礼論篇第十九(4)

By | 2015年10月31日
喪礼の概要を述べる。死去から期間が経つにつれて礼儀を飾り立てていき、礼儀ごとに家から次第に遠ざけていき(注1)、期間が経つにつれて生者は平常の生活に戻っていく。死者を飾り立てなければ、生者は死者を嫌悪して悲しまなくなるからである。生者に近いままであれば、彼らは死者を当たり前のように慣れてしまってだんだん鬱陶しく思い、そうなれば死者の扱いが粗略になって恭敬しなくなるからである。己の君主あるいは父母を一日にして失いながら、これを葬送する者たちが悲しまずに恭敬しなければ、まるで禽獣(ケダモノ)かと疑われるだろう。君子は、これを恥じる。ゆえに、死去から期間が経つにつれて礼儀を飾り立てていくのは、生者たちの嫌悪感を抑えるためである。礼儀ごとに家から次第に遠ざけていくのは、恭敬の心を全うさせるためである。期間が経つにつれて生者は平常の生活に戻っていくのは、生者の生活に配慮するためなのである。礼というものは、長すぎるものを断ち切り、短すぎるものを継ぎ足し、余りあるものを減らし、不足のものを増し、こうして敬愛を示す文飾を完成させて、ますます正義ある行為が美しくあることを推し進めさせるものなのである。華やかな文飾と質素な粗悪さとは相反するし、楽しい音楽と悲痛な哭泣とは相反するし、喜びと哀悼とは相反するが、礼はこの両者を兼ねて用い、時に応じてこれらを取り上げてそれぞれを統御するのである。ゆえに文飾と音楽と喜びは、平安な日常を維持して吉事に奉じる礼の拠って立つところであり、いっぽう粗末な衣服と哭泣の礼と哀悼は、異常な時間を支えて凶事に奉じる礼の拠って立つところである。よって文飾を用いるときには、妖しい美にまで至ってはならない。粗末な喪服を用いるときには、貧相でやけくそにまで至ってはならない。音楽を用いて喜ばしくするときには、度を越して乱れ怠惰に至ってはならない。哭泣の礼を用いて哀悼するときには、あまりに悲しんで身体を傷つけるに至ってはならない。これが、礼の中道なのである。ゆえに感情や容姿を変えるにしても、それは吉事と凶事を分けて貴賤・親疎の区分を明らかにするに足りれば、そこまでとしなければならない。これを越えた表現は、悪である。その過剰な表現がどんなに成し難いことであったとしても、君子はこれを賤しむ。だから喪礼の期間中に食べる量を取り決めて制限し、腰のまわりを測って帯をしめ、こうしてやせ衰えたことを自慢するような道は、悪人の道である。これは礼義の文飾とはいえず、孝子の情を示したとはいえず、他人に見せて名声を得ようとする下心のある者が行うことである。ゆえに喜んで生き生きとした表情と、哀悼してやつれた表情とは、吉凶と喜び・哀しみの感情が、顔色に表れたものなのである。歌って大きく笑うことと、悲しんで大泣きすることとは、吉凶と喜び・哀しみの感情が、音声に表れたものなのである。家畜の肉、稲と梁(おおあわ)、あま酒、魚の肉に対して、薄いかゆと濃いかゆ、豆と豆の葉、ただの水は、吉凶と喜び・哀しみの感情を、飲食で表したものなのである。礼服と冠、美しい衣服の模様、刺繍した織物に対して、粗布で作った斉衰(しさい。一年の喪の喪服)、喪服の麻帯、薄くて粗末な繐衰(けいさい。五月の喪の喪服)、菅の草履は、吉凶と喜び・哀しみの感情を、衣服で表したものなのである。風通しのよい部屋、奥深い宮室、越席(かつせき。蒲のむしろ)、牀笫(しょうし。寝台の上に敷くすのこ)、几(ひじかけ)、筵(むしろ)に対して、屬茨(しょくし。