえるかは、天命である。いまここによき人がいたとしても、よき時にめぐり遇わなければ、賢者であっても世に力を発揮することはできない。だがいやしくもこの人がよき時にめぐり遇ったならば、彼にとって困難なことなど何もないであろう。ゆえに君子は博学かつ深謀であって、身を修めて行いを正しくし、よき時にめぐり遇うことを待つばかりなのであるよ。」
(だが子路は、孔子の言葉をここまで聞いたところで、納得いかず離れようとした。なので、孔子は引き留めて言われた。)(注5)
孔子「由よ!まあ座りなさい。お前に語って聞かせよう。むかし、晋の公子重耳(ちょうじ)が覇者たらんと願う心を起こしたのは、曹からであった(注6)。越王句践(こうせん)が覇者たらんと願う心を起こしたのは、会稽(かいけい)からであった(注7)。斉の桓公小白(かんこうしょうはく)が覇者たらんと願う心を起こしたのは、莒(きょ)からであった。このように、その居るところが追い詰められない者は、その思いが遠くに馳せることもない。身を逃げ隠すほどに追い詰められない者は、その志は広くなることもない。お前は、この私がこの桑落(そうらく。意味不詳)(注8)の下に身を置くようになった、その深い意味を分かりはしまい?」


子貢が、魯の太廟の北堂(位牌を置く堂)をじっくりと観察していた。退出して孔子に質問した、「以前にも、賜(それがし)(注9)は太廟の北堂を観察したものですが、そのときには全て見終わらずにやめて帰りました。今回、改めて北堂を観察しました。その門を見たところ、門の材木がことごとく短く切られていて、それが継ぎ合わせられてありました。このことは、何か由来があるのでしょうか?それとも、大工がしくじって切ってしまったのでしょうか?」と。孔子が言われた、「太廟の堂には、かならず由来があるはずだ。建設を指揮した官吏たちがよい大工を集めて、装飾を施したのだ。まさか、良い材木がなかったわけがあるまい。きっと美麗な文飾を貴ぶ、という精神を示すための意図的な細工であろうよ」と。


(注1)陳国・蔡国は、現在の河南省にあった諸侯国。南の大国楚国の侵略に悩まされ、陳国は孔子の死去年に、蔡国はそのおよそ三十年後に楚国に併合された。史記孔子世家によれば、蔡国にいた孔子は楚国の招きがあったのでこれに応じて南に行こうとした。これを聞いた陳国・蔡国の大夫たちが、孔子を楚国に行かせまいと陳・蔡の間で行く手を阻んだ。一行は追い詰められたが、子貢が楚国に使いして救援の兵を招いて窮地を脱した。しかし、孔子は楚国でも用いられることができなかった。
(注2)孔子の高弟である子路の姓は仲(ちゅう)で、名は由(ゆう)。子路は字(あざな)である。このように名を用いることは、自称する場合あるいは目上の存在である師や家族の年長者が呼びかける場合に限って許される。それ以外の場合には、字を使って呼びかけることが決まりであった。
(注3)王子比干は、殷の比干のこと。比干と伍子胥は、成相篇(1)注1を参照。史記伍子胥列伝では、伍子胥は呉王夫差から属鏤(しょくる)の剣を賜って自害したと記されている。關龍逢は、夏の桀王を諌めたが用いられず捕らえて殺されたという。解蔽篇第(2)にも表れる。
(注4)丘は、孔子の名。注2と同じ。
(注5)新釈の藤井専英氏に従って、ここで立ち去ろうとしたのを孔子が引き留めたと解釈する。
(注6)言及されている歴史上のエピソードについて解説する。晋の公子重耳(ちょうじ)は、のちの覇者文公である。父の献公の寵愛する驪姫(りき)が、自らの産んだ公子に跡を継がせるために献公に讒言を行った。それによって重耳は命が危うくなって、亡命して諸国を流浪する旅に出た。曹国において、曹の共公は重耳の胸の骨が不思議な形をしているという噂に興味を抱き、これを浴させてのぞき見た。重耳は大いに恥じて怒り、このときから彼は暴悪の諸侯を平定する心を起こしたという。解蔽篇第(2)注10も参照。越王句践(こうせん)は呉王夫差と戦って敗れ、会稽山で屈辱的な和を乞うた。このときから句践は呉国に復讐を誓って、坐臥飲食のときには苦い胆を嘗めて自らを戒め、労苦して国力回復に務めたという。斉の桓公は、公子時代に莒国に亡命していて、そこから斉国の跡目争いに打って出て勝利した。仲尼篇(1)注2を参照。
(注7)越王句践が呉王夫差を滅ぼして覇者を称したのは孔子の死後であって、上の伍子胥の死と並んでこの時期の孔子が言及できたはずがない。よって、これらの語句は明らかに後世の挿入である。歴史書である史記孔子世家は、この時の孔子と子路の問答に本章で言及された歴史上の人物を一切登場させていない。
(注8)桑落とは、落葉した桑の樹なのか、桑落という地名なのか、それとも別の意味があるのか、よくわからない。下の注16参照。
(注9)孔子の高弟である子貢の姓は端木(たんぼく)で、名は賜(し)。子貢は字。注2と同じ。
《読み下し》
(注10)孔子南のかた楚に適(ゆ)かんとして、陳(ちん)・蔡(さい)の間に厄す。七日火食せず、藜羹(れいこう)糂(さん)せず(注11)、弟子皆飢色有り。子路進みて之に問うて曰く、由(ゆう)之を聞く、善を爲す者は、天之に報ゆるに福を以てし、不善を爲す者は、天之に報ゆるに禍を以てす、と。今夫子德を累(かさ)ね義を積み、美行を懷(いだ)くの日久し(注12)。奚(なん)ぞ居の隱(いん)(注13)なるや、と。孔子の曰(のたま)わく、由(ゆう)識らざるか、吾汝に語(つ)げん。汝は知者を以て必ず用いらるると爲すか、王子比干(おうじひかん)は心(むね)を剖(さ)かれざりしか。汝は忠者を以て必ず用いらるると爲すか、關龍逢(かんりゅうほう)は刑せ見(ら)れざりしか。汝は諫者を以て必ず用いらるると爲すか、伍子胥は姑蘇(こそ)の東門外に磔(たく)せられざりしか。夫れ遇不遇なる者は時なり、賢不肖なる者は材なり。君子博學・深謀にして、時に遇わざる者多し。是に由りて之を觀れば、世に遇わざる者衆(おお)きこと、何ぞ獨り丘(きゅう)のみならんや。夫(か)の芷蘭(しらん)は深林に生ずるも、人無きを以て芳(かんば)しからざるに非ず。君子の學は、通ずるが爲に非ざるなり。窮して而(しか)も困しまず、憂いて而も意衰えず、禍福・終始を知りて心惑わざるが爲なり。夫(そ)れ賢不肖なる者は材なり、爲不爲なる者は人なり、遇不遇なる者は時なり、死生なる者は命なり。今其の人有るも、其の時に遇わずんば、賢なりと雖も其れ能く行われんや。苟(いやし)くも其の時に遇わば、何の難きことか之れ有らん。故に君子は博學・深謀にして、身を脩め行を端(ただ)し、以て其の時を俟(ま)つものなり、と。孔子の曰わく、由(ゆう)居れ、吾汝に語げん。昔晉の公子重耳(ちょうじ)の霸心は、曹に生ず。越王句踐(こうせん)の霸心は、會稽(かいけい)に生ず。齊の桓公小白(かんこうしょうはく)の霸心は、莒(きょ)に生ず。故に居隱ならざる者は、思遠からず、身佚(いつ)せざる(注14)者は、志廣(ひろ)からず、女(なんじ)庸安(なんぞ)(注15)吾之を桑落(そうらく)(注16)の下に得ざりしかを知らんや、と。

