宥坐篇第二十八(4)

By | 2016年2月9日
各国を流浪中の孔子は、南の楚国に行こうとした。しかしそのとき、陳・蔡両国の間で進退窮まってしまった(注1)。七日の間火を通した食事もなく、野草の藜(あかざ)のスープには入れる米の粉もなく、弟子たちには皆飢えた顔色があった。子路が進み出て、この窮状について孔子に質問した。
子路「由(それがし)(注2)は、こう聞いています。『善をなす者に天は福をもって報い、不善をなす者には天はわざわいをもって報いる』と。これまで先生は徳を重ね義を積み、美行することを心に懐いて、長年に至ります。なのに、どうして今こんなひどい目に会っているのでしょうか?」
孔子「由よ、分からないのか。ならば、お前に語って聞かせよう。お前は、知者であれば必ず君主に登用されると言うのか?だが、王子比干(おうじひかん)は胸を割かれたのではないか?お前は、忠義の者であれば必ず君主に登用されると言うのか?だが、關龍逢(かんりゅうほう)は処刑されたのではないか?お前は、主君を諫める者であれば必ず君主に登用されると言うのか?だが、伍子胥(ごししょ)は姑蘇(こそ。呉国の都。現在の蘇州)の東門の外で磔(はりつけ)の刑を受けたのではないか?(注3)そもそも、よき君主に遇えるか、それとも不遇であるかは、生きた時のめぐり遇わせなのだ。しかし賢明であるか愚かであるかは、その人の力量というものだ。君子は、たとい博学で深謀であったとしても、よき時にめぐり遇わない者も多い。だから、世に遇わず容れられない者は多いのであって、何もこの丘(わたし)(注4)だけではない。香草の芷蘭(しらん)は深い林の中に生えるが、人がいないからといって麗しい香りを出さないことはない。君子の学問は、栄達するために修めるのではない。窮迫しても苦しまず、憂えても意志を衰えさせず、禍福の分かれ目と物事の始まりと終わりがどこにあるのかを知って、心を惑わせないがために修めるのだ。そもそも、賢明であるか愚かであるかは、その人の力量である。行動を起こすか起こさないかは、その人の意志である。よき君主に遇えるか、それとも不遇であるかは、生きた時のめぐり遇わせである。死を得るか生きながらえるかは、天命である。いまここによき人がいたとしても、よき時にめぐり遇わなければ、賢者であっても世に力を発揮することはできない。だがいやしくもこの人がよき時にめぐり遇ったならば、彼にとって困難なことなど何もないであろう。ゆえに君子は博学かつ深謀であって、身を修めて行いを正しくし、よき時にめぐり遇うことを待つばかりなのであるよ。」
(だが子路は、孔子の言葉をここまで聞いたところで、納得いかず離れようとした。なので、孔子は引き留めて言われた。)(注5)
孔子「由よ!まあ座りなさい。お前に語って聞かせよう。むかし、晋の公子重耳(ちょうじ)が覇者たらんと願う心を起こしたのは、曹からであった(注6)。越王句践(こうせん)が覇者たらんと願う心を起こしたのは、会稽(かいけい)からであった(注7)。斉の桓公小白(かんこうしょうはく)が覇者たらんと願う心を起こしたのは、莒(きょ)からであった。このように、その居るところが追い詰められない者は、その思いが遠くに馳せることもない。身を逃げ隠すほどに追い詰められない者は、その志は広くなることもない。お前は、この私がこの桑落(そうらく。意味不詳)(注8)の下に身を置くようになった、その深い意味を分かりはしまい?」


子貢が、魯の太廟の北堂(位牌を置く堂)をじっくりと観察していた。退出して孔子に質問した、「以前にも、賜(それがし)(注9)は太廟の北堂を観察したものですが、そのときには全て見終わらずにやめて帰りました。今回、改めて北堂を観察しました。その門を見たところ、門の材木がことごとく短く切られていて、それが継ぎ合わせられてありました。このことは、何か由来があるのでしょうか?それとも、大工がしくじって切ってしまったのでしょうか?」と。孔子が言われた、「太廟の堂には、かならず由来があるはずだ。建設を指揮した官吏たちがよい大工を集めて、装飾を施したのだ。まさか、良い材木がなかったわけがあるまい。きっと美麗な文飾を貴ぶ、という精神を示すための意図的な細工であろうよ」と。