かやぶきの屋根)、倚廬(いろ。喪中に住むあばら家)、席薪(せきしん。喪主が敷いて寝るむしろ)・枕塊(しんかい。喪中に寝るときの土枕)は、吉凶と喜び・哀しみの感情を、住居で表したものなのである。喜びと哀しみの感情は、人間の中にもとよりその始原がある。それを短く断ったり長く継いだり、広げたり浅くしたり、増やしたり減らしたり、分類したり極めたり、盛んにしたり美しくしたりして、始原の感情と末尾の文飾とが互いに完全に調和してともに完備するようにさせ、こうして万世の規準となすに足らしめるもの、それが礼なのである。このことは、礼によく従って「為(い)」を修めて完成させた君子(注2)でなければ、よく理解することはできない。ゆえに、こう言いたい(注3)。「性」なるものは、始原であり素材である。「偽(い)」なるものは、文飾であり大いに飾り立てるものである。「性」が無ければ、「偽」を加えるところがなく、「偽」がなければ、「性」はそのままでは美しくなることはできない。「性」と「偽」が合わさって、しかる後に聖人の名声が成り立つのであり、聖人が天下を統一する功績もまたここにおいて成就するのである。ゆえに、こう言いたい。天地が合わさったときに万物は生じ、陰陽が交わったときに変化は生じ、「性」・「偽」が合わさったときに天下は治まるのである。天は万物を生むことができるが、万物を分類して秩序立てることはできない。地は人間を乗せることができるが、人間を統治することはできない。宇宙の万物から人間に至るまで、聖人の登場を待ってはじめて分類され秩序付けられるのである。『詩経』に、この言葉がある。:

百神を、懐柔(なつ)けたまえり
河の神、喬嶽(やま)の神すらも
(周頌、時遭より)

聖人の統治は、このように人間から万物に及ぶ。

喪礼というものは、死者を生きている人のように飾るものなのである。つまり、生きている時の状態を大いに模倣しながらも、その死を送り出すのが喪礼なのである。ゆえに、死んでいるようでありながら生きているようでもあり、まだそこにいるようでありながらもう去ってしまったようでもあり、生死を一つに連続させるのが喪礼なのである。死去したとき、まず髪と体を洗い、髪を束ねて手足の爪を切り、口に米を入れて貝を含ませる。これは、生きている頃に執り行っていた作法になぞらえたものである。髪を洗わない場合には濡らした櫛で三度梳いて終わり、体を洗わない場合には濡らした布で三度ぬぐって終わる。だが耳を塞ぐのに白綿を用い、口に入れる米は生米を用い、口に貝を含ませるのは、生きている頃の作法とは異なっている。肌着を着せて、三着の衣を重ね、紳(しん。太帯)に笏を挿すが帯に鉤(こう。留め金)は着けない。顔を包んで目隠しをして、髪を束ねるが男は冠を着けず女は笄(けい。かんざし)を着けない。死者の銘を旗に書いてこれを重(ちょう。木製の依りしろ)に懸けるのは、名が書かれていなければ柩ばかりが目立つからである。前に置く器具類であるが、冠は頭に被せる部分はあるが髪包みはない。罋廡(おうぶ。かめ)は中を空にして満たさない。簟席(てんせき。竹を編んだむしろ)はあるが牀笫(しょうし。上を参照)はない。木器は彫刻をせず、陶器は実用的でなく、薄器(はくき。竹や葦で作った容器)は物が入れられる作りではない。笙(ちいさなしょうのふえ)と竽(おおきなしょうのふえ)は置かれるが、音律を整えない。琴と瑟(おおごと)は絃を張るが、これも音律を整えない。柩を載せた車もまた埋葬するが、それを引いた馬は戻す。