大略篇第二十七(13)

By | 2016年1月18日
六十一
賢者を愚者と取り替えることが必ず吉であることは、占ってみたら吉が出たといった幸運の結果ではない。治世の国が乱れた国を討てば必ず勝つことは、戦ってみたら勝利を得たといった幸運の結果ではない。

六十二
斉人が魯国を討伐しようとしたとき、卞莊子(べんそうし)と遇うことを嫌って卞の邑を通らなかった。晋人が衛国を討伐しようとしたとき、子路と遇うことを恐れて蒲(ほ)の邑を通らなかった。

楊注によると、卞莊子は魯国の卞の邑の大夫であって、勇者であったという。孔子の弟子の子路は衛国に仕え、蒲の邑の宰(さい。長官)であった。子路の勇敢さは、当時著名であった。

六十三
知らないことがあれば、堯・舜に問うがよい。手元になければ、天然の宝庫から取り出すがよい。先王の道とは、すなわち堯・舜の道なのである。六芸(六経)の該博さは、すなわち天然の宝庫なのである。

盧文弨の説に従って原文の「六貳」を「六経」とみなすならば、詩・書・春秋・易・礼・楽を指して、それを天府すなわち天然の宝庫と呼んでいるのであろうか。そう読めば一応は理解できるが、いずれの研究者の解釈もどうも私には完全に納得がいかない。

六十四
君子の学問は、蝉の抜けがらのようなものである。蝉が脱皮して新しくなるように、君子もまた新しく学んだことによってたちまち移り変わっていくものでなければならない。ゆえに君子は行くときにも、立つときにも、座るときにも、顔色を整えるときにも、言葉を用いるときにも、いにしえの聖賢を見習って日々進歩していくのである。善いことは置いておかずにすぐ実行し、疑問に思うことは心に置かずにすぐ質問しなければならない。よく学ぶ者は物事の道理を究め尽し、よく行為する者は今述べたような難事ですら究め尽すのである。君子は志をいったん立てたならば、常に困窮にある心構えを持たなければならない。だから天子や三公の前であっても是を是と言い非を非と答えるのであって、へつらって栄達するようなことはしないのである。君子は窮迫していても、己の志を失ってはならない。君子は疲れ果てていても、一時の休息を求めてはならない。君子は困難に直面しても、日常心に誓っている言葉を忘れてはならない。寒い季節にならなければ松や柏(このてがしわ)が葉を落とさず立派に繁っている姿に心を留めることはなく、困難な事に当たらなければ君子がくじけずうろたえず立派に立っている姿に心を留めることはない。君子は、一日たりとも己の正道から外れてはならないのだ。

漢文大系は、本章を「君子の學は~其の難きを究む」、「君子志を立つるや~是非を以て對う」、「君子は隘窮すとも~細席の言を忘れず」、「歳寒からざば~是に在らざること無し」の四章に区切る。
三公は周代の官職で、太師(たいし)・太傅(たいふ)・太保(たいほ)のこと。君子の側近である。本章は勧学篇以下の章と同じく君子が守るべき心掛けを説いた言葉の集成であり、勧学篇のように人に勧める忠告のように訳した。

六十五
雨粒は小さいが、それでも漢水(かんすい)を深くすることができる。そもそも小を尽す者はやがて大きくなり、微細を積み上げる者はやがて名声あらわれ、徳を究める者はやがて体もみずみずしくなり、よい行いを尽くす者は遠くまで名声が伝わるものだ。だが小人は、己の心中において誠を尽くすことをなさずして、外界からの評価を求めようとする。

「雨は小なるも、漢は故に潛し」の句は、金谷治氏の解釈に従う。漢水とは、華中を流れる大河。
《読み下し》
賢を以て不肖に易(か)うれば、卜を待って而(しか)る後に吉を知るにあらず、治を以て亂を伐たば、戰を待って後に克つを知るにあらず。

