宥坐篇第二十八(2)

By | 2016年2月5日
孔子が、魯国の司寇となったときのことである。
ある父とその子が、互いに争って訴えてきた。孔子は両名を拘置して、三ヶ月間裁判を行わなかった。その後父のほうから訴えを取り下げることを願い出てきたので、孔子は両名を放免した。
季孫(きそん)(注1)がこのことを聞いて、不快に思って言った、「あの老先生(孔子のこと)は、私に嘘をつきましたな!かつて老先生は、私に言われたものだ、『国家を治めるときには、必ず孝道をもって行わなければならない』と。ならばこういう事例においては、子を死罪に処して父を訴える不孝に対して厳罰を下さなければならないでしょうが。なのに、老先生は父子ともに放免するとは!」と。
冉子(ぜんし)(注2)が、この言葉を孔子に告げた。孔子は深く嘆いて、こう言われた。すなわち、「ああ!上の者が正しい政治を失いながら、下の者を殺す。それが、許されるというのだろうか?己の人民を教化する仕事を行わずに、いきなり裁判を行えば、罪なき民を殺すことにならないだろうか。たとえ三軍が大敗したとしても、兵を斬罪に処してはならない。たとえ裁判がうまく進行しなかったとしても、人民を刑に処してはならない。なぜならば、それらは人民に罪あるがゆえの失態ではなくて、軍の指揮者と裁判の官吏の罪なのだから。法令が疎漏でありながら誅罰をきっちり行うのは、人民を傷つけることである。農作物の生育には時期があるのに時期を考えずに税を取るのは、暴政である。人民を教化することなくして人民がよく働かないことを責め立てるのは、虐政である。これら三者を取り除いて、しかる後にはじめて罪ある者に刑を課さなければならない。『書経』には、この言葉がある。:

たとえ義刑・義殺であっても、直ちに執行してはならない。「私は順番にまだ従っていない」と言おう。
(周書、康誥より)

この言葉は、教化をまず行え、と言っているのである(注3)。ゆえにいにしえの先王は、この政治の正道を明らかに述べて、上の者が率先して正道を行い、それでもうまく行かなければ、次には賢者を尊んで登用して賢者による政治を尽し、それでもうまく行かなければ、無能者を罷免してこれを一掃することに努めたのだ。三年間こうした努力を行った後に、人民は上の者によく従うこととなった。それでも従わない邪民については、刑罰をもってこれに臨んだ。こうすることによって、人民は何をすれば罪であるかを知ったのであった。『詩経』には、この言葉がある。:

尹(いん)氏は大師(たいし)、周のいしずえ
平らかに治め、四方(よも)を維(つな)ぎて
天子を庳(たす)けて、民を迷わせぬ
(小雅、南山より)

(注4)。「威は厳格であって、しかもそれを行うことはない。刑は定めて、しかもそれを用いることはない」(注5)という言葉は、このような先王の統治を言うのである。しかしながら、今の世はそうでない。人民の教化はでたらめで、人民への刑罰はこと細かで、人民が進む道に迷って罪に堕ちたときには、飛んで行ってこれを刑に処す。こうして刑罰はますます煩雑となり、しかも姦邪の行いはそれ以上に増えるのである。わずか段差三尺(67.5㎝)の崖であっても、空の車は乗り越えることができない。しかし、高さ百仞(157m)の山であっても、荷物を載せた車は登ることができる。それは、坂の勾配がゆるやかだからだ。高さ数仞(10m程度)の垣根であっても、人は乗り越えることができない。しかし、高さ百仞の山であっても、子供は登って遊ぶことができる。それは、坂の勾配がゆるやかだからだ。今の世は、先王の正道がだらけてゆるやかになってしまってからずいぶんと長い年月が経ってしまっている。これでは、人民がやってはいけないことを自ずから乗り越えないように仕向けることが、果たしてそんな簡単にできるだろうか?『詩経』には、この言葉がある。:

周朝の道、平らなりしこと砥石の如し
周朝の道、真直ぐなりしこと矢の如し
これぞ君子の履(ふ)み行く所、小人も見習う所
去りし往時を顧みるれば、涕(なみだ)はらはらと流る
(小雅、大東より)