これらは、いずれも実用しないことを明示するためである。このように生活用の器具を揃えて墓まで行くのは、生者の引越しになぞらえているのである。しかし実際の引越しとは違って器具は簡略であって全て揃えておらず、見掛けは作ってあるが実用性はなく、柩を載せて走らせた車を埋葬するときにも、金属の鈴、革飾り、轡(たづな)、靷(むながい。馬の胸に着ける皮ひも)は葬らないのは、これも実用しないことを明示するためなのである。生者の引越しになぞらえながら実用しないことを明示するのは、これすべて生きていてほしいがもう戻らない、という哀悼の感情を重んじるゆえの礼なのである。葬儀に用いる生前の生活をかたどった器具類は、飾り立てるが実用できるものではない。墓に収める明器(めいき。副葬品)は、外見は似ているが実用できるものではない。およそ礼というものは、生者に仕えるときには喜びを文飾するのであり、死者に仕えるときには哀悼を文飾するのであり、祖先の祭祀においては恭敬の心を文飾するのであり、軍隊においては威厳を文飾するのである。これは過去の歴史上の王たち(注4)が同じく採用した礼であって、古今において統一された礼の原理であって、この原理がいつから始まったのかは分からない。ゆえに壙壠(こうりょう。墓穴と盛り土)は生者の家と屋根になぞらえて作られ、棺椁(かんかく。ひつぎと外囲い)は生者の車の版蓋(はんがい。車の横の泥除けと車の上の覆い)と鞎茀(きんふつ。車の前の革飾りと車の後ろの戸)になぞらえて作られ、幠帾(こちょ。柩の覆い)と絲歶(しぎょ。おそらくひつぎの装飾を指す)と縷翣(りょうしょう。ひつぎの装飾)は、生者の家の菲帷(ひい。草を編んだおおい)と幬尉(ちゅうい。垂れ幕)になぞらえて作られ、抗折(こうせつ。墓穴に収めた柩の上に掲げる土除けのむしろと、それを支える木枠)は生者の家の槾茨(まんし。かやぶきの屋根)・番閼(はんえん。垣根)になぞらえて作られるのである。よって葬礼とは他でもない、死生の意味を明らかにし、哀悼恭敬の意をもって死者を送り、それから丁重に埋葬することなのである。埋葬とは、死者の体をつつしんで葬ることである。祭祀とは、過ぎ去った祖先の神霊(注5)につつしんで仕えることである。銘と賛辞と系図は、死者の名をつつしんで伝承することである。生者に仕えるのは始まりを文飾することであり、死者に仕えるのは終わりを文飾することであり、始まりと終わりが備われば孝子の事はこれに尽きて、聖人の正道はこれで完成するのである。死者への配慮を刻み減らして生者に足し加えるのは、これを「墨(ぼく。暗愚という意味であるが、暗に墨家をも指す)」(注6)と言う。だが生者への配慮を刻み減らして死者に足し加えるのは、これを「惑(わく。まどい)」いと言う。生者を殺して死者を送るのは、これを「賊(ぞく。人間を害する)」と言う。いっぽう大いに生者の形になぞらえて死者を送り、死と生、終りと始まりへの仕え方が、人間の感情のよろしきにかなって必ず適切であること。これぞ礼義の法式なのであり、儒者がこれなのである。


(注1)『礼記』にある喪葬礼は、死去から期間に応じて遺族の家から墓地に次第に死体を移していく儀礼が規定されている。
(注2)原文「順孰脩爲」。栄辱篇(4)に「孰脩爲」の語が出てくる。「爲(為)」はこの後に出てくる「偽」のことである。
(注3)ここから後の叙述は、正名篇の定義による「性」・「偽」の用語を用いて、性悪篇の論理の組み立てに基づいて行われている。礼論篇(1)注2を参照。
