宥坐篇第二十八(1)

By | 2016年2月2日
孔子が魯の桓公(かんこう)(注1)を祀る廟に参詣したとき、欹器(きき。傾いた器)があるのを見た。孔子は、廟の守衛に質問された、「これは何という器でしょうか?」と。廟の守衛は答えた、「たぶん、宥坐(ゆうざ)の器と言うと思います」と(宥坐の意味は、下の注6参照)。孔子が言われた、「私は、『宥坐の器というものは、空っぽであるときには傾き、中くらいに水を入れたときには正しく立ち、満杯に水を入れたときにはひっくり返る』と聞いている」と。孔子は振り向いて弟子に「水を注いでみよ」と命じられた。弟子は水を汲んで、器に注いだ。果たして、中くらいに水を入れたときには立ったが、満杯になるとひっくり返り、空っぽになると傾いた。孔子は慨嘆して、「ああ!この世に満ち満ちて、覆らないものがあるだろうか!」と。弟子の子路が質問した、「あえて質問いたします。満ちながらそれを維持する道はあるでしょうか?」と。孔子は言われた、「聡明にして聖知なる者は、この知を守り通すためにあえて愚にふるまえ。天下に行き渡る功績を挙げる者は、この功績を守り通すためにあえて人に譲れ。世を覆いつくすほどの勇力がある者は、この力を守り通すためにあえて臆病にふるまえ。天下を保有する富者(すなわち天下の王)は、この富を守り通すために謙遜にふるまえ。これが、いわゆる自制して自ら減らす道であり、抑えることによって覆らずに永らえる道というものなのだ」と。


孔子は、魯国の宰相を補佐する司寇(しこう)の地位に就いた。朝廷に出仕して七日目に、少正卯(しょうせいぼう)(注2)を誅殺した。孔子の門人(注3)が進み出て言った、「あの少正卯は、魯では名の聞こえた人物です。先生が政治を執り始めてから、最初にこれを誅殺しました。これは失敗だったのではないですか?」と。孔子は言われた、「座れ、今よりお前にその理由を語ろう。人間には、最も悪とみなすべき五つのことがある。だが、盗みなどはその中に入っていない。その五つとは、一に心が気が回り過ぎて陰険であること。二に行動が偏っていて頑固なこと。三に言葉が飾り過ぎで弁が立ちすぎること。四に覚えていることが醜いことばかりで博覧すぎること。五に非なることに従って表面を綺麗につくろうことだ。この五つの悪は、人間がその一つだけでも持っていたならば、君子の誅罰を免れない。だが少正卯は、これら全てを持っていたのだ。なのであやつは、住まう所では衆徒を動かして徒党を組む力を持ち、語れば邪悪を綺麗な言葉で飾り立てて大衆を惑わす力を持ち、その頑強さは正しいことに反対して非道を貫き通す力を持っていた。これは、小人の英雄というものであって、誅殺せずにはいられなかったのだ。このゆえに湯は尹諧(いんかい)を誅し、文王は潘止(はんし)を誅し、周公は管叔(かんしゅく)を誅し、太公は華仕(かし)を誅し、管仲は付里乙(ふりいつ)を誅し、子産は鄧析(とうせき)・史付(しふ)を誅したのだ(注4)。これら七名の者は、すべて時代を異にしながら同じ邪心を持っていたので、誅殺せずにはいられなかったのだ。『詩経』に、この言葉がある。:

憂いは、つのるばかりなり
群小どもに、慍(いきどお)る
(邶風、柏舟より)

もしあのまま少正卯を生かしておいて小人が群れ集ったならば、これはまさに憂慮すべきことであろう」と。


(注1)桓公は、開祖である周公から数えて十五代の魯公で、春秋時代中期の君主。この桓公の三人の庶子から孟孫氏・叔孫氏・季孫氏の三桓氏が分かれた。春秋時代後期の孔子の時代になると、三桓氏は宗家の魯公の権勢を上回る実力を持って魯国の政治を左右するようになった。
(注2)孔子家語では、「政を乱す大夫少正卯を誅す」と書かれている。孔子は、大夫つまり高位の貴族を誅殺したのである。
(注3)孔子家語では、弟子の子貢が質問したことにされている。
(注4)以下、言及されている人物について。管叔は管叔鮮(かんしゅくせん)のことで、周の武王の弟で周公の兄。周公に反乱を起こして鎮圧された。儒效篇(1)注1参照。太公は太公望呂尚のことで、周の文王・武王の重臣。華仕は、エピソードが『韓非子』外儲説右上篇に見える。それによると、太公望が周王朝から斉国に封建されたとき、東海に住む狂矞(きよういつ)・華仕の兄弟が仕えず自活する道を宣言した。太公望はこれらを捕らえて、誅殺した。賢者を殺したことに驚いた周公に対して、太公望は爵禄でも刑罰でも動かない人間は国家が用いることができないので誅殺するしかない、と弁明した。鄧析は高名な詭弁家で、鄭の子産に誅殺された。不苟篇(1)注3参照。尹諧・潘止・付里乙・史付について、楊注は未詳と言う。
《読み下し》
(注5)孔子魯の桓公(かんこう)の廟を觀るに、欹器(きき)有り。孔子廟を守る者に問うて曰(のたま)わく、此を何の器と爲すや、と。廟を守る者曰く、此れ蓋し宥坐(ゆうざ)(注6)の器と爲す、と。孔子の曰わく、吾聞く、宥坐の器なる者は、虛なれば則ち欹(かたむ)き、中なれば則ち正しく、滿つれば則ち覆る、と。孔子顧みて弟子に謂いて曰わく、水を注げ、と。弟子水を挹(く)みて(注7)之に注ぐ。中にして正しく、滿ちて覆えり、虛にして欹く。孔子喟然(きぜん)として歎じて曰く、吁(ああ)、惡(いずく)んぞ滿ちて覆えらざる者有らんや、と。子路曰く、敢て問う、滿を持するに道有りや、と。孔子の曰わく、聰明・聖知なるは、之を守るに愚を以てし、功天下に被るは、之を守るに讓を以てし、勇力世を撫(おお)うは、之を守るに怯を以てし、富四海を有つは、之を守るに謙を以てす。此れ所謂挹(おさ)えて(注8)之を損するの道なり、と。