と。周朝の道は、今や遠くに去ってしまっている。なんと哀しいことではないか!」と。


『詩経』に、この言葉がある。:

日と月の、うつるを瞻(み)れば
そなた去りし、時から幾年(いくとせ)
そなたまでの道、あまりに遠し
いつの日に、ここに帰らん
(邶風、雄雉より)

孔子が言われた、「だが進む道を同じくしていれば、必ず帰り来るだろうよ」と。


(注1)季孫氏は、魯の三桓氏の一。宥坐篇(1)注1参照。本章に表れる「季孫」とは季孫氏の誰なのかは不明。孔子が魯の大司寇であったときの季孫氏の当主は、季桓子(きかんし)であった。季孫氏は三桓氏の中で最大の権勢を誇り、『論語』においてもしばしばその一族が登場する。
(注2)冉子とは孔子の弟子、冉求(ぜんきゅう)のこと。姓は冉、名は求、字は子有。論語では冉有(ぜんゆう)で表れる。政事に優れていると評され、季孫氏の家宰となった。論語では、季孫氏のために尽くし過ぎることを孔子が批判した言葉もある。
(注3)この書経からの引用と続く言葉は、致士篇(2)にも見える。ただし、書経の言葉が少し違う。
(注4)詩の原文は、国を治めるべき尹氏が姦悪であるので国が乱れていることを批判したものである。なので、引用の句の後は、尹氏はこのような政治を行っていない、と続く。この引用も、一種の断章取義であると言えるだろう。
(注5)原文の「威厲にして而も試みず、刑錯きて而も用いず」は、議兵篇では伝すなわち言い伝えの言葉として引用されている。
《読み下し》
(注6)孔子魯の司寇と爲る。父子訟うる者有り、孔子之を拘し、三月別(わか)たず(注7)。其の父止めんことを請い、孔子之を舍(ゆる)す。季孫之を聞き、說(よろこ)ばずして曰く、是の老や予(われ)を欺く。予に語りて曰く、國家を爲(おさ)むるには必ず孝を以てす、と。今一人を殺し以て不孝を戮(りく)すべきに、又之を舍す、と。冉子(ぜんし)以て告ぐ。孔子慨然として歎じて曰く、嗚呼(ああ)、上之を失いて下之を殺さば、其れ可かならんや。其の民を敎えずして其の獄(うったえ)を聽くは、不辜(ふこ)を殺すなり。三軍大いに敗るるは、斬る可からざるなり。獄犴(ごくかん)(注8)治まらざるは、刑す可からざるなり。罪民に在らざるが故なり。令を嫚(まん)にして(注9)誅を謹むは、賊(そこな)うなり。今生ずるや時有るに、歛(おさ)むるや時無きは、暴なり。敎えずして成功を責むるは、虐なり。此の三者を已(しりぞ)けて(注10)、然る後に刑卽(つ)く可きなり。書に曰く、義刑義殺も、庸(もち)うるに卽を以てすること勿(なか)れ、予は維(ただ)未だ事に順うこと有らずと曰う、とは、敎を先にするを言うなり。故に先王旣に之を陳(つら)ぬるに道を以てし、上先ず之を服(おこな)い(注11)、若(も)し可ならざれば、賢を尚(とうと)びて以て之を綦(きわ)め、若し可ならざれば、不能を廢して以て之を單(つく)す(注12)。三年を綦(きわ)めて百姓往(したが)う(注13)。邪民從わずして、然る後に之を俟(ま)つに刑を以てすれば、則ち民罪を知る。詩に曰く、尹氏(いんし)は大師、維れ周の氐(てい)、國の均を秉(と)り、四方是れ維(つな)ぎ、天子是れ庳(たす)け、民をして迷わざら卑(し)む、と。是を以て、威厲(れい)にして而(しか)も試みず、刑錯(お)きて而も用いず、とは此を之れ謂うなり。今の世は則ち然らず。其の敎を亂り、其の刑を繁くし、其の民迷惑して焉(ここ)に墮つれば、則ち從いて之を制す。是を以て刑彌(いよいよ)繁くして邪に勝(た)えず。三尺の岸にして、而(しか)も虛車登ること能わざるに、百仞(ひゃくじん)の山にして、任負車も焉(ここ)に登る。何となれば則ち陵遲(りょうち)(注14)なるが故なり。數仞(すうじん)の牆(しょう)にして、而も民踰(こ)えざるに、百仞の山にして、豎子も馮(のぼ)りて(注15)焉(ここ)に游ぶは、陵遲なるが故なり。今夫れ陵遲なること亦久し。而(しこう)して能く民をして踰ゆること勿らしめんか。詩に曰く、周道は砥の如く、其の直きこと矢の如し、君子の履(ふ)む所、小人の視る所、眷焉(けんえん)として之を顧み、潸焉(さんえん)として涕を出す、と。豈に哀しからずや、と(注16)