(注17)子貢、魯廟の北堂を觀(かん)す。出でて孔子に問うて曰く、鄉者(さきには)賜太廟の北堂を觀す。未だ旣(つく)さずして輟(や)み還(かえ)る(注18)。復(また)九蓋(ほくこう)(注19)を瞻(み)るに、被(かれ)(注20)皆繼ぐ(注21)(注22)。被(かれ)に說有りや、匠過ちて絕てるや、と。孔子の曰わく、太廟の堂は、亦嘗(まさ)に說有るべし、官良工を致し、因りて節文を麗(ほどこ)す、良材無きに非ざるなり、蓋し文を貴ぶを曰うなり、と。


(注10)孔子と弟子の一行が陳・蔡の間で苦しめられた際の孔子と子路との問答は、史記孔子世家、孔子家語在厄篇、説苑雑言篇・韓詩外伝巻七にも見える。ただし、文はそれぞれに相違がある。この問答には上の注7に述べたとおり時代考証の矛盾があり、そのためであろうか、史記孔子世家においては他の各書に比べて極めて短くカットされている。
(注11)楊注は、「糂は糝(さん)と同じ」と言う。糝とは、スープに加える米の粉。つまり、そばがきかすいとんの原型のようなもの。または、米の粒。こちらならば雑炊であろう。
(注12)原文「懷美行之日久矣」。新釈は『荀子簡釈』の読みに従って、「美を懷(おも)い、之を行うの日久し」と読み下す。
(注13)楊注は、「隠は窮約を謂う」と言う。
(注14)楊注は、「佚は逸と同じにて、奔竄するを謂う」と言い、逃げ隠れる様に解する。新釈は『簡釈』の「遺佚」に取る説も取り上げている。遺佚は、世や君に用いられず見捨てられること。上の訳は楊注に沿わせる。
(注15)猪飼補注は、「庸安はなお胡寧のごとし」と言う。なんぞ。
(注16)「桑落」の意味について、各注ともに推測の域を出ない。楊注は、「九月の時」と注し、このとき旧暦九月で孔子は落葉する桑の樹の下にいた、と解する。集解の郝懿行は、「困窮の貌」と解する。金谷治氏および新釈の藤井専英氏は、ともに劉師培の説を挙げて、上に重耳・句践・桓公が曹・会稽・莒から発心したと書かれていることを受けるならば、桑落もまた地名でなければならないと注する。いずれも、決定的な説得力に乏しいと考える。上の訳では意味不詳としておく。
(注17)この子貢と孔子の問答は、孔子家語三恕篇にも語句を変えて見える。
(注18)原文「未旣輟還」。これは、元本に沿った改定である。増注は「未だ観るを尽くさずして止むなり」と注する。宋本は「未旣輟」を「吾亦未輟(吾亦未だ輟めず)」に作る。この場合の訳は「私(子貢)は、(前回では太廟の観察をあっさり打ち切ったが、今回は)観ることをやめることなく、、、」といったものとなるだろう。新釈は宋本を取り、この解釈に合わせて続く「還」字を「めぐる」と訓じて「なお一回りして」の訳を付けている。宋本に従えば、今回は観ることをやめずにもう一回りして再度北蓋(原文では九蓋)を見た、という解釈となるだろう。
(注19)楊注は、「北堂は神主の在る所なり。九はまさに北となすべし。蓋の音は盍(こう)にして戸扇なり」と言う。楊注に従い北蓋(ほくこう)の誤りと解釈し、位牌を置く北堂の戸の意とみなす。
(注20)楊注は、「被」はまさに「彼」となすべし、と言う。次の「被」も同じ。
(注21)。原文「復瞻九蓋、被皆繼」。これも元本に沿った改定であり、宋本は「復瞻被九蓋、皆繼」に作る。だが宋本のまま「復被(か)の九蓋を瞻るに、皆繼ぐ」と読んでも全く差し支えない。
(注22)「繼」は家語では「斷」字に作る。集解の王念孫は、「繼」字は「絶」字の古体を誤ったものである、と注する。「繼(継)」について楊注は、「材木断絶して相接続す」と言う。つまり、材木を短く切って継ぎ合わせる細工を言っていることになるだろう。