(注1)陳国・蔡国は、現在の河南省にあった諸侯国。南の大国楚国の侵略に悩まされ、陳国は孔子の死去年に、蔡国はそのおよそ三十年後に楚国に併合された。史記孔子世家によれば、蔡国にいた孔子は楚国の招きがあったのでこれに応じて南に行こうとした。これを聞いた陳国・蔡国の大夫たちが、孔子を楚国に行かせまいと陳・蔡の間で行く手を阻んだ。一行は追い詰められたが、子貢が楚国に使いして救援の兵を招いて窮地を脱した。しかし、孔子は楚国でも用いられることができなかった。
(注2)孔子の高弟である子路の姓は仲(ちゅう)で、名は由(ゆう)。子路は字(あざな)である。このように名を用いることは、自称する場合あるいは目上の存在である師や家族の年長者が呼びかける場合に限って許される。それ以外の場合には、字を使って呼びかけることが決まりであった。
(注3)王子比干は、殷の比干のこと。比干と伍子胥は、成相篇(1)注1を参照。史記伍子胥列伝では、伍子胥は呉王夫差から属鏤(しょくる)の剣を賜って自害したと記されている。關龍逢は、夏の桀王を諌めたが用いられず捕らえて殺されたという。解蔽篇第(2)にも表れる。
(注4)丘は、孔子の名。注2と同じ。
(注5)新釈の藤井専英氏に従って、ここで立ち去ろうとしたのを孔子が引き留めたと解釈する。
(注6)言及されている歴史上のエピソードについて解説する。晋の公子重耳(ちょうじ)は、のちの覇者文公である。父の献公の寵愛する驪姫(りき)が、自らの産んだ公子に跡を継がせるために献公に讒言を行った。それによって重耳は命が危うくなって、亡命して諸国を流浪する旅に出た。曹国において、曹の共公は重耳の胸の骨が不思議な形をしているという噂に興味を抱き、これを浴させてのぞき見た。重耳は大いに恥じて怒り、このときから彼は暴悪の諸侯を平定する心を起こしたという。解蔽篇第(2)注10も参照。越王句践(こうせん)は呉王夫差と戦って敗れ、会稽山で屈辱的な和を乞うた。このときから句践は呉国に復讐を誓って、坐臥飲食のときには苦い胆を嘗めて自らを戒め、労苦して国力回復に務めたという。斉の桓公は、公子時代に莒国に亡命していて、そこから斉国の跡目争いに打って出て勝利した。仲尼篇(1)注2を参照。
(注7)越王句践が呉王夫差を滅ぼして覇者を称したのは孔子の死後であって、上の伍子胥の死と並んでこの時期の孔子が言及できたはずがない。よって、これらの語句は明らかに後世の挿入である。歴史書である史記孔子世家は、この時の孔子と子路の問答に本章で言及された歴史上の人物を一切登場させていない。
(注8)桑落とは、落葉した桑の樹なのか、桑落という地名なのか、それとも別の意味があるのか、よくわからない。下の注16参照。
(注9)孔子の高弟である子貢の姓は端木(たんぼく)で、名は賜(し)。子貢は字。注2と同じ。
《読み下し》
(注10)孔子南のかた楚に適(ゆ)かんとして、陳(ちん)・蔡(さい)の間に厄す。七日火食せず、藜羹(れいこう)糂(さん)せず(注11)、弟子皆飢色有り。子路進みて之に問うて曰く、由(ゆう)之を聞く、善を爲す者は、天之に報ゆるに福を以てし、不善を爲す者は、天之に報ゆるに禍を以てす、と。今夫子德を累(かさ)ね義を積み、美行を懷(いだ)くの日久し(注12)。奚(なん)ぞ居の隱(いん)(注13)なるや、と。孔子の曰(のたま)わく、由(ゆう)識らざるか、吾汝に語(つ)げん。汝は知者を以て必ず用いらるると爲すか、王子比干(おうじひかん)は心(むね)を剖(さ)かれざりしか。汝は忠者を以て必ず用いらるると爲すか、關龍逢(かんりゅうほう)は刑せ見(ら)れざりしか。汝は諫者を以て必ず用いらるると爲すか、伍子胥は姑蘇(こそ)の東門外に磔(たく)せられざりしか。夫れ遇不遇なる者は時なり、賢不肖なる者は材なり。君子博學・深謀にして、時に遇わざる者多し。是に由りて之を觀れば、世に遇わざる者衆(おお)きこと、何ぞ獨り丘(きゅう)のみならんや。夫(か)の芷蘭(しらん)は深林に生ずるも、人無きを以て芳(かんば)しからざるに非ず。君子の學は、通ずるが爲に非ざるなり。窮して而(しか)も困しまず、憂いて而も意衰えず、禍福・終始を知りて心惑わざるが爲なり。夫(そ)れ賢不肖なる者は材なり、爲不爲なる者は人なり、遇不遇なる者は時なり、死生なる者は命なり。今其の人有るも、其の時に遇わずんば、賢なりと雖も其れ能く行われんや。苟(いやし)くも其の時に遇わば、何の難きことか之れ有らん。故に君子は博學・深謀にして、身を脩め行を端(ただ)し、以て其の時を俟(ま)つものなり、と。孔子の曰わく、由(ゆう)居れ、吾汝に語げん。昔晉の公子重耳(ちょうじ)の霸心は、曹に生ず。越王句踐(こうせん)の霸心は、會稽(かいけい)に生ず。齊の桓公小白(かんこうしょうはく)の霸心は、莒(きょ)に生ず。故に居隱ならざる者は、思遠からず、身佚(いつ)せざる(注14)者は、志廣(ひろ)からず、女(なんじ)庸安(なんぞ)(注15)吾之を桑落(そうらく)(注16)の下に得ざりしかを知らんや、と。