(注4)原文「百王」。中華世界のいにしえの王たち。「先王」と同じ意味。
(注5)原文「神」。繰り返し言うところであるが、荀子は「神」字を使うときに通常は超越的な存在を意味させることはなく、理性の精妙なはたらきの意味としてこの字を用いる。そのことをわきまえた上であろう、新釈の訳は「精妙な力」とされている。しかしながら、ここで祭祀について説明しているときにまで「神」の字を人間的な意味で用いているとは、とても思えない。荀子がたとえ祖先の霊力を信じていなかったとしても、祖先の祭祀を行う際には神の霊力があるかのように仕えるべきである、と言いたかったのではないだろうか。なので上のように訳した。なお金谷治氏は「霊魂」と訳している。
(注6)「墨」について楊注は「墨子の法」と明言する。しかし集解の王念孫はこれに反対し、礼論篇(3)に「死を送りて忠厚ならず、敬文ならざる、之を瘠と謂う」とあってここの文と意味が通じ、なおかつ楽論篇(4)に「瘠墨」の語があるので、この「墨」は墨子の意ではない、と言う。新釈の藤井専英氏は解蔽篇の逸詩にある「墨以て明と爲す」の各者注を引いて(解蔽篇(6)注16参照)、「墨」を「暗愚で道理を知らぬ」と訳している。しかしながら、この文は儒者について称揚しているので、「墨」字をわざわざ使った意図は、暗愚の意味に加えて墨者を非難するダブルミーニングにあると考えてよいだろう。
《原文・読み下し》
喪禮(そうれい)(注7)の凡(はん)。變じて飾り、動きて遠ざかり、久しうして平なり。故に死の道爲(た)るや、飾らざれば則ち惡(にく)み、惡めば則ち哀まず。尒(ちか)ければ則ち翫(な)れ、翫るれば則ち厭い、厭えば則ち忘(ゆるかせ)にし(注8)、忘にすれば則ち敬(つつし)まず。一朝にして其の嚴親(げんしん)(注9)を喪いて、之を送葬する所以の者、哀しまず敬まざれば則ち禽獸に嫌(うたが)わん。君子は之を恥ず。故に變じて飾るは、惡(あく)を滅する所以なり。動じて遠ざくるは、敬を遂げる所以なり。久しうして平なるは、生を優にする所以なり。禮なる者は、長を斷ちて短を續(つ)ぎ、有餘を損して、不足を益し、愛敬の文を達して、滋(ますます)行義の美を成す者なり。故に文飾と麤惡(そあく)、聲樂(せいがく)と哭泣(こくきゅう)、恬愉(てんゆ)と憂戚とは、是れ反するなり。然り而(しこう)して禮は兼ねて之を用い、時(こもごも)舉(あ)げて代(こもごも)御す。故に文飾・聲樂・恬愉は、平を持し吉に奉ずる所以にして、麤衰(そさい)・哭泣・憂戚は、險を持し凶に奉ずる所以なり。故に其の文飾を立つるや、窕冶(ようや)に至らず。其の麤惡を立つるや、瘠弃(せきき)に至らず、其の聲樂・恬愉を立つるや、流淫・惰慢に至らず、其の哭泣・哀戚を立つるや、隘懾(あいしょう)して生を傷(やぶ)るに至らず。是れ禮の中流なり。故に情貌の變は、以て吉凶を別ち、貴賤・親疏の節を明(あきら)かにするに足れば、期(ここ)に(注10)止まる。是に外るるは、姦なり。難しと雖も、君子は之を賤む。故に食を量りて之を食い、要(注11)を量りて之を帶(たい)し、相高ぶるに毀瘠(きせき)を以てするは、是れ姦人の道なり。禮義の文に非ざるなり、孝子の情に非ざるなり、將に以て爲すこと有らんとする者なり。故に說豫(えつよ)・娩澤(べんたく)と、憂戚・萃惡(すいお)は、是れ吉凶・憂愉の情の、顏色に發する者なり。歌謠・謸笑(ごうしょう)と、哭泣・諦號(ていごう)とは、是れ吉凶・憂愉の情の、聲音に發する者なり。