宥坐篇は、以上である。孔子とその弟子たちが諸国を流浪中に陳・蔡の間で進退窮まったエピソードは、史記孔子世家にも書かれている。孔子の当時、外交官でも亡命者でもない一師弟集団が諸国を流浪することなど、前代未聞のことであった。彼らが諸国から胡散臭い眼で見られたことは、想像に難くない。ガウタマ・シッダルタ(釈迦)やイエス・キリストなどもまた、弟子を引き連れて各地を流浪した。いったん思想によって団結した集団は、このように国を超越した視点をもって、安住の地を探して流浪することが定めのようである。共産主義を主導したマルクスとその信奉者たちも、ヨーロッパ各国を渡り歩くインターナショナリストであった。今後の世界においても、思想によって国を超越した集団がおそらく現れることであろう。

大略篇第二十七(1)


要点を申すならば、人君なるものは礼を尊び賢人を尊べば、王者となる。法を重んじて人民を愛すれば、覇者となる。利を好んで詐りが多ければ、危険に陥る。

彊国篇(1)および天論篇(3)に同じフレーズがある。


四方のさいはての地の全てから最も近い位置に立とうとすれば、中央にいることが最適である。だから、王者は必ず天下の中心に都を置く。それが礼なのである。

楊注は、其の朝貢道里の均しきを取る、と注する。納税を首都に集めるために最適な土地は国の中央に置くのが礼である、と言う意味。


天子は門の外側に目隠し塀を立て、諸侯は門の内側に目隠し塀を立てるのが、礼である。門の外側に塀を立てるのは、天子は外界を見ることを欲しない、という象徴的な意味を持ち、門の内側に塀を立てるのは、諸侯は外から室内をのぞかれることを欲しない、という象徴的な意味を持っている。

たとえば、王覇篇(6)の議論を参照。「君主の道とは、手元に近いものを治めるものであって自分から遠くにあるものを治めるものではない。君主の道とは、自らが明らかに見えるものを治めるのであって自らがよく見えないものを治めるものではない。」


諸侯がその家臣を召し出したならば、家臣は馬車に馬をつなぐこともしないで、とりもなおさず衣や裳(したばき)を逆さまに着るほどあわてて駆け付けるのが、礼である。『詩経』に、この言葉があるとおり。

衣も裳も、ひっくり返し
とりもなおさず駆け付ける。
公よりお召があったゆえ。
(斉風、東方未明より)

また天子が諸侯を召し出したならば、車を厩まで引っ張って馬に繋げ急いで駆け付けるのが、礼である。『詩経』に、この言葉があるとおり。

いざ、我が車を出さん。
牧場に運びて、兵備整えん。
天子より、来たれとの仰せあり。
(小雅、出車より)

『論語』郷党篇にも、「君、命じて召さば、駕を俟たず行く」とある。『孟子』公孫丑章句下二にもこの語は表れて、そこでは孟子が斉の宣王の呼びつけに応じなかったことを斉臣の景丑が非礼であると非難した言葉の中で用いられている。孟子は、「天下の王者となることをを目指す君主ならば、賢者を師として敬うべきであって呼びつけなどにはしない」と反論して、自らの非礼は非礼ではないと逆襲した。


天子は山模様のついた衣服と冕冠(べんかん。朝議祭礼用の冠)を着け、諸侯は玄衣(げんい。黒い衣)に冠を着け、大夫は裨衣(ひい)に冕冠を着け、士は韋弁(いべん。白鹿のなめし皮で作った冠)を着けるのが礼である。天子は珽(てい。最高位の玉製の笏)を用い、諸侯は荼(じょ。玉製の笏の一様式)を用い、大夫は通常の笏を用いるのが、礼である。天子は彫りもので飾られた弓を使い、諸侯は朱塗りの弓を使い、大夫は黒塗りの弓を使うのが、礼である。