(注17)子貢、魯廟の北堂を觀(かん)す。出でて孔子に問うて曰く、鄉者(さきには)賜太廟の北堂を觀す。未だ旣(つく)さずして輟(や)み還(かえ)る(注18)。復(また)九蓋(ほくこう)(注19)を瞻(み)るに、被(かれ)(注20)皆繼ぐ(注21)(注22)。被(かれ)に說有りや、匠過ちて絕てるや、と。孔子の曰わく、太廟の堂は、亦嘗(まさ)に說有るべし、官良工を致し、因りて節文を麗(ほどこ)す、良材無きに非ざるなり、蓋し文を貴ぶを曰うなり、と。


(注10)孔子と弟子の一行が陳・蔡の間で苦しめられた際の孔子と子路との問答は、史記孔子世家、孔子家語在厄篇、説苑雑言篇・韓詩外伝巻七にも見える。ただし、文はそれぞれに相違がある。この問答には上の注7に述べたとおり時代考証の矛盾があり、そのためであろうか、史記孔子世家においては他の各書に比べて極めて短くカットされている。
(注11)楊注は、「糂は糝(さん)と同じ」と言う。糝とは、スープに加える米の粉。つまり、そばがきかすいとんの原型のようなもの。または、米の粒。こちらならば雑炊であろう。
(注12)原文「懷美行之日久矣」。新釈は『荀子簡釈』の読みに従って、「美を懷(おも)い、之を行うの日久し」と読み下す。
(注13)楊注は、「隠は窮約を謂う」と言う。
(注14)楊注は、「佚は逸と同じにて、奔竄するを謂う」と言い、逃げ隠れる様に解する。新釈は『簡釈』の「遺佚」に取る説も取り上げている。遺佚は、世や君に用いられず見捨てられること。上の訳は楊注に沿わせる。
(注15)猪飼補注は、「庸安はなお胡寧のごとし」と言う。なんぞ。
(注16)「桑落」の意味について、各注ともに推測の域を出ない。楊注は、「九月の時」と注し、このとき旧暦九月で孔子は落葉する桑の樹の下にいた、と解する。集解の郝懿行は、「困窮の貌」と解する。金谷治氏および新釈の藤井専英氏は、ともに劉師培の説を挙げて、上に重耳・句践・桓公が曹・会稽・莒から発心したと書かれていることを受けるならば、桑落もまた地名でなければならないと注する。いずれも、決定的な説得力に乏しいと考える。上の訳では意味不詳としておく。
(注17)この子貢と孔子の問答は、孔子家語三恕篇にも語句を変えて見える。
(注18)原文「未旣輟還」。これは、元本に沿った改定である。増注は「未だ観るを尽くさずして止むなり」と注する。宋本は「未旣輟」を「吾亦未輟(吾亦未だ輟めず)」に作る。この場合の訳は「私(子貢)は、(前回では太廟の観察をあっさり打ち切ったが、今回は)観ることをやめることなく、、、」といったものとなるだろう。新釈は宋本を取り、この解釈に合わせて続く「還」字を「めぐる」と訓じて「なお一回りして」の訳を付けている。宋本に従えば、今回は観ることをやめずにもう一回りして再度北蓋(原文では九蓋)を見た、という解釈となるだろう。
(注19)楊注は、「北堂は神主の在る所なり。九はまさに北となすべし。蓋の音は盍(こう)にして戸扇なり」と言う。楊注に従い北蓋(ほくこう)の誤りと解釈し、位牌を置く北堂の戸の意とみなす。
(注20)楊注は、「被」はまさに「彼」となすべし、と言う。次の「被」も同じ。
(注21)。原文「復瞻九蓋、被皆繼」。これも元本に沿った改定であり、宋本は「復瞻被九蓋、皆繼」に作る。だが宋本のまま「復被(か)の九蓋を瞻るに、皆繼ぐ」と読んでも全く差し支えない。
(注22)「繼」は家語では「斷」字に作る。集解の王念孫は、「繼」字は「絶」字の古体を誤ったものである、と注する。「繼(継)」について楊注は、「材木断絶して相接続す」と言う。つまり、材木を短く切って継ぎ合わせる細工を言っていることになるだろう。

宥坐篇は、以上である。孔子とその弟子たちが諸国を流浪中に陳・蔡の間で進退窮まったエピソードは、史記孔子世家にも書かれている。孔子の当時、外交官でも亡命者でもない一師弟集団が諸国を流浪することなど、前代未聞のことであった。彼らが諸国から胡散臭い眼で見られたことは、想像に難くない。ガウタマ・シッダルタ(釈迦)やイエス・キリストなどもまた、弟子を引き連れて各地を流浪した。いったん思想によって団結した集団は、このように国を超越した視点をもって、安住の地を探して流浪することが定めのようである。共産主義を主導したマルクスとその信奉者たちも、ヨーロッパ各国を渡り歩くインターナショナリストであった。今後の世界においても、思想によって国を超越した集団がおそらく現れることであろう。

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