芻豢(すうけん)・稻梁(とうりょう)・酒醴(しゅれい・魚肉と、餰鬻(せんしゅく)(注12)・菽藿(しゅくかく)・酒漿(すいしょう)(注13)とは、是れ吉凶・憂愉の情の、食飲に發する者なり。卑絻(ひべん)(注14)・黼黻(ほふつ)・文織(ぶんし)と、資麤(しそ)(注15)・衰絰(さいてつ)・菲繐(ひけい)(注16)・菅屨(かんく)は、是れ吉凶・憂愉の情の、衣服に發する者なり。疏房・檖䫉(すいぼう)(注17)・越席(かつせき)・牀笫(しょうし)・几筵(きえん)と、屬茨(しょくし)・倚廬(いろ)・席薪(せきしん)・枕塊(しんかい)とは、是れ吉凶・憂愉の情の、居處(きょしょ)に發する者なり。兩情者(は)、人生固(もと)より端有り。若(も)し夫れ之を斷ち之を繼ぎ、之を博くし之を淺くし、之を益し之を損し、之を類し之を盡(つく)し、之を盛(さかん)にし之を美にし、本末・終始をして順比せざること莫からしめ、以て萬世の則(のり)と爲すに足るは、是れ禮なり。順孰(じゅんじゅく)・脩爲の君子に非ざれば、之を能く知ること莫きなり。故に曰く、性なる者は本始材朴(さいぼく)なり、僞(い)なる者は文理隆盛なり。性無ければ則ち僞の加うる所無し、僞無ければ則ち性自から美なること能わず、性・僞合して、然る後に聖人の名を成す(注18)。天下を一にするの功、是に於て就(な)るなり。故に曰く、天地合して萬物生じ、陰陽接(まじわ)りて變化起り、性僞合して天下治まる、と。天は能く物を生ずるも、物を辨(べん)ずること能わざるなり、地は能く人を載するも、人を治むること能わざるなり、宇中・萬物、生人の屬、聖人を待って然る後に分るるなり。詩に曰く、百神を懷柔し、河喬嶽(かきょうがく)に及ぶ、とは、此を之れ謂うなり。(注19)
喪禮(注20)なる者は、生者を以て死者を飾るなり、大いに其の生に象(かたど)りて、以て其の死を送るなり。故に死せるが如く生けるが如く、存するが如く亡するが如く、終始一なり。始めて卒するや、沐浴・鬠體(かつたい)・飯唅(はんかん)するは、生執(せいしゅう)(注21)に象るなり。沐せざれば則ち濡櫛(じゅしつ)三律して止み、浴せざれば則ち濡巾(じゅきん)三式(さんしょく)(注22)して止む。充耳して瑱(てん)(注23)を設け、飯は生稻(せいとう)を以てし、唅(かん)は槁骨(こうこつ)を以てするは、生術に反するなり。褻衣(せつい)を說(せつ)し(注24)、三稱(さんしょう)を襲すること、紳(しん)に縉(しん)して而(しか)も帶(たい)に鉤(こう)すること無し。掩面(えんめん)・儇目(せんもく)を設け、鬠(かつ)して而も冠笄(かんけい)せず。其の名(めい)(注25)を書して其の重(ちょう)に置くは、則ち名見えずして而も柩(きゅう)獨り明(あきら)かなればなり。薦器(せんき)(注26)は則ち冠に鍪(ぼう)有るも而も縰(し)毋(な)く、罋廡(おうぶ)は虛なれども而も實(みた)さず、簟席(てんせき)有りて而も牀笫(しょうし)無く、木器は斲(たく)を成さず、陶器は物を成さず、薄器は內(どう)(注27)を成さず、笙竽(しょうう)は具するも和せず、琴瑟(きんしつ)は張るも均せず、輿(よ)は藏するも馬は反るは、用いざるを告ぐるなり。生器を具(そな)えて以て墓に適(ゆ)くは、徙道(しどう)に象るなり。略して盡(つく)さず、䫉(ぼう)して功せず、輿を趨(は)せて之を藏するも、金・革・轡(ひ)・靷(いん)は入れざるは、用いざるを明かにするなり。徙道に象りて、又用いざるを明かにするは、是れ皆哀を重んずる所以なり。