《読み下し》
大略(たいりゃく)人に君たる者は、禮を隆(とう)とび賢を尊びて王たり、法を重んじ民を愛して霸たり、利を好み詐多くして危うし。

四旁(しほう)に近からんと欲すれば、中央に如(し)くは莫し。故に王者は必ず天下の中(ちゅう)に居るは、禮なり。

天子は外に屏(へい)(注1)し、諸侯は內に屏するは、禮なり。外に屏するは、外を見んことを欲せざるなり、內に屏するは、內を見んことを欲せざるなり。

諸侯其の臣を召せば,臣駕を俟(ま)たず、衣裳を顛倒して走るは、禮なり。詩に曰く、之を顛し之を倒する、公自(よ)り之を召せばなり、と。天子諸侯を召せば、諸侯輿(よ)を輦(れん)し馬に就くは、禮なり。詩に曰く、我我が輿(注2)を出す、彼の牧に于(おい)てす、天子の所自(よ)り、我に來れと謂う、と。

天子は山冕(さんべん)し、諸侯は玄冠(げんかん)し、大夫は裨冕(ひべん)し、士は韋弁(いべん)するは、禮なり。天子は珽(てい)を御し、諸侯は荼(じょ)を御し、大夫は笏(こつ)を服するは、禮なり。天子は彫弓(ちょうきゅう)、諸侯は彤弓(とうきゅう)、大夫は黑弓(こくきゅう)なるは、禮なり。


(注1)集解の郝懿行は、「今の照壁のごとし」と言う。照壁とは、中国建築で門の前あるいは後ろに置く目隠し塀のこと。
(注2)現行本『詩経』では、「輿」字を「車」字に作る。

大略篇は『孟子』の盡心章句に相当する篇であって、荀子の断片的な語録が中心となっている。楊注は、「此の篇蓋(けだ)し弟子荀卿の語を雑録し、皆其の要を略挙す。一事を以て篇を名づくる可からず、故に總(そう)じて之を大略と謂うなり」と冒頭に記す。やや長い論述も若干含まれているが、その大半は一あるいは二文ぐらいで完結している。『孟子』盡心章句は最末尾二章を除いて配列にはっきりした傾向が見られないが、この大略篇については少なくとも前半の各章は礼に関する言葉が集中して置かれている。荀子の最も重視する礼についての覚書を、まとめて置いたのであろう。だが後半は、前半ほどに一貫したテーマが見られない。

漢文大系は、大略篇を101章に分けている。新釈漢文大系は、90章に分けている。本サイトでは、新釈漢文大系に沿った章割りを採用することにしたい。読み下しと訳は、複数の章をまとめて1ページで行う。コメントは、本文の下に小さい文字で加えることとしたい。

大略篇第二十七(2)


諸侯が互いに会見するときには、卿(けい。大臣級の家臣)を介助役として付け、礼に習熟した家臣を全て動員して連れ立ち、仁徳ある家臣は留守役を命ずる。


人材を家臣として招聘するときには、珪(けい)を用いる。人に諸事を質問するときには、璧(へき)を用いる。人を呼び寄せるときには、瑗(えん)を用いる。人と絶縁するときには、玦(けつ)を用いる。いったん絶縁した者を再度招くときには、環(かん)を用いる。

金谷治氏は、「ここは諸侯が人に与える礼物について述べている」と注する。珪は縦長の札のような形の玉器、璧・瑗・玦・環はいずれもディスク状の玉器である。


君主は仁心を心中に据え付け、知を仁心の道具として用い、礼を仁心の表現として極めるのである。ゆえに王者が仁を先にして礼を後にするのは、自然なありようなのである。

論語八佾篇で子夏と孔子が「巧笑倩(せん)たり」の詩を論じたときに、子夏が「礼は後か」と孔子に問うた。ここでの荀子の言葉と同じである。荀子は礼を最重視するが、人間の仁心が先にあって礼がその表現された道具であるべきである、という順序について、儒家思想から外れることはない。


『聘礼志(へいれいし)』に、「贈り物が手厚すぎれば徳を傷つけ、財貨が多すぎれば礼を滅ぼす」とある。「礼と云い、礼と云う、玉帛を云わんや」(『論語』陽貨篇にある言葉と同じ)という言葉もあるではないか。『詩経』にも、この言葉があるではないか。:

よろずのもの、まことに美(うま)し
これもただに、よく整いしゆえ
(小雅、魚麗より)

時が適切でなく、つつしみ敬ってなおかつ文飾されることがなく、また喜びに満ち溢れていないならば、見かけが美しくてもそれは礼ではない。

「聘礼志」とは、現行の『儀礼』聘礼篇と始原を同じくするテキストと思われるが、現行の『儀礼』テキストと同じであったとは限らない。下の注3参照。詩経のテキストは断章取義であり、原詩の文脈から離れた引用である。原詩におけるこのフレーズの意味は、単に酒と魚が美味くて料理がよく揃っていることを言っているにすぎない。


水を渉る者は、水深が深くなる所に目印を付けておいて、人が深みに陥らないようにする。人民を治める者は、争乱の種に目印を付けておいて、人民がカオスに陥らないようにする。礼というものは、目印なのである。わが文明の建設者である先王は、礼によって天下の争乱の種に目印を付けた。今の時代に礼を廃絶しようとする者は、この目印を取り除こうとしている。だから人民は方向を迷って、次々とわざわいに陥るのである。これが、刑罰が多く行われる理由なのだ。

天論篇(3)に「水を行く者は深に表す、表明(あきら)かならざれば則ち陷(おちい)る。民を治むる者は道に表す、表明かならざれば則ち亂る」のフレーズがある。ここの言葉と同じ意味である。
《読み下し》
諸侯の相見ゆるや、卿を介(かい)と爲し、其の敎出(きょうし)(注1)を以て畢(ことごと)く行き、仁をして居守せしむ。