齊人(せいひと)魯を伐たんと欲し、卞莊子(べんそうし)を忌みて、敢て卞を過ぎず。晉人(しんひと)衛を伐たんと欲し、子路を畏れて、敢て蒲(ほ)を過ぎず。

知らざれば堯舜に問い、有ること無ければ天府(てんぷ)に求む。(注1)先王の道は、則ち堯舜のみ、六貳(りくげい)(注2)の博きは、則ち天府のみ。

君子の學は蛻(ぜい)の如し、幡然として之に遷る。故に其の行くや效(なら)い、其の立つや效い、其の坐すや效い、其の顏色を置き、辭氣を出すや效う。善を留むること無く、問を宿すこと無し。善く學ぶ者は其の理を盡(つく)し、善く行う者は其の難きを究む。君子志を立つるや窮するが如し(注3)、天子・三公の問と雖も、正に是非を以て對(こた)う。君子は隘窮(あいきゅう)すとも失わず、勞倦(ろうけん)すとも苟(いやし)くもせず、患難に臨んでも細席(いんせき)(注4)の言を忘れず。歲寒からざれば、以て松柏を知ることい無く、事難からざれば、以て君子を知ること無く、日として是(ここ)に在らざること無し。

雨は小なるも、漢(かん)は故に潛(ふか)し(注5)。夫れ小を盡す者は大に、微を積む者は著れ、德至(きわ)まれる者は色澤(しきたく)洽(あまね)く(注6)、行盡(つ)くれば而(すなわ)ち(注7)聲問遠し。小人は內に誠ならずして之を外に求む。


(注1)集解本にはここに「曰」の一字があり、増注本にはない。
(注2)集解の盧文弨は、「貳」はまさに「蓺」に作るべく、「即ち六経なり」と言う。増注もまた、六貳を六経と解釈する。いちおうこれに従っておく。
(注3)「窮するが如し」について。楊注は、「変を通ずること能わざるに似たり」と注する。いっぽう集解の王先謙は、「君子窮達を以て心を易えず、故に志を立つるや常に窮時の如し」と言う。「窮するが如し」の解釈は、楊注に従えば、「君子は貴人に対してすら是を是と言い非を非と言って相手と調子を合わせることはしないので、結果相手と意思を疎通させることができない」といった意味となるだろう。王先謙に従えば、「君子は常に困窮にある心がけを持ち、貴人の前でも是を是と言い非を非と言って栄達を望まない」といった意味となるだろう。どちらとも決め難い。新釈漢文大系の藤井専英氏を楊注説を取り、漢文大系・金谷治氏は王先謙説を取る。上の訳では、王先謙説を採用しておく。
(注4)集解の郝懿行は、「細」は恐らくは「絪(いん)」の誤りであって、「絪」は「茵(いん)」の仮写、と言う。茵は草で編んだ敷物のことで、絪席(いんせき)で敷物とむしろ。絪席の言とは、日常の言葉を意味する。郝説に従う。
(注5)原文「雨小漢故潛」。楊注は未詳と言い、集解の郝懿行もこの語には誤りがあるので読むべからず、と言う。兪樾は「漢」を衍字とみなし、「潛(潜)」は「深」と言う。よって、「雨は小なるも故に潜(ふか)し」と読む。猪飼補注は、「雨は集まりて漢に潜(せん)有り」となすべきで、潜は川の名前で漢水の別流と言う。金谷治氏は「雨は小なるも漢は故に潜(ふか)し」と読み下し、梁啓雄(『荀子簡釈』)の読み方に従って「雨は少しづつでもそれによって漢水も深くなる」と訳す。金谷氏に従っておく。
(注6)楊注は、「色澤洽きは、徳身を潤すを謂う」と言う。
(注7)集解の王先謙は「而はけだし者の誤り」と注して、前後と形式を整えようとする。新釈は「而」を「則」とみなす『荀子簡釈』の意見を採用する。新釈に従いたい。

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