故に生器は文にして功あらず、明器は䫉(ぼう)して用いず。凡そ禮の生に事(つか)うるは、歡を飾るなり。死を送るは、哀を飾るなり。祭祀は、敬を飾るなり。師旅は、威を飾るなり。是れ百王の同じき所、古今の一なる所にして、未だ其の由來する所の者を知らざるなり。故に壙壠(こうりょう)は其の䫉(かたち)室屋に象り、棺椁(かんかく)は其の䫉版蓋(はんがい)・斯[象]柫(きんふつ)(注28)に象り、無帾(こちょ)(注29)・絲歶(しぎょ)(注30)・縷翣(りょうしょう)は、其の䫉以て菲帷(ひい)・幬尉(ちゅうい)に象り、抗折(こうせつ)は其の䫉以て槾茨(まんし)・番閼(はんえん)に象るなり。故に喪禮なる者は它(た)無し、死生の義を明かにし、送るに哀敬を以てして、終(つい)に周藏するなり。故に葬埋は、其の形を敬葬するなり。祭祀は、其の神に敬事するなり。其の銘誄(めいるい)・繫世(けいせい)は、其の名を敬傳(けいでん)するなり。生に事うるは始を飾るなり、死を送るは終を飾るなり、終始具わりて、孝子の事畢(おわ)り、聖人の道備わる。死を刻して生に附する、之を墨と謂い、生を刻して死に附する、之を惑と謂い、生を殺して死を送る、之を賊と謂う。大いに其の生に象りて、以て其の死を送り、死生・終始をして、宜に稱(かな)いて好善ならざることを莫からしむ。是れ禮義の法式にして、儒者是(これ)なり。


(注7)宋本は、「喪」を「卒」に作る。
(注8)新釈は「忘」をゆるかせにす、と読み下している。増注は、「忘はまさに怠に作るべし」と言う。新釈に従い読み下す。
(注9)集解の兪樾は、「嚴(厳)は君を謂い、親は父母を謂う」と注する。君主と両親のこと。
(注10)楊注は、「期」はまさに「斯」たるべし、と言う。ここに。
(注11)増注は、「要」は「腰」と同じ、と言う。
(注12)ここの七語は前半が吉事の食飲、後半が凶事の食飲と並べられているのが正しいであろう。原文は「餰鬻・魚肉」の順となっている。ゆえに集解の兪樾は、「魚肉」の二字はまさに「餰鬻」の二字の上にあるべし、と言う。餰鬻は、喪礼において食べる粥(餰は濃いもの、鬻は薄いもの)のこと。兪樾説に従い「魚肉」二字を先に置くことにする。もっとも魚肉を芻豢(すうけん)すなわち牛豚羊犬などの家畜の肉に対比させて、葬礼で食する凶事の肉とみなす礼が古代にあったのかもしれない。もしそうであれば、本文のままで正しいことになるだろう。魚肉を家畜の肉に対比させて凶事に食する習俗は、キリスト教の四旬節にもある。
(注13)集解の王念孫は、「酒漿」はまさに「水漿」たるべし、と言う。これも上の注と同じで、凶事の飲料は酒ではなく水でなければならないからである。これに従う。
(注14)卑絻について、楊注は「卑絻は裨冕に同じ」と注する。裨冕(裨して冕す)は富国篇(1)に大夫の服制として表れる。裨は裨衣で、大夫のものと定められた家臣用の衣。しかし集解の王念孫は、他篇の表現から見ればひとり裨冕だけがここで取り上げられるのはおかしい、と考えて、「裨」字は「弁」字の旧字の誤りである、という説を立てている。弁絻(弁冕)ならば、ともに冠の意を表す字である。それでもよいが、そのままにしておく。
(注15)「資麤」について楊注は、「資は齊と同じ、即ち齊衰(しさい)なり」と言う。齊衰(斉衰)は、一年の喪の喪服のこと。麤(そ。あらぬの)で作ると言う。