(注17)詩に曰く、彼の日月を瞻(み)れば、悠悠として我思う、道の云(ここ)に遠き、曷(なん)ぞ云に能く來らん、と。子の曰わく、伊(かれ)首(みち)を稽(おな)じくすれば(注18)、其れ來ること有らざらんや、と。


(注6)以下の文は、孔子家語始誅篇のエピソードと重なっている。ただし、この宥坐篇に比べて家語は詩経の引用句が少なく、その他の語句にも違いがある。
(注7)楊注は、「別はなお決するがごときなり」と言う。判決を下すこと。
(注8)楊注は、「犴もまた獄なり」と言う。獄も犴も、訴えをさばくこと。
(注9)楊注は、「嫚は慢と同じ」と言う。怠慢すること。
(注10)楊注は、「已は止」と言う。読み下しは、新釈に従う。
(注11)楊注は、「服は行なり」と言う。おこなう。
(注12)楊注は、「單(単)は尽にして、尽は黜削を謂う」と言う。黜(しりぞ)けて一人もいなくすること。
(注13)集解の盧文弨は、「往」は「従」の誤り、と言う。これに従う。
(注14)楊注は、「陵遅(遲)は丘陵の勢漸漫なるを言う」と言う。勾配がゆるやかなこと。
(注15)集解の王念孫は、「馮は登なり」と言う。のぼる。
(注16)家語には、この末尾の詩経の引用が欠けている。
(注17)集解の盧文弨は「旧本は上文と連ねるも、今案ずるにまさに段を分かつべし」と注する。猪飼補注は、「此れ孔子詩を説くの辞にして、疑うに脱誤有り」と注する。漢文大系、新釈ともに上文と章を分けている。
(注18)原文「伊稽首」。「伊」について、増注は発語の辞と言う。「稽首」について、楊注は「もし徳化を施せば、下人をして稽首して帰向せしむ」と注する。すなわち上の者がひとたび徳化を下に施せば、下の人民は稽首すなわち首を垂れて上に帰服する、と解する。集解の兪樾はこれを非となし、「首」はまさに「道」となすべく、「稽」は「同」の意と解する。すなわち「道を稽(同)じくする」と読む。この文自体が言葉不足で解釈困難であるが、いまは兪樾に従って読むことにしたい。

上の一番目のエピソードも、孔子家語と重なっている。刑罰の濫用よりも人民の教化を先行させる、孔子の法刑政策が開陳されている。

「教えざる民を以て戦わしむる、是之を棄つと謂う」(子路篇)
「之を導くに政を以てし、之を斉(ととの)うるに刑を以てせば、民免れて恥無し。之を導くに徳を以てし、之を斉うるに礼を以てせば、恥有りて且つ格(ただ)し」(為政篇)

たとえば、上のような『論語』の言葉の精神を具体化したのが、本章のエピソードであろう。
孔子が実際に政治を行った期間は、魯国で高位にあった短い間でしかなかった。上の記録は、孔子の統治術が現実の政治で実施された、数少ない具体例の一つである。

二番目の句は、猪飼補注も言う通り脱誤があるに違いなく、この孔子の言葉だけでエピソードが終わっているようには思われない。訳は置いたが、本来の含意は不明である。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です