人を聘するに珪(けい)を以てし、士(こと)(注2)を問うに璧(へき)を以てし、人を召すに瑗(えん)を以てし、人を絕つに玦(けつ)を以てし、絕を反(かえ)すに環(かん)を以てす。

人主は仁心を焉(ここ)に設くれば、知は其の役にして、禮は其の盡(つく)せるものなり。故に王者は仁を先にして禮を後にするは、天施(てんし)然るなり。

聘禮志(へいれいし)(注3)に曰く、幣厚ければ則ち德を傷(きずつ)け、財侈(おお)ければ則ち禮を殄(てん)す、と。禮と云い禮と云う、玉帛を云わんや。詩に曰く、物其れ指(うま)し(注4)、唯其れ偕(ひと)し、と。時宜ならず、敬交(けいぶん)(注5)ならず、驩欣(かんきん)ならざれば、指(うま)しと雖も禮に非ざるなり。

水を行く者は深に表(ひょう)して、人をして陷ること無からしむ。民を治むる者は亂に表して、人をして失うこと無からしむ。禮なる者は、其の表なり。先王禮を以て天下の亂に表す。今禮を廢する者は、是れ表を去るなり、故に民迷惑して禍患に陷る、此れ刑罰の繁き所以なり。


(注1)増注・集解の王念孫ともに『大戴礼記』虞戴徳篇に「諸侯の相見ゆるや、卿を介と為し、其の教士を以て畢く行かしむ」とあることを是として、「教(敎)出」を「教士」となすべし、と言う。教士のことを王念孫は「常に教習する所の士」と言う。礼に習熟した家臣のこと。
(注2)集解の郝懿行は、「士」はすなわち「事」なり、古字通用す、と言う。これに従う。
(注3)集解の盧文弨および増注は、『儀礼』聘礼篇の「多貨則徳于傷、幣美則没礼」を指摘する。荀子の引く「聘礼(禮)志」は、おそらく現行の『儀礼』聘礼篇と始原を同じくするテキストなのであろう。
(注4)楊注は、「指」は「旨」と同じ、と言う。
(注5)集解の兪樾は、疑うは「敬交」は「敬文」の誤り、と言う。「敬文」の語は勧学篇(「禮の敬文なり」)・礼論篇(「生に事えて忠厚ならず、敬文ならざる、之を野と謂い、死を送りて忠厚ならず、敬文ならざる、之を瘠と謂う」)にある。兪樾は、性悪篇(5)注9で楊注が「敬父」は「敬文」たるべしと注していることと同様にここも改めるべきであると注している。

大略篇第二十七(3)

十一
聖王の舜は、「私は、自らの心の欲するがままに従って自らを治めている」と言った。ゆえに、礼が創設された理由は、賢人から庶民に至るまでの被統治者の生活を統御することにあるのであって、聖人は礼によって自らの統治を制御しているわけではない。しかしながら、礼はその聖人を作り出すために、また必要とされるものなのだ。聖人たちといえども、まず最初に礼を学ばなければ聖人にはなれなかったであろう。だから堯は君疇(くんちゅう)に学び、舜は務成昭(むせいしょう)に学び、禹は西王国(せいおうこく)に学んだのである。

君疇・務成昭・西王国について、楊注は『新序』に「堯は尹寿(壽)に学び、舜は務成跗に学び、禹は西王国に学ぶ」とあることを引用する。だがそれらの人物の詳細はいずれもはっきりしない。
引用された舜の言葉は出典不明(現行の偽古文尚書にあるが、後世の偽書なので出典とできない。下の注1参照)だが、このような言葉が聖王たちの言葉として戦国時代に伝承されていたことは確かであった。孟子はこのような言葉から盡心章句上、三十の「堯舜は之を性のままにし、湯武は之を身につけ、五覇は之を假(か)る」といった解釈を導き出したのであろう。この孟子の言葉の通りであれば、堯舜は生まれながらの「性」のままで聖人であり、それに比べて聖人の道を学んで身に着けた湯・武は堯舜に劣る存在である、ということになりかねない。荀子は聖人の伝承された言葉を引用しながらも、その意味を「礼は統治を行う道具であって、統治者じたいは礼に拘束されずに己の知徳をもって判断を行う」という意味でとらえている。そうした後に、聖人の堯舜といえども必ず学ばなければ聖人として大成できなかった、と孟子一派の主張を批判したのであろう。君子が学ぶことの必要性は、荀子は孟子に比べてとりわけ多く強調するところである。

十二
五十歳以降は、喪礼のすべてを行わない。七十歳以降は、喪服を着ることしかしない。

五十歳以降は激しい動作を伴う喪礼を行わず、七十歳以降は喪中でも食事を切り詰めない、という意味。下の注2参照。

十三
親迎(しんげい。古代の婚礼の最終段階で、婿の関係者たちが嫁の家に出向いてこれを迎える儀式)の礼においては、嫁の父親は上座として南に向かって立ち、婿はそれに対して北を向いてひざまずく。父親は酒を酌んで与えて返杯を受けない「醮(しょう)」の儀を行って、婿にこう命ずる、「さあ、お前のパートナーたる嫁を迎えに行って、当家の宗廟に仕える祭事をなし、お前の嫁を敬愛の念をもって大切に導き、お前の母君の後を継がせるがよい。お前は、必ず常道を取らなければならないぞ」と。それに対して婿はこう答える、「わかりました。しかしながら、力不足で私がその責務を成し遂げられないことを恐れます。しかしながら、そのお言いつけを決して忘れません」と。