(注16)「菲繐(ひけい)」について、楊注は「菲」は草衣のことであり、「繐」は繐衰(けいさい、せいさい)で小功(しょうこう。五月の喪に着る喪服)のことと言う。これに対して増注は「菲」は「屝」と通じて草履のことであり、けだし斬衰(ざんさい。三年の喪に着る喪服)の菅をもって作る草履のこと、と言う。すると、下の「菅屨」と意味が重なってしまう。よって増注は古屋鬲の説を引いて、「菅屨」の二字は後人が「菲」字の注を本文に誤入したものと疑う。漢文大系は「菲」の増注説を受けて、「菲繐」を顛倒して「繐菲」にして菅屨の二字を削るべきことを注する。だが新釈の藤井専英氏は、「菲」を「うすい、そまつな」という形容詞と取る読み方をしている。増注説は合理的な推論であると思うが、藤井説は字を変えずにあえて読む点で優れていると考える。藤井説を取りたい。
(注17)疏房・檖䫉については礼論篇(1)注5参照。「䫉」は「貌」と同じ意で、以下に表れる「䫉」字も同じ。「䫉」字はCJK統合漢字拡張Aにしかない。
(注18)宋本には「成」字があり、増注は宋本に拠り「成」字を加える。これに従う。
(注19)以下の文も上の論の続きであるが、長すぎるので新釈に従ってここで段落を分ける。
(注20)注7と同じく、宋本は「喪」を「卒」に作る。
(注21)楊注は、「生執に象るは、生時に持つ所の事に象るを謂う」と注する。生執はすなわち、生きている頃に執り行っていた作法のこと。
(注22)楊注は、「式」は「拭」と同じ、と言う。三拭(さんしょく)で、三度ぬぐうこと。
(注23)「瑱」字の本来の意味は、玉製の耳飾りのことである。しかし楊注は儀礼士喪礼篇を引いて、瑱には白纊(はくこう。白綿)を用いる、と注する。
(注24)宋本は「說」字を「設」に作る。盧文弨は、疑うはまさに「設」に作るべし、と言う。盧文弨は清代中期の人で日本の影宋台州本を参照できなかったが、清末の王先謙は日本から招来した宋本を参照して、宋本も盧文弨のとおり「設」字に作られていることを指摘する。いっぽう宋本を参照した増注の久保愛は、「説(說)」は「脱」と通ず、と言う。褻衣(肌着のこと)を着ける(設)のか脱がす(脱)のかで、意味が正反対となる。漢文大系は増注説を取り、金谷・藤井氏は清代学者たちの説を取っている。どちらが正しいのか私には判断がつきかねるが、多数説である清代学者の説に一応従っておく。
(注25)「名」は「銘」のこと。ここは、「某氏某の柩」の銘を書いた旌(せい。旗)を、重(ちょう。木で作られた依りしろ)に懸けておくことを言っている。
(注26)楊注は、「薦器は明器を陳(なら)ぶを謂う」と言う。明器とは墓に埋める副葬品。
(注27)集解の郝懿行は、「內(内)」は「納」と同じ、と言う。王念孫は、楊注或説のとおり「內(内)」は「用」となすのが正しいと言う。新釈の藤井専英氏は、礼記檀弓上篇のほぼ同一の表現から言えば楊注或説が正しいことになるが、この文の末尾で「用いざるを告ぐるなり」と結んでいるために、「用」字が重複しては結語の意をなし難い、と意見して郝説を取っている。これに従う。
(注28)「斯象柫」について、集解の兪樾は「象」は衍字、「斯」は「靳」字の誤りであり「鞎」に同じ、「柫」は楊注の言う「茀」、したがって楊注の言う「鞎茀(きんふつ)」である、と言う。楊注は、鞎茀を車の前後の革飾りの意に取る。しかし新釈の藤井専英氏は「茀」字は車の前後に設けた覆いの意であり、ここの「茀」は車の後の戸の意味であろう、と注する。藤井説に従っておく。
(注29)楊注は、「無」は読んで「幠(こ)」となす、と言う。幠帾は、柩の覆いであって幠は上を覆い帾は四方を覆って、これを宮殿にかたどると言う。