(注9)孔子魯の攝相(せっしょう)(注10)と爲り、朝すること七日にして少正卯(しょうせいぼう)を誅す。門人進み問うて曰く、夫(か)の少正卯は魯の聞人(ぶんじん)なり、夫子政を爲して始めに之に誅す、失無きことを得んや、と。孔子の曰く、居れ、吾れ汝に其の故を語(つ)げん。人惡なる者五有りて、盜竊(とうせつ)は與(あずか)らず。一に曰く、心達にして險、二に曰く、行辟(へき)にして堅、三に曰く、言僞(い)にして辯、四に曰く、記醜(しゅう)にして博、五に曰く、非に順(したが)いて澤。此の五者は人に一有れば、則ち君子の誅を免るることを得ず、而(しか)るに少正卯は之を兼有す。故に居處は以て徒を聚(あつ)め羣(ぐん)を成すに足り、言談は以て邪を飾り衆を營(まど)わすに足り、强は以て是(ぜ)に反して獨立するに足る、此れ小人の桀雄(けつゆう)なり、誅せざる可からざるなり。是を以て湯は尹諧(いんかい)を誅し、文王は潘止(はんし)を誅し、周公は管叔(かんしゅく)を誅し、太公は華仕(かし)を誅し、管仲は付里乙(ふりいつ)を誅し、子產は鄧析(とうせき)・史付(しふ)を誅す。此の七子なる者は、皆世を異にして心を同じくす。誅せざる可からざるなり。詩に曰く、憂心悄悄(しょうしょう)、羣小に慍(いきどお)る、と。小人羣を成せば、斯(こ)れ憂うるに足れり、と。


(注5)以下の文は、孔子家語三恕篇にほぼ同一のものがある。ほかに、韓詩外伝、淮南子、説苑の各書にも見える。
(注6)「宥坐」の意味について、楊注は(1)人君が坐右(座右)に置いて戒めとなすべき器(2)「宥」は「侑」と同じで勧める意であり勧戒の器、の二通りの説を挙げる。
(注7)楊注は、「挹は酌」と言う。くむ。
(注8)楊注は、「挹は亦退くなり」と言う。こちらの「挹」字は抑制する意。
(注9)以下の文は、孔子家語始誅篇のエピソードと大部分一致している。ただし、家語には冒頭に以下のような内容のくだりがある、「孔子は、魯国の司寇となり宰相を補佐する地位に就くことになって、喜びの顔色を示していた。弟子の子路は問うた、『それがしが聞くに、”禍のときには畏れず、福のときには喜ばない”と。だが先生はいま高位を得て喜んでおられるように見えますが、どうしたことですか?』と。孔子は答えた、『確かに、そのような言葉はある。だが、”高貴となって人にへりくだることを楽しむ”という言葉もありはしないだろうか?』と。」宥坐篇では、このくだりはカットされている。荀子は、孔子の君子らしからぬ浮わついた言行を記載することをはばかったのであろうか。しかしながら、私が思うに、このような理想化された孔子にそぐわない都合の悪いエピソードほど、真実に近い生の孔子像が隠されているのではないだろうか。
(注10)楊注は、「司寇となり相を摂す」と注する。史記孔子世家によれば、このとき孔子は大司寇(だいしこう。司法大臣)の位にあった。「相を摂する」ということは大臣として宰相を補佐するという意味である。

楊注は、宥坐篇の冒頭に「此より下は、皆荀卿及び弟子が引く所の記伝雑事なり、故に總(そう)じて之を末に推(おしさ)ぐ」と言う。この言葉は楊倞の編集意図を表したもので、言うは、宥坐・子道・法行・哀公・堯問の各篇は荀子とその弟子たちが収集引用した記伝雑事であり、ゆえに楊倞はこれらをまとめて『荀子』の末尾に置いたというものである。劉向編纂の『荀卿新書』の配列は、いささか異なっていた(各篇概要のページを参照)。

宥坐篇の大部分は、孔子家語、韓詩外伝、史記、大戴礼記などの他書で見られる孔子のエピソードと一致する内容の記事で占められている。上に訳した第二のエピソードは孔子が魯国の大司寇に就いた直後に魯臣の少正卯(しょうせいぼう)を誅殺した事件についての孔子の言葉である。史記孔子世家ではあっさりと一行記録されているだけの粛清事件が、荀子(および同一の内容を収録した家語)においては粛清の理由についての孔子の説明が記されている。孔子の言葉を信じるならば、少正卯は国家の重臣としてふさわしからぬ行いをする人物であったので、孔子はあえて極刑に処したということであろう。朝廷人の罪は人民の罪と違った規準により裁かれるべきであるという考えは、古代中国では一般的な法刑思想であった。孔子は魯国を出奔して放浪する前に、魯の定公に抜擢されて国政を執った時代があった。その時代の孔子は、この少正卯誅殺事件や、三桓氏(上の注1参照)の居城を破却する作戦を試みるなど、魯公の支配力を復興させるために強権を用いた力の政策を行っていた。政治家としての孔子の一面である。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です