親迎の礼の説明は、『儀礼』士昏礼篇にもある。

十四
「行なう」ということは、礼を行うということなのである。つまり、礼というものは、貴人には敬う行いをなし、老人には孝養する行いをなし、年長者には従う行いをなし、年少者には慈しむ行いをなし、身分賤しい者には恵んでやる行いをなす、ということなのである。家長が家庭内の者たちに恵んでやる時には、君主が国家の家臣人民に褒賞を与える時と同様に礼に従って行うのが正しく、また家長が家庭内の使用人や侍女を叱責する時には、これも君主が国家の万民に刑罰を用いる時と同様に礼に従って行うのが正しい。また君子がその子に対するときには、情愛があってもそれを顔色に出すことはせず、子を使うときにはすまないといった言葉や表情を表に出すことはせず、また子を導くときには正道をもって導くが強制はしないものである。

漢文大系は、原文の「君子の子に於けるや」以下を別の一章に数えている。
本章の語句は、『大戴礼記』曾子制言上篇および曾子立事篇の中に曾子(曾参)の言葉の一部として表れる。
荀子にとっては、本能的な「情」に「慮」を働かせて、「偽(い)」によって行動を制御することが人間の目標である。それを行うことが、礼であるといえるだろう。正名篇(1)の定義を参照。

十五
礼は、人心に従うことを根本とする。したがって、礼の規則にないことであっても人心に従うことであれば、どうしてそれが礼に違反しているといえるだろうか?

《読み下し》
舜曰く、維(こ)れ予(われ)欲するに從いて治まる、と(注1)。故に禮の生ずるは、賢人より以下庶民に至るものの爲(ため)にして、聖を成さんが爲に非ざるなり。然り而(しこう)して亦聖を成す所以なり。學ばざれば成らず。堯は君疇(くんちゅう)に學び、舜は務成昭(むせいしょう)に學び、禹は西王國(せいおうこく)に學ぶ。

五十は喪(そう)を成さず、七十は唯衰(さい)存するのみ(注2)

親迎の禮に、父南に鄉(むか)いて立ち、子北に面して跪(ひざまず)く。醮(しょう)して之に命ずらく、往きて爾(なんじ)が相(しょう)を迎え、我が宗事を成し、隆(あつ)く率(みちび)くに敬を以てし、先妣(せんぴ)に之れ嗣(つ)がしめ、若(なんじ)は則ち常有れ、と。子曰く、諾(だく)、唯能(た)えざらんことを恐る、敢て命を忘れんや、と。

夫れ行なる者は、禮を行うの謂なり。禮なる者は、貴者は焉(これ)に敬し、老者は焉に孝し、長者は焉に弟し、幼者は焉に慈し、賤者は焉に惠す。其の宮室に賜予するは、猶お慶賞を國家に用うるがごとく、其の臣妾に忿怒(ふんど)するは、猶お刑罰を萬民に用いるがごときなり。君子の子に於けるや、之を愛するも面する勿(な)く、之を使うも貌(ぼう)すること勿く(注3)、之を導びくに道を以てするも强(し)うること勿し。

禮は人心に順(したが)うを以て本と爲す。故に禮經(れいけい)(注4)に亡きも、而も人心に順う者は、増注に従い宋本・元本の語句に戻す:)禮に背(そむ)く者ならんや(注5)


(注1)注釈者たちは、『書経』大禹謨篇にこの言葉が見えることを指摘する。だが『書経』大禹謨篇は「偽古文尚書」に分類されるテキストであって、「偽古文尚書」ははるか後世の晋代に現れた偽書であることがすでに考証学者によって立証済みである。よって、現在はこの言葉が『書経』から引用されたと言うことはできない。
(注2)楊注は、「喪を成さずとは、哭踊の節を備えず。衰存するとは、ただ衰麻を服するのみ」と注する。すなわち五十歳以降は葬儀において哭泣(こくきゅう。大泣きすること)および辟踊(へきよう。胸を打ち叩いて足を踏み鳴らすこと)の礼を行わず、七十歳以降は衰麻(さいま)すなわち麻の喪服を着るだけで食事を切り詰めるようなことはしない、ということである。
(注3)集解の郝懿行は、「貌すること勿しとは、優(いた)わるに辞色を以てせずを謂う」と注する。子を使うときに労わるような言葉や顔色を出さない、という意味。
(注4)新釈の藤井専英氏は、「礼経(禮經)」は「礼径」であると解釈する。すなわち礼経とは具体的な礼関係のテキストに限定されるものではなくて、もっと一般的な礼に関する言葉の意であると言う。これに従いたい。
(注5)宋本・元本はもと「背禮者也」に作るが、集解本は盧文弨の説に従ってこれを「皆禮也」に改めている。しかし増注の久保愛は「背禮者也」は「背禮者耶(礼に背く者ならんや)」の意に取るべきであって、これを「皆禮也」に改めている版を後人の私改として斥ける。増注に従い、宋本・元本のもとの姿に戻すことにしたい。

大略篇第二十七(4)

