宥坐篇第二十八(3)

By | 2016年2月6日
孔子は、東流する川の水をじっくりと眺めていた。弟子の子貢が孔子に質問した、「君子が大河に出くわすと必ずじっくりと眺めるのは、どうしてでしょうか?」と。孔子は言われた、「水というものは、偉大である。あまねく生命を育んで、しかも自らは何もしない。その様は、徳の偉大な姿に似ている。それが流れ下ると、低く卑下して折れたり曲がったりしながら、しかし必ず自然の道理に従って外れない。その様は、義が進んで貫かれる姿に似ている。その湧き出て輝き尽きることがない様は、正道が決して涸れず尽きない姿に似ている。もし堤を破ってこれを決壊させたならば、その反応の迅速さが響きが声に応ずるがごとくであり、深さ百仞の谷に突き進んでも懼れることがない様は、勇者の姿に似ている。穴に注がれたならば必ず水平となる様は、法が必ず万人に公平である姿に似ている。満ち満ちても、概(ますかき)も要らずに水平となる様は、正義の人の姿に似ている。柔弱でありながら微細な隙間まで達するのは、明察な知の姿に似ている。出たり入ったりして対象を新鮮清潔に洗い流す様は、人民を善に教化する姿に似ている。無数に折れ曲がりながらも結局は東に流れていく様は、志の貫徹される姿に似ている(注1)。このゆえに、君子は大河に出くわすと、これを必ずじっくりと眺めるのである」と。


孔子が言われた、「私には恥じること、卑しむこと、危ぶむことがある。幼年期に学ぶことに努めることができず、年老いて後進に教えることが何もないならば、私はこれを恥じる。故郷を離れて主君に仕えて栄達した後、にわかに故郷の旧知に遇ったとき、それと昔のことを懐かしんで話をすることすらしないならば、私はこれを卑しむ。小人といっしょにいる者は、私はこれを危ぶむ」と。


孔子が言われた、「垤(ありづか)のごとき小さなものであっても少しずつ大きくなろうとするならば、私はこれに味方したい。だが丘のごとき大きなものであってもさらに高みを目指すことを止めるならば、私はもはや手を差し伸べることはない。今どきの学者たちは、その学問が体の肬(いぼ)か贅(こぶ)よりもちっぽけであるにもかかわらず、もう得意顔で人の師となろうとしている」と。


(注1)中国中原地方の大河は、全て西部の高原から東の海に向けて東流する。満州地方や広東省には東流しない大河があるが、孔子の時代にはこれらの地方は非中華世界であった。
《読み下し》
(注2)孔子東流の水を觀(かん)す。子貢孔子に問うて曰く、君子の大水を見れば必ず觀する所以の者は、是れ何ぞや、と。孔子の曰(のたま)わく、夫れ水は大なり(注3)。遍(あまね)く諸(これ)に生を與(あた)えて而(しか)も爲すこと無きは、德に似たり。其の流るるや、埤下(ひか)(注4)して裾拘(きょこう)(注5)し、必ず其の理に循(したが)うは、義に似たり。其の洸洸乎(こうこうこ)(注6)として淈盡(こつじん)(注7)せざるは、道に似たり。若(も)し決して之を行かしむる有れば、其の應の佚(はや)きこと聲響の若く、其の百仞の谷に赴きて懼れざるは、勇に似たり。量(りょう)(注8)に主(そそ)ぎて(注9)必ず平(たいら)かなるは、法に似たり。盈(み)ちて概(かい)(注10)を求めざるは、正に似たり。淖約(しゃくやく)(注11)として微達するは、察に似たり。以て出で以て入り、以て就きて鮮絜(せんけつ)なるは、善化に似たり。其の萬折(ばんせつ)するも必ず東するは、志に似たり。是の故に君子は大水を見れば必ず焉(これ)を觀す、と。

孔子の曰わく、吾恥ずること有るなり、吾鄙(いやし)むこと有るなり、吾殆(あやぶ)むこと有るなり。幼にして强(つと)めて學ぶ能わず、老にして以て之を敎うること無きは、吾之を恥ず。其の故鄉を去り、君に事(つか)えて達し、卒(にわか)に故人に遇い、曾(かつ)て舊言(きゅうげん)無きは、吾之を鄙む。小人と處る者は、吾之を殆む、と。

(注12)孔子の曰わく、垤(てつ)の如くにして進まば、吾之に與(くみ)せん。丘の如くにして止まらば、吾已(や)まん。今の學は曾て未だ肬贅(ゆうぜい)にも如かざるに、則ち具然(ぐぜん)として(注13)人の師と爲らんと欲す。


(注2)この孔子が大河の水を論じたエピソードは、孔子家語三恕篇、大戴礼記勧学篇、説苑雑言篇などにも見える。ただし、それぞれにおいて水の徳として挙げる言葉に相違がある。
(注3)原文「夫水大」。集解の王念孫は、楊注の説明に「大」字が欠けていること、および初学記・大戴礼記・説苑・家語の同文に「大」字がないことを挙げて、これを衍字とみなす。しかしながら、新釈の藤井専英氏は、「大」字を衍字とみなさずに解釈している。衍字とみなさずとも解釈は通るので、新釈に従って削らない。「夫水大」は、水の偉大さを述べる前置きの起句とみなす。
(注4)楊注は、「埤」は読んで「卑」となす、と言う。
(注5)楊注は、「裾は倨と同じく方なり、拘は読んで鉤となして曲なり」と言う。流れが折れたり曲がったりする様子。
(注6)集解の王念孫は、家語に従い「浩浩乎」となすべしと言う。王先謙は、説文で「洸は水の涌き光るなり」とあることを受けて、「洸洸」で義は通るので必ずしも「浩浩」に改作するする必要はない、と言う。王先謙に従い、「洸洸乎」を水の涌き出て光る様子とみなす。
(注7)楊注は、「淈は読んで屈となし、竭(つ)きるなり」と言う。淈盡は、尽き果てること。
(注8)楊注は、「量は坑の水を受けるの処なり」と言う。坑(あな)のこと。
(注9)楊注は、「主」は読んで「注」となす、と言う。
(注10)「概」は「ますかき」のこと。枡(ます)に盛った穀物から上にはみ出た分をかき切ってならし、分量を正確に量るために用いる棒。君道篇(1)注8を参照。
(注11)楊注は、「淖はまさに綽となすべくして、約は弱なり。綽約は柔弱なり」と言う。
(注12)集解の盧文弨は、旧版においては上の文から始まって宥坐篇の末尾まで続けて一章とされていたが、これを段落を分けて四章とするべきことを言う。漢文大系・新釈ともに盧文弨に倣い、この章および次の宥坐篇(4)の二章に分ける。
(注13)楊注は、「具然は自ら満足するの貌」と言う。

上の最初のエピソードも、孔子家語ほかの他書で重ねて取り上げられているものである。大戴礼記勧学篇はその大部分が荀子勧学篇の前半部とほぼ同一の文で埋められているが、末尾の部分では孔子の言葉が引用されて、その一つがこの水の徳を語った言葉である(ただし、宥坐篇の言葉とは語句がかなり違う)。しかしながら、孔子の言葉は勧学篇の論旨にはそぐわず、大戴礼記の引用はやや唐突に見える。それに比べて荀子勧学篇は最初から最後まで一貫したテーマの論文を成していて、文章の完成度ははるかに優れている。

続く二つの格言は、これらが『論語』や『孟子』に入っていたとしても、違和感がないだろう。

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