(注30)「絲歶」について楊注は「未詳、けだしまた喪車の飾なり」と言う。

喪礼についての儒家の大理論が続く。ここまで詳細執拗に喪礼を説くのは、儒家教団にとって葬喪の礼が最も宗教的神聖さを持った儀礼であったからであろう。『旧約聖書』では唯一神を祭る儀礼についてやはり詳細執拗な律法が展開されているが(冒頭のいわゆる「モーセ五書」と呼ばれる五篇が旧約聖書の律法に当たる)、儒家の礼とりわけ葬喪の礼に対する詳細さと敬虔さは、それと類似したものを感じる。漢代には、儒家思想が国家公認の宗教として普及されるようになった。だが時代が下れば反動として、このような詳細な礼を守ることが果たして敬虔な宗教的行為と言えるのだろうか、という疑問が現れることもやむをえなかったことであろう。漢帝国が亡びるとともに儒家思想は時代の知識人サークルにおいて人気を失墜させ、代わって老荘思想と仏教の台頭に譲ることとなった。とりわけ仏教思想は、古代儒家思想よりも人間の生死についてずっと深遠な哲学的説明を持っていた。漢代の終了とともに古代儒家思想が下火となったのは、その礼に偏重した形式主義が魅力を失っていた結果ではなかっただろうか。宋代以降のいわゆる新儒学は、その仏教思想から刺激を受けて、儒家思想に哲学的体系を与えようと試みた作業の結果であった。

日本は江戸期になって新儒学の集大成である朱子学を倫理学として導入したが、そのとき荀子のごとき古代儒家思想家が説いた詳細な礼の儀式については、関心をもってこれを実践したとは到底言いがたい。儒家思想の倫理には中華世界を超えた普遍性があったゆえに、日本人にも倫理として受け入れられた。だが、日本はすでに儒・仏の両道に日本独自の要素を交えた習俗文化の体系を固有に発展させていたので、朱子学が入ってきても儒家思想の礼の儀式まで新たに導入する余地はすでにありえなかった。江戸時代中期、対馬藩に仕えた雨森芳洲(あめのもりほうしゅう、1668-1755)は、藩主のために『交隣提醒(こうりんていせい)』を書き残した。芳洲は朝鮮語が堪能な儒者であり、対馬藩は釜山浦において倭館を持って李氏朝鮮と交易する役を幕府から請け負っていた。よって芳洲は対馬藩に真文役として招かれ、朝鮮に渡って当地の役人との折衝に生涯を捧げたのであった。『交隣提醒』は、藩主に対して外国と付き合うときに気をつけるべき心得を書いたもので、江戸時代の外交官の記録として非常に興味深い。その中で、両者の文化の違いが書かれている。朝鮮人は葬儀において大泣きするのであるが、朝鮮人はさぞかし日本人も感動していることであろうと思っているが、日本人はそれを見て笑っている。李氏朝鮮は朱子学を国学として、儒家思想を礼式に至るまで取り入れていた。なので当時の朝鮮人は、儒礼のとおりの哭泣の礼を行ったのである。しかし江戸時代の日本人には、儒礼は無縁のものであった。芳洲は、逆に日本人が尻をまくってふんどしを見せて働くことを男気があると誇っているが、朝鮮人は尻をまくるなどは野蛮人であると蔑んでいる、とも書いている。儒礼においては、服を人前で脱ぐことは大きな恥辱なのである。江戸時代の日本は朱子学を幕府公認の学としたといっても、それは本の中の倫理でしかなかった。李氏朝鮮のように儒礼までを導入して生活文化にまで儒家思想を加えることは、ついになかったのであった。

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