十六
礼の一切とは、生者に仕えるときには喜びを文飾して、死者に仕えるときには哀悼を文飾して、軍隊においては威厳を文飾することに尽きる。

礼論篇(4)に「凡そ禮の生に事うるは、歡を飾るなり。死を送るは、哀を飾るなり。祭祀は、敬を飾るなり。師旅は、威を飾るなり」とあり、同一の文である。

十七
親族を親族として扱い、旧知の者を旧知の者として扱い、功績ある者を功績ある者として扱い、労苦した者を労苦した者として扱うことは、仁の心を等級化したものである。身分貴い者を貴い者として扱い、尊重するべき者を尊重するべき者として扱い、賢明な者を賢明な者として扱い、歳老いた者を歳老いた者として扱い、年長者を年長者として扱うことは、義の道理である。これらのことを行うときにそれぞれが相応に節度が保たれていることは、礼のなす序列である。仁は愛の精神であるゆえに、他人と親しむ。義は道理であるゆえに、それに従って行動する。礼は節度付けるものであるゆえに、これらのことを成功させる。仁には、いるべき里がある。義には、通るべき門がある。仁がいるべきでない里にいるならば、それは仁ではない。義が通るべきでない門を通るならば、それは義ではない。他人に恩徳を施すときにも道理に沿っていなければ、仁を成さない。道理を達成するときにも節度が置かれなければ、義を成さない。節度を細かく置くときにも調和がなされなければ、礼を成さない。調和がなされても声として外に表現されなければ、音楽を成さない。ゆえに、「仁・義・礼・楽は、すべてその趣旨は一つである」と言われるのである。君子は仁にいるときには義の原理を適用して、ようやく仁をなすことができる。義を行うときには礼の原理を適用して、ようやく義をなすことができる。礼を制定するときには基本精神である仁と義に立ち返りながら細部の規則を設けて、ようやく礼をなすことができる。仁・義・礼の三者がみな通じて、ようやく正道をなすことができるのだ。

楊注は、「里と門とは皆礼を謂うなり」と言う。

十八
不幸があったときに財貨を贈ることを、「賻(ふ)」という。馬と車と贈ることを、「賵(ぼう)」と言う。衣服を贈ることを、「襚(すい)」と言う。死者が生前に愛好していた器物を贈ることを、「贈(そう)」と言う。玉(ぎょく)や貝を贈ることを、「唅(かん)」と言う。賻と賵は遺族を支援するための贈り物であり、贈と襚は死者の埋葬に用いるための贈り物である。死者への贈り物が柩尸(きゅうし)の期間までに間に合わず、遺族への贈り物が卒哭(そつこく)の礼までに間に合わないことは、礼に外れている。ゆえに吉礼に赴くときには一日五十里を進む吉行(きつこう)を行い、葬礼に赴くときには一日百里を進む犇喪(ほんそう)を行い、賵や贈の贈り物が葬礼の各時期に間に合うことは、礼の非常に重要なところである。

玉や貝は、死者の口に含ませることに用いられる。貝とはコヤスガイであって、南方の海で採れる。殷代には、これが大量に中華世界に輸入されて権勢を示す贈答品として用いられた。ゆえに漢字の「貝へん」は財貨を示すのである。

十九
礼というものは、いわば政治という車を引っ張る綱である。政治を行うときに礼によって行わなければ、前に進むものではない。

二十
天子が即位したときには、まず上卿が進み出てこう言上する、「天子はこれから政治を担われるのですが、これをいかになさるおつもりでしょうか。天子の憂いたるや、じつに長いものであります。わずらいを除くことができれば人を幸福としますが、わずらいを除くことができなければ人を傷つけることになります」と。こうして、天子に一つ目の策(ふだ)を捧げる。次に中卿が進み出てこう言上する、「天と並んでこの地上を支配する者としては、事が起こることに先んじて事を熟慮しなければなりません。わずらいが起こることに先んじてわずらいの元を熟慮しなければなりません。事が起こることに先んじて事を熟慮することを、接(せつ。すばやい)と言います。接であれば、事は見事に成るでしょう。わずらいが起こることに先んじてわずらいの元を熟慮することを、予(よ。予防)と言います。予であれば、禍は生じないでしょう。しかし事が起こってから後にようやく考える者は、後(ご。後手に回る)と謂います。後であれば、事は成りません。わずらいが起こってから後にようやく考える者は、困(こん。困惑)と言います。困であれば、禍は防ぐことができません」と。こうして、天子に二つ目の策を捧げる。次に下卿が進み出てこう言上する、「つつしみ戒めて、怠らずなさいませ。家の堂内には祝いの客が来ているのに、家の門には弔問の客が訪れている。このように、禍と福は隣りあわせなのです。両者はどこから来るのか、誰も知りません。ああ予防せよ、予防せよ!これは、万民の望むところなのです」と。こうして、天子に三つめの策を捧げる。

楊注は、上卿は冢宰(ちょうさい)つまり宰相、中卿は宗伯(そうはく)つまり礼儀祭祀をつかさどる官、下卿は司寇(しこう)つまり警察司法長官、と注している。策について楊注は「竹を編みてこれを為す、後これに易(か)うるに玉を以てす」と言う。策とは冊と同義であり、覚書を記したふだのことを言う。なので楊注はひもで編んだ竹簡を想定した注を記したのであろう。しかし新釈の藤井専英氏は、策の原義は竹を割って作った一枚の板であり、ここに文字を書くものではなくて鑑戒の警策であり、進言の象徴としてこれを天子に授けるものである、と注している。ともかく、天子が即位したときに捧げる象徴的な訓戒の物品であることには間違いない。
《読み下し》
禮の大凡(たいはん)。生に事(つか)うるは驩(かん)を飾るなり、死を送るは哀を飾るなり、軍旅は威を飾るなり。

親を親とし、故(こ)を故とし、庸(よう)を庸とし、勞を勞とするは(注1)、仁の殺(さい)(注2)なり。貴を貴とし、尊を尊とし、賢を賢とし、老を老とし、長を長とするは、義の倫(りん)(注3)なり。之を行いて其の節を得るは、禮の序なり。仁は愛なり、故(ゆえ)に親(した)しむ。義は理なり、故に行う。禮は節なり、故に成る。仁に里(り)有り、義に門有り。仁其の里に非ずして之に虛(お)る(注4)は、禮(じん)(注5)に非ざるなり。義其の門に非ずして之に由るは、義に非ざるなり。恩を推すも理あらざれば、仁を成さず。理を遂ぐるも敢(せつ)あれざれば(注6)、義を成さず。節を審(つまびら)かにするも知(わ)(注7)ならざれば、禮を成さず。和するも發せざれば、樂(がく)を成さず。故(ゆえ)に曰く、仁・義・禮・樂は、其の致(むね)(注8)一なり、と。君子仁に處るに義を以てして、然る後に仁なり。義を行うに禮を以てして、然る後に義なり。禮を制するに本に反り末を成して、然る後に禮なり。三者皆通じて、然る後に道なり。

貨財を賻(ふ)と曰い、輿馬(よば)を賵(ぼう)と曰い、衣服を襚(すい)と曰い、玩好を贈と曰い、玉貝(ぎょくばい)を唅(かん)と曰う。賻・賵は生を佐(たす)くる所以にして、贈・襚は死に送(おく)る(注9)所以なり。死に送りて柩尸(きゅうし)に及ばず、生に弔して悲哀に及ばざる(注10)は、禮に非ざるなり。故に吉行は五十、犇喪(ほんそう)は百里、賵・贈事に及ぶは、禮の大なるものなり。

禮なる者は、政の輓(ばん)(注11)なり。を爲すに禮を以てせざれば、政行われず。

天子位に卽けば、上卿進みて曰く、之を如何(いかん)せん、憂は之れ長し。能く患を除けば則ち福と爲り、患を除くこと能わざれば則ち賊と爲らん、と。天子に一策を授く。中卿進みて曰く、天に配して下土を有する者は、事に先だちて事を慮(おもんぱか)り、患に先だちて患を慮る。事に先だちて事を慮る之を接(せつ)と謂う、接なれば則ち事優(ゆう)に成る。患に先だちて患を慮る之を豫(よ)と謂う、豫なれば則ち禍生ぜず。事至りて而(しこう)して後に慮る者は之を後と謂う、後なれば則ち事舉(あ)がらず。患至りて而して後に慮る者之を困(こん)と謂う、困なれば則ち禍禦(ふせ)ぐ可からず、と。天子に二策を授く。下卿進みて曰く、敬戒して怠ること無かれ、慶者堂に在りて、弔者閭(りょ)に在り。禍は福と鄰(となり)して、其の門を知ること莫し。豫なる哉、豫なる哉。萬民之を望む、と。天子に三策を授く。


(注1)楊注は、「庸を庸とし勞(労)を勞とするとは、その功労を称するを謂う」と言う。すなわち、功績と労苦のこと。
(注2)楊注は、「殺は差等なり」と言う。差を設けること。
(注3)楊注は、「倫は理なり」と言う。ここでの「倫」は、正しい道理のこと。
(注4)楊注は、「虛(虚)」は読んで「居」となす、と言う。
(注5)集解の盧文弨は、下文の「義其の門に非ずして之に由るは、義に非ざるなり」について、「義に非ざるなり」を「禮に非ざるなり」となすべきと言う。しかし王念孫はこれを非として、むしろ前にあるこの文の「禮(礼)に非ざるなり」を「仁に非ざるなり」となすべきと言う。増注が引く桃井源蔵も、王説と同じである。桃井・王説を取る。
(注6)猪飼補注は、下文を以て之を推すに「敢」はまさに「節」に作るべし、と言う。そうすると、確かに文章がすっきりと整う。新釈は、猪飼補注に従って「節」に読み替えている。漢文大系は「敢」のままに「敢てせざれば」と読み下して、果断敢行の意と注している。すっきりさせすぎの感もあるが、猪飼補注に従っておく。
(注7)楊注或説は「知」は「和」となす、と言う。増注および集解の王念孫は、或説を是とする。これに従う。
(注8)増注は、「致はなお極のごとし」と注する。突き詰めた果ての原理・趣旨のことで、新釈は「むね」と読み下している。
(注9)増注は、「送」はなお「贈」のごときなり、と言う。
(注10)増注は、「牀に在るを尸と曰い、棺に在るを柩と曰う」と言う。すなわち柩尸とは死者の遺骸を寝台に置いている期間と棺に納めている期間を指し、葬る前に遺族のそばに死者を留め置く期間である。また増注は「悲哀に及ばずとは、已(すで)に卒哭するを謂う」と言う。卒哭とは、葬儀の最後に哭泣する葬儀の締めの哭礼である。このときまでに間に合わない、という意味。
(注11)猪飼補注は、「輓」は「絻」と同じ、と言う